第十話 暁の章         2013年8月22日起


 
 
 戦争が終わって、敗戦国となった日本人は、もう殺されなくてもすむという安堵感と、大日本帝国に裏切らた虚脱感の中、一変した生活に戸惑いつつも日々の暮らしに追われて、なんとか生をつないでいく。
 海軍が消滅して父は無職となり、次の仕事を選ぶことになる。あれこれ迷った末、昭和20年9月30日付けで、自宅の裏にあった旧制神戸中学校(現在の三重県立神戸高等学校)の物理教師となる。

  
        鈴鹿市神戸の自宅と旧制神戸中学校の位置図

 昭和20年12月9日にGHQ(連合国最高司令官総司令部:アメリカ合衆国軍人と少数のアメリカ合衆国民間人、少数のイギリス軍人によって構成)は、数世紀にわたる封建的圧政の下、日本の農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破するために、農地改革を指示した。石岡家は、所有していた土地が全て小作農地だったため、この農地改革で、ほとんどすべての土地を失った。庄之助曽祖父は一時期失意のために病床についた。
 「農地はなくなるは、株券は紙切れになるは、(うち)はもう無茶苦茶にされてしもうたんや。庄之助おじいちゃんは気が狂ったみたいになってしもて、病気になってしまうし…ほんとうにあの時は地獄だったよ。お金がなくてどうしようもないから、神戸のお殿様からもらった蔵(兵器庫)まで売ったんよ。」と祖母は語った。
 旧制神戸中学の教師となった父は、山岳部を作ることになるが、そのあたりのことについて、『屏風岩登攀記』の戦後登山の思い出話を基に、昭和62年5月、岩稜会40周年記念として発行された非売品の『岩稜』を参照して、父から聞き及んでいることがらも含めて転記してみよう。

 「戦後登山の思い出」(該当部分のみ抜粋・『岩稜』含める)
 私は終戦後、満州から引き揚げてみえた赤嶺氏とともに旧制神戸中学の教師となった。生徒たちの顔には、若人の持つはつらつとした希望は見えなかった。戦争中の悪習(酒・たばこ・無気力等)が彼らの純な心を傷つけていた。私は山岳部を作ろうなどとは夢にも思っていなかった。しかし、10月のある晩、5年生の本田(屏風岩初登攀時のメンバ-)が私を訪れ山岳部の創立を熱望した。「なんの希望もないので、せめて山岳部員でありたい」というのである。私は彼の熱意に動かされ山岳部員を募集することになった。山岳部を作ったものの、入部希望者はあるはずがないと思っていた。リュックザックも靴もないからである。しかし案に相違して希望者が連日押しかけ、クラスによっては半数以上が入部するような有様であった。戦後のみじめさの中で、しかも若さを失うことのできない生徒たちは、懸命に何かを求め、わらをもつかみたい気持ちだったのだろう。当時、テニスのラケット、野球のボ-ル等あろうはずはなく、クラブは何一つ存在しなかった。したがって、そういう中で誕生した山岳部に、運動神経の優れた者を含め大勢が入部した。
 もともと山岳部というクラブは、どの学校でも部員数が少なく、しかも入部する者は運動神経がにぶく、他の部では一人前になれないような者が大部分であるといってよい。山岳部では重荷を背負って歩ければ一人前であった。しかしながら神戸中学では、本来なら野球や陸上競技で一流選手になるべき者が間違って山岳部に入ってしまった。

