第一話 透明の章 若山家の人々          2013年4月22日起



 
 
 最愛の妻を亡くした失意の父との2年間の生活の中で、父から語られた多くの話の中に、父の生まれ故郷、愛知県佐織町見越(現在の愛西市)の実家、若山家の人々の話がいくつか含まれている。その最も古くて悲しいお話から始めて見よう。
 「昔、見越の家の付近は、どん百姓が多くて、ものすごく貧しかったんだよ。おとっさま(父は祖父の事をこう呼んだ)のお父さん、わしのじい様やな、の弟は、『わしは二男だから家も継げぬ。このままでは餓え死にするしかない』と身を儚んでなぁ。その頃の家は、長屋のように同じ建物が並んでいたんだが、その隣の家の二男と、時刻を合わせて縁の廊下の鴨居で、夜中に首をつって死んでしまった。それ程貧しかった。
 おとっさまの一番上の兄はアメリカに新天地を求めて移民として出て行ったんだ。それで、カリフォルニア州のサクラメントに根をおろして、苦労して足場を作って、弟達を次々と呼び寄せた。おとっさまもそれでサクラメントに行ったんだよ。」

 父の話はとても面白いものが多かったが、小さい頃に父から話を聞いた覚えはない。忙しい人だったから、私に話を聞かせる余裕はなかったのだろう。それまでは、教え子の学生さん達が見えた時とか、山に行った時などに、父が他の方々に語る言葉を端っこで聞いていたにすぎない。父の晩年にやっと話を聞く機会に恵まれた。

 

父が石岡家に婿入りした後、若山の家を継いだ
若山富夫叔父作成の<若山家の系図>
-系図上でクリックしていただきますと、
大きな画面でご覧いただけます-


 当時の愛西市の移民の様子を記した「愛西市域のアメリカの移民」と言う説明文を見つけたのでここに転記しよう。

<明治時代の愛西市は,濃尾地震や鵜多須切れの洪水等の自然災害や繊維産業の不振による経済的な不況にあえいでいた。その中で,1881年(明治14)に愛西市二子町出身の山田芳男氏が,出漁中に難破したが,アメリカ船に助けられてカリフォルニアに渡った。山田氏は農園で働いた後,帰国し,親類の縁者をつのり,数人と再び渡米した。彼らが,数年後に大金を故郷に送ったことから,愛西市に渡米ブームが起きた。(同町内で1891年~1924年に640人が渡米)
 移民の多くはカリフォルニア州の農場での労働に従事した。低賃金の労働であったが,アメリカで数年働けば,日本で土地が2~3町歩買えたので,日露戦争のころまで移民は続いた。勤勉な日本人は,大切な労働力として必要とされ,カリフォルニアでは日本人のコミュニティーが出来上がった。 1912年(明治45),北米愛知県人会が結成され,日本人社会は強固になっていくが,1924年(大正13)には排日移民法が制定され,日本人のアメリカ入国が禁止された。太平洋戦争に入ると,日系人は強制収容所に収容され,全財産を米国政府に没収された。
 終戦後,日系人は解放されたが,没収された財産は返還されず,日本人コミュニティーもばらばらな状態となった。
 現在,サクラメント,サンフランシスコなどに日本人が居住している。 2003年(平成15)より,佐織町から中学生等をサクラメント市他へ派遣する国際交流事業が始まり,合併後の愛西市でもこの事業を継続実施している。>

 また、別の説明文には、若山家の先祖である「若山角三郎」(私の祖父の兄)の名が確認された。

<愛西市域からの渡米の嚆矢は、1889(明治22)年の丸島コロンブスこと山田芳男の勧誘による山田鎌次郎ら11名の渡米とされる。多くの渡米者を輩出した旧佐織町域からの渡米の嚆矢は、1891(明治24)年見越(愛西市見越町)から高橋増右衛門と若山角三郎の二人である。彼らは横浜の伊藤平吉なる移民取扱人の斡旋によって渡米した。愛知県からの移民取扱人の斡旋による最初の渡米者でもあった。1893年になると、見越から他地域へも渡米現象が広がり、町方新田(町方町)から堀田鎌次郎、西川端新田(西川端町)から鬼頭助次郎が渡米している。『北米愛知県人誌』によれば、鬼頭助次郎が、渡米後僅かの期間で、数百円という大金を送金したといわれ、このことにより、当地域に渡米ブームが広がったといわれる。旧佐織町域からの渡米現象をみる限り、見越から始まったこの現象は、徐々に町方新田、西川端新田へ広がり、さらに当時の行政区であった藤浪村、草場村、川淵村全体へ浸透し、さらに勝幡村、諸古村へも広がり全町域を巻き込むにいたった。>

