第七話 綺羅星の章          2013年7月8日起





 
 
 父が星を愛でるようになった理由として、一番分かり易い説明の載った記事がある。昭和26年8月1日発行の山岳雑誌『岳人』に掲載された父著「岳人のための天文学」である。まずはその中で関連部分を転記しよう。

 私が初めて星座を教わったのは昭和13年3月の木曽駒縦走中のことだった。先輩(ビルマで戦死)と二人、遅れた隊員を待とうと大きな石の上に横になっていた。谷底から眺めた狭い視野の中にいくつもの星が雑然と散在していた。私にはただそれだけのことで、いつもよりも数多く見えるのかどうかそれすらも見当がつかない。ただ平地で見るよりは、はっきりして綺麗だなぁ、と思っていた。そこには思い出もなく、懐かしみもなく、ましてや憂いも喜びも感じようがなかった。先輩は星座を教えてやろうと言って寝転んだまま「あのピ-クとこちらの岩の端を結んで、その中程のちょっと青みを帯びた星が…」という調子で説明を始めた。私は半ば疑いながら先輩の言うとおり目を動かしていくうちに、いつのまにか奇妙な形が浮かび上がってきた。「どうだ、それがカシオペアだ。エチオピアの王妃が椅子に腰かけて逆さになっているように思わんか」と言われても、どう見てもそうは思えない。先輩が付近の更に小さい星をくっつけては無理に頭だとか足だとこじつけていく。そりうちに私は思わず感嘆の言葉をもらしてしまった。次に小熊、それからセフェウスと雑然としていた星の群れが驚くべき微妙な形に出来上がってゆく。
 いつのまにか目に見える星は何かの星座に入ってしまい、先輩の話はそれらに関するギリシャ神話に発展していた。その頃になってはじめて私は、先刻まで眺めていた光の点の中にエチオピアの王様や王妃を想像してポカンと眺めていたのである。砂粒だと思っていた手の中のものが、いつしか燦然と輝く宝石に代わっていたという感じであった。
 山から帰っても星のことが忘れられず、早速星の本を買い求め、神話を読んで星の名を記憶し、夜になるのが待ち遠しかったものだ。
 また土星の輪と本体との間からのぞく空の色は筆舌につくせぬという記事と、直径15cmの望遠鏡が30円で自作できるという付記に誘われて、以来5年間もかかった望遠鏡の製作を始めたのであった。その頃のこと、一人の友が、私が目の色を変えて星の本を見ているのを冷ややかに笑って「君、自然の美というものは分析してはダメだよ。虚心な気持ちで造化の神に接する時だけ最大の美を感知するのだ」と言って、殊更に星の話に耳を貸そうとしなかったことがある。無論、星座を知らなくても星は美しく、また十分に宇宙の神秘感に触れられるが、星座の知識を得た後で眺める感覚とを比較してみると、限りなく大きな相違を感ずる。星座を覚えた後では空を仰ぎ星を見れば、まずそれが何座に属するかということを考える。「ああ、獅子と乙女が出ているなぁ」と、しばしその個性を懐かしむ。たとえ雲が多くて一つか二つしか出ていない時でも、それが何座であるか、少なくとも何座に属するかということが解るまでは美しさを感じる余裕はない。だから漠然とした美しさを感じることはほとんどない。例えば登山でもそうだと思うが、山の形、山の名を知らない時は、山を眺めていいなぁ、と思うだけだが、親しく登った山を久しぶりで遥か見出したような時には、何ともいえぬ懐かしさを感ずる。特に白一色のガスの中に紫色に浮かび出すそれを見いだして「おお鹿島槍だ」「白馬だ」と叫ぶ時は我を忘れる。星の喜びもその感じ以上で、特に下界にあって雑念に追われている時、思いがけなくうける、限りなく清々しい気分は何ものにもかえられない。私は星座の美をはっきりした輪郭の星座からよりも、小さくまとまった星座、特に淡い星座からより多くを感ずる。羊・水瓶・エリダン河等、口ずさむだけで全身神秘感に包まれ、いやおうなしに幻想の世界に追いやられてしまう。文豪カ-ライルが「誰も自分に星座を教えてくれなかった」と言って老年に嘆息したということは有名だが、星座を知っている喜びは、知らない人の如何なる想像よりも大きいと思う。しかも星座が動くことの変化と、四季の変化のため、思い出はその時の人間の感情によって異なり、趣は年とともに新たとなり限りない懐かしさを覚える。
 星座を覚えておくと山で道を失った時に都合がよかろうということを聞くが、しかし私自身星座の知識によって、実際の利益を得たということはない。山で問題なのは荒天であり、星はその時役に立たない。ただ知らないよりはましである。
 最後にこれから星座を覚えようとする人は、たとえ先輩に教わるにしても、さしあたり星座の本を一冊求めるべきで、星図は肉眼で見えるもの全部六等星まで書いてあるのがよいと思う。目にやっと見える微細な形が言葉に尽くせぬ味を感ずるものだ。私は村上忠敬先生の全天星図、出版元を忘れたが、何枚かのカ-ドになったものを参照し、矢尻抱影氏の書を愛読した。しかし、ナントいっても忍耐力が大切だと思う。でも、その努力は希望そのもので、山恋うる読者は必ずや星座の喜びを全幅感得されることを信ずる。少数の人間のみが楽しむには余りにも贅沢だといわれる星座の宝庫へ、是非扉を自らたたいて入られんことを祈る次第である。

