槍ヶ岳頂上よりの展望

昭和16年8月4日~11日の登山時の写真




上の写真の右と、下の写真の左がつながります
この写真は下記の槍ヶ岳登山の時に写された物です

 
 父はよく言えば大胆、悪く言えば無謀なところのある人だったが、「初めての穂高」に記されているような経験を積んで、大胆かつ慎重な山行きをするようになっていったのだと思われる。
 平成元年(1988年)7月発行の名古屋大学山岳部会報に「副会長就任挨拶」が掲載されている。牛島先生が会長に就任され、父が副会長をお受けしたのだ。前任者の会長は谷本先生であった。その文章の中に、前頁に写真を入れた谷本先生との鋸岳・甲斐駒岳登山の思い出と、牛島先生とご一緒した籠川生活の思い出が記されているので、該当部分を転記する。

 「副会長就任挨拶」
 <前略>
 以上で副会長就任の挨拶を終わるが与えられた枚数に余分があるので、前会長及び新会長と、それぞれ二人で登った思い出の山行にふれてみたい。
 私は昭和15年本校が総合大学になった時入学したので、第一回の卒業生である。在学中に太平洋戦争が始まったので、大学時代の山行はほとんど単独行であった。結局私に山を教えてくれたのは、八高山岳部である。前会長谷本先輩のもとで、新会長牛島君、ネパ-ル・ブ-タンの中尾佐助さん、南極の鳥居哲也君など勉強そっちのけで、山行に熱中したり、下界ではアルコ-ルに熱中したり、ワイワイ、ヤアヤアと過ごした。
 昭和13年9月、谷本先輩と二人で南アルプスの鋸岳に出かけ、角兵衛沢で道に迷い、熊穴沢の足元がすごく切れ落ちた岩壁の棚でビバ-クし、26日フラフラで甲斐駒の頂上にたどりついたことが印象深い。
(前頁の「鋸岳・甲斐駒ケ岳」に写真)
 また、昭和16年3月、牛島君と二人で大町から扇沢に入り、スバリ岳、黒部谷、立山を越えて富山へ抜ける計画を立て、私の弟二人をボッカに仕立ててさっそうと出発したが、まれにみる強風でテントを破られ、ほうほうの体で退却したことも、忘れ得ぬ思い出である。
(前頁の「籠川生活」に写真)

 他に、昭和38年8月1日名古屋タイムズ社発行の『あじくりげ』87号の見開きに、当時の思い出の短い文章を書いているので紹介しよう。


   
 “山での味覚で何がいちばん思い出深いか”という生まれて初めての質問をうけてすっかり考えこんでしまった。一つ一つの山行を年代順に思い出し、どこで何を食べたと、たぐってゆくうち“ああ、あれがうまかった”というものにぶつかり、次にはそれからそれへと芋づる式に出てきてすっかり楽しくなってしまった。
 味覚を中心とする山のアルバムというものも、またオツなものであることに気づいたのである。
 昭和16年8月8日。妻の十三回の誕生日を記念して、岩登りの名手、浅川氏をトップに、妻―私という順で小槍を登ったが、その時の昼食に、浅川氏が腕を振るって作ったのが“テッカ”というナスを油で炒めて、それに味噌と砂糖をほうりこんだ式の簡単なものであった。しかし腹が減っていたのと馬鹿にはしゃいだ雰囲気であったので何ともいえぬうまさであった。
その後23年、月に一回はテッカを作って当時を思い出している。

 「名古屋タイムズ」から、電話で原稿を頼んできたので、何となく書いて送ったが、串田孫六氏とか深田久弥氏ら、お歴々執筆の本のいちばんトップに掲載されたのには恐れ入った。(これは、スクラップブックに書かれた父のコメントである)


 上の文に出てくる母との小槍登頂は、父にとって思い出深いものであったのだろう。“テッカ”は、家では“テッカ味噌”と呼んでいて、母の料理レパートリ-の中の一つであり食卓によく並んだが、この時に、教えられたものだとは知らなかった。
 『屏風岩登攀記』をお読みになった方には申し訳ないが、ここで名帝大山岳部時代の思い出「高所露営」という文章を書き写すことにする。

