第六話 青葉の章
2013.7.4起



 学帽に高下駄、マントをひるがえし寮歌を熱唱する、当時バンカラで有名な旧制高校。
 憧れの八高に入学した父は、寮に入った。当時の八高は全寮制で、1年生は余程の理由が無い限り、皆寮に入った。寮は名実ともに素晴らしく、自由奔放な生活と、大勢の友に囲まれて父は大いに青春を謳歌した。
 この寮の自室の押し入れに隠して呑んでいた酒を友達にみつかり、入寮早々に「バッカス(酒の神様)」と呼ばれるようになった。


昭和11年4月
第八高等学校文科甲二類入学

入学を記念して松坂屋写真部にて撮影

憧れの八高

第一回寮会会食
 

中寮にて

寮の部屋

入学時の寮でのイベント

アルバムに書かれた父のコメントは紫の字でそのまま入れました


北寮下寮会直後の記念写真

北寮下寮会にて芝居



寮祭
 
寮祭の展示

当時は、イタリアがアフリカに侵略してエチオピアを侵していた時代

ムッソリ-ニの人形を配して

骸骨を模して反戦
 



山岳部の展示

四高と八高の野球・柔道・剣道・相撲の試合

 もちろん部活動にも入部する。柔道部に入った。
 私が小さい時に、父が「大外刈り~!」と言っては、小さな私の足を払いながら、抱き上げて宙を舞わせた。私はそれが大好きだったので、よく覚えている。柔道部で習った技で一番好きな(ひょっとして、それしか習っていなかったのかも知れない)技だと言っていた。その柔道部も運動神経の鈍さから、止めてしまった。
 前章で紹介したように海水浴に出かけたり、下に掲載した写真のように、米川さんと言う友達と一緒に燕岳・槍ヶ岳・焼岳へ登っている。また、伊豆にも旅行している。八高のマ-ク入りのアルバムに貼られたこれらの写真は、浪人中の憂さを晴らすように、旅を重ねる父の様子が見て取れる。沢山の写真で辟易とされるかも知れないが、是非ご覧いただきたい。


昭和11(1936)年7月14日~19日
北ア登山……燕岳・槍ヶ岳・焼岳登山
米川君とガイドと共に



はい松にうずまりて

お気に入りの写真なので表紙として使いました


7月15日

ダイナマイトの響きを耳にしつつ
 


やっとここまで 富士見松

7月16日
懐かしの燕山荘よ さらば
 

米川君

さあ、出発だ!!

父とガイドさん

 寒風すさぶ燕山頂 美の権化か

7月17日
今日こそは二年間の宿望
槍の頂上を極めるのだ
惜しむらくは我らが眼界を覆える濃霧
 槍ヶ岳頂上にて


屏風岩の雄姿

この頃の父は
岩登りには興味がなかったと思われる
感動のコメントが無かった

見よ!!魚龍の顎を思わせる
恐るべき人をのむクレパス

雪渓の上にて 記念撮影


グリセイド 失敗して…

 幽玄の水をたたえた
神秘と伝説を秘めた明神池

父(右)と米川氏

ガイドさんと米川氏


7月18日
遂に数々の険所を征服して、憧れの地
パラダイス、上高地へ到着せり

火を吐く焼岳
五千尺宿館より
(現在の五千尺ホテル)


7月19日 
上高地に別れをつげて

帰路

学友と伊豆への旅


修善寺にて

伊豆の踊り子!?

