昭和27年(1952年)

 1月10日
 父の経営する「ホダカ商会」は、前章までにも述べたように、母の采配で雇用していた二人の若者の手で進められていた。父は、磁気録音機・テレビ(いずれも一般に市販される以前)、陰極線オッシログラフを使用した各種測定機を自作した。また、独自の着想によるラジオの雑音防止装置の研究を進めていたが、技術的な困難にぶつかり中断している。
 右に掲載した指定書は<三重県の小売物価統計調査の価格報告者>に指定されたものだが、この前年から父は、恩師須賀先生からの名古屋大学学生部に就職する誘いに、迷っている。
 前年に掲載した親友の牛島氏からの手紙でも判るように、当時の国家公務員の事務職の給与は安く待遇も良いものではなかったようだ。牛島氏から名大学生部行きを反対された父は、須賀先生に「地元を離れる訳には行かないので、転職はできません」とお答えしていたようだ。地元岩稜会の会長として、住み慣れた場所で山に登っている方が良かったのであろう。
 
 2月17日 次女あづみ誕生
 この日は、例年にない大雪で、8ヶ月の未熟児で生まれた私は、寒さで見る見る青ざめ体温を失っていったという。父は小さな小さな私の身体の周りにいくつも湯たんぽを置いて温めた。私は血の気を取り戻し蘇生した。
 なぜ未熟児で生まれたかというと、母が妊娠5ヶ月の頃(逆算すると前年の10月か11月)冷たい愛知川を徒渉したためだということだが、よく考えてみれば、妊娠初期にも涸沢合宿に姉を連れて参加している。無事生まれたのが不思議なくらいだ。
 父は、私がお腹にいたころ「今度は絶対男だ。名前は穂高にする」と豪語していたが、生まれたら女だった。女だとは思ってもいなかったから名前も考えていなかった。「まぁ、〝あづみ”にしとけ」と言ったという。いい加減に付けられた名だが、私はけっこう気に入っている。
 幼い頃の私は、小さくてひ弱でよく泣いて困らせたらしい。デベソで、おへそが出ては痛くて泣いた。父はその頃出たての10円玉(ギザ十)でおへそを押えて、絆創膏で貼ったという。もちろん覚えている訳ではないが…ちなみに、物心つく頃にはデベソではなかった。いつ治ったのだろう。

 下の写真は、ホダカ商会での集合写真だ。
左後より 生後8ヵ月頃の私・母・祖母・父・富夫さん・憲ちゃん
前列右より 曽祖母・曽祖父・姉


       

 4月30日~5月3日 奥又白合宿
 岩稜会は、積雪期の明神五峰東壁の初登攀を終え、いよいよ前穂高岳北尾根四峰正面岩壁積雪期初登攀をねらう。明神での積雪期の経験から、厳冬期を避けて、4月から5月にかけての合宿となった。
 涸沢から四・五(前穂高四峰と五峰の間)のコル(鞍部)へテントを運び上げたが、コルの直下は急峻で、堅い雪に足場のための穴を掘って登った。

 5月2日
 登攀隊の中心人物石原氏が、合宿には参加したものの、腹痛のためアタックに参加できなかった。
 松田氏と高井氏は、四峰正面甲南ル-トの積雪期初登攀に成功する。


 5月3日
 父は、かねてより体力の減退を憂いていたし年のため、甲南ル-トの初登攀を機会に、第一線から引退することにした。登攀隊のリ-ダ-(チ-フリ-ダ-)は石原一郎氏(通称 部隊長)と決定した。
 石原氏は登攀技術も抜群であり、冷静沈着な判断力を持ち、なにより会員から絶大の信頼を得ていた。
 この日、前穂高北尾根五峰頂上で父の引退式(?)が行われて、一同で蛍の光を歌った。
 父が岩稜会を設立してから8年が経過していた。この8年間は、岩稜会員にとって、長いようで短い年月であったが、楽しい山行きの思い出多い日々であった。

