昭和28年(1953年)

 当時の名古屋大学学生部は、名城キャンパスにあった。
 名城キャンパスは昭和23年(1948年)に名古屋城の二の丸にあった旧陸軍歩兵第6連隊兵舎跡に造られた。現在の愛知県体育館がある場所である。
 そこには、大学本部と図書館、文学部・法経学部・教育学部があった。
 父は、近畿日本鉄道(近鉄)の
伊勢神戸(いせかんべ)駅(現在の鈴鹿市駅)からこの鉄道を利用し、伊勢若松乗換で名古屋まで通っていた。通勤には当時片道2時間以上はかかったと思われる。
 この1年間に、新しい勤務先のことが判る資料は残されていない。
 電気屋の店主として、自由な時間を過ごしてきた父にとって、最初の1年は、始めての長距離通勤と、慣れない宮仕えで苦労したことと思われる。
 「ホダカ商会」は、しばらく母が切り盛りしていたが、数か月で閉店したと言うことだ。
 通勤があまりにも大変なので、鈴鹿の両親の反対を押し切って名古屋に家を持つことに決めた。しかし、土地を購入することは許されず、借地に家を建てることになる。
 当時、須賀先生が顧問をしていた金城学院大学山岳部のコ-チを引き受けることになったのもこの年だった。
 1月1日~4日 五竜岳合宿
 新リ-ダ-による初めての合宿が行われた。父は参加していない。(『屏風岩登攀記』によると、合宿不参加の初めての年は昭和29年暮から30年にかけての奥又白合宿であるとされているが、この時が最初である)
 神城ヒュッテで一泊して深雪をラッセルしながら五竜岳を目指すが、遠見尾根の辺りでホワイトアウト(濃霧や吹雪のために視界が効かなくなる状態。地面と空の境界がわからなくなるので、空間を漂っているような気分になる。ルートを間違えたり、雪庇を踏み抜くなど危険が大きい)の現象にぶつかり、危険を感じて引き返した。
 5月3日
 三重県松坂市の香肌峡の宮ノ谷に千丈壁というものすごい岩場があるというので、父以下鈴鹿在住の岩稜会精鋭部隊6名で出かけた。話とは違いブッシュ交りの壁の側面を簡単に登った。
 8月1日~5日 北穂高合宿
 この合宿から、石原一郎氏の弟國利氏が岩稜会員として参加する。これまでにも何度か一緒に登った國利氏であるが、氏は在学中の中央大学の山岳部には入らず、岩稜会の一員となった。
 また、この時の合宿には、三重大学の学生になった父の弟の若山五朗と、母と姉、親戚の和ちゃんも同行している。五郎叔父はこの時、三重大学山岳部に属しており、澤田氏も部員であったため、三重大山岳部員が何名か参加している。
 快晴に恵まれた登攀はいずれも成功しており、石原國利氏や澤田榮介氏ら、新しいクライマ-の時代を思わせる合宿であった。


 8月2日
 ☆滝谷第二尾根
  石原(國)・澤田・高原(三重大)の各氏。
 ☆滝谷第三尾根
  澤田・南川(三重大)・毛利(三重大)、各氏。
北穂小屋前にて
後列左より 新井氏・?・北穂小屋主小山氏・石原一郎氏(部隊長)・石原國利氏(國ちゃん)
前列左より 伊藤氏(社長)・姉・父(バッカス)・中道氏・?・?
涸沢カ-ルから北穂へ 前穂高をバックに
 
 
 右より 和ちゃん・母・姉・?
 
   
 8月3日
 ☆滝谷第一尾根と滝谷クラック尾根
  澤田氏・平沢氏。
 ☆滝谷ド-ム中央稜
  石原(國)氏・松田(法政大)氏。
 ☆滝谷第二尾根
  中道氏・伊藤氏・父・梓。
  この時、姉は8歳であった。滝谷登攀の最年少記録として、8月13日の読売新聞に載った。
 滝谷第二尾根にて
 前より 姉・石原一郎氏・伊藤氏 
 涸沢小屋前にて 
 左より 父・姉・中道氏

 8月20日
 日本山岳会発行「山岳48号」に金坂一郎氏著の<確保理論>が掲載された。
 ナイロンザイル事件と関わり合いのある資料なので、ここに掲載する。

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 この年の父不参加の岩稜会の行動をまとめておく。
 8月7日~10日 木曽駒ヶ岳にて国体予選
 9月24日~29日 岳沢からコブの頭へ冬期合宿用荷上げ
 10月24日~28日 第8回国体 四国、石鎚山
 12月24日~29年1月6日 コブ尾根合宿

昭和29年へと続く…



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2015年3月21日記