 「高所露営」(昭和16年)
 私のいた名古屋帝大は、当時総合大学として立ちあがったばかりで、山岳部とは名称のみで、登山を計画するなど思いも及ばぬ状態であった。だから私はほとんど一人で山を歩いた。1月の御岳から帰って、そろそろ次の山行きを考えねばならないと思っていたおりもおり、ある日学校で、医学部のU(牛島氏)と機械学科のMとの二人から、山へゆきたいからという相談を受けた。
 さっそく喫茶店に入りこんで、お互いの経験を語り合いながら山行きの相談をしたが、二人ともスキーは上手らしいが冬山は初めてらしい。そこで私は山の選定を一任され、けっきょく日数は約1週間、相当困難な3000m級の山ということに決まった。
 私はかねがね木曽福島から大崩谷の上を通って、木曽駒ケ岳へ登りたいと思っていたので、そこへゆくことにした。このル-トは大崩谷の上を通過するところが相当に困難な岩場であって、これまで登った人があるということを聞いていなかった。
 それから二日間、私は学校へゆく時間よりも早く起きて、町で行列をつくって、入手しがたいベ-コンとかパンを手に入れると、かごから離れた小鳥のように名古屋を飛び立ってしまった。



 一面の雪景色の木曽川に沿って、私たちの乗った汽車はひた走りに北上した。須原から、土地の人らしい、みるからに素朴な感じの老人が乗り込んできた。座席を物色していたが、やがて私たち三人の座っている区画に入ってきて、空いている私の隣に座りこんだ。
 しばらくのあいだ、さも驚いたように私たちの様子を眺めたり、網棚に横たわった三匹の親豚のようなリュックザックを仰いだりしていたが、やがて、なまりのある言葉で話しかけてきた。
「どこの学生さんだね。」
「名大です。」
「どこへゆくのかえ。」
「山登りにゆきます。」
と、私は答えた。すると老人は、しばらく変だという顔つきで考えていて、
「いまどき、山へ行って何をするのかね。」
と重ねて聞いてきた。今度はこちらが面くらって、ちょっと考えた後、
「いや、山に登るだけなのです。」
「えっ、山に登るだけなんかね。」
と、さも妙なことだといった顔つきでさかんに首をかしげる。それから急に親しくなって根掘り葉掘り聞き出した。
 なぜ山へ登るのかという問いに対しては、頂上の眺めは綺麗だからというと、よくわかったといった顔つきであったが、さて、こんな寒い季節になぜ、わざわざ危ない道を通って頂上へゆくのかという問いに対しては、三人が赤くなったり青くなったりして説明しても、さっぱりわかったという顔つきになってもらえない。けっきょく、山きちがいだというところにもってゆかれてしまった。
 ごうごうと鉄橋を渡る響きに、話のつぎほを失って車窓に目を移すと、汽車はちょうど滑川を渡っている。もし天候さえ良ければ、私たちの命がけの通路となる大崩谷の、牙のような稜線がよく見えるんだがと、かってここから眺めた景色を思い出した。
 いくたび、私はこの中央線をこのようにして北上し、また疲れきって帰ってきたことであろう。そして今後もこれを際限なく繰り返すことであろうと考えた。しかしいつの日にか不帰の客となってしまうことがあるのではなかろうかと思うと、一抹の寂しさが、青空に浮かんだ一片の雲のように湧いた。
「ご両親が心配なさることですえ。」
と、老人はひとり言のようにつぶやくと、急に立ち上がって出口の方へよろよろと歩き去った。いつしか汽車は速度を落とし、雪の上松駅へすべりこんだ。
 福島の街には、雪が相当に残っているだろうという予想を裏切って、街路は綺麗に掃除され、ところどころに雪塊が積み上げられていた。パンパンに凍りついた道路を、九實(約34k)を越すリュックとスキーにあえぎながら歩いてゆく。30分も歩いて街並みを離れると、一面の雪は50cmほどの深さとなって、ただ幅30cmくらいの、よく踏まれた道だけが、この先にも人家のあることを示していた。小さな隆起をもつ穏やかな傾斜がはるか遠くまで続いている。白一色の斜面には密生したクヌギの自然林の黒い斑点の集合が、あちこちに点在していた。
 スキーを持つ指先がしびれるように冷たいのに、背はじっとりと汗ばんでくる。やがて道はクヌギの中へ入ってゆく。スキーの先端にふれた枝から粉雪がさらさらと落ち、冷たい陽ざしにきらきらと輝く。やがて踏み跡から離れて新しい雪の中に踏みこんだ。さっそくスキーをはき、緩やかな斜面を快適に進んでいく。
 空はよく晴れわたっていたけれども、今私たちが一歩一歩近づいている目標の尾根には、灰色の雲が息づまるように垂れこめていた。尾根には巨木が密生しているらしく、前途の困難が想像された。
 まもなく急斜面に取りかかる。スキーはアザラシ皮をつけていても、横滑りを続けて進もうとしない。リュックザックさえ軽ければなんとかなるけれども、この重さでは手のほどこしようがない。やむなくスキーを残しておくことにした。ワカンをはいて先頭を次々と交代しながら、しだいに高度を増してゆく。振り向けば視界は急に開け、広々と展開していた。
 木曽川と中央線とが雪原を横切って果てしなく続いているし、私たちがさっき歩いてきた一筋の道も、うねうねと登ってきている。木曽川の向こうは雪をかぶった密林の急斜面であるが、やはりガスの中に消えている。
 いくつかのジクザグの登りが終わると、やっとの思いで尾根に達し、同時に密林地帯に入った。今までどうにか判別できた夏道が、まったく識別できなくなった。倒木をくぐったり、またいだり、エネルギーを消耗させながら進んでゆく。