 父が引退を決意する理由の一つとして、『屏風岩登攀記』の中でこう語っている。該当部分を転記する。

 岩登りの醍醐味は、なににもまさる素晴らしさである。その思い出は常に新鮮で大きな満足感をもって胸の中に繰り返しよみがえってくる。しかし、その素晴らしい岩登りも、自己の技術の極限に達し、生命の危険を感じるようになったとき、その瞬間から喜びは底知れぬ恐怖に変る。
 かのマッターホルンを初登攀したウィンパーはアルプス登攀記の中で、エクランの頂上に立った時、突然襲った恐怖の感情を率直に述べている。
 毎シーズン明神岳に取り組んでいた当時、岩稜会の中には岩登りの素質が松田に劣らないと思われる者が一人二人はいた。しかし彼らはアタックメンバーに加わることを拒み、むしろ地味なボッカ(荷物運搬)などを選んだ。
 生命の恐怖という感情が人間に作用する大きさは、その人その人によって差があるであろう。またその気持ちを最終的に処理するのは本人しかない。誰しもそれに介入することはできない。その気持ちは限りなく尊重されなくてはならないと思う。もしもそこに強制的なものがあったりしたならば、そのグループは人間性を失ったものになるであろう。またそのグループから遭難防止のための真剣な努力が薄れたときも、そのグループは同様な現象を示すにちがいない。
 そのグループが登山グループとして本物かどうかという評価は、グループの技術的なレベルよりも、さきに述べたような登山に対する心構えと、グループ間の人間関係によって決定される、と私は確信している。

 父は、屏風岩攻略の昭和21年10月6日、B10ブッシュの先端で武藤氏が落ちて自分も意識不明となり九死に一生を得た時、また、初登攀時にAフェ-スで力尽きて滑落し救援を待つことになった時、恐怖という感情が父をとらえた。そして、どう頑張っても老いの力不足には太刀打ちできず、この後、岩稜会の会長として働くことを決意する。会としてが無理ならば、一人でも夢にまで見たヒマラヤの頂上に立たせたいと思ったのだった。
 余談だが、私もこの恐怖の感情を味わったことがある。中学1年の時、御在所の藤内壁に連れて行かれ、しっかりとアンザイレンした上で、どのル-トだったか忘れたが、岩を登った。登っている時は夢中で、とにかく上がっていったが、さて、頂上で最後の岩棚に上がりホッと一息ついて下を見た時、ガタガタと震えて一歩も動くことができなくなってしまった。そのせいかどうか判らないが、中年になってから高所恐怖症になってしまい、父の研究所の鉄塔のてっぺんでも立っていることができなくなってしまった。バッカスの娘が情けない話である。
 3月1日
 岩稜会の新井・今井・岩佐・毛塚・澤田・寺尾・中道・三林の各氏が、神戸高校より表彰を受ける。
 国体山岳部門での活躍を表するものである。
 5月13日
 昭和21年からの三重県山岳界への貢献が認められ、三重県体育協会より表彰される。
 昭和25年の頁に『ザイルに導かれて』からの国体部分の引用をしたが、そこでも書かれている通り、父はこの表彰にはあまり感激しなかったようだ。
 7月20日~30日 北穂高合宿
 父をはじめ18名が参加したこの合宿では、23日~24日に滝谷クラック尾根、25日に前穂高北尾根・ジャンダルム・涸沢岳、26日には奥又白池に行ったが、その後ドシャ降りのため、北穂小屋に避難した。
 10月19日~23日 第7回国体 鳥海山(父不参加)
 11月
 父は、とうとう名大学生部に転職することになる。
 晩年、父はその時のことを振り返ってこう語った。「須賀先生には、お断りしたはずだったが、どういう訳か、学生部に籍を置くことになっていたんだよ」
 須賀先生は、父を手元に置きたかったこともあるだろうが、優秀な父が一生電気屋のオヤジで終わることを憂いたのでもあった。また、この年の4月には日米安全保障条約が発効され、各大学で反対デモが行われ、火炎ビンを使用しての破壊活動なども行われた。須賀先生は、学生に近い気持ちを持つ父を学生部に入れることで、名大の過激派の学生たちとの話合いにも役立つと考えられたようだ。
 鈴鹿の家の者は皆、名古屋で就職することを嫌った。寂しくなると言うこともあるだろうが、石岡家跡継ぎの父が名古屋に行ったきり鈴鹿に帰って来なくなるのではないかと心配したのだ。そこでしばらくはお試し期間ではないが、名古屋まで通って様子をみることになる。
 この年、東京製綱は国産初の合繊ザイルの生産を開始する。このことが、後にナイロンザイル事件へと発展するので、一応記すことにする。 

新登攀リ-ダ-を得た岩稜会と、新しい職に就いた父は…
昭和28年へと続く…



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2015年3月18日記