第四話 セピアの章  石岡家の人々       2013年5月19日起

 



 父が浪人中に下宿し、後に生涯の伴侶となる母敏子が育った石岡家の先祖について、父が1978年(昭和53年)に調べた結果を基に記すことにしよう。
 この時、母の父、正一の23回忌の法要が行われたが、先祖の事が判明したので、正一と先祖代々の法要を兼ねての法事となり、父は親族一同にその結果を報告した。
 父はこの少し前から鈴鹿の家の母屋の二階の整理をしたが、物置き状態の部屋の中から、古文書などを多数発見した。その中に、上の肖像画なども含まれており、墓に記載されていた没年などを調べて、親戚の長老「前葉岩吉」から先祖の話を聞きとった。それまで、石岡家の先祖については、語られることもなく、祖母志ず、すらも知らなかった。
 文化、文政時代(1808年~1818年頃)に塩浜に住んでいた前葉家より前葉の弟庄兵衛が、須賀の「岡田とき」と結婚し分家して三重県鈴鹿市神戸河町に居を構えて「石田庄兵衛」と名乗った。商号を「塩浜屋」と言った。「石田」と言う苗字が使われることはほとんどなく「塩浜屋庄兵衛」として、名を成した。職業は小作人を擁する庄屋。ひちやなどの金融業。
 父の調べた文献によると、「庄治郎」と言う名が頻繁に出て来る。庄兵衛の息子で、早くに亡くなってしまったのではないかと思われる。発見された古文書の「嘉永2年(1849年)正月新刻、続二十四孝絵抄」と言う本の裏に「神戸川町、石岡庄治郎侍主」とあるし、九九の書かれた本には「塩浜屋庄兵衛 倅庄治郎」とある。
また、「石田」と言う苗字がいつ「石岡」に変わったのかはなぞである。
 庄兵衛・ときの間に、他に子どもが出来なかったため、前葉平エ門の弟を養子として迎えた。石岡家二代目の「庄平」である。もらわれた時、庄平は5歳で、そのことを知らなかったが、後年オニオー祭(現在の石取祭のことではないか)の時に聞いて知った。庄平は親孝行で、外出する時に、父親が「高下駄をはいて行きなさい。」と言い、母親が「草履で。」と言うと片方ずつ履いて行ったそうである。本多侯から親孝行の褒美(金一封)をもらった。また、倉庫(兵器庫)を拝領した。(郷土史に記載有) この倉庫は戦後の農地改革で石岡家が没落した時に、桑名の方に買い取っていただき、現在は石垣のみを残している。
 ここまでは史実であるが、これは前葉のおじさんのお話。
 庄平が朝早く起きて道に出たら、真新しい牛のワラジ(昔農作業の後に長く田に浸かっていた牛の蹄が軟らかくなり歩けなくなるので、帰りはワラジを履かせた)が落ちていた。縁起が良いので、それを拾って帰って、文庫倉の二階に、天秤と共に吊るして祭った。石岡家は繁栄した。
 庄平は神戸の紺叉から嫁(じう?)をもらって徳太郎と言う子が生まれたが、3歳の時に亡くなった。その後「じう(文久3年5月釋妙宜死す。と墓石に彫られていた。この人ではないか)」が亡くなり、須賀の松岡から後妻に「ふじ」をもらった。ふじは当時19歳で再婚であった。
 庄平夫婦は、四人の子を持った。長女の「ひな」は三重県立高女の第一回卒業生で、親孝行であった。庄平が結核で寝たきりになった時、手首に紐を結んで布団を並べて寝て、夜中でも父親の要求に答えたと言う。庄平が亡くなると、埼玉県入間郡入間川村の医者、舞田家に嫁いだが、父親の病気がうつっており、19歳で亡くなった。そのことから、母親のふじは医者嫌い・学問嫌いになってしまった。
 さて、そのふじだが、19歳の時に9歳年上の庄平の妻となり、39歳の時に夫を亡くした。ふじはその後しばらく松岡姓を名乗っていた。庄平が亡くなった次の年には最愛の娘ひなを亡くした。その翌年に娘のために墓を建てた。当時ふじ41歳。二女いく14歳。長男庄之助11歳。二男文三郎10歳であった。その後、女手一つで子どもを育てた、たいへんなやり手ばあさんであった。その時代に髪を散切りにしていたため、「ザンギリばあさん」と呼ばれていた。  現在の家は明治27年~35年にかけて建てられた物だが、その采配も振るっていた。できかけの家の中に正座でピシッと座り、職人達に激を飛ばしていたと言う。上記の写真を参照されたい。