 堀田家は、若山角三郎の母らいの実家であった。角三郎や繁二と鎌次郎氏とは従兄同士である。鎌次郎氏の弟の鎌三郎氏の写真は沢山残されており、特に仲の良かった従兄と思われる。

上記、若山角三郎の文字をクリックしてください。一家の写真がご覧になれます。


 
サクラメントでの生活
 
農作業をする人々
 
 「サクラメントで百姓をやって、しばらく金を貯めたおとっさまは、妻を得るために日本に一時帰国して、隣町の唐臼(現在の津島市)から宇佐美家の照尾をサクラメントへ連れ帰った。これがおっかさまや。」

 
当時、夫婦での移民は許されていなかったので、皆いったん帰国して妻をめとった。
 祖母はとても良く働く人で、家事から畑仕事までをこなして、5人の男の子を育てたが、子どもがお腹にいる時も畑仕事を休まず、「子が背中に廻りゃぁしてなも(お腹の子どもが背中に廻った)」と私に話してくれたことがある。祖母はきれいな名古屋弁を死ぬまで使っていた。父のことは「繁雄さ」と呼び、次の弟は「國男さ」そして「富さ」「つねさ」末の弟だけを「五朗ちゃん」と呼んだ。父の事を弟達は「にいさま」と呼んだ。
 土地柄として、古くから浄土真宗が栄えて、「西の祇園、東の津島」と言われるほどであったが、祖母もとても信心深い人であった。父は幼いころからお寺にお経を習いに行ったと言う。その甲斐あって、父のお経は、お坊さんが舌を巻くほど上手かった。
 祖母は元気な人で、ほとんど病気と言う病気もせず、1984年1月6日、86歳で眠るように亡くなった。 
 祖父は若山家の八男。上の家系図を見ていただければお分かりになるとおり、10人兄弟で男が9人。今では考えられない程、子沢山である。祖父は私が4歳の時に74歳で、癌で亡くなった。ナイロンザイル事件没発の翌年1956年12月11日のことである。その死の前後の話に付いては、以後の章に送ることにする。
 祖父が亡くなった頃、まだ小さかった私に祖父の思い出は無い。父か母か定かではないが、聞いた話によると父同様たいへんな呑んべぇであったと言う。サクラメントで赤痢が大流行した時に、周りの人がバタバタと倒れ、祖母も感染する中、バ-ボンをがぶ飲みして「わしは殺菌しておるから赤痢などにはかからん」と豪語して、本当に感染しなかったことが自慢であったと言う。その時から若山家では酒は妙薬の考え方が強く、息子達には子どもの頃から酒を飲ませていた。もちろん祖母もたしなんだ。父がバッカスの異名を取るはずだと、私は思った。そして、私も無類のお酒好き。私は若山の血を大いに引いている。父はそれが自慢で、誰それの区別なく「あづみは酒が強くて」と言った。「お願いだから止めてよ、お父さん!恥ずかしい。。。」とよく言ったものだ。家族は母も姉もゲコだったので、父の晩酌のお供は、いつも私だった。強くなるのも当たり前。困ったものだ。しかし、父としては私の、それしか誉めるところが無かったのも事実だろう。
 ここで、右に掲載した写真の紹介をしたいと思う。これらの写真は、見越の若山家の跡取り、若山由利子さんからいただいた物である。父が亡くなる1年程前に、母を亡くした傷心の父を見舞った由利子さんが、5冊のアルバムを持参されて「とても私には管理できないから、もらってちょうだい」と持っていらっしゃたのだ。父はとても喜んで、1頁1頁食い入るように見ながら、当時の思い出話を懐かしそうに語ったのである。
 さて、そのお話とは…

 それを始めるためには、まずは父に生まれてもらわねばならない。

 


 
繁二 ヨセミテ国立公園への旅



父が生まれる前の、祖父のヨセミテへの旅は、
当時命がけの大冒険であった。
物凄い悪路を何日もかかって往復した。


 

第二話 芽生えの章

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 1918年1月25日

繁雄 誕生