平成19年2月4日(日)
講師 石原國利氏(『氷壁』主人公モデル)
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プログラム
サイン会 12:10〜13:15
1月25日発行の『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』と
文庫本『氷壁』に石原國利氏、相田武男氏がサインいたします
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大学の卒業祝いに井上先生からいただいた
万年筆でサインする石原氏
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<石岡先生と共に 相田武男>
にこやかにサインされる相田氏
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第一部 13:30 講演「井上先生とわたくし」
14:30 <10分休憩>
第二部 14:40 石原國利氏と皆さまとの交流の時間
15:30 終了・解散
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講師略歴
1930年福岡県直方市で生まれる。大学入学後岩稜会入会。
1955年1月2日前穂高東壁にてナイロンザイル切断により遭難。
ナイロンザイル事件勃発により『氷壁』のモデルとなる。
その後ヒマラヤ遠征、フェゴ島モンテ・オリビアに登頂。
父上の死去により家業を継承する。
1971年9月から10月にかけて井上先生、生沢朗氏と共に
アフガニスタン、ネパ-ルを旅行した。
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井上靖氏 『氷壁』
朝日新聞に昭和31年11月24日より昭和32年8月22日まで連載
270回完結
会場受付に並べられた『氷壁』と
『石岡繁雄が語る氷壁・ナイロンザイル事件の真実』の本
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『氷壁』のころ 石原國利
井上靖先生と初めてお会いしたのは昭和31年9月の終わりのことであった。石岡繁雄さん(岩稜会会長、名大工学部卒、「屏風岩登攀記」著)が上京、長越(安川)茂雄さん(日本山嶺倶楽部、早大文学部卒、「谷川岳研究」著)と会うことになり、私も呼び出された。石岡さんと長越さんは初対面であったが、いずれも戦後(昭和20年代)片や穂高、片や谷川岳で活躍した両雄として互いに畏敬する岳友であった。長越さんの指定した銀座の三笠会館の喫茶室で落ち合った。会うなり長越さんは「作家の井上靖さんが、『ナイロン・ザイル事件』を読んで、あなたたちに会って話を聞きたいと言われている」と言った。三人は銀座からタクシ-を拾って、大井滝王子町の井上先生宅を訪ねた。
『ナイロン・ザイル事件』とは、昭和30年1月2日、私の所属する岩稜会の三人パ-ティ-が、積雪期未登の前穂高岳東壁の頂上直下で、約50センチメ-トルの滑落でナイロンザイルが切断して遭難、石岡さんの実弟若山五朗君(19歳、三重大)が墜死し、私ともう一人の友人は生き残った。この冬私たちと前後して二件、いずれもナイロンザイル切断による遭難が発生。ナイロンザイルは当時、それまで使用されてきた麻ザイルに比して、全ての点で優れているとされていただけに、大問題となった。三件の切断事故はいずれも、岩角においてザイルが切断していたために、私達はナイロンザイルは岩角で切断し易いと考え、石岡さんを中心に名大工学部と石岡さん宅に造られた実験台で実験を重ねた結果、ナイロンザイルが鋭い岩角に弱いことを確信、詳細を新聞、山岳雑誌等に発表した。わが国の登山界でもこの問題を重要視し、当時、登山装備の権威といわれた日本山岳会関西支部長(阪大工学部教授、応用物理学工学博士)篠田軍治氏が解明にのり出した。そして同年4月29日、ナイロンザイルのメ−カ−である東京製綱蒲郡工場において、多数の登山関係者、報道関係者を集めて、公開実験が実施された。この日私達は若山君の捜索のため穂高に入山していたが、公開実験に先立って行われた篠田氏と石岡さんとの会見で、篠田氏は全面的に石岡さんの実験結果(ナイロンザイルの岩角欠陥)を認めていたので、公開実験の結果に疑いの予測をもたなかった。
