大文豪「井上靖先生」関係の イベント2つのご報告

『父 井上靖と私』浦城いくよ様 出版記念パ-ティ-



2016年7月23日(土) 11:30-14:00
東京都港区六本木「国際文化会館B1樺山・松本ル-ム」にて

 今年、5月のある日、突然井上靖先生の長女、浦城いくよさんから『父井上靖と私』と題した1冊の本が届きました。中には丁寧な手紙が添えられていて、「7月23日に出版祝賀会を出版社がやってくれることになったので、よろしければお越しください」と書かれていました。びっくりするとともに、とても嬉しく思い、その晩から送っていただいた本を読ませていただきました。
 この本は、いくよさん宛にモスクワで書かれたお父様の手紙が、出されないまま35年間も資料の間に埋もれていて、その発見で、この本を執筆なさる決心をされたことから始まります。そして「子供の頃に住んだ家」「世田谷の家に移って」「祖父母と父母」「父の趣味 交友」「旅の思い出」「父の作品にまつわる思い出」と続きます。
 その中で印象的だったのは、『氷壁』の大ヒットで世田谷に300坪の豪邸を建てられて、以後長くその家にお住いになられましたが、井上先生亡きあと、先生の小説『わが母の記』の映画化(2012年公開。監督・脚本:原田眞人氏。キャスト:役所広司-井上先生役、樹木希林-井上先生の母役、宮崎あおい-井上先生の三女役等)の際に、実際の世田谷の家を使用して映画が撮られた時の様子が記されていたことです。実は私には夢があります。鈴鹿の築120年になる旧家を利用して、父の数奇な一生を綴った映画かドラマを、どこかで作っていただきたい、という夢です。その夢のように、井上家を使用しての映画撮影は、ほんとうに羨ましく思いました。井上先生と父とでは、雲泥の差があり、夢のまた夢なのですが。
 「父の作品にまつわる思い出」の中の一番最初には、<穂高へ登る『氷壁』>という文があります。ここには、石原國利さんも、父も登場して、ちょっと気恥ずかしいように感じました。
 そして、もう一つ。井上家の代々の猫の名前は、井上先生がお付けになった「チョマ」だったということでした。なんと!父の実家、若山家でも代々の猫の名は「チョマ」で、名古屋の家で私が幼い頃に飼っていた猫にも、父がその名を付けました。何か意味があるのですかと、いくよさんにお聞きしてみましたが、「判らない」とのことでした。偶然の一致でしょうか?
 7月に入って、出版社から「出版祝賀パ-ティ-」の案内状が届きました。往復葉書には、「御招待」と言う赤字の印が押されていました。私は一も二もなく、「出席」に○を付けて出しました。東京に行くのは、数年ぶりだったので、東京方面にいる親友の家と、2年前に仕事を変わって川崎市に居る次男の家にそれぞれ泊まることにして、7月21日に鈴鹿を発ちました。そして、いよいよ出版祝賀パ-ティ-の日…
7月23日(土)

南青山在住の中学時代からの親友トコ(石井豊子)に送ってもらい会場に到着


国際文化会館B1の会場前に集われた皆様


受付が始まりました


11:30

パ-ティ-の始まりです。司会は女優の白石奈緒美氏。
皆様からの祝辞。

写真は、元矢野経済研究所代表取締役副会長矢野弾氏。
岩稜会の黒田吟哉さんとご一緒に、井上先生が開かれた会に出席されて
先生のお作りになった替え歌の歌詞で、黒田さんが歌を歌われたことなど話されて、ビックリでした。
そういえば父は、矢野経済研究所とはご縁がありました。

いつもは写真班の水野さん・立岡さんがいらっしゃるので、
写真を撮ることを忘れていた私は、あわててシャッタ-を切りました。


桜美林大学教授 勝呂奏氏


ユ-フォ-ブックス株式会社代表取締役
難波多津子氏


女優の栗原小巻氏

少し遅れて来られた栗原さんは、壁のシミをやっていた私の真ん前に立たれて、しばらく祝辞をお聞きになった後
ご指名で祝辞を述べられました。そのお綺麗なこと!
『父 井上靖と私』の中の一節を朗読されましたが、さすが女優さん‼と言った感じでした。