 神戸中学山岳部創立後、一回目の登山は終戦の年の10月、新雪の御在所岳の日帰り登山を行ったが、参加者70名、延々として続き、尽きるところを知らないほどであった。
 二回目は12月、鈴鹿山脈に食い込む宮妻狭にテントを張って、翌日鎌ヶ岳を往復した。さて出発の三日前、食糧や毛布は何に入れたらよいですかと質問するので、私は風呂敷でもなんでもかまわん、ようするに運べばよいと答えたが、当日の朝勢ぞろいしてみて驚いた。幼稚園の幼児が背負うような、ちっちゃなリュックザックを四つ持っていて、二つを肩にひっかけ二つを手にぶら下げている。歩くと肩にかかったのがずり落ちるので、かき上げかき上げ、あひるが尻を振るようにして歩く。私はそれを見て、<登山にリュックザック>ということを知っていたことと、親類からかき集めたであろう努力には感心したが、これなら風呂敷包みを振り分けにして肩にかけたほうが良かったと思った。また、七福神の大黒様が袋をかついでいるように、南京袋をかついできた者がいた。さらに驚いたのは、むしろを二つ折りにして縫い合わせたカマスのようなものを、荒縄で体にしばりつけていた。また、かすりの着物をズボンに改造してはいてきた者がいたが、遠くから見ると洋服と着物の合いの子に見えた。とにかく、百姓中心のコジキ部隊であることがひとめで判った。
 この時のテントは、陸軍の兵隊が1m四角くらいの薄っぺらな布地を背のうに入れて携行していたことを思い出し、それを集めて何枚も重ねて縫い合わせて作ったが、テントを張るときには、もうあちこちほころび、たしか二回使っただけで使用不能になった。みな寒くて眠れずにいた。この時以来、私はリュックザックとテントだけはどうしても確かなものを作らなくてはならないと考えていた。
 当時あちこちの農家に陸軍の巨大な天幕が隠匿されていることをかぎつけ、これを買い集め、自宅で職人を頼んで、登山用の装備に改造した。6人用夏冬兼用テント三張、キスリング型特大リュック十数個、サブリュック十数個、ウィンドヤッケなどを作った。
 なんといっても一番苦労したのは、履物であった。登山靴はもちろん入手不能である。農夫が履く地下足袋を求めたが、それがまた貴重品で、新品の地下足袋を苦労の末入手して、抱いて寝た者もいた。クズ屋へ行って、履き捨てられた地下足袋がいっぱい詰まっている南京袋をひっくり返し、良さそうなものをあさっている有様が目に浮かぶ。上高地でその地下足袋を盗まれ、泣く泣くワラジを買って穂高へ出かけた者もいた。
 ピッケルやアイゼンは八高の先輩からかき集めた。
 私たちは、終戦直後に山を登っていたので、誰からも「終戦当時の登山は大変だったでしょう」と聞かれる。たしかに当時は、生活することすら大変であった。配給米だけでは生きてはゆけない。それかといって闇米を買えば違反行為で罰せられる。「法律は犯さぬ」といって栄養失調になって死んだ判事のことが新聞に掲載されたりした。法の番人が身をもってこの矛盾を証明したわけだ(屏風岩初登攀の記事の右下に「犯罪か餓死か」の見出しで掲載された)。
 しかし、私たちはほとんどが農家の出身であったため、米には不自由しなかった。それでも最初は、世間に遠慮して山ではサツマイモを主食とした。
 朝、いもがゆを飲み、イモの弁当を持って出発する。鎌ヶ岳の帰りに遅くなって暗くなってしまった。腹の皮が背中にくっつくというのはまさにこのことだ。懐中電灯を持っていないので、みなくっついて歩く。ときどきつまづいたり滑ったりするが、そのたびに、腹に力が入らないため簡単に転んだ。転ぶ時も思考力が鈍くなっているせいか倒れる感覚がなく、地面の方が顔に接近してきた。私はこれは危ないと思い、山はいもがゆでは登れないことを知った。そのとき以来、世相におもねることをやめて、山へ米だけは十分に持ってゆくことを決意した。また味噌屋の息子がいたので味噌は十分にあった。
 その頃、教官会議で問題がおきた。「生徒の外出は制服ということになっているのに、どうも山岳部の生徒が背広を着ているようだ」というものである。私はそれに答えた。「山岳部員は鈴鹿の山へよく出かける。最初制服で登っていたが、岩ですりきれたり、雨に降られてずぶ濡れになったりして、翌日の登校にさしつかえる。野球にもテニスにもユニホ-ムがある。山岳部のユニホ-ムは古背広というようにお考えいただきたい」ということで解決した。