どこへでもピッケルを持って行った父

伊豆の下田から大島への船旅

船中、見知らぬ人と将棋を指したが
船酔いで負け


御在所へハイキング


八高の友達と共に

八高文科1年時の父とスキー


右が父

初白馬岳登山の時のガイドさんの家

父とガイドさん

ガイドさんの家にて1週間滞在

 最初から理科に進みたかったこともあり、寮の友人達が理系の授業を受けているのが羨ましくて仕方がない。思い余って、「理科を受験します。」と担任の先生に言いに行った。先生は受験しないように説得したが、父は聞き入れず、八高文科に退学届を出して理科を受験した。合格発表の日、「理科合格 若山繁雄」、並べて「文科退学 若山繁雄」の張り紙がされた。もし、理科に受からなかった場合、八高から出されてしまうので、担任の先生の計らいで、父が退学届を出した時期を遅らせてくださったのだ。同一人物の名で「合格」と「退学」が同時に貼りだされたことは、八高で父が最初で最後であったと言う。
 やっと思い通り理科に進んだ父は、とうとう山岳部に入部する。
 「山岳部なら、もくもくと歩くだけで良いから、運動神経と関係なくできるだろう。」と、考えた結果の事だったと言う。
 父は自分の事を運動神経が無いために、山岳部に入ったと言っていたが、中学の頃から夢中になっていた登山を本当はやりたかったのだと私は思う。やはり祖父の反対で、直ぐには入部できなかったのだろう。運動神経が良いか悪いかはよく分からないが、父のバランス感覚はバツグンだった。
 「わしは、この頃、橋の欄干を見るとどうしても渡りたくなり、高下駄で欄干を渡って、皆をビックリさせたものだよ。」と語った。バカと煙はなんとやら…高いところが好きな父であった。勢い岩登りも上手かった。
 また、寒さに強く、冬山の零下10度というような場所でも、そんなに寒いとは思わなかった。この二つは父の特技に入れても良いと思う。
 やっと山岳部にたどり着いた父は、生涯の親友たちとめぐり会うことになる。
 一番の親友は、山岳部の憧れの先輩であった谷本光典先生である。「オタニ」と呼ばれていたが、父は谷本先生がいらっしゃらない時に、その方の話をするときは「オタニが…」と話し、会って話をするときは「谷本先生」と言った。先輩はしっかり立てていた。
 学部は医学部で2級上であったこの方は、父と郷里も同じで、卒業後は<山稜会>と言う、八高山岳部のOB会に属し、父の影となり日向となって支え続けてくださった方である。郷里の津島市で開業医を始められ、愛知県の医師会長も勤められたこともある。
 この谷本先生はとても面白い方で、名帝大卒業後、数年に1度ずつ難問を父に送って来られた。例えば、ラサ-ル中学の数学の入試問題などだ。難問中の難問と言うのを探して「バッカスの頭が健在かどうか確かめる素材が見つかりました。数式など使わずに解いてください。」などと書かれて送られて来るのである。父はそうなると、まず問題を持ってトイレにこもる。そして、大体の場合はしばらくして出て来て、問題を解いて谷本先生宛に送り返すのである。
 家の者などが病気や怪我をした場合は、父は直ぐに谷本先生に電話して指示を仰いだ。先生は事細かに指示を出し病院の手配などをしてくださった。本当に有り難い存在であった。これからの章に度々お出まし願うことになる。
 同級生では、牛島先生。ニックネ-ムは「ウシ」である。もちろん名前から来ていることもあるが、その悠々として急がざる様が牛に似ていると言うことであった。
 この方も医学部で、後に名古屋大学病院の外科病理学の名誉教授になられた。癌細胞を見つける名人であったそうだ。
 牛島先生がお亡くなりになった時に父が読んだ弔辞が、名古屋大学山岳部会報46号に掲載されている。ここで掻い摘んで紹介してみることにする。