『父 井上靖と私』の筆者、浦城いくよ氏

とうとうと、執筆までの経緯や感謝の言葉を述べられて…

乾杯の後、前半が終了して歓談となりました。


歓談になると、栗原さんと写真を撮らせていただく方々が何人も来られました。私ももちろん撮っていただいたのですが、残念ながら写真はありません。

真後ろにいた私は、背後霊のようにどの写真にも写っていることでしょう。

人々に押されて、栗原さんは机の上にあったジュ-スをこぼしてしまわれ、私の前はびしょぬれ。
ティシュを出されて「ごめんなさい。大丈夫でしたか」と私のスカ-トを拭いてくださいました。ほとんど濡れていなかったのだけど( *´艸`)

写真は、右より、井上修一氏(井上靖先生ご長男)・
栗原小巻氏・井上甫壬氏(修一氏夫人読みはふみ)


モンゴル大使 ソドブシャムツ・フレルバ-タル氏

遅れて到着された大使の祝辞は、「井上先生の『蒼き狼』の映画化の実現に奔走しましたが、国の方針により成就しませんでした。是非もう一度チャレンジしたいので、ご協力をお願いします」と、上手な日本語で熱弁を振るわれました。


脚本家 高田宏治氏

司会の白石さんのご紹介は、「高田様は『極道の妻たち』シリ-ズや、『仁義なき戦い』を手掛けられた、偉大な脚本家でいらっしゃいます」
お話しも次回作のことを意欲的に
話していらっしゃいました。


ごめんなさい。
お名前を聞き漏らしてしまいました((+_+)) 
 

福沢諭吉先生のお孫さん
(この方のお名前も聞き漏らしてしまいました)

ユ-フォ-ブックスの難波さんと親しく、「お酒の好きだった難波さんが呑まれると、私をお呼びになり、運転手をしておりました」とお話しになり笑いを誘いました。
 

小野寺苓氏
いくよさんのご親友で詩人
『心の旅 井上靖紀行』の著者


中国 湖南大学日本語講師
篠崎啓史氏

静岡県の井上靖文学館でお知り合いになり、その後何度も拙宅にいらっしゃった篠崎さんは、会場に入って直ぐにお声をかけてくださり、少し安堵しました。ありがとうございました。 


浦城恒雄氏(いくよさんのご主人)

奥様を支えられて、本のご出版の時は、
パソコンに入力の仕事をされたとのことでした。
優しそうな感じの良い方です。 


井上卓也氏(井上先生次男)

電通にお勤めになっていた卓也さんは、CMプランナ-でコピ-ライタ-。小説もお書きになり、私も『グッドバイ、マイ・ゴッドファーザー』『暗号名 鳩よ翔びたて』『極楽とんぼ』を読ませていただきました。 


峰岸成次氏

大阪で井上靖文庫を作られた方(個人宅)
 