ところが、公開実験の結果は真実とは正反対のものであった。新聞、山岳雑誌等はいずれも「実験の結果、岩角に弱いのではないかといわれていたナイロンザイルは、岩角においても麻ザイルより数倍強いことが証明された。岩角は90度、45度のものを使用。岩稜会が発表した遭難時の位置関係を再現した実験でもナイロンザイルは切断しない」ここにおいてナイロンザイルは岩角でも強いということが、公に再保障される結果となった。早大理工学部応用化学助教授、山岳部監督の関根吉郎氏は雑誌「化学」昭和30年7月号に、「2トンの荷重に耐える綱が、人間一人ぶら下がって切れるであろうか。・・・・・・雪の山を登るときには鉄で出来たカンジキ(アイゼン、クランポン)をつけている。この爪でナイロンの綱に傷をつけていたのではあるまいか。・・・・・・誰も見ていないところで起こった失敗であるから、当事者は出来るだけ、罪をナイロンに帰させようとする気持ちもわかるが・・・・・・」と記した。
ところが日が経つにつれて、公開実験に使われた岩角は、秘かに角に丸味(ア−ル2ミリ)がつけられていたことが判明した。石岡さんは篠田氏に対して再三にわたって、公開実験の結果の訂正を発表するよう強く求めたが、誠意ある返事が得られなかった。ここに至って私達岩稜会は、登山界の安全と公開実験の欺瞞を明らかにするために、昭和31年6月23日私の名において公開実験の指導者篠田軍治氏を告訴し、岩稜会は同7月1日、関係資料97件を記した告発書「ナイロン・ザイル事件」B5版、210頁を発刊し登山関係者、報道関係者に送付した。長越さんに渡った一冊が井上先生の目に触れた次第であった。
井上先生は石岡さんと私の話を聞いてから「近く新聞に連載小説を書くことになっている。あなたたちの出来事を、小説の材料として使わせてください」と言われ、石岡さんと私は協力を約束した。
こうして私の井上先生宅通いが始まった。省線「大井町」からバスを乗り継いで、滝王子町のお宅にうかがった。長越さんとご一緒のこともあった。当時の私は登山に熱中していて、自由になる時間とお金はすべて山登りに注ぎ込んでいたので、文芸作品の読書とは全く無縁の生活で、井上先生は「闘牛」で芥川賞を受賞した清冽な文章を書く作家であるという程度の知識であった。
お会いした先生(49歳)は肩から腕にかけてガッチリした身体つきで、静かなる闘志を内に秘めた男性的な印象の方であった。「登山のことはわかりませんから、何でも教えてください」先生はこうおっしゃって、着物の腕をまくって大学ノ−トに、愛用の太字のシェファ−万年筆に力をこめてメモしていかれた。ときには絵を交えて書かれた。「私は新聞記者をしていましたので、調べるということには苦痛を感じません」とおっしゃった。ものを訊くときの先生は、若輩の私どもに対しても実に丁重で、先生の識ることに対する謙虚なお姿に私は深い尊敬の念をおぼえた。聞いてその場でノ−トされ「これでよいですか」と確かめられた。ときには私の下宿に電話がかかり「今書いたことを読みますから」とおっしゃって「間違いありませんか」と念をおされた。
「氷壁」は朝日新聞紙上に11月24日から始まった。全体の筋書きとして、前穂高でナイロンザイルが切断して遭難、ザイルの公開実験で主人公(魚津恭太)が不利な立場に立たされるというところは私達の事実に則して書かれ、人物設定等の構想は、長越さんと知己の登山家松濤明氏のエピソ−ドをヒントにまとめられた。
松濤明氏(大11年〜昭24年)は東京農大卒、関東の名門山岳会登歩渓流会所属で、戦後を代表する登山家の一人であった。昭和23年11月から24年1月にかけて、積雪期未踏の槍ヶ岳北鎌尾根から穂高岳にかけての初縦走を計画、後輩の有元克巳氏とともに入山。深い積雪に阻まれて遭難、7月になって二人の遺体が発見された。遺体のそばの岩の割れ目に、防水紙に包まれた手帳が残されていた。登歩渓流会はこの手帳をもとに、昭和25年「風雪のビバ−ク」と題する報告書を発表、登山界に強い感動を与えた。それより抜粋すれば
<1月5日 フ−セツ 千丈沢ニスリップ、上リナホス力ナキタメ共ニ下ヘ下ル、ラッセルムネマデ・・・
1月6日 フ−セツ 全身硬ッテ力ナシ、何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス・・・
有元ト死ヲ決シタノガ6時・・・今14時中々死ネナイ