  

 地図にしたがって尾根を離れ、左の斜面に入った。雪は次第に深くなり、膝から時には股までもぐった。私たちは歩き疲れてリュックをおろし、三人よりそって絹製のツェルトをかぶり、立ったままで食事をとることにした。名古屋から持参した三人分の握り飯は、Uの持ってきたカイロに包んであったので、手に取った時はまだ柔らかかったが、一口かじっている間に表面が固く凍結してしまった。ガリガリかぶりつくと、内部の飯は、その瞬間はまだ凍っていないが、みるみるうちに変色し、氷のにぶい光沢をはなって食欲を完全に抹殺してしまう。
 それでも食べないわけにはゆかないので、凍ったつぶつぶの飯を口に入れ無理に飲み込む。冷たい飯がのどを半分ほど入ってゆくと、たちまち嘔吐をもよおしてふたたび口に戻る。これをまた嚥下してやる。二回三回上下して、意思と生理現象とが必死の戦いを続けているうちに、飯はやっと暖かくなってついに胃におさまる。他の二人も同じらしい。けっきょく昼飯は握り飯一つだけとなってしまった。煙草に火をつけようとしてマッチをすったが、どうしても点火しない。これはおかしいと思ってツェルトを脱いでみると、すぐに点火した。私たちの行動がはげしかったので、ツェルトの中の酸素が欠乏していたことがわかった。
 しばらく進むとふたたび尾根に出た。ここは馬の背のようになっていてわずかながらも平地がある。もう薄暗くてお互いの顔もはっきりしない。
「この辺で寝ることにしよう。」
と私は二人に呼びかけた。
「えっ、どこで寝るんだ。」
と、Mは驚いたようにつぶやく。私たちは腰まで雪につかり、全身真っ白のままリュックザックを背負い、腰をまげて薄明かりの中に立っている。
 じっと立っていると寒気で全身がガタガタと震えだしてくる。ズボンが氷結して板のようになっている。しかしこの場所なら、横になっても谷間に転落することもないので、ここで寝ることにした。まず寝る場所を作らなくてはならない。三人で深い雪を踏み固めはじめた。
 私は先刻登ってきた斜面の反対側に近づいてみて、一坪ほどの猟小屋のようなものが雪に埋もれているのを発見した。外で寝るよりはと、とにかく入りこんだ。吹きこんだ雪を掻き出し、どうにか三人横になる場所を作った。ささやかながらも焚火ができたのはありがたい。煙がもうもうとたちこめ、涙があとからあとから湧いて出た。
 私は簡単に寝てしまったように思ったけれども、ほかの二人は寒さによく寝つかれなかったらしい。

      