 昭和21年2月には、再び御在所の裏道を登ることになった。全員詰襟の制服姿である。雪の多い年で、北谷ではそうとうラッセルをしなければならなかった。私は雪が多いから藤内沢を安全に登れるのではないかと考え、裏道から外れて岩場に向かい藤内沢へと入った。雪が少ないときには藤内滝は上がかぶっていて登れないが、滝はほとんど雪でうまり上部に少し青氷が出ているだけである。藤内滝の初登攀になるかもしれないと、みな頑張りだした。ピッケルはなく、誰かが持ってきたハンマ-で、手がかり足場を刻んで登った。全員が登り終わったとき、大きな歓声がわきあがった。初登攀をしたのだから神中滝と名付けようという者もいた。それは敗戦後の絶望の中でみた最初の若者の笑顔であった。藤内沢をラッセルしながら登っていて「右側の絶壁が前尾根で、もっともよく利用される岩場だ」と私は説明した。それ以降、神戸中学山岳部の山行パタ-ンは、米と味噌と野菜と、それに麻ロ-プを持って土曜の午後出発、北谷小屋で泊まって、翌日前尾根を登るというものになった。

 山岳部創立以来8ヶ月、部員もしだいに厳選され、真に山に精進しようとする者約20名となった。彼らの団結力は想像以上で、試験中を除く土・日曜日には、御在所藤内壁に神中山岳部員がいないという日はなかった。彼らは私が八高山岳部時代、登攀の可能性など夢にも考えられなかった場所を、つぎからつぎへ、ハ-ケンも打たずに登った。岩場の入口に5mほどの一枚岩があり、テストスト-ンと名付けた。私は登るのがやっとだが、生徒たちは重いザックを背負って登る。ついには手放しで登る者が現れた。また、ウィ-クデ-には城跡の巨木にハ-ケンを打って、困難なオ-バ-ハングの技術を身につけた。彼らの中から、岩登りの名手が生まれたのは当然であった。

 同年3月、神戸中学山岳部の本田・中沢らが卒業し、年度が改まった。その卒業生たちは、酒・たばこは自由だが現役はそうはいかないので、卒業生たちのグル-プを作った。私は岩稜会と名付けたが、その理由は次のようであった。
 私を育ててくれた八高山岳部の卒業生の会を山稜会といったので、まず<稜>の一字を頂戴することにした。つぎに、私たちは何といっても中学卒業生のクラブであるので、冬山を対象とするのは無理で、当然夏山に限られることになろう。そうなれば岩登りが中心になると考え、<岩>の字を取って岩稜会としたわけであった。
このように岩稜会は冬山はやらないつもりであったが、いつしかずるずると冬山に引き込まれていった。
岩稜会員は、神戸中学山岳部の卒業生を中心としていたが、地元の年配の人々を有する鈴鹿山岳会の方々(本田善一郎氏・杉浦孝男氏・中道恵氏・伊藤経男氏ら)も入会した。
 その他、九州の方々も入会した。この理由については、石原一郎と私の出会いとそれに関連した話をしなければならない。
 昭和16年私が名古屋大学に入った年の7月、私は弟と当時小学校4年生だった妻を連れて穂高縦走をした。前夜泊まった槍肩の小屋を出、大喰岳を越して中岳まで来たとき、後ろから10人たらずの人々が、オ-イ、オ-イと呼びながら私の方へ向って走ってくる。何ごとならんと待っていると、やがて追いついて説明する。
「私たちは、京都の山の同好会で、これまでアルプスのあちこちの山々を登山してきたが、穂高縦走が最大の目標です。そこで3年前、穂高縦走をしようと肩の小屋で泊まったが、あいにくと雨となり縦走できなかった。昨年も悪天候でだめとなり、今年こそはと思ってやってきたところ、このような快晴となった。そこで肩の小屋の主人にガイドを頼んだところ、ガイドは全部出払って一人も残っていないという。しかし私たちは今年で3年目だから何とかして欲しいと頼み込んだところ、小屋の主人は『今向うを歩いてゆく人がいるが、あの人に頼みなさい。あの人は頼まれるとイヤと言わない人だから』と言われ、地獄に仏の思いで追いかけてきました。どうか穂高縦走の案内をしてください」と頭をペコペコ下げて頼まれる。私は、「私はガイドではないので案内はできないが、旅は道連れということで行きましょう」ということで一緒になった。
 当時の穂高縦走は、今と違ってクサリの工作もなく、ペンキの目印もなく、岩もグラグラしていて今より相当危険で、万一コ-スの判断を誤ったら大変だ。遭難もかなりあった。だからガイドを頼むことは常識で、確か他のコ-スよりもガイド料が高かった。
 さて、その日一日歩いて穂高小屋で一泊し、翌日また一緒に歩いて前穂高から岳沢に下り上高地で別れた。
 ところが翌朝、京都のグル-プの中にいた一人の少年が、私たちのテントを訪れた。彼の話によれば、彼は京都のグル-プとは無関係で、家は九州の直方、山口高商の生徒で石原一郎といい、山が好きだが友達がいないので、一人でテントを持って上高地へやってきたという。そして、3日前槍ヶ岳に登り、肩の小屋に泊まった。そこで、小屋の主人と京都のパ-ティの話を立ち聞きし、京都のパ-ティの一員になりすまして2日間を一緒についてまわったという。そして「一人では穂高は危険だから、今後ともよろしくお願いします」ということだった。
 彼は登攀技術抜群で、私の右腕となって活躍することになった。だから石原は私にとって岩稜会よりも古い友達である。彼は当然岩稜会創設の主役の一人となった。その後、石原の弟、石原國利や石原の友達(ニュ-ギニヤこと上岡謙一氏)も岩稜会に加わることになった。
 このように岩稜会は、神戸中学卒業生でない者が、相当数含まれている。