漸ク腰迄硬直ガキタ、全シンフルエ、有元モHERZソロソロクルシ、ヒグレト共ニ凡テオワラン>
「氷壁」の終末で、魚津恭太が北穂高岳滝谷で落石に打たれて負傷、月光のもと死をむかえる情景が重なる。
話の途中でいつも美味しいコ−ヒ−をご馳走になった。先生はピ−スの缶からタバコを抜き出し、考えるような顔つきで静かに喫われていた。昼間からの話が長引いて夕食時間にかかったこともあった。先生が「うちでいっしょに食事をしませんか」とおっしゃって、お子様達と一緒の食卓を囲んだこともあった。ポ−クの水炊きに徳利からトクトクとお酒を大量に注ぎ入れ「こうすると美味しいですよ。温まりますよ。たくさん食べてください」とおっしゃった。先生は横で燗をつけた酒を呑んでおられた。
夜遅くなった日は、車を呼んで世田谷の私の下宿まで送ってくださった。車はまだ灯の少い時代の東京の暗闇の夜を抜けて行った。車のエンジンの音と、膝にかけた厚い毛布の重みの感触が今も残っている。因みに、深沢1丁目にあった私の下宿は代々続いた旧家で、三千坪といわれた屋敷には巨大な欅が聳えており、秋の終わりにはフクロウが飛来して低い声で鳴いていた。この欅の群れは渋谷の東横百貨店の屋上から見ることが出来た。母屋は厚い藁葺きの屋根造りで、のちに東京都の文化財に指定されたと聞いた。学校を卒業(昭和32年)して数年後、井上先生原作の映画「あすなろ物語」を観ていたら、主人公鮎太(久保明)の住まいとして私の居た下宿が映し出されたのにはおどろいた。人生は何か目に見えない糸で結ばれている思いがした。
「氷壁」が軌道にのりだした昭和31年の暮から32年の正月にかけて、私達岩稜会は北穂高岳に登山した。途中上高地の奥の徳沢で一泊、深夜山に向かって出発した。このとき私は冬の穂高の状況を手紙に書いて、所用で下に下りる冬期小屋の番人(芳野満彦氏)にポストへの手紙の投函を依頼した。山から下って、冬山の写真を持って先生宅を訪ねたのは、松の内の気分が残っている正月の明るい昼間であった。その日は別の来訪者と重なった。先生が「気のおけない人ですから」と言われて同席した来客は女優の有馬稲子さんであった。有馬さんは先生の作品の中で、特に『通夜の客」を演じてみたいというような話をされていた。そして先生といっしょに私の冬の穂高の写真を黙って見つめておられたが、しばらくして「何か、峻厳って感じね」と感想をのべられたのを憶えている。
「氷壁」の連載が進行する間に、私達が追求していたナイロンザイルの岩角欠陥は、ますます明確になっていった。私は先生に「事実は明白となりました。公開実験は弱いものを強いと見せた手品です。登山者の安全がかかっています。このことを『氷壁』のかなに書いてください」と訴えたこともあった。先生は「私が書いているのは小説で、ドキュメンタリ−とか勧善懲悪ではないのだから」と、困ったような顔をされた。しかし「氷壁」連載のおかげで、ナイロンザイル事件の存在が広く世に知られる事になった。事件として訴えるよりも、作品に取り上げられ、その作品の魅力によって思いも寄らない反響を呼ぶ、と言う貴重な体験を得た。「氷壁」の背景に、井上先生の暖かい眼差しが感じられた。
やがて「氷壁」では魚津は独り北穂高滝谷へ向い、終末をむかえる。「氷壁」の連載が終わりに近付いた頃、先生は次の作品の準備に入られていた。それは「天平の甍」であった。
昭和50年4月、通産省は登山用ザイルに安全基準をつくり、パスしたS(安全)マ−ク付き製品以外はザイルとして売ってはならないことを義務づけた。私達が前穂高で使ったロ−プはザイルではないとされた。事件発生以来、実に20年が経過していた。この事件の背景に、日本の主力産業の経済優先主義という不幸な時代があった。
「氷壁」を縁として、私達は井上先生との親交を得ることになり、カエル会の穂高山行にも参加するようになった。カエル会とは「氷壁」に出てくる上高地明神の小池に群がる蛙から命名された、井上先生を中心とする山登りの会であった。
昭和46年には海外旅行のお供もした。9月から10月にかけてのアフガニスタン、ネパ−ルへの取材旅行であった。ネパ−ルでは私達がエベレスト街道を、ナムチェバザ−ルを経て3867メ−トルの高地、タンボチェの僧院まで案内した。この旅行は「星と祭り」のなかに記述されている。
井上先生との親交は年々深まり、カエル会の忘年会では生沢朗、山本健吉、東山魁夷はじめ名だたる作家、芸術家、編集者の方々と寛ぎの時を過した。多くのすぐれた知性、教養の士の謦咳に接することができたのは、私の生涯において望外のよろこびであった。
