第五話 幼さくらの章






 

 坂下町の2階に下宿した父は、どうやら1年間は猛勉強をしたようだ。その証拠に、写真はほとんど残っていない。特に英語が苦手で、最後には覚え終わったところから辞書を食べたと言うが、それは嘘かまことか?
 その間に、祖母志ずの大進撃が始まる。祖母は、自分が親戚同士の結婚で、憂き目を見たため、石岡家に新しい血を入れたいと思っていた。そこへ、秀才の父が現れた。これ幸いと白羽の矢を立てた訳だ。たった7歳の娘の婿を決めてしまう!昔はよくあった話だろうが、恐ろしい執念である。父が猛勉強をしている間に、見越の若山家の長男と言う立場にあった父を婿養子として貰い受ける話をつけてしまった。私は父が良く承知したなぁ、と思って晩年の父に聞いてみたことがある。
 「わしは、生まれて初めて母親以外の女の子を見たので、この人しかいないと心に決めてしまったんだよ」と、気恥ずかしそうに語った。運命の赤い糸と言ったところか。
 しかし、今でも私は家同士の結婚ではなかったのかと思っている。当時は大店で古い家柄の石岡家の一人娘と、若山家の長男が一緒になる。若山家には男ばかり5人だし、二男も父と同等に優秀な子である。まぁ、一人出しても損はあるまい。と言うようなことになったのではないか?下衆の勘繰りかも知れないが…
 それはさて置き、めでたく二人は許婚となった。
 そして、父は第八高等学校文科甲二類に合格した。


浪人中、下宿した当時の父と、祖母、母


 

香良洲(からす)の海岸散歩する 繁雄、敏子の二人連れ
 敏子は まだまだ小さかった 結婚するには早かった
 共に語るもこれからだ 共に歩くもこれからだ♪♪

 右の写真に写っている香良洲の海岸(三重県津市)を散歩する幼い日の父母の写真を、鈴鹿にいらっしゃるお客様にお見せしては、「寛一お宮」の歌の節で唄う、晩年の私としては恥ずかしい父であった。
 父18歳、母8歳。八高入学後、友達に誘われて海水浴に出かけた時の写真である。

 祖母が強引に決めてしまった婚約者ではあったが、父は母を妹のように可愛がり、母も「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕った。
体の弱い母に体力を付させるためと言って、父の山登りについて歩かせたのも祖母であった。
 「敏子は、お兄ちゃんのお嫁さんになるのだから、何でも言うことを聞いて、お兄ちゃんに好かれるようにしなあかんのよ」と、言って聞かせた。母は従順にそれに従った。
 八高からの父のお話は、次の章に送ることにして、数少ない母の乙女時代の写真を紹介しよう。
 上の写真がそうであるが、とにかく父と共に写っているもの、山の写真が圧倒的に多い。母がいかに従順に父と、そして祖母に従ったかがうかがい知れる。幼くて可愛い母は、友達と遊ぶこともほとんどなく、言われるままに、生きていた訳である。
 
1936年(昭和11年) 8月30日
三重県津市 香良洲海岸にて



 母は、昭和3年8月8日に鈴鹿市神戸の家で生まれて、祖父の東海銀行名古屋滝子支店の支店長就任と共に移住し、数々のお稽古事をこなしつつ、名古屋市丸田尋常小学校へ入学する。小学校3年の時から6年まで級長を勤めている。前章に書いたように、祖母のスパルタ教育のお陰である。
 その後、昭和17年に名古屋市立第一高等女学校(現在の名古屋市立菊里高等学校)に入学するが、昭和14年に始まった第二次世界大戦の影響で、父もこの年の9月に名古屋帝国大学を繰り上げ卒業となり、海軍に入隊し、四日市燃料廠に配属となったため、鈴鹿に帰り、四日市市立高等女学校(現在の三重県立四日市高等学校)に編入する。その後、ますます戦火が激しくなり、鈴鹿市立高等女学校(現在の三重県立白子高等学校)に編入する頃には、父と結婚することになるのである。時に昭和19年9月23日のことであった。

<母の学校時代>

 
 
 母の山行きは、父に誘われるまま、多度や定光寺へのハイキングに始まり、父の登山技術の上達と共に、御在所の岩場や積雪期へとエスカレ-トして行った。ほとんどの場合祖母も同行して、岩場をよじ登る母を下から双眼鏡で見ていたと言うのだから恐ろしい。
 そして、とうとう昭和16年8月8日、北アルプス槍ヶ岳、小槍の岩壁を制覇した!当時の新聞にこう書かれている。