 4月から5月にかけての連休を利用して、日本岩登り三大ゲレンデの一つである六甲のロックガ-デンまで大挙して押し寄せた。川原田まで歩いて関西線に乗った。(その頃の関西線の木曽川鉄橋は戦争中B29の爆撃で落ちたままとなっていた)新調のキスリングを背負い、古背広を着て、みなニコニコと肩で春風を切って出発した。ロックガ-デンでは、イタリアンリッジ、キャッスルウォ-ル等で縦横に飛び回ったりした。
 良書を輪読し、技術方面にも精神力方面にも互いに練磨し研究しあい、良きにつけ悪しきにつけ、山岳部は全校注目の的となりつつあった。
 私も彼らの熱意に応えるべく、部の発展に専念努力することを決意した。そして、戦前の中等学校山岳部によく見られた、夏は縦走、冬はスキ-合宿の域から脱して、戦前の高等学校山岳部のレベルにまで達することを目標とした。もしもこの目標が少しでも達せられるならば、それは高等学校山岳部への刺激にもなるであろうと信じた。このことは、現役を退いて何の望みもなくなった私にとって、愛する山岳界のために貢献しうる唯一の希望ともいうべきものであった。私にとってこの目標が無理なものであるかどうかということは、今後の努力いかんにかかっているはずだ。
 問題は山岳部の形式ではなくて内容である。技術の習得ではなくて正しいアルピニストの育成である。部にとってなんといっても致命的なことは、遭難者を出すことである。そんなわけで私の生みの親、八高山岳部の尊い伝統がある「遭難しないこと」つまり「絶対に無謀な振舞いをしないこと」が部の唯一のモット-となった。 