昭和51年の10月28日から30日にかけて、カエル会は穂高へ出かけた。出発の日に先生の文化勲章受賞の発表があり、徳沢での最初の夜は気のおけない仲間のよろこびの会となった。私と長越さんは窓際の席で向かい合わせとなった。長越さんは数年前から健康がすぐれず、この夜も随分弱られた印象であった。私達は過ぎた登山界の出来事を静かに話し合った。翌年10月、長越さんは世を去られた。
平成3年1月29日、井上先生が逝去された。2月20日青山葬儀場で告別式が営まれた。一面の白菊が横短冊型に飾られた、簡素で美しい祭壇がこしらえてあった。正面上部には、眼鏡を手にした先生のにこやかなお顔の写真が置かれていた。式が始まり、式場が一瞬静まったとき、壮年の導師が静かな足取りで、式場を後から前に進み中央の座についた。間をおかず、白い簡素な法衣に袈裟をかけた若い僧の一団が、一列連なりに、音も立てず風を切るような速さであとに続き、前列の僧席についた。このとき私は、これは天平の甍に登場した若い僧の群れだと思った。これこそ井上先生の葬儀に相応しいと思った。
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白い峰
外貨の枠がとれました、と若い登山家は行った。
近くジュガ−ル・ヒマ−ルの一番の高峰ビック・ホワイト・ピ−クに、
4人の仲間と共に、その青年は登ろうとしている。
ほら、この山です、と青年は地図の一点を示した。
やたらに三角の記しのついた地図だった。
その三角の記しの一つには、7080メ−トルと書いてある。
1957年の夏、イギリス隊はここを目指した。
3人の隊員は、ここの雪崩で死んだという。
山巓に彼等の墓標を立てたいんです、と若い登山家は眼を輝かせた。
真実、この若者はそうすることだろうと思われた。
異国の山友達のために―
氷河の中に道がありますよ、きっと、と青年は行った。
聞いている私には、ほんとうに氷河の中に、
大理石製の、きちんとした階段が作られてあるように思われた。
一画、白い鏃に向って―
<詩集『遠征路』より>
井上先生がヒマヤラ遠征に行く石原さんに寄せられた詩です
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井上靖作品読書感想文コンク−ル
平成18年度入選作品 高校生の部【最優秀賞】
『氷壁』を読んで
土肥高等学校2年 市川景子
私は、この静岡の伊豆に住んでいながらも井上靖のことは名前を知っているくらいで、作品については今まで何も知りませんでした。だから、今回始めてこの作品を読んでみようと思い、自分なりに彼のことを調べてみました。いくつもの作品を残して、数多くの賞を受賞したこと。ドラマ化・映画化された作品があること。本当にいろいろな人から「井上靖」という人が愛されていたのだと実感しました。そして、今回私が読んだ「氷壁」という作品も賞を受賞し、テレビドラマ化され彼の代表作にもなりました。有名になったこの作品を読んでみて、私は改めて彼のすごさを知りました。
私は、登山の経験もなく、どちらかと言えば山よりも海のほうが好きなのですが、そんな私がこの作品を読んでいても、小説の中の山の景色が頭の中に浮かんできました。空の青さや、雪の白さ、主人公達に襲いかかる厳しい寒さ。そんな自然の大きさを感じながら、その中にサスペンスの要素や男同士の友情、恋愛などの人と人との関係が描かれていて、読み終わったときにはすっかり井上靖の世界にはまっていました。
そして、その中でも私が特に印象に残っているところがいくつかあります。
一つ目は、主人公の魚津に対するマスコミや世間の態度です。スト−リ−の中心になっている「何故、切れるはずのないナイロンザイルが切れたか」と、いうところで、「魚津は自分が助かるためにザイルを切ったのではないか」と、世間からいろいろと言われてしまいました。ニュ−スでも友達だった小坂が死んでしまったことに目が向けられていたり、ザイルを製造している会社からは、「憤慨だ」と反感をかってしまったりと冷たいものでした。しかし、だんだん時間が経っていくにつれて世間はこのニュ−スのことを忘れていってしまいました。とてもリアルに書かれているこのシ−ンで、私はなぜだか時代が流れていく寂しさを感じました。毎日、テレビや新聞などを見ていても、少しもそのようなことは思わないのに、この小説を読んでメディアの報道の仕方や人間の心理の移り変わりが無常だと考えさせられました。断った一本のザイルから、ここまで人間の感情リアルに表すことができるのは以前に新聞社で働いていた作者ならではだと思います。