 三代目の「庄之助」は、お坊ちゃん育ちでとても気の良い人であった。誰かれの差なく親切にして、小作人達からも愛された。絵画や書などの古美術を集めたが、「旦那さん、良い物が手に入りましたが。」と言って古美術商が持ってくるビックネ-ムの物を真偽も確かめずに購入した。それで、家には掛軸だけでも100本以上有ったが、ことごとく偽物であった。これも、後年父が調べて判明したことである。囲碁が趣味であり、よく父と打っていた。
 庄之助の妻の「ふみ」は、伊能の大井家から嫁いだが、大井家は大そうな金持ちで、その嫁入り道具は卓越していた。ふみは料理を作ることが好きで、器にも凝った。輪島に出掛けて、形や絵柄を指定して作らせたり、九谷の焼き物をセットで作らせたりした。これらの物は、大事にしまい込まれていて、父が亡くなった後、私が発見した時は埃をかぶって絵柄さえ分からない程であった。綺麗に洗って現れた百人一首の絵や、きらびやかな六歌仙の描かれた九谷焼の七つ道具などに目を見張った。誰かが使わなければ道具も浮かばれぬと思い、来客の時などに有り難く使わせてもらっている。
 ふみは、生きた鰻をさばいて、かば焼きを作って振る舞っり、何十人分もの料理を作って持て成したりするのが好きであった。また、三味線を弾いて長唄を趣味とした。
 ふみは1957年(昭和32年)頃から脳卒中で寝たきりとなった。庄之助は離れの隠居家にふみを寝かせて、2年間一人で面倒をみて、誰にもふみの面倒をみさせなかった。そして、1959年(昭和34年)8月20日に、ふみが79歳で亡くなった後、庄之助はたった5日間で後を追うように尿毒症で亡くなった。享年81歳であった。いかに妻を愛していたかが、うかがわれる。
 庄之助おじいちゃんは私にとって、ただ一人覚えているご先祖さまで、鈴鹿を訪れると、夏ならばカキ氷を、冬ならばうどんを、隣のうどん屋さんに行って買って来ては食べさせてくれた。裏の隠居家から、母屋のタタキを通ってやって来る大きいおじいちゃんの下駄の音が、今でも聞こえてくるような気がする。
 二人の間には女の子ばかり7人が生まれて、男の子を待ち望み、8人目にやっと長男が生まれたが、三日で死んでしまった。二人の嘆きはいか程であったか。それで諦めてしまい、石岡家の女系家族の始まりとなった。
 その頃の石岡家は栄華を極めており、鈴鹿市の神戸の辺りから平田町(鈴鹿サ-キットの辺り)までの膨大な農地を持ち、小作人を沢山抱えていた。家には米用の蔵があり秋になると大八車に米俵を積んだ小作人達が列をなしたと言う。使用人の数も多く、例えば子ども達は全て子守に育てられたが、長女志ずと二女のぶ、三女光子までを気の強いしっかり者の子守が育てて、下の四女寿子と六女秀子を優しくおとなしい子守が育てたと言う。その性格を引き継いで、祖母志ずは長女と言うこともあり、恐ろしく気が強くて勝気な人に育った。ザンギリ婆さんの遺伝ばかりではなく、育てた人にもよるのだと思う。
 石岡家は、神戸で一・二を争う名家であったので、子ども達はそれぞれに女学校に通った。志ずは四日市高女に往復4里(約16k)の道のりを歩いて通学していた。その時の様子を祖母は小学校の頃の私にこう語った。
 「寒い雪の日でも朝真っ暗なうちに家を出て、休まずに歩いて通ったもんや。そやから今でも丈夫なん。寿子は神戸で初めての女の自転車乗りで、評判になったんやが、足が弱おうてかなわんわ。」
 とにかく何に付け、自分が一番でないと気が済まないような人であった。
 右の写真に入れたが、祖母も人並みに「宝塚歌劇」や相撲取りの「双葉山」に憧れたようである。その証拠にプロマイドが大事にアルバムに貼られていた。
 1928年(昭和3年)23歳になった志ずは、石岡文三郎(庄之助の弟)の長男「正一」を養子に迎えて結婚する。従兄同士の結婚であり、志ずは大いに嫌がったが、家を守るためと言い含められての結婚であった。
 庄之助の弟文三郎は、松阪の藤村家から妻を娶ったが、昭和2年5月までは、庄之助の戸籍に家族ぐるみ入っていたが、この月の19日に神戸2丁目9へ分家して、呉服店を営んだ。息子正一が養子に入ったからだと思われる。
 正一は、山口高等商業学校(現在の山口大学経済学部)で学び、東海銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)へ入社した。
 テニスと野球をして、マンドリンも上手かった。そのマンドリンは今でも残っている。年配になってからは小唄も嗜んだ。