 7月23日から8月2日にかけての、初めての涸沢合宿のことを部員に話すと歓喜の声を上げた。あこがれの穂高、私から物理の授業中にもしばしば話を聞かされ、また文献を読み漁っていたその穂高に行ける。北谷小屋通いが繁くなり、岩登りの練習にも熱が入り、その技術は飛躍的に向上した。かくして、中学山岳部としては前例の少ないと思われる約二週間の夏山合宿を、待望の穂高涸沢池の平で行うこととなった。
 このとき前穂高岳北尾根・ジャンダルム・滝谷第三尾根を登ったが、滝谷第三尾根が諏訪多氏の『穂高岳』に記録として掲載された。
 8月19日から26日と10月5日から7日は、屏風岩正面岩壁登攀のための偵察合宿が行われた。(屏風岩に関しては、次の章で詳しくのべることにするので省く)
 12月、私は冬山でも鈴鹿は例外と考えて、3泊ないし4泊で、いくつかのピ-クをもつ鎌尾根を縦走し、鎌ヶ岳と御在所を超えて裏道から湯の山におりる計画をたてた。テントとリュックは新しく製作したので心配はないが、問題は炊飯である。夏ならばテントの外でたき火をすればよいが、雪の稜線ではどうしてもテントの中でやらなければならない。いろいろ考えた末、上部を切り取った石油缶と炭一俵持って登山し、テント地に着いたならば雪を除き土を掘って石油缶に半分ほど入れ、その上で炭をおこして鍋をかけることにした。炭が赤くなるまではテントの入口付近でやるしかいたしかたないが、火がおこってしまえば、あとはテントの中でゆうゆうと飯が炊けると考えた。
 しかし、吹雪の稜線でやってみるとそうはいかなかった。炭が悪かったせいもあろうが、妙な臭気と薄い煙がテントの中に充満し、一酸化炭素の濃度が相当に高いという予感がした。頭がすぐ痛くなるのである。テントの入口を解放したくらいではおっつかない。私は二人に命じてテントの入口の布をバタバタさせて空気を入れ替える役目とした。もちろん新鮮な空気とともに雪も入ってくる。寒くてかなわない。くしゃみを連発させ、飯が炊けるのが早いか、風邪をひくのが早いか、気が気ではなかった。
 翌日の行動では全員うつらうつらしながら歩いており、鎌ヶ岳の南壁の手前のやせ尾根で、一人がリュックを稜線から落とした。ザックはバウンドしながら落ちてゆき谷底に見えなくなった。私は「ボヤボヤしているから駄目だ。気を付けろ」と怒鳴ったが、ザックが落ちていった斜面は急で氷までついている。生徒を取りにやらせることは危険なので私はブツブツ言いながら斜面を降りて行った。
 ところが途中の岩やら氷やらの上に、大量のコメが散らかっている。落としたザックが破れ、米が飛び出したのだ。貴重な米、と私はますます腹が立った。しかし一瞬、ザックだから米だが、もしも人だったらこれは血だと思うと、ああ米で良かったと急に怒りがおさまり、ザックを拾って、2時間もかかって稜線に戻った時には、ニコニコ顔だった。ザックを落とした生徒はポカンとしていた。要は物事は思いようが肝心であると思った。
 さて思いがけぬ時間を費やしたので鎌ヶ岳を越して武平峠に近づく頃には、うす暗かった。私は危険を感じたので御在所岳へ登ることを中止し、リュックザックを尾根の上に残したまま武平峠から降りて、一の谷の山の家に入った。


 以上が、旧制神戸中学山岳部設立から岩稜会設立にかけてのできごとである。
 神戸中学の教員だった父は、軍隊上がりということもあり、他の先生方と違わず、とても厳しかったらしい。それは、生前の父に対する岩稜会員の方々の態度からもうかがわれる。厳父のように、命令は絶対服従であったようだ。しかし父はその生徒たちを我が子のように、弟のように可愛がって、まるで家族のようであった。
 次に前章まででも紹介した「鈴鹿の思い出」から戦後の思い出の中で、御在所岳の藤内壁に関する部分を抜書きしてみよう。

 