井上家のご家族

右より 卓也氏・次の女の方3名と男の方は浦城さんのお子様とお孫さん・黒田佳子氏(井上先生次女)・
修一氏・甫壬氏
 祝辞を述べられた方は、他にも沢山いらっしゃいました。もちろん皆様有名な偉い方ばかりです。その中で印象的だったのは、真向法協会会長の佐藤良彦氏の真向法の演技でした。足を両側に開かれて、ピタリと胸を床につけられた写真を撮っておくべきだったと残念です。井上靖先生は晩年までこの真向法を実践していらっしゃり、お元気だったとお聞きしました。
 予定の方々の祝辞が終わった後、司会の白石さんが「どなたか他にお話しになりたい方はいらっしゃいませんか?」と言われました。皆様「シ-ン…」するといくよさんが「石岡さんに」と小声で言われて、「石岡さん、石岡さんいらっしゃいますか」と白石さん。突然のご指名で、まさか自分にまでお鉢が廻ってくる来るとは思ってもいなかった私は、おろおろしてしまいましたが、仕方がないので壇上に上がりました。
「高いところから失礼いたします。お偉い方々ばかりの中で、私のような者がお話しさせていただくなどとは思ってもいませんでしたので、とても緊張しております。私は、井上先生の『氷壁』のモデルになりました石岡繁雄の娘であづみと申します。(会場が「うわぁ~」と湧いたので、ちょっと気を良くして)父は偉かったかも知れませんが、私は親の七光りですので(と言って、ふと見るといくよさんと目が合った。しまった‼井上家のお子様方も言うなれば、親の七光り。。。会場は白けてしまった)。父はいわゆるナイロンザイル事件を闘い抜きましたが、井上先生の『氷壁』によって支援していただき、有難く思っています。。。」後はしどろもどろで良く覚えていないのです。たぶん、資料整理をして名大に寄贈寄託して、展示をしてもらい、その後3回の展示をしたと言ったような、言わないような(~_~) ドッと冷汗をかいて、後は小さくなっていましたが、それから何人もの方がご挨拶に来てくださり、修一さんご夫妻、卓也さんとも顔合わせをする事が出来ました。まぁ、良かったことにしよう(^-^;
 

閉会前に、井上ご一家が記念撮影をされる時に、
修一さんの奥様が「是非ご一緒に」と腕をとって写真に入れてくださいました。
この写真は、その時に写真を写してくださった飯田葉子さんが、早速送ってくださったものです。
ありがとうございました。 

お招きいただき本当に有難く思いました。
私の一生の記念になりました。

松本亮三館長を偲ぶ会



2016年7月28日(金) 12:00-14:30
三島駅近くの「みしまプラザホテル 7Fマリヤソ-レ」にて

<在りし日の松本館長と父> 

2006年1月29日 井上文学館にて


  松本館長のご逝去の報に触れたのは、2015年9月30日に送られて来たFAXによってでした。9月29日、文学館を退館された後、ごひいきの温泉にお寄りになり、入浴中に亡くなったとのことで、あまりにも突然のことで声を失くしました。お通夜が10月2日、告別式が10月3日とのことでしたが、鈴鹿高専祭での展示が1週間後と迫っており、どうにも身動きがとれず、残念ながら参列することが出来ませんでした。ほんとうに申し訳なく思いました。
 翌年の1月29日に、右の趣意書が届きました。同封された手紙は、「追悼文集『はじまりは出会いに他ならない』」への寄稿のご依頼でした。文豪井上先生の文学館の館長の追悼文集となると、さぞ文筆家の方々の寄稿が多いことと思い、気後れしましたが、お世話になった館長の思い出を拙い文でつづらせていただきました。
 5月29日、井上文学館の学芸員徳山さんからのメ-ルで、偲ぶ会のご案内をいただきました。告別式にも参列させていただけなかったので、石岡繁雄の志を伝える会の皆様にもお声かけをして、参加させていただくことに致しました。
当日の参加は、水野さん・立岡さんご夫婦と私と決まりまりました。

 

7月28日(金)

6:30 鈴鹿発
7:30 豊田市の水野さんのお宅で水野さんと合流
10:30 みしまプラザホテル到着。立岡さんご夫婦と合流
みしまプラザホテルの案内板



ロビ-で國ちゃんにお会いして、再会を喜び会場へ 
会場内のステ-ジ

入口でいただいた席次



井上先生の小説にちなんだ名がつけられたテ-ブル
私たちは正面右の『氷壁』の席でした
メインステ-ジと『氷壁』席 



『氷壁』席で記念撮影



あけみさんが撮ってくれました
<開会>



徳山さんの司会で、発起人の方々が揃われます
右より 徳山加陽氏・鈴木基文氏・篠崎啓史氏・
岩永泉氏(グラフィックデザイナ-) 
<開会のことば>



発起人代表 鈴木基文氏(伊豆天城船原温泉 舩原館当主)
<発起人挨拶>



スルガ銀行前社長岡野光喜様の代わりに
専務の白井稔彦氏
 



静岡県がんセンタ-総長 山口建氏
<献杯>

 