 
次に、望遠鏡制作に着手した時のことが、半生を綴った『ザイルに導かれて』に記されている。その中のその部分を参照してみよう。

 「望遠鏡の制作と天体観測」
 <前略>
 天体望遠鏡制作開始の動機は、書店での星に関する本の立ち読みからであった。
 「土星の本体と輪の隙間から見える空ほど神秘的なものはない。それを見るためには望遠鏡を自作する必要がある。」という記事に惹きつけられて、まず15cm反射鏡の研磨にかかった。同じ事を試みて中止したと言う友人から「とうてい最後まで続けられるものではない。たとえば研磨が出来たとき、それに銀メッキなら付けることが出来るが、アルミニウムのスパッタリング焼付けは出来ない。また望遠鏡の筒の回転は、地球の自転と正確に同じでなくてはならない。いずれにしても素人で出来る物ではない。中止した方が良い。」と言う忠告を受けたが、結局、両方とも着手した。5年後にはまがりなりにも成功した。今思えば、ただただ幸運であり、いずれにしても私は、しがみついたら離れないという性格に思えるが、二度とうまくゆくとは思えない。それがこの時の反省である。

 晩年の父から聞いた昔話の中で一番多かったのが、この天体望遠鏡制作に関する話だった。どのような苦労をしたかが面白おかしく語られた。どれだけ覚えているか自信がないが、思い出をひも解いてみることにする。
 まず、父は二冊の本を購入した。『天体望遠鏡の作り方と観測法』誠文堂新光社発行木邊成麿著・『天体望遠鏡と顕微鏡の作り方』誠文堂新光社発行鈴木義之著。
そして作業に取り掛かった。
 最初は、反射鏡作りからである。温度や湿度などで伸び縮みの少ない特殊な厚いガラスを購入して、それを二枚合わせにして、下のガラスを土台として、研磨剤を入れひたすらこすり合わせて表面を削る。もちろんただ削れば良いと言うことでは無くて、均一に凹になるように回転させながら削る。これには回転テ-ブルを作って、その上に台ガラスを固定して、弟達と円陣を組むようにして、順番にテ-ブルの周りを廻りながら削った。目が廻ったり、疲れたりしたら直ぐに交代するのである。磨きの段階でも、同じようにひたすら廻った。少し窪みができると、焦点距離を調べる。また廻る。。。半年後、やっと反射鏡が完成した。
 次に望遠鏡を地球の自転に合わせて動くようにするための歯車の調達にかかった。ある程度の物は木で作ったが、どうしても金属でなければならない部分もあった。
 「八高の辺りからバスに乗って、窓から見える<歯車>の文字の看板を目を凝らして探す訳だ。看板が見つかると、次のバス停で飛び降りて、その工場を探す。それで、その工場の主任さんに『歯車を作ってください』とひたすらお願いするんだ。」
 当時、第二次世界大戦が始まったばかりで、どこの機械工場も軍の仕事で大忙しだった。
 「たいてい、『なにぃ!望遠鏡の材料!?』と呆れかえられて、『戦時下だと言うのに何を呑気なこと言っとるんだ、この学生は!』と怒鳴られてお終いだったんだが、ある小さな工場でやっと引き受けてもらえることになった。もちろん歯車の図面は、わしが書いて持って行って、寸分違わぬ物を作ってもらうのだが、わしが見ている前では、一生懸命作ってくれるのだが、『じぁ、お願いします』と言って帰ると、待てど暮らせど出来上がったと言う知らせが無い。覗きに行ってみると、他の仕事をしていて、前に見に行った時のままだ。仕方が無いので、出来上がるまで、ず-っとついて見ていた。その工場には何日通ったか忘れてしまったが、1日や2日でないことだけは確かだよ。」と父は語った。
 父が歯車の調達に駆け回っている間、弟達3人には使命を与えた。それぞれ大工・左官・木工の職人の所へ修行に出し、技術を習得させた。望遠鏡を配置するための小屋を建てるためだ。小屋は自宅裏の畑の真ん中にコンクリ-トをこねて土台を作り、赤道儀とド-ムを設計して木で作り建てた。
 その頃、二男の國男叔父は、八高に入学して野球部に入っていたが、結核を患って自宅で寝ていることが多かった。ある日、「今日は気分が良いから」と言って、その小屋を作るために必要な庭の大木を切り倒した。それ以後、起き上がれなくなりそのまま亡くなった。昭和15年8月17日のことであった。
 父は、「わしがあんなことをさせなければ、國さは死なずに済んだのに…。」と、嘆き悲しんだ。長男で「あにさ」と崇められ、我がまま放題に暮らした当時の父が、最初に遭った大きな試練であった。
 父はその時の心境を作文に書いた。その作文の下書きが残っている。汚い原稿用紙に書かれたそれの前半部分を、清書してみる。