 「戦後の思い出」
 終戦を区切りとして、いわゆる戦後がはじまるとともに、鈴鹿の山と私との交錯は、質量とも飛躍的に上昇した。鈴鹿の山は、いつのまにか離れられない存在になっていた。そのすべてのきっかけは、終戦によって私の新しい職場となった神戸中学(現在の神戸高校)で、山岳部を作ったことにある。<中略> 
 さて当時、藤内壁のル-トは、当然のことながら前尾根、後尾根、藤内滝左岸のトラバ-スに限られたが、とくに前尾根に集中した。
 たしか昭和21年の春、私たちは小雨降る前尾根を登って、藤内沢を下りようとしていた。藤内沢から後尾根にかけての幅広い障壁群が、眼前に展開していたが、それらは、岩肌を急速度で移動するガスのために、壁全体が動き出すような錯覚を与えた。白いガスが雨に濡れた黒い岩の襞に流れ込み、ピ-クやら壁やらが次々に浮き出した。私はこの領域の岩場には関心がなかったので、その気になって眺めたことはなかったが、今眼前で行われている自然のみごとな解析を、我を忘れて見つめていた。しかし突然、穂高の滝谷でも珍しいような、そそり立つ岩峰がガスの中に出現したとき、私は我が目を疑った。それは初めて見るツルムの姿であった。私はそのとき自分たちの庭くらいに思っていた、この藤内壁に、このような珠玉が隠されていたことを知った喜びよりも、これを見つけた以上、それとの闘いを開始せざるおえないように運命づけられている私自身の立場を、無意識のうちに感じ、名状しがたい戦慄を覚えたのである。私は帰宅すると、山道具入れの中から何本かのハ-ケンとカラビナを探し出し、次の土曜日を待ちかねるようにして北谷小屋に入った。翌日曜日、前尾根の途中で生徒たちと別れ、2人だけを連れて前尾根を登り、藤内沢の源流で先週見た岩峰を確かめ、藤内沢を下り、第2ルンゼを登り、展望台からツルムのコルへ出、チムニ-を登ってツルムの頭に立った。この間、人の痕跡は全くなかったが、ツルムの頂上の岩の亀裂に長さ2cmぐらいの木の楔が打ち込まれていたのを発見した。この楔は、ほとんど腐っていて、指で簡単に抜けたが、とにかく先人がすでに登っていたことを知った。ツルムの下りは、ツルムのコルからチョック・ストンのある第1ルンゼ右又を、懸垂で下り、一の壁の下を通って藤内沢へ下った。(前記の名称のうちツルムについては、その登攀中、滝谷第四尾根のツルムになぞらえてツルムと仮称した。また展望台もそのとき命名したが、その他のものは、何か月か経って命名したものである)


 さてこの登攀をきっかけにして、神戸中山岳部員は、この空白地帯に雪崩のように押しかけたのである。私たちはちょうどその頃、穂高の屏風岩を開拓しつつあったので、この技術と開拓の精神が、この地域の登攀に拍車をかけ、新しいル-トが次々に登られた。一の壁第2ル-ト、第3ル-ト、ツルム北正面のチムニ-、ツルムのコルから中尾根P1(おにぎり)へのル-ト、中尾根P1下のチムニ-、第1ルンゼ中又、ジャンダルム、前尾根の側壁にある前壁ルンゼ、第3ルンゼ左の壁、藤内滝上から前尾根の側壁を登るル-トなどである。これらはいずれも、かっての八高山岳部の技術をもってしては、考えられないものであった。またこれらのル-トでの技術は、フリ-クライミングの技術としては極限に近いものであろう。藤内壁で、これらのル-トに用いられた技術よりもさらに高度な技術が要求されるル-トは、そのほとんどが、埋め込みボルトで代表される人口登攀技術を用いて、しかも数年も遅れて登られたものである。今これらのル-トの開発に努力した人々の名前をあげることを許していただくとすれば、赤嶺・伊藤(経)・上田・本田・中沢・松田・室・豊田・田中・大井・井上・澤田(兄)・岡田・高井・森・中道・新井・川合・澤田(弟)・林・長谷川・黒田、であろう。また東芝山岳会、鈴鹿アルパインクラブなどの人たちの努力も忘れることはできない。
<以下、該当年度へ送る>

 というような訳で、父は山にどっぷりとつかりこんでいった。
 岩稜会は父のオ-ナ-クラブであった。この章の最初に記したように、石岡家は没落して金銭的にも大変であった中、父はなりふり構わず軍のテントなどを買いあさり、次第に使う額も高額となっていった。また、学校が近かったため、生徒や岩稜会のメンバ-がしじゅう出入りするようになり、宴会などもたびたび行われた。
 「最初のうちは、ニコニコして御馳走を出したりしてたんやが、岩稜会の子たちは、酔っ払って、大声で歌いながら良いお皿を叩いて欠かすは、金屏風は破るは、もうムチャクチャやったんや。」と祖母は語った。
 この時から、祖母と父は犬猿の仲になった。まだ乳呑み児がいるのに休みと言えば山へ出かけ、お金もないのに山のこととなると湯水のようにお金を使った父を、祖母は許せなかったのだ。その上、神戸中学山岳部に入部した近隣の親御さんたちから、息子の山狂いを攻められたりもしたらしい。そして、なお悪いことに屏風岩のとりことなって、寝ても覚めても<屏風岩>である。家の者はたまったものではない。祖母は父に言っても糠に釘なので、母に愚痴をこぼした。父は母のいうことなど聞く人ではない。母は、祖母と父との間に入って板挟みとなり、それはそれは苦労した。それは、祖母が亡くなるときまで続いた。