石原國利氏、もちろん國ちゃんのことです。
松本館長が進められていた『井上靖「中国行軍日記」』(井上靖文学館発行)の完成を
観ずして亡くなったことへのお悔やみと
その後、徳山さんが代理として、最後の中国訪問をして完成させ、出版されたことへのお祝いを述べられ
松本館長がどんなに喜んで見えるかを強調して、あえて、「乾杯」とご発声をされました。
お食事が運ばれて…

<発起人挨拶>



交通渋滞で少し遅れられた井上修一氏(井上先生長男
筑波大学名誉教授・井上靖記念文化財団理事長)
<献奏>
  

ピアニストの平沢匡朗氏によるチェンバロの演奏

まずはベ-ト-ベン、そして松本館長のお好きだったという
八代亜紀さんの「舟唄」を演奏されました
心に沁みる演奏でした
<歓談>



國ちゃんにご挨拶に来られた修一さんと
井上靖ふるさと会初代会長 澤木育子氏と共に




修一さん夫人と共に
奥様は、お優しい貴婦人と言った感じの方です
<館長の遺したこと>



浦城様の出版祝賀パ-ティ-の時も祝辞を述べられた
勝呂奏氏

井上靖文学館が今年6月に発行した
『梶木基次郎と湯ヶ島』について語られました





井上先生次女 黒田佳子氏

行軍の足跡を訪ねる旅の模様を語られ
その時のDVDの上演がありました
DVD



篠崎さんと徳山さんの見事な構成でつづられたDVDは
素晴らしいものでした

上の写真をクリックしてください。DVDの一部がご覧いただけますが
ダウンロ-ドするまでに時間がかかる場合があります。
ごめんなさいm(__)m
<歓談>



あちらこちらで話の花が咲きます。
右手前には、いくよさんと國ちゃんの姿が見えます 




中央は井上靖ふるさと会会長で白壁荘当主
宇田治良氏









締めの御飯が出るころ…
<本の話>
 

いくよさんが『父 井上靖と私』の出版の話をされました 
飛び入りゲスト

 

井上靖ふるさと会会員の中山宣永氏

定年退職後、湯ヶ島に引っ越された中山さんは、東北と九州に月の内の半分はボランティアとして行ってみえます。
写真の絵は、被災地の子供たちに、岩永さんの書かれた塗り絵を持参して塗ってもらったものです。
<謝辞>

 

松本亮三館長の長女 遠藤そのみ氏
長男 松本勝蔵氏がお仕事のため
代わって謝辞を述べられました。




司会の大役もそろそろ終盤の徳山さん
ほんとうに頑張っているね!
あなたはすごい‼
<閉会のことば>



発起人の山田泉氏(御菓子司、若松園専務取締役)の
閉会の辞は、井上先生の作品『しろばんば』の中に出て来る「黄色いゼリ-」の復活を松本館長から頼まれて
苦労して成し遂げられたことなどが語られました。




閉会後、帰路につかれる皆様 
みしまプラザホテルの玄関にて



記念撮影をして、國ちゃんを見送りました。
  松本館長を偲ぶ会も無事終わりました。右は一冊ずついただいた追悼文集の表紙です。偲ぶ会発起人の皆様をはじめ、松本館長ゆかりの61名の方からの追悼文が掲載されていて、在りし日の松本館長のお写真もたくさん収められていました。
 偲ぶ会の締めくくりとして、私の追悼文を掲載したいと思います。拙い文ですが、お読みいただければ幸いです。