さして二つ目に私が心を強く打たれたのは、小説の中で引用されているデュプラの「モシカアル日」の詩です。「自分が山で死んだのなら両親・女房・子どもなど大切な家族に伝言を伝えてくれ。自分の持ってるピッケルが恥辱で死ぬようなことがないように取り上げてくれ」という内容の詩の言葉には、最期まで山を、家族を愛し続けていた登山家の気持ちが全て託されていて、登山家が自分の一生をかけて山に登る気持ちがひしひしと伝わってきて思わず涙しそうになりました。魚津や小坂も死ぬときには同じ気持ちだったのだと思うと改めてデュプラの詩に共感を覚えました。
大自然を相手に、決して安全ではない山に危険を冒してまで挑戦していく…一言で言えば、ただ山を登ることでも、それはスポ−ツと違ってル−ルがないからこそ、正に自分との戦いだと私は思います。私はまだ、そんな勇気もないし、山に登って素敵な景色を見ることが出来ればそれでよいのではないか…と思ってしまいます。又、命をかけてまで、登る必要が本当にあるのかということも疑問に思ってしまいます。しかし、その反面で困難を乗り越えたからこそ、新たに得ることも有るような気がしました。この話では「氷壁」を越えることによって、魚津も小坂も何かを、自分が生きている意味のようなものを探していたのではないかと思います。そして、私はそのような生き方をとても尊敬します。だから私も、何時か自分が本気になれることを探して、一生懸命に生きていければいいと思いました。
この作品は、私を一歩成長させてくれた気がします。初めて読んだ井上靖の作品がこの本で良かったです。これからは、どんどん他の作品にも触れていって、また何かを感じとり自分自身が成長していけたら良いと思います。
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クレマチスの丘の講演会場と井上靖文学館にて
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井上先生のファンの方々から
「先生に似ていらっしゃる!」と言われて
照れ笑いの石原さん
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様になってます!
渋いですね〜
相田さん!
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井上文学館の館長松本さんと |
井上先生の長女浦城幾世さんと
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井上靖文学館の入口です
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井上文学館と書かれた石碑 |
文学館内のナイロンザイル事件の展示
ピッケルもザイルも前のまま展示されていました
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浦城さんと相田さん |
相田さんは、どこまでも記者魂で
浦城さんに井上先生についての取材です
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ナイロンザイル事件の顛末を
ご存じなかった浦城さんに
熱心に説明される相田さん
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朝日新聞(静岡)2007年2月6日
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オマケです
昭和48年10月6日
紅葉の涸沢 ナナカマドの中に佇む井上靖氏(66歳)
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もう一つオマケです
石岡著書−屏風岩登攀記−刊行によせて
このホ−ムペ−ジのトップペ−ジに掲載している井上靖氏評の
井上先生のお原稿
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