8月27日朝日新聞
「小槍の絶頂で少女の誕生祝い」
わずか13歳の少女が小槍の絶頂で心身鍛錬の時局下にふさわしい誕生日祝い―名古屋市千種区坂下町石岡正一氏令嬢敏子さん(13)=市立第一高女1年生=は母堂静子
(祖母はこの頃自分の名前をこう書いていた)夫人及び義兄姉等5名と共に去る23日槍ヶ岳へ登山、肩の小屋へ1泊のうへ翌24日は敏子さんの誕生日と言うので誕生祝いを小槍の頂上で行うこととなり、ガイド浅川勇夫君の案内で無事頂上を極め、本年度の女子小槍登攀の最年少の記録を作り誕生祝いをした。なお敏子さんは昨年も槍・穂高の縦走を行うなど、山への種々の記録をもっている。

8月29日名古屋新聞
「名残の小槍征服 13少女の記録登攀」
山に鍛える夏も終わり近く今シ-ズンの北ア俊峰に年商登反射の記録が刻まれた―これは名古屋市千種区坂下町石岡正一と礼状敏子さん(13)市立第一高女1年生=で、去る23日得母さん静子夫人はじめ義兄姉5名と槍ヶ岳に登山、肩の小屋に1泊し、篤実ガイド浅川勇夫君の導きで小槍の頂上を極めたが、この日は13回の誕生日にあたり、また小槍本年度登頂の女子最年少記録を樹立したものであった。
 敏子さんは幼年より登山に伴われ昨夏は槍・穂高を縦走しその健脚ぶりに山男らを驚かせた。

 また、昭和17年7月25日には、滝谷を制覇した。

8月2日朝日新聞
 「15歳の制服の少女 滝谷のロック・クライミングに成功」
 上高地の主、嘉門次がまだ生存していた頃「鳥でも困難だろう」と言い、その後早大山岳部が初めて登攀したが、登山専門家のみが登る北アルプス穂高岳のうち険難随一と称されている滝谷のロック・クライミングに僅か15歳の制服の乙女が成功、今年の夏山の話題となっている―この乙女こそ名古屋千種区坂下町2ノ34名古屋市立第一高女2年生石岡敏子さん(15)で、敏子さんは暑中休暇を利用して去月25日従兄の名帝大医学部3年生同大学山岳部員若山繁雄君(25)の指導で25日上高地に入り男子にも困難とされている前穂高の第一峰から第五峰を縦走、さらに難関滝谷の岩登りに成功、同31日朝帰名したものである。敏子さんは幼い頃虚弱だったので東海銀行勤務正一氏(42)静子さん(35)の両親が医者の薦めで登山で身体を強靭にしようと当時八高山岳部の若山君に山登りの指導を依頼、僅か9歳の身で槍ヶ岳征服に成功したのをはじめ、10歳の時は白馬岳と北アルプスの高峰を次々に征服、今では北アルプスなら登らぬ山はないと言う。去年からは御在所岳でロック・クライミングを練習し、昨夏は小槍を、今年はアルピニスト憧れの滝谷に挑んで見事成功したものである。
 敏子さんは円らな瞳を輝かせて山について語る
 私は山の雄大さにいちばん心がひかれています。山登りは辛い思いしてこそ頂上にたどり着いた時の嬉しさといったらありません。今度の滝谷のロック・クライミングもあそこは自然落石が多いので足がグラグラしましたが、成功した時は今まで味わったことがない嬉しさを感じました。

 上の新聞記事の中には間違いがある。もちろんお気付きと思うが、父は従兄ではない。まさか婚約者とは言えずに、そう言うことにしたのだろう。医学部ではなく工学部の学生であった間違いは、単に新聞記者が間違ったのだ。
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 父母共にスキーもやったが、二人とも、からっきしダメだった。父はスキーを深い雪道を登る時に使う道具だと思っていた程の山男だったし、軽快な運動神経と言うものがない。それでも母をスキーに連れて行った。小学校の時に母が乗鞍でスキーをしていると物凄く上手い男の子が滑って来て横にシャッと止まって「リック上げ、リック上げ!」と言って笑った。どう言う意味かと言うと<リュックを上げろ=お尻を上げろ>と言うことで、尻持ちばかりついている母をからかったのである。その子が後に日本人として初めて冬季オリンピックのメダリストとなる猪谷千春選手であった。
 そうして母は育ち、父と結婚したのだった。

 さて、お話を元に戻して…父の八高時代へと突入することにしよう。



<母と登山>




<母とロック・クライミング>
-これぞまさしく岸壁の母ならぬ 岩壁の母-




<母とスキー>









第六話 青葉の章

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