「弔辞」 石岡繁雄(山岳部副会長) 平成4年8月20日
 私がもっとも親しくかつ心から尊敬していた牛島君の霊前で、君との長い付き合いを振り返らせていただきます。(略)
 さて、君のニックネ-ムは牛(ウシ)であり、君の行動はニックネ-ム通りゆっくりしていました。君は3年の八高生活を5年やり、私は初め文科に入りましたので4年やりました。たしか2年目に、君の留年によって君と私とは同級生になりました。君の留年は教練の出席時数の不足でした。それについて思い出があります。体操の授業が始まって一同整列した時、君が校庭の向こうからこちらへ歩いて来るのが見えました。体操の先生が「牛島君が歩いて来ますから待ちましょう。」と言って待ちました。君は少しも急がずゆっくりと近づいて来て、先生の方は見ず、並んでいる私達の方を見て「僕は今日は休みだ。かまわんから始めたまえ。」そこで先生が憤然として「牛島君は休みです。では始めましょう。」と言い、君は私達の体操を眺めていました。
 また私のクラスは2階にあり、私の席が窓際にありました。あるテスト期間で、テストが始まっても君の席は空いたままです。10分程経過した時、私がふと窓の下を見ますと君が校庭をゆっくり、ゆっくりと歩いているのが見えました。(略)
 君は戦前は仲田の家へ、戦後は鈴鹿の拙宅へよく来てくれました。祖母、愚妻、それに娘まで皆それぞれの思い出を懐かしく語っています。(略)
 2年前、君の体に癌が侵入したとき、君は自分の細胞を切り取って顕微鏡で眺め、その鋭い眼力によって、自分の命は後2年と言う決定を下しました。去る5月の名大山岳会の総会の時、すっかり肉の落ちた会長である君がその説明をし「あれから1年たった。従って自分の命は1年以内だ。諸君とのお別れだ。」との話を一同声を殺して聞き入りました。私はその後どうして良いか分からず、鳥居君と電話で「何とか慰める方法はないか。」と話していた矢先の喪報でした。
 八高山岳部の合宿はもとより、二人だけで冬の穂高へ出掛けたことも何回かあり、思い出は尽きませんが、全て省略させていただきます。君の得意の山の歌は「腹が減ったら、また歩け」と言うのでした。岩の傾斜に寝転んでよく歌ったものです。(略)
 君のご冥福を心からお祈りしつつ君との思い出を終わらせていただきます。


 
長い弔辞には、長年の親友への思いが切々と込められていた。
 また、八高山岳部時代の葉書も残っている。昭和13年3月13日付の牛島先生に宛てた父の葉書だ。以下に転記する。

 前略
 出発の際はわざわざお見送り下さって有難う。今、船津にて、人夫と交渉中ですが、賃金が意外に高く甚だ困りおります故、後発隊に50円ばかり余分に持参するように申されたく、お願い致します。尚、後発隊に次の品々を持ってくるようオタニに言って下さい。
ワカン(七つ)・トンカチ(二つ)・ガソリン(二缶 若山の家)・マット(二個)  バッカス

<以下略>この略は、当時の山岳部員の島津氏・辻岡氏からの依頼品が羅列されている。このことについて、父は八高のOB会機関紙『やつるぎ』445号(平成4年10月1日発行)に<「50円頼む」の葉書>という題で記している。
 下線の文字部分をクリックしていただくと、その文章がお読みいただけます
 
 先の文中にも出て来る鳥居さんも、同級の親友であった。もちろん八高山岳部であったが、大学は東京帝大へ行かれたので別れてしまった。
 第4次と第8次の南極越冬隊隊長を勤められた。
 父が亡くなった後、2年後鳥居さんもお亡くなりになったが、最後まで財団法人日本極地研究振興会で理事長をしてみえた。
 父の死後出した「石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実」の序文も書いてくださった。出だしはこうである。

 序   鳥居哲也
 石岡君、いや、あえて、ここでもバッカスと呼ばせてもらった方が、旧制の八高に入学して山岳部入部を誘われて以来の彼とのつき合い、彼の人柄がより読者には理解していただけると思う。
 大学はバッカスが名古屋で、私は東京と別々になった。以来、二人は山行を共にすることなどはなかったが、その人柄から彼は私にとって身近な存在だった。
 「バッカス」は言うまでもなく、ギリシア神話の酒神バッカスにちなんだものだが、彼は単なる酒好きではない。彼は、若者を問わず人の話をよく聞いた。バッカスの周りに多くの人が集まり、議論の場になったゆえんだ。

 <以下略>この後を入れると父が逝ってしまうので、後の章に送ることにする。

 父には他にも沢山の親しい学友が居たが、切りが無いので、他の方々はその都度ご登場願うことにして、お話を先に進めたいと思う。

 八高時代の父は、山の他に望遠鏡作りに熱中することになる。以後5年の月日を要して制作した望遠鏡とは…





第七話 綺羅星(きらぼし)の章

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