<その6:遭難現場の検証、松の木の実験>

昭和30年8月6日~9月上旬


8月5日 帰路に着く方々(木村小屋にて)


 8月6日 前穂高東壁Aフェ-スの遭難現場の検証
 4日にお骨を拾った父達親族は、上高地を後にして若山の両親の待つ愛知県愛西市へとお骨を抱いて向った。
 残った岩稜会のメンバ-のうち、伊藤経男氏・石原兄弟・澤田榮介氏・長谷川光男氏・毛塚一男氏の6名は、6日、重い石膏を背負って前穂高頂上を目指した。当事者の國利・澤田両氏の記憶に従い、現場検証を行うためだった。
 以下に掲載するのは『ナイロン・ザイル事件』にまとめられた調査書だが、これには原文が存在する。
  原文をご覧になられたい方は、左のアイコンをクリックしてください。

<前穂高東壁事件の現場調査>
 昭和30年8月6日
  天候 曇一時夕立
  湿度 38%(毛髪湿度計)
  温度 21.5度
 [調査班]
  伊藤経男・石原一郎・石原國利・澤田榮介・長谷川光男・毛塚一男
 [現場調査時の見物者]
  北穂会:山本和雄氏(後に岩稜会員となる山岳写真家)・信州大学山岳部員:2名・南山大学山岳部中世古隆司氏(後に日本山岳会東海支部長を務める)、他1名
 [作業概況]
  又白池テント発(8:30) 
  現場到着と同時に準備開始(10:00)
  現場測量作業開始(10:30) 同終了(12:30)
  テグス試験開始(12:40) 同終了(13:05)
  石膏作業開始(13:15) 同終了(14:10)
  全作業終了(14:10)
  前穂頂上にて昼食後出発(15:00)
  又白池テント着(15:30)
  テント撤収出発(16:45)
  上高地着(22:30)
 [現場にて拾得物]
  1.ザイルをかけた岩角に付着していたもの…ナイロンザイルの糸屑(3種類、ビニ-ル袋に入れて帰る)
  2.ビバ-ク地点にて…ビバ-ク当時使用のマッチ軸・ビニ-ル袋(昼食を入れたもの)・タプソ-ル(外用鎮痛消炎軟膏)の効能書・パラシュートの絹紐・チリ紙等

 調査の詳細
 

稜線ABは稜線CDに対して水平線に対し約20cm高い
AB,CDの稜角はいづれも約90度


  昭和30年1月2日前穂高東壁における遭難の原因を究明するためには、同行者の言の真実性を確かめる必要がある。そのため同行者(石原・澤田)を伴って現場に赴き、彼らの発表したザイル切断状況について実地調査した。
昭和30年8月5日、伊藤経男以下岩稜会員6名は、遺体の荼毘を終わったので、かねての計画通り、ザイル切断現場を調査するため、又白池に登った。
 翌8月6日、当日の天候は風はほとんど感ぜられなかったが、朝から曇っていて、東壁一帯は終日ガスに閉ざされていた。
 午前8時30分又白池を出発。途中A沢踏み替え点にて、我々より一足先に池を出発し、松高第一尾根へ向かわれた北穂会山本和雄氏他、信大山岳部2名と会った。
 午前10時前穂高岳頂上着。午前10時30分石原一郎、石原國利の2人は澤田榮介、毛塚一男両名の確保の下に懸垂で下降。今冬のオカン場(仮眠した場所)らしい