 翌日も雪との果てしない闘争が開始された。
急斜面に大小の樹木が密生している。直径50cmもある針葉樹は深雪を突き破ってそそり立っており、上枝は重そうに雪をのせて垂れ下がり、下枝は積雪の上にやっと頭を出している。低い樹木では雪面から30cmくらいしか顔を出していないようなものも見受けられる。また、腐り果てた倒木が数限りなく埋もれていた。私たちは身体をふらふらさせながら、背の低い木の頭を踏みつけ、また都合のよい倒木をみつけてその上を歩いた。しかしこういうものがなかったり、倒木の足場からころげ落ちたりすると、たちまち雪の中へ胸まで、時には首までつかってしまう。足が上がらないから歩くことはできない。うしろの者は先頭のリュックを手で押し上げ、先頭は頭から雪の中に突っ込み、じたばたしながら少しずつ持ちあがる。斜面が強いので、まごまごしていると、いつの間にか後退している。どうしても進めないときは木登りをして、身体を空中につき出して偵察する。適当な倒木を探し、また雪面からわずかに頭を出している梢を物色する。先頭は零下十数度の中で、全身汗となって頭から湯気を出しているのに、後尾は汗が冷えてガタガタ震えている。
 私たちが通過したあとは深い溝ができ、曲りくねっていて、じつに複雑である。1時間に進む距離はせいぜい20mくらいであろう。しかし、いつになったら頂上まで到達するだろうか、などと心配しても今さらしかたがない。私たちは子どものように無心になり、こういうことの中に楽しみを無理に見出しつつ、時には馬鹿なことを言って大笑いをしながら、終日同じ動作を繰り返さなければならなかった。やきもきすれば、それだけ余分にエネルギーを消耗させるだけのことである。
 それでも夕方には六合目に到達したらしい。半分埋もれた六合目の小屋が、悪戦苦闘している私たちの面前にポッカリと現れたのである。
 やれやれといった気分で、とにかく小屋の中へ入ってみた。誰が剥いだのか、屋根の板にも側面の板にも大きな穴があいていて、小屋の中には粉雪が半分ほど詰まっていた。外で寝るよりはというので、またしても小屋をねぐらとした。雪をかき出してみたが、底の雪は氷のようになっている。やむを得ずそのまま寝ることにした。
 この晩はじつに寒かった。屋外に風が吹けば屋内でも吹くし、雪が降れば同様に雪が降った。三人一緒に並んで横になったが、ほとんど眠れない。体温が急速に発散してゆくことがよく分かるけれども、なんとも致し方がない。それでも昼間の疲れで、隣に寝ているUがものすごいいびきをかきだす。「寝たな」と思っていると、すぐ目を覚まし、「寒くていかん」といいながら話しかける。しかし、1分も経つと、またすごいいびきをかく。するとまた目を覚ます。それでも明け方には、三人とも寝込んでしまった。
 次の日も雪がちらつき、梢越しに見える山頂の方は灰色の雲でおおわれている。視界がきかなければ、問題の大崩谷の上部の通過は困難であると思ったので、今日は空身になって、ラッセルを兼ね、上部の偵察にゆくことにした。リュックがないので、昨日とは違って問題なく楽である。木登りもわけはない。ぐいぐい速度を早め、3時間ほどで森林地帯をぬけ出た。ワカンを外して木に結びつけ、アイゼンをはいた。今までの木登りから解放されて、パリパリの氷の上を歩く気持ちはなんともいえぬほど嬉しい。羽がはえて飛んでいるような気分である。氷片が櫛のように生えている岩の陰で、三人立ったままカチカチのパンをかじった。
 八合目の駒石を過ぎ、いよいよ大崩谷の上にかかったとき、吹雪が猛然と襲いかかってきた。露出している額や頬に雪がくっつき、体温で溶けて顔の表面をにじり落ちる。額から下がってきた雫は眉毛につき、わずかながらも体温から離れる。するとたちまち凍結する。それがしだいに重なって、やがて眉毛からつららが下がってくる。これは非常に不愉快であった。しかしそんなときには、鼻水も凍りそうで鼻柱がむずむずするし、頬にも氷がくっついているので、眉毛のつららだけにかまっていることはできない。しかしまつ毛にできたつららが垂れ下がってきて、目が見えぬようになると、これは捨てておけぬから、つららをへし折るのである。しかし不器用に氷をもぎ取ろうものなら、まつ毛を抜いてしまうので、左手の指でまつ毛をおさえ、右手でつららを折らねばならない。
 私たちが頭の上からつま先まで凍結したような状態で進んでゆくうち、稜線は急に細くなり岩尾根となった。そしていよいよ、あの上松から見える、のこぎりの歯のような岩場にやってきた。
 ものすごい降雪のため視界は10mから20mくらいしか届かないが、その中に淡紅に染まった巨岩が次々とそそり立ち、両側は底知れぬ谷に落ち込んでいる。まるで私たちを一口に飲んでやろうと待ちかまえているようである。私はちょっと後を振り返ってみた。二人は5mくらい後ろで、お互いに寄り添って、吹き倒れそうな風の中にしょんぼりと立っている。私は二人の顔色にはまったく闘志がないと考え、また生まれて初めてアイゼンをはいた二人には無理であると思ったので、ここで退却することにした。
 ガサガサ降りて森林地帯に入ると、風はなくなりポカポカ温かくて、先刻までの耳の中のやかましさが夢のようであった。
 翌朝二人は寒くて我慢できないと言って帰ることになった。そして私だけは食糧の続く限り留まることになった。それから私は4日間を雪の中で過ごした。夜は寒くて眠れないので、昼間食事のほかは、おもに寝ていた。とにかく天候が回復しなければ、あの岩尾根を一人で通過することは無理だと考えたからである。
 終日、読むべき一枚の紙もなく、手をこすり、足をふんで震えていなければならない。とくに夕方、しだいに暗くなってゆくときはいっそう寂しさが身にしむ。家では今頃温かいコタツに足を入れ、戸外の木枯らしを聞きながら、晩酌でもやっているのだろうと思ったりした。
 その時の私の防寒具は、毛のシャツ2、ジャケツ2、上着1、ズボン下2、ズボン1、靴下3、毛皮の尻あて、それに手袋をはめ、羽毛の入った寝袋に入る。寝袋の足の方をリュックに突っ込み、その下にツェルトを敷いて、ツェルトの下は雪である。温度は零下20度くらいであると思った。
 朝起き上がると、ツェルトの下の雪は体温でじっとりと溶けかかっている。私が寝袋から抜け出るとその瞬間、寝袋もツェルトも下の雪といっしょに氷結してしまう。だから、立ち上がって寝袋をパリパリと下の氷からはぎ取らねばならぬ。
 5日も6日も乾かすことなく雪の上に寝ていると、寝袋は氷の板のようになってしまう。寝る時は寝袋の中に帽子をかぶったまま頭まですっぽり潜り込んで、寝袋の口を中から縛ってしまう。頭を持ち上げて首を動かすと、はじめのうちは帽子は頭といっしょに動く。しかし、しばらくすると呼気のため、帽子のへりが寝袋に凍結して、頭を動かしても帽子が動かなくなる。これは感じが悪いので、両手で帽子を動かしてパリンと寝袋から離す。しばらくするとまた氷結する。呼気が凍って顔が直接氷にくっつく。しかし、その中で寒さに震えながら、何も考えずに寝ているよりしかたがない。
 朝、目をさますと、寝袋の上に10cmくらい雪が積もっている。この雪をはねのけてムクムクと起き上がる。靴は氷結を防ぐために、寝袋の中に入れてやるのだけれども、それでも凍ってしまう。そうなると靴がはけない。まず靴下をぬいで素足のまま目をつむって靴をはき、足にふれている部分が柔らかくなってから靴下を1枚はく。次にまた1枚重ねなければならぬ。寝袋に入って寝ているうちに、いつのまにか、かかとが寒さのため感覚を失っていた。翌日は半日寝袋の上に座って、感覚のなくなったかかとを摩擦していたが、ついに感覚は平常通りには回復しなかった。
 ジャガイモでも、玉ネギでもキャベツでも、完全に凍結しているので、切るとか、皮をむくとかいうことはできない。氷屋がするように、まず、のこぎりでひいてから後で割る。燃料のアルコ-ルが予想よりも速やかに減ってゆく。一日二食の雑炊もなかなか時間がかかる。<中略>
 一人になってから4日目、いよいよアルコ-ルの量も残り二日分である。一週間に渡って降り続いた雪が、もし今夜中に回復しなければ、どうしても下山しなければならない。しかし幸いにも午後になると雪はからりとなくなり、木の間越しに見える御岳にもガスはなくなって、はじめてすっきりと新雪の肌を見せてきた。私はすっかり嬉しくなって、鼻歌まじりで明日の準備にとりかかった。
 夜になると星が降るように輝いた。明日の出発は午前2時と決めて、夕食を早く終え、パキパキの寝袋に入った。うきうきする胸をおさえ、早く寝ようと焦るけれども、なかなか寝つかれない。そのうちになんとなく風が出てきたようである。しばらく寝袋の中で考えていたが、どうもおかしい。寝袋の口ひもをといて頭を出してみると、顔にちらちらと雪が落ちてくる。懐中電燈に照らし出された屋外の光景は、タンネ((もみ))の巨木が根元まで揺れ動いて、昨日までよりいっそう烈しい猛吹雪にかわっていた。
 すっかり落胆し不運をなげきつつ、ふたたび凍った寝袋に入った。
 翌朝、風と雪に、私のいる密林の尾根には思いがけなくも大きな雪庇ができ、一晩で別の山へ連れてこられたような感じを受けた。私は一週間待ち続けた、あのまぶしく太陽の輝く栄光の山々への登攀の夢も破れ、敗残のみじめさを味わいつつ、深く潜る尾根を雪にまみれて、ごろごろ転げながら降りてきた。リュックや上着の布地の目に雪がつまって、はらってもはらっても落ちない。途中に置いたスキーをかつぎ、白クマのようにふらふらしながら下って、福島の町を悪人のようにしょんぼり歩いた。