 姉と私は「銀行のおじいちゃん」と呼んでいた。粋でダンディーで、優しい大好きな祖父であった。
 正一と志ずの間には直ぐに一人娘の「敏子」が生まれたが、その結婚生活は驚嘆すべきものであった。
 祖父の給料は生涯一銭も家には入れられなかった。石岡は養子婿から金をもらってはならない。と言う家訓があったからだ。
 母が小さい頃に祖父は東海銀行名古屋本店勤務になり、名古屋市千種区坂下町に一軒家を借りて、そこで3人で暮らしたが、その時の家計費なども全て実家から出ていた。米や味噌などは送って来た。祖母は毎日20円(現在の4~5万円)持って、乳母車に母を乗せて松坂屋デパ-トに出掛け、母を店員に預けて買い物をして、帰りは母の手を引いて、乳母車に満載の荷物を乗せて帰ったと言う。生涯、買い物の好きな人であったので、私も少なからぬ恩恵を受けた。
 祖母は食事の用意が苦手であったため、祖父はほとんど食事を作ってもらったことが無かった。仕事が忙しくて夕食は外で食べて帰った。朝食は自分でご飯をよそって、卵かけご飯を食べて出掛けた。
 母は遠足の時の弁当も満足に作ってもらえなかった。ある時、遠足に缶詰を持たされて、その頃は貴重品の缶詰に同級生が羨ましがって「私のおかずと取り替えて」と集まり、母は喜んで家庭の味を味わったと言う。「私の時のようなみじめな思いはさせたくない。」と、母は料理上手な人になった。私の遠足の時などは、「友達と一緒に食べなさい。」と、例えばサンドイッチとアゲ寿司と言うように2種類も作ってくれた。3人前以上はあり、クラスメ-トに配ったものだ。
 祖父は、遊ぶ人ではなかったので、給料のほとんどを株券に変えていた。このことは、祖父が亡くなってから、分かったことである。それは全て祖母の財産となった。その時から、祖母は祖父の写真を部屋に飾るようになった。
 お話を前に戻そう。二人目の子を胞状奇胎で流産した祖母は、「従兄同士の結婚だから、子どもに悪影響を与える。」と言って、二度と子どもは作らなかった。そして、教育ママゴンになった。母は、体の弱い人であったので、祖母は体を鍛える、と言う名目で、小さい頃から日本舞踊・バレー・タップダンスを習わせ、お稽古にも付いて行って自分も覚えて、帰宅後、復習させ、血のにじむ母の足を風呂で丁寧に揉みほぐした。
 母が学校に上がるようになると、学校にも付いて行き、窓の外から授業を聞いて帰り、母に勉強を教えたと言う。これらのことは全て母から聞いた話だ。
 「おばあちゃんがあまり厳しいから、お母さんは腹が立って、ある時おばあちゃんの一番大事にしていた着物を持ち出して、ハサミで切ってやろうと思ったの。でもハサミを着物のところまで持って行って、どうしても切る勇気が出なかった。」
 母は少し寂しそうな目をしてそう語った。
 そんな、とんでもない悪妻と思われる祖母だが、頭の良い人で、政治・経済に興味があり、新聞を隅から隅まで読んで、テレビの時事放談などを好み、政治の話が止まらず、そのくせ<巨人・大鵬・卵焼き>の人であった。巨人戦のある日と、相撲のある日はテレビの前から決して動かず応援して、ごひいきが勝つと力一杯拍手した。その音で、「ああ、今日も巨人が勝ったんだな。」と分かる程であった。
 
経済の勉強もし、祖父が残した株を増やして、「配当金が入ったからなぁ。」と言っては、買い物に行った。その株は、相続のために、贈与税がかからぬ程度にせっせと子どもや孫に分けていた。それらの株も、そのうち父の研究資金として消えて行ったのだが。
  
 
さて、1935年(昭和10年)に石岡宅に下宿した父は…

 
石岡家系図

黄色塗りつぶしは直系です

-系図の上でクリックしていただきますと
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1978年(昭和53年)3月30日に行われた
石岡正一の23回忌と先祖の法要



 
発見された古文書



 
 
石岡家と、その縁の人々



 
結婚前の祖母 石岡志ずの写真



 
結婚前の祖父 石岡正一の写真



この写真の貼ってあったアルバムには
全て英語でコメントが記されていた

 
母敏子の幼少期



 
母敏子の踊り



 




 

第五話 (おさな)さくらの章

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