在りし日の松本亮三館長と父
       「石岡繁雄の志を伝える会」代表

            石岡 あづみ(繁雄二女)

井上靖先生の小説『氷壁』は、「ナイロンザイル事件」が素材となっていることは、広く知られていますが、その遭難事故で墜死した若山五朗(作品中では小坂乙彦)の実兄石岡繁雄は、ナイロンザイルの岩角欠陥を暴き、二十年かけてザイルに安全基準を適用させて、PL法の先駆けともなりました。
 ちょうど十年前に『氷壁』が原案となったドラマがNHKで放映されましたが、その番組がきっかけとなって、平成18年1月12日から井上文学館で「氷壁展」が開催されました。松本様は『氷壁』を生んだナイロンザイル事件と、その闘いに半生をかけた父に興味を持たれ、三重県鈴鹿市にある拙宅においでくださいました。そして、熱心に父の話に耳を傾けられ、展示への協力を求められたのでした。

 松本様は、この展示の副題をーナイロンザイル事件から50年の教え―とされ、ナイロンザイル事件の資料や、父の発明した登山用緩衝装置などを沢山展示してくださいました。
 その後、井上先生の十六回忌「翌檜忌」墓参にお招きいただき、父と私は初めて井上文学館を訪れ、展示も見学させていただくことが出来ました。
 その頃の父は入退院を繰り返しており、その年の8月には他界致しましたので、父の最後の旅となりました。松本様は、井上先生ゆかりの地、湯ヶ島の「白壁荘」にお泊めくださり、父を大歓迎してくださったことは、今でも忘れられず感謝しております。
 井上先生の偉業を今に伝え、「石岡繁雄の志を伝える会」の活動にもご協力くださり、活躍された松本館長の余りにも早い旅立ちを惜しみますと共に、哀悼の意を表します。

三島大社にて



さて、みしまプラザホテルに今夜の宿を取った私たちは
まずは、三島大社にお参り 
立岡さんの定年退職&還暦祝い



ついでと言ってはなんですが…
8月で還暦となり、末には退職される立岡さんの
お祝い会をやりました。
鰻屋さんで一次会。
 
 

居酒屋さんで2次会
 

ホテルで3次会
7月30日(土) 
朝食会場にて



私たちだけだった朝食会場に井上修一さんご夫妻が
いらっしゃり、同席してくださいました。 




約1時間程、楽しくて有意義なお話を
お聞きすることが出来、本当にラッキ-でした!
10:30 三島スカイウォ-クにて



5月の連休にわざわざ出かけられた立岡夫婦ですが
大渋滞で中に入れず諦めて帰ったとのことで、
みしまプラザホテルから20分程の場所にある
この大吊橋にリベンジでした。 
 



全長400m、最大高さ70.6mの吊橋の
ちょうど真ん中です。



好天に恵まれて、絶景の富士山
でも、雪がないのはなんだか寂しい。。。
 

駿河湾を眼下に
こんな素晴らしい景色を拝めるとは
思ってもみませんでした。
 




対岸の展望デッキにて 



長~くて、大き~い吊橋は、日本一
12:00 井上靖文学館着


文学館の階段を上がった所にある岡野喜一郎氏の像

文学館の階段を上がり切った所

 
企画展のポスタ-

 
文学館のパンフレット 



 
入口にある展示



受付には徳山さんがいらっしゃいました。
昨日の大役の後なのに、元気に対応してくださいました。

ほんとうに、徳山さんのファイトには頭が下がります。
『氷壁』を生んだナイロンザイル事件の展示



 石岡家の岩角模型から、親戚で彫刻家の稲垣克次が
型を取って作ってくれたもの




克ちゃんの略歴まで展示してくださっていました。
ナイロンザイルと、安全基準に合格したザイルに
付けられた「鋭い岩角では切れる」ことを表示した紙が
巻かれたザイル 

  岩稜会の作った冊子『ナイロン・ザイル事件』の
複製本。
松本館長は、父の貸し出した冊子を基に、
この冊子を作られました。

ナイロンザイル事件の経緯を書いた展示 

右、井上靖先生と若き日の國ちゃん
前穂高岳をバックに
   
  文学館見学後、徳山さんから教えていただいた
隠れ家のようなお蕎麦屋さん
「おもだか」にてランチ。
その美味しかったこと!