 この話を読んで私は思った。アイゼンをつけたことのない友人を、こんな危険な厳冬期の岩登りに連れて行くなど、言語道断!何事もなく無事帰れたことに、思わず感謝したくなってしまった。
 人間というものは、楽しい思い出よりも、辛く困難な思い出をより強く覚えているものらしい。父は、目標を立てると、何が何でも遂行しようとする人であった。石にしがみついても、やり遂げる人であった。だから、このやり遂げられなかった思い出が、強く心に残ったのであろう。この越えられなかった大崩谷上部の岩場を、父はその後越えたのだろうか。
 この「高所露営」の文章の中に、大きな間違いが一つある。初日の昼食時に、三人でかぶったツェルトの中でカチカチに凍った握り飯を食べた後で、煙草に火をつける、というシ-ンだ。父は煙草を吸わない、というか吸えなかったのである。
 「八高の頃に、先輩が山の頂上などで、うまそうに煙草を吸っている。カッコええなぁ、と思って、自分も吸いたくて、さんざん一人で練習したんだが、少し吸い込むと咳が止まらなくなって、涙がこぼれてどうしても吸えないんだ。悔しかったがこれだけはどうしようもなかった。だが、そのお陰で、良いことがあったんだよ。名古屋の仲田の家(石岡宅)に下宿している頃、冬の夜中に夢を見た。テントの中で皆が煙草を吸って、煙くて煙くて仕方がない夢なんだ。ハッと目を覚ますとテントの中じゃなくて、自分の部屋だ。その頃は、墨を入れて暖をとるコタツだったんだが、そのコタツから煙が出ていて、部屋に充満していた。『火事だ!』と分かって、いきなり二階の部屋の窓を開けて、コタツ布団なり持ち上げて外へ放り出した。コタツは持ち上げたとたんに火をはなったが、何とか畳が焦げた程度で火事にはならなかった。その代わり両手が火ぶくれになって、医者で水膨れの水を注射器で何度も抜いてもらったんだ。もし、わしが煙草を吸っていたら、きっと気がつかずに寝入っていて、火事で焼け死んでいたに違いない。」
 父は、よほど煙草を吸える人が羨ましかったようで、さも、自分が吸っていたかのような文章を書いたのだが、実は、煙草を吸おうとしたのは牛島先生であった。
 ここで、父の身体のことを少し記しておこう。
 父は丈夫な人だったが、中学時代に蓄膿症を患って、大学卒業頃までは、点鼻薬を常用していた。また、胃腸系が弱くて冷え腹などでよく腹痛を起こした。そのためいつも腹巻を巻いていた。私も父似で腸が弱かったので、小さい頃は腹巻を巻かされていた。父も私もいつから腹巻を止めたのかは定かでない。
 以下の写真は数少ない名古屋帝大の時の写真である。