 さて、その屏風岩の初登攀までの模様は…


                

旧制神戸中学校の辞令書



旧制神戸中学校山岳部・岩稜会

昭和20年の記録

10月 御在所岳
参加者:石岡ほか生徒70数名


12月25日~26日 第一回冬山合宿
宮妻狭より鎌ヶ岳
参加者:石岡・本田・松田・中沢・岡田(繁)・浜口・
高木・浅野他 









教官会議で問題となった
山岳部の生徒についての反論の下書き


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リュックザックの予約募集書

 
昭和21年夏の穂高合宿に備え、あちこちに隠されていた軍のテント、パラシュ-トなどを買い集め、ミシン業山本さんに頼んで、5人用テント・リュックザック・ウインドヤッケなどを大量製作した

 父の手帳

昭和21年夏山計画メモ


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昭和21年の記録
 
2月 御在所岳 藤内滝
参加者:石岡・本田・高木・浜田・松田他



4月 岩稜会発足


4月 六甲山ロックガ-デン
参加者:石岡・本田(喜)・松田・清水・豊田・田中・
本田(昭)



7月23日~8月2日 はじめての涸沢合宿
参加:石岡・赤嶺・伊藤(経)・杉浦・中道(恵)・本田(善)・
武藤(神中OB)・本田・松田・清水・室・岡田(繁)・
中道(雅)・本田(昭)・福井
鈴鹿市の有志-松葉・杉野・森(一)・島田・永戸・
岡田・竹口・船橋・鈴木・伊藤(三)・森川・
河内・橋本・堀内
滝谷第三尾根隊=石岡・赤嶺・本田・武藤・松田・森(一)
前穂高岳北尾根隊=石岡・本田・松田・森(一)
奥穂~前穂~上高地=伊藤(経)・杉浦・中道(恵)・
清水・室・岡田(繁)・中道(雅)・武藤他










当時の涸沢では夏でもほとんどテントがなく
夕方になると唐沢小屋の金州屋のおじさんが
「カンベ-、風呂が沸いたぞ!」と
池の平じゅう響けとばかりどなったものだ







8月19日~26日 屏風岩合宿
参加:石岡・松田・豊田・伊藤洋平(山稜会)・
若山(英)・若山(五)
22日 屏風岩中央カンテ試登=石岡・伊藤
24日 屏風岩横断ル-ト=石岡・松田・豊田
(初登攀)
25日 屏風岩北壁=石岡・松田・豊田・伊藤
(第二登)


10月5日~7日 屏風岩合宿
屏風岩中央カンテ試登=石岡・武藤・横井・水谷・
伊藤(経)・杉浦・本田(善)


12月 宮妻狭~鎌ヶ岳~武平峠~一の谷
参加:石岡・赤嶺・豊田・清水・田中

旧制神戸中学校の教員

左より 父・清水先生・二五先生
終戦になっても、みなゲ-トルを巻いていた

八高山岳部歓迎キャンプ寄せ書き

昭和21年6月9日
御在所岳北谷小屋にて

バッカス先輩に贈る
八高山岳部及び山稜会復興を記念して 
 
神戸中学物理教師一年目の時間割

これは、教官手帳に記載されていたものである。
教官手帳には、3年1組62名・3年2組61名・
3年3組61名・3年4組60名・
4年1組63名・4年2組61名・4年3組59名の名前と
成績表が記されていた。
その中に、当初の山岳部員に○印がついていた。
印のついていた人数は
3年・4年だけでも94名であった。

 






第十一話 紅蓮の章