  その後、立岡さんたちとお別れして
富士川パ-キングエリアで休憩後帰路につきました。

 井上先生と父との関係は、先生がナイロンザイル事件を取り上げてくださり、『氷壁』をお書き下さったことがはじまりです。
 昭和30年当時、東京製綱の依頼によって篠田軍治教授が行った、ナイロンザイルの岩角での強さを試験する公開実験で、岩角に丸みがつけられていたため、ザイルの性能に問題なしとされて、石原國利氏と父は偽証したことになり、世間から迫害を受けていました。そのナイロンザイル事件をリアルタイムで扱ってくださった井上先生の『氷壁』がベストセラーになり、ナイロンザイル事件は広く皆様に知られることになりました。父は地獄に佛と思い、井上先生に何通もの手紙を書いて、一向に受け入れられない自分たちの境遇を嘆き、『氷壁』の内容に支援する文を入れて欲しいと懇願し、最後にはスト-リ-まで書くようになりました。井上先生は「僕はドキュメンタリーを書いている訳ではない。小説を書いているんだよ」と困った顔をして、石原氏に言われたと聞き及びます。
 井上先生は、篠田軍治氏と岩稜会の仲を円満解決の方向にもっていくために、篠田氏に働きかけてくださいましたが、篠田氏は頑として受け付けず、事件は篠田氏を告訴するまでに至ります。この名誉棄損での告訴状は、名古屋検察庁に出しましたが、いつのまにか篠田氏が住まわれる大阪検察庁に移されており、一度の事情聴取もなく不起訴処分になりました。検察庁まで巻き込んだ権力の厚い壁は、氷壁の壁よりもなお厚く、父の長く辛い戦いは、続きました。
 石原氏をはじめとする岩稜会の一部の方々は、それからも井上先生と長くお付き合いを続けられましたが、融通が利かずナイロンザイル事件の話しかしないような堅物の父を、井上先生は煙たく思っていられたようです。それでも『屏風岩登攀記』を執筆した時には序文をお書きくださいました。この序文の一節、「氏は記録を造る人でなく、山に志を刻む人である」は、父を喜ばせ励ましてくれました。父はそれから20年と言う歳月をかけてナイロンザイルの研究と、登山者を滑落死から救う登山用緩衝装置の研究に没頭します。1973年、当時教鞭をとっていた鈴鹿高専でナイロンザイルの性能に関する公開実験を行い、ナイロンザイルの岩角欠陥を確たるものとします。父の考え方は、ただ、弟を死に追いやったナイロンザイルを、頭から否定するのではなく、ナイロンザイルの良い所は認めた上で、弱点を隠さず製品に書いて使用する方々に注意をうながす。と言うものでした。この考え方は、消費生活用製品安全法の考え方であり、国も重い腰を上げて、世界で初めてザイルの安全基準が作られ、父もその委員としてザイルの研究にあたり、官報で発布されたのは1975年6月のことでした。それ以来、ナイロンザイル切断で亡くなる方は後を絶ちました。父は現在、製造物責任法の先駆けであるとされています。
 井上先生と父との関わりは、以上のようなものでしたが、その後、松本館長とのつながりで、私まで井上先生のお子様方とお付き合いをさせていただくことになり、本当に有難く思っております。
 尚、井上先生の序文の「志」という言葉は、父を端的に言い表しているように思い、私たちの会の名を「石岡繁雄の志を伝える会」とさせていただきました。
 今年7月にあった二つのイベントにお招きいただいたことは、私にとって身に余る幸せであったと思います。
 本当に、ありがとうございました。
                                        2016年8月5日 あづみ記