 ここで、父の八高・名大時代の山岳部のお話は終わりにして、昭和16年に始まってしまった太平洋戦争により学徒出陣で繰り上げ卒業を余儀なくされた父のお話をすることにしよう。
 まず、太平洋戦争開戦までの経緯をざっと思い出してみよう。
 富国強兵・殖産興業化を果たした明治維新後の日本は、日清・日露戦争を経て、第一次世界大戦後の混乱する世界経済の渦に巻き込まれていき、昭和4年(1929年)の米国発の世界恐慌で大打撃を受けるに至った。<もたざる国>日本は独自の経済圏構築を目指し、中国大陸に打ち立てた満州帝国に活路を見いださざるを得なくなり、同時に肥大化した軍部の暴走を許してしまうことになった。
 昭和12年(1937年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)で、日本の満州事変以来の中国侵略による権益の固定化を警戒した英・米・仏と、日中戦争の長期化は欧米の中国への軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化して、アメリカ合衆国が航空機燃料や鋼鉄資材の日本への輸出を制限するなど、日本への制裁が図られた。それでも、中国から撤退しない日本は、ヨ-ロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げていたドイツ・イタリアと昭和15年(1940年)に日独伊三国軍事同盟を締結して、ドイツ軍に敗れたフランスのヴッシー政権との合意のもとに仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとしたが、アメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖をして日本を圧迫した。その後、数度に渡る日米交渉も難航して、アメリカ側は昭和16年11月26日に日米交渉の最後の文書(ハル・ノ-ト)を日本に提出した。これを最後通牒と受けた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと、日米開戦を決定し、ハワイ真珠湾へ向けて出撃していた大日本帝国海軍連合艦隊に対し12月8日に戦闘開始命令が伝えられた。その日、日本は英米に宣戦布告し、開戦となった。
 戦中の日本は、官民あげて軍事最優先の国であった。特に昭和12年5月に文部省が『国体の本義』、また昭和16年7月には『臣民の道』という冊子を配付して、日本神話を持ち出し、日本は神国であること、天皇は現人神であると説き、皇室を宗家とする一大家族国家であるとして、個人主義を排除して天皇に絶対随順を説き、国体の尊厳を心得、国家奉仕を第一として日常生活の中で実践するよう強要した。この国家体制と、陸軍による徹底した神がかりの天皇制崇拝思想(国体思想)で国民を洗脳し、だまし、無理やり徴兵して日中戦争・太平洋戦争に駆り立てた。軍部批判は統帥権独立を盾に不敬罪となり徹底的に弾圧された。これらのことが実践的に行われたため、兵士の生命を軽視した無謀な戦略や、自決の強要などによって、戦争の犠牲者を増大させる大きな原因となった。
 父の所属することになった海軍も日露戦争開戦前のような、敵の強さと己の弱さを知りつくし、百に一つの活路を見いだすために作戦責任者が命を縮めたほどの苦悩をして、早期決着を最優先したかつての謙虚な姿が無く、「奇襲攻撃の後、一年は戦ってみせる」など、見通しのない開戦に踏み切ってしまった。
 大正14年(1925年)4月から、文部省による中等学校以上の体育カリキュラムの一部として始まった教練の指導は、陸軍の現役将校が担当して、心身の洗脳教育を行ったが、太平洋戦争が始まると、現役将校の数が減り、校長が担当した。軍事教練の成果は年一回の「教練査閲」で評価され、軍の査閲官が視察、評価した。
 父もこの教練に参加させられ、評価を受けた。下に「教練合格証明書」と、その当時の写真を入れる。

