−父との思い出−
平成18年9月5日(火)
 アッと言う間に逝ってしまった父との別れから、早20日が経とうとしている。通夜・葬儀・事務処理などなど…目まぐるしい毎日もやっと一息。ポカンと空いてしまった隙間の中に、ついこの前の…そして遠い日の父の姿が蘇ってくる。写真館は後回しにして、想い出を辿ってみようカナ!?

 昭和27年2月17日、当時、鈴鹿市堅町にあった『ホダカ商会』と言う父のやっていた電気屋で次女として私は産まれた。山に登る為の資金稼ぎに戦後間もなくから始めた店は、物の無い時代ゆえ大いに繁盛していたらしい。母は大リュックを背負って、名古屋から部品を仕入れ、父の手によって蓄音機やラジオに変身して売られていった。作っては売って山に登った。身重だった母も登った。鈴鹿山系、愛知川の渡渉により、私は8ヶ月の早産だった。産まれた日は大雪だったらしい。寒さでみるみる青ざめていく私の周りに、父は湯たんぽを並べて暖め蘇生させたと言う。
私が生まれる前、「今度は絶対に男だ!」と父は豪語して名前も『穂高』と決めていた。女だと知ると、ともてショックだったらしい。名前ももちろん考えてもいなかったが「ま〜、“あづみ”にしとけ!」と言う事で私の名前は決まった。いい加減に付けられた名前だが、私は結構気に入っている。
つい最近ホ−ムペ−ジ用の写真を集めていて、まだ焼かれていないネガを見つけた。入っていた袋には−あづみ初めての登山 1歳−と書かれてあった。興味に駆られて焼いてもらった。父におぶわれている私。8歳の姉。母。祖母。大叔母。初めての登山は御在所。これらのことを私はもちろん覚えてはいない。大人達から多分にデフォルメされた話を後に聞かされたのだろう。

名古屋の家で始めてのお正月

あづみ初めての登山
父におぶわれて…
 記憶が形となるのは何時の頃からだろう。父のアグラの大きな膝の居心地の良さ。母の歌う子守唄。昼寝の時、板張りの雨戸の節穴から漏れる光で逆に映る風景…父が名大の学生部に勤めだし、名古屋市昭和区に家を構えてからの事だ。7つ年上の姉は母に付いて、料理・洗濯・掃除などを手伝い、私は父と電気機具の修理や大工仕事をした。と言うか、手伝っているような気がしていただけで、多分傍で邪魔していたのだろう。だが、今でもそういう事の方が向いているのは、−三つ子の魂百まで−と言うところか。
父の膝で
 姉は石岡家の跡取り娘として教育を受け、私は唯可愛がられて育った。小さい頃は手に負えない悪ガキで、その頃名大学生部からの依頼でやっていた下宿屋のお兄ちゃん達から『豆台風』と命名された程だった。それでも父に叱られた記憶はあまりない。
小学校3年の時、毎日漢字の宿題が出た。漢字で何ペ−ジかを埋めて提出し、先生から判をもらう。その朝出掛けに母から「漢字の宿題してある?」と聞かれた。少し戸惑って「うん、やった」「見せて御覧なさい!」私はノ−トを取り出して昨日の宿題を見せた。毎日同じなのだから判らないだろう。と思ったのである。「何言ってるの昨日のじゃない、判がある!嘘を付いちゃダメでしょ!!」まだウダウダと言い訳をしている私を、食後のお茶を飲みながら食卓にいた父が「嘘はいかん!」と怒鳴った。「嘘じゃないもん」と我を張る私を、突然立ち上がり捕まえた父は膝にうつ伏せに抱えて、その場に在った竹の1メ−トル物差しでお尻を叩いた。何度目かに物差しは折れた。父は「宿題をやりなさい」と言った。私は泣きながら「学校に遅れるよ」と言った。「学校なんて遅れたって構わない。嘘を付くことがどんなに悪いことか判る事の方が何よりも大事だ」と言った。私は大幅に授業に遅れて学校に行った。それから2〜3日は、椅子にまともに座れなかった。その痛みが嘘の悪さを私に教えた。後にも先にもあんなに酷く叱られたのはあの時だけだった。 

2歳の頃の私

父が設計した名古屋の家
 父は何かを考え始めると、他の事が眼に入らなくなる。この頃は日本育英会奨学金の推薦基準の基礎理論を微分方程式に著すために頭の中は一杯だったはずだ。当時は名古屋城の城跡にあった名大学生部に自転車で通勤していた。自転車を漕ぎながらも考える。回りが見えなくなり田んぼに突っ込んでしまったこともあった。
私が5歳の頃、バスで4区間程離れた幼稚園に通っていた。私を送るため父もこの時期はバスで通勤した。ある日、いつものように「あづみ、降りるんだよ」と父から言われ、バスから降りるといつものバス停と違っていた。私はバスを追って必死に駆けた。暫く走ると同じ様に必死に駆けてくる父の姿が見えた。父は考え事をしていて、一つ手前のバス停で私を降ろしてしまったのだ。
この手の失敗談は多々ある。忘れ物は常習犯で、一番酷い思い出は穂高に20人程で行った時、皆のお弁当の入ったリュックを忘れて降りてしまったことだ。松本駅だった。すぐに駅員さんにお願いして、次の駅で探してもらい見つかったが、このお弁当に有りつけたかどうかの記憶は無い。やたらにお腹が減っていたことと、汗を掻きながら走り回っている父の姿が今も残っている。

バス通園していた頃
父の書斎で