 「山へのあこがれ」
 こぼれそうに実った柿の色や甲高いモズの鳴き声にも秋の深さをそこはかとなく思わせるような午後、東に面した書斎の窓から眺めると、取り入れ近い黄金の波が点在する島のような人里を埋めて、果てしなく続いている。
 東北の空、遥か地平のあたり、早くも頂に雪をまとった木曽御岳が柔らかな陽ざしをいっぱいに受けて淡紅色に輝き、神々しいまでに整った姿を透明な空気を通して聳立させている。それは私達幼い頃の憧れの的であり、夢の対象であった。
 山の美しさを発見した喜びを兄に分かとうとして、今は亡き弟は幾度私を呼んだことであろう。私達の怒りも悲しみも淋しさも白雲のように聳えるこの姿によって、幾度慰められたことであろう。それは慈母となって優しく話しかけ、或いは厳父となって烈しく鞭打つのであった。
 私達は、この地に生を受け、共に成長し、物心を感じる年頃となり、兄弟という奇しき縁のもとに青春の喜びを分かち合ったのである。
 まもなく弟も私も八高に通うようになり、私は登山に、弟は野球にそれぞれ運命の道を選んだのであった。もしどちらかが自己の選んだ定めのために、若い生命を犠牲にせねばならないとしたならば、それは危険な道を選んだ私自身でなければならなかったであろう。しかし現象は必ずしも確立の大きい方ばかりが現れはしなかった。
 弟は最後まで自己の愛する部のために病を押しきって努力し、文字通り倒れた。以来、一年半、一時は病の床を離れ、私達の望遠鏡製作のため努力したけれども、再び床につき遂に立つことが出来なかった。
 最愛の肉親を失った心の痛みは消えることなく、ことごとに涙をそそり、特に、変わることなく私達と共にあった御岳の山容を仰ぐ時、ひとしお胸にしみた。
 弟亡き年の秋、私は飄然とただ一人、静かに、亡き弟の霊と共にありたいと願いつつ、黄金の波ゆらめく故郷を後にした。
 車窓に展開する晩秋の飛騨路は、限りなく旅愁をそそる。寂寞の気は山間にみなぎり、幽愁の香は渓流にあふれていた。飛騨小坂で電車を降り、落合行きのバスに乗った私は、御岳への分かれ道に荷物のように置き去られた。地図を広げ、磁石を出して、生まれて初めて登る山の方向を定めて歩き出すと、もうそこには人間の香はなく、亡き弟とただ二人、あるのは燃えるような紅葉の山と紺碧の空とであった。
 清浄な空気の香り、遥か尾根筋の梢をゆるがす木枯らしのすさび、ワラジを通して、ひしひしと身に染む土の感触、すべては喜びの世界であった。
 弟と語りつつ時間を忘れて歩いた。四肢に染む冷気と、山陰の暗さに驚いてふりむけば、残陽は彼方の山頂に名残りを留め、空は一面夕焼けして、万象既に夜のとばりに包まれようとしている。やがて見出した小屋は、谷間に向ってさしかけられ、少し壊れてはいるが、夜露を防ぐには申し分なく、一夜の宿には思いもよらぬ幸運であった。
 蝋燭に火をつけ、注意深く足を踏み入れる。まもなく、赤々と燃える炊事用のたき火の真闇の中には、なぜか人の気配さえする。
 弟の霊ではないかと胸がはずみ耳をすませる。 (以下、略)

 その後も、憑かれたように望遠鏡を作り続けたが、何年経っても出来ない望遠鏡に友だち達は「バッカスの望遠鏡は無用の長物の代名詞だ。」とからかった。例えば、友だちの誰それが盲腸の手術をして「俺は盲腸が無くなった。」「俺はまだあるぞ。」「そんなもの有ったって、バッカスの望遠鏡だ。」と言うように。
 遂に、昭和16年望遠鏡は完成して宇宙遥かかなたの微光をはなつ天体を長時間露出によって、次から次へと撮影することになる。
 この撮影のためには小さな星を照準器の真中に的確に入れるための細い糸が必要となった。
 「木の根元を探すと、女郎蜘蛛の入っている袋が見つかる。それを取って中にいる蜘蛛を引きずり出して、頭と足をちょん切って胴体をつかみ、尻に指を当てて、出て来る蜘蛛の糸をシァーっと、どんどん出して行くと、その内チカッと光る目に見えないほど細い糸が出て来るんや。それを丁寧に持って、照準器に、正確に!直角に!十字に!張るんだが、これが難しい。ちょっと油断すると直ぐにどこにあるか解らなくなる。何しろ肉眼では見えないほど細い。光に当てて光るのをたよりに張るんだよ。やっと終わったと思って望遠鏡を覗いてみると、糸がない。また蜘蛛を探す所から始めなければならない。蜘蛛には殺生なことをしてしまったが、当時のわしは夢中で、そんなことは考えられなかった。」

 天体写真を撮るようになると、今度はそのフィルムを現像しなければならない。フィルムと言っても、当時はガラスの乾板写真(これがよく分からない。父の話は湿板写真か、銀板写真であったかも知れない)であったため、現像には水銀の蒸気を使った。水銀を熱して蒸発させそれをガラスに付着させるのである。
 「暗室に使った押し入れの中にガラス板を設置して、水銀を火にかけるんだが、猛毒なので少しでも吸いこんだら危ない。火にかけたとたん、息を止めて一気に仕上げる。たまに、ウッ吸いこんでしまったか。と思える時があって、身の縮む思いがするんだよ。」
 そんな思いをしながら写した写真を京都の花山天文台に送ったところ、望遠鏡自作の紹介とともに「素人の天体写真としては驚異のほかない。」と言う記事が専門誌に発表された。
 また、昭和16年9月21日の読売新聞に「名古屋は食甚60% 今日黒い太陽を科学する兄弟」と言うタイトルで掲載された。

 <名古屋は食甚60% 今日黒い太陽を科学する兄弟>
 今日日食―聖戦下の大陸を幅100kmの黒帯をひいて横切って行く“黒い太陽”を科学する日食観測隊は石垣島をはじめ台湾、漢口、南京、基隆など十数ヶ所に鉄箱の観測陣を布いて今日の天候如何と空を睨んでいる。名古屋で見れる日食は食甚60%余りの部分食だが、この日食を科学のメスで解剖しようと自製の観測所に立て籠もって黒い太陽に腕を撫して待機している頼もしい兄弟がある。名帝大理工学部電気科2年生若山繁雄(24)君と津島中学5年生英太(16)君兄弟がそれだ。海部郡佐織町見越5の自宅の庭の一隅に建てられた天体観測所の中から箱形の巨大な反射望遠鏡がスックと大空に突き出ている。名大物理学教授須賀博士と過般広島高師教授に栄転した元名高工村山教授の指導によって建てられた観測所の中で弟の英太君「もうすっかり用意が出来ました。あとは兄さんの帰宅を待つばかりです。ただ天候がちょっと心配です」と空を見上げていた。主任格の繁雄君は名古屋市千種区坂下町2-34石岡正一氏方に下宿し、名帝大に通学している。同君を訪問して日食観測の話を聞く
 「日食の観測は今度が初めてです。昨年11月彗星が太陽面を通過した時、太陽を撮影した経験があります。その時は5インチの反射望遠鏡を3インチに絞りプロセス乾板に3号黄色フィルターを使用して露出300分の1秒で太陽面を通過する彗星の撮影に成功しました。今度はプロセスパンクロ乾板に赤色フィルターをはじめて使ってみたいと思っています。撮影方法はまず反射鏡に受けた太陽をサン・ダイヤゴナル(プリズムの表面反射)で45度に屈曲反射させる、サン・ダイヤゴルナで反射された光線は4%に弱められる。これを更にアイピ-スで拡大乾板に投影して撮影するのです。使用する5インチ反射鏡の焦点距離は114cmです。名古屋で初虧午後零時36分、食甚同1時54分、食分60%、複円3時5分位です。」<写真は準備に忙しい英太君と繁雄君〉
 <頼もしい日本科学陣 出でよアマチュア天文学者> 名帝大教授 須賀太郎博氏談 (以下略)


 さらにスペクトル写真にうつる準備をしていたとき、父と叔父達は次々と兵隊にとられ、望遠鏡を動かす者がいなくなってしまった。
 「昭和17年にわしが海軍に入り、中国大陸の青島で訓練を受けていた時、弟のつねさから新聞の切り抜きを送ってきた。当時“敵味方不明機一機、上空を飛行中”というラジオ放送がよくあったが、それを中学生だったつねさが望遠鏡を使って写真を撮り、B24であることを確かめたというものだった。」
軍は、敵機を発見するため、ということで、望遠鏡を押収した。
 父の望遠鏡は、もぎ取られてしまい、二度と帰って来ることはなかった。
 父の話は、他に焦点距離を出す時の方法とか、星を撮影する時の苦労話などがあったが、ほとんど忘れてしまった。写真に登場する人物の説明も受けたが、それも忘れてしまった。メモしておけば良かった、と思うが今さらどうにもならない。そこで、星と父に関する私の幼い日の思い出話をすることにしよう。
 私が、まだ小学校に上がるか上がらないかの頃から、満天の星空の日には、その頃名古屋市昭和区山手通りにあった家のそばの丘(銀の山、金の山と呼んでいた)へ、ゴザを持って家族で出かけた。見晴らしの良い空いた場所を見つけてゴザを敷いて、並んで寝転んで、父が星座の名前を教えてくれたのである。
 「そこの木を真っ直ぐ上に延ばした所に白く光る大きな星があるだろう。」
と始まる訳である。小さかった私は、だいたいそのあたりで眠ってしまっていた。
 もう少し大きくなって、父と二人で鈴鹿の家の近くの夜道を歩いていた時だ。周りは畑や田んぼばかりで、開けていた。父は突然立ち止まり、空を仰いで「あづみ、一つ星座を教えてやろう。」と言って、例の「その電柱を真っ直ぐ上に…。」と言うのが始まった。私は南の空にまたたく星を仰いで、父の言うとおりに星をつないでいった……
突然、目の前に大きく立ちはだかる男が大蛇を抱えている姿が浮かび上がった。<へびつかい座>である。私は、覆いかぶさるように夜空に浮かぶ巨人に驚愕して、父の後ろに隠れて背中に顔を伏せた。私は星が大好きであるが、この時から、星空のあまりの大きさや神秘性に、一人で星を見るのが怖いと思うようになった。星座を見つけると、父が買ってくれた小学生用の星座の本の絵が、星たちと重なって見える様にもなっていた。だから、余計に怖くなるのである。
 もう一つ、宇宙に畏敬の念を抱くことになるきっかけがある。
 やはり小学校の頃、父と二人で映画や、科学館へ行った。
 映画は家族全員で行ったり、下宿生のお兄ちゃん達も一緒に行ったりしていたが、二人で行くには理由があった。母と姉は父の見たい映画「怪獣もの」が好きではなかったからだ。私は大好きだったので「ゴジラ」や「モスラ」などを二人で見に行った。特に二人とも「モスラ」に、はまって、「♪モスラ~や、モスラ~♪」と歌ったものだ。ちょっと脱線してしまったが、同じ理由で二人で科学館に行っていた時のお話に戻そう。
 科学館にはもちろんプラネタリュ-ムを見に行くのだが、何度目かの時に<太陽への旅>と言う企画をやっていた。いつものように、星空の解説があった後、太陽への旅が始まった。
「今、皆さんは太陽行きの宇宙船に乗船しています。」と言うところから始まったのだが、その時、ド-ムには小さな太陽が写しだされていた。宇宙船が発進すると、その太陽が徐々に徐々に大きくなっていくのだ。そのうち、ほとんどド-ムいっぱい、と言ってよい程の大きさになり、黒点や太陽フレアが舞い踊る様が写しだされた。私は、その壮大な光景に怖くなり、父と一瞬顔を見合わせて、手を握り合った。そして、きつく手を握り合いながら見入った。 
 今でも星空を見上げると、そんな思い出が浮かぶのである。

 さて、八高から名大にかけての父の山岳部での思い出に移ろう。
          
 
父が撮った天体写真


上の写真は、どの星雲や星を撮ったものなのか
定かでありません
どなたかご存知の方がいらっしゃったら
お教えいただきたいと思います
ゲストブックからアクセスしていただければ
有り難く存じます



「岳人のための天文学」の掲載された
『岳人』


上の雑誌をクリックしてください
掲載された全頁がご覧いただけます


父が書いた望遠鏡の設計図



 

望遠鏡のメカ部と完成した望遠鏡




若山國男叔父




「山へのあこがれ」原稿


原稿の上をクリックしてください
清書した続きと、原稿がご覧いただけます


名前の解っている天体写真



 
昭和16年9月21日付 読売新聞


新聞をクリックしてください
大きな画面でご覧いただけます


 
空軍に望遠鏡を寄贈したため贈られた
感謝状




 
望遠鏡と仲間達



 
南の空に輝くへびつかい座



 
太陽フレア


父と見た時は白黒だったと思いますが
大迫力でした







第八話 青嶺の章

上のアイコンをクリックしてください