        

   

 戦争が進み、戦局が悪化して戦死者が続出したため、次第に兵力不足が問題となり、徴兵を26歳まで猶予されていた旧制大学の学生も、昭和16年10月から修業年限を短縮されて入隊させられた。いわゆる学徒出陣である。父は昭和17年9月28日、6ヶ月早い卒業を余儀なくされた。
 この時のことを、父は昭和60年3月の鈴鹿高専電気科卒業文集に書いている。

 「原点への願い」 石岡繁雄
 諸君は、14年の教育期間を終了して、いよいよ社会に向って羽ばたくことになった。ご両親はもとより、社会もどんなにかこの時を待ち望んだことであろうか。私は諸君の血の高鳴りを感じつつ、心からおめでとうを申したい。
 ペンを持ってまず私の脳裏をかすめるものは、私が学校を巣立ったときのことである。私が卒業したのは昭和17年、太平洋戦争が始まった翌年である。卒業式の翌日には軍服を着せられて軍人となり、翌々日に輸送船で中国へと海を渡ることになっていた。なにしろ戦う相手は米英である。自分の命もあと2、3年ではなかろうかという悲痛な思いを拭い去ることはできない。気がついてみると、じっと空間を見つめている自分を見出すことがしばしばであった。それが私の学校生活の終わりの真の姿であった。これに反し諸君は平和の息吹き華やかな時代の卒業である。諸君の力量が発揮できる時代である。野原に倒れている自分の姿とか、海底に沈んだ姿を想像しなくてよい時代である。私はペンを動かしつつ、私の心は、平和は絶対に守らなければいけない、ふたたび戦争を起こしてはいけないと叫びつづける。
 さて私は、諸君の卒業を祝うべき言葉に代えて、戦争防止の原点への願いを記したい。今後、諸君の若いエネルギーが、より立派な文化国家を建設されていくであろう。また諸君は、素晴らしい家庭を作るであろう。しかしながらそれらは、核戦争が起こればすべて灰に帰してしまうからである。
 世界の現状は、昭和16年、日本が戦争に突入したときの情勢に近づいているように思えてならない。当時アメリカが中心となって、英国・中国およびオランダは、いわゆるABCラインという日本の包囲網を作って日本に圧力を加えていた。日本政府は鬼畜米英などと、米英への憎悪をあおり立てていた。一方で軍縮交渉をしながら、実際にはそれは見せかけで軍拡競争であった。疑心暗鬼はお互いに相手の軍備を過大評価させ、やがては追いつめられた気持ちが理性を逸脱させ、悲惨な結果が分かっていながら戦争を選んでしまったのである。
 現在は米ソの核軍拡である。口では軍縮を言いながら、軍事費は大幅に増え続ける。お互いに相手を非難する。オリンピックまで確執の場に利用される。私には極限状態に近づきつつあるように思えてならない。
 これは人類への最大の脅威である。その責任はいうまでもなく米ソの指導者にある。問題を話合いによって解決することが出来ず、相手を殺す道具を増やしつづける……そういう集団は、理性を持たないギャング集団であり、暴力団である。私は米ソの指導者が一日も早く、ギャング集団から理性集団へと方向を変換されることを願いたい。
(3年、応用物理担当)

 軍事教育によって、天皇は神であり、神風が吹いて日本軍は必ず勝つと信じこまされていた父は、戦後「騙された!だまされた!!」と悔やんだ。だが、それを信じなかった谷本先生は、戦争に反対して「アカ」と呼ばれ拘留された。
 「オタニは本当にすごい人だったよ。『人が人を殺すことがどうしてできようか!』と言って、戦争反対の意見を曲げず特高に連れて行かれて、ひどい拷問を受けたんだ。その頃のわしは、オタニはなにをたわけたことをいっとるのか、と思ったが、戦争が終わって、天皇は神ではなくて人だったと分かり、ほんとうにオタニにすまぬことをしたと後悔した。」と、父は語った。
 父はお人好しで、誰のことでも信じてしまう。生涯この性格はなおらず、騙されて痛い目をみることもあったが、それでも人を疑うことを知らぬような人であった。だが、一度騙されたと分かると、騙した人を徹底的に追及し誤りを正させるようにしたことがほとんどだった(ナイロンザイル事件がもっとも秀でた例)。ただ、情にもろく律儀なところのある人だったので、どうしても言えないこともあった(豊田高専問題)。それらについては、後の章で詳しくお話しすることになる。
 そのようにして、父は名古屋帝国大学を卒業した。
  


 卒業後、先の文章のように海軍技術将校として、入隊する。

 その海軍での生活は…

芳春の上高地

昭和16年4月25日~30日
黒田・駒井・若山
4/25 松本→沢渡→上高地
4/26 ホテル番小屋→徳澤→横尾岩小舎→徳澤
4/27 徳澤→岩小舎→涸沢→穂高小舎
4/28 穂高小舎→奥穂高頂上→ジヤンダルム→
穂高小舎
4/29(天長節) 穂高小舎→涸沢→徳澤→上高地
4/30 ホテル番小舎→沢渡→松本→名古屋


槍ヶ岳登山

繁雄・敏子・富子・美代子・志ず
昭和16年8月4日~11日
8/4 名古屋→高山→平湯温泉村山館
8/5 村山館→安房峠→中の湯(バス)→上高地西糸屋
8/6 上高地滞在→小梨平テント
8/7 上高地→吉城屋→徳澤→槍沢→槍沢肩の小屋
8/8 槍肩の小屋→小槍往復→大槍往復→
彦・孫縦走→肩の小屋
8/9 槍肩の小屋→上高地
8/10 上高地滞在、思い出深き日、小梨平テント
8/11 上高地→松本→名古屋


上の写真はアルバム21に貼られていた物に
母のアルバム15の写真を追加しました

NIGHT SKY(星と星のぶつかる時の
光を観測) 研究

            乗鞍岳肩の小屋

昭和16年8月13日~30日
小野先生・木下先生・木村さん・若山



秋麗の弥陀ヶ原

昭和16年10月4日~11日
武藤・田川・吉永・若山
10/4 名古屋→高山線→富山立山館
10/5 立山館→栗巣野→立山温泉
10/6 立山温泉滞在
10/7 立山温泉→松尾峠→追分小屋→天狗平小屋
10/8 天狗→地獄谷→室堂→天狗平小屋
10/9 天狗→雷鳥沢→剣御前小屋→剣頂上→室堂
10/10 室堂→天狗平小屋
10/11 天狗平(繁雄残る)→富山→名古屋


黒部探勝

単独行
昭和16年10月11日~13日
10/11 天狗平小屋→一ノ越→雄山往復→ザラ峠→
中ノ谷→刈安峠→平小屋
10/12 平小屋→針ノ木峠→針ノ木岳→大沢小屋
10/13 大沢小屋→扇沢→大町→名古屋


ここまでの写真はアルバム21
「Gum Andenken an die Berge Band Ⅲ」
と書かれたアルバムに入っていました

ここからの写真はアルバム14に貼られていたものです
ほとんどコメントが記されておらず場所や年代の特定が難しく、
同じ頁に貼られているものでも、
違う場所などのものが混入しており、
間違いがあるかも知れませんが、
出来る限り、先のアルバムと同様の場所などを探してみました

前頁、「小槍・北鎌尾根」追加写真
昭和13年7月28日



御在所岳ハイキング


槍ヶ岳登山

昭和12年
父・母・祖母他




父の囲碁




初めての涸沢合宿の時の写真か?


前頁、「木曽駒逆縦走」追加写真

昭和13年3月16日~4月3日


若山兄弟と母の海水浴


別府旅行

昭和15年3月


ここからはアルバム17です

名帝大教授須賀太郎先生と
恵那山



八ヶ岳


乗鞍にて


この写真のコメントは、2016年3月25日に石岡家を訪れられた学習院大学副学長の荒川先生が教えてくださったものです

御岳山

昭和16年1月
単独行


冬の御在所岳


木曽駒ヶ岳

「高所露営」時の写真


木曽駒ヶ岳


前穂高岳前穂四峰

昭和17年8月



ここからはアルバム19です

北穂高岳滝谷


滝谷


鹿島槍


奥穂高からジャンダルム









第九話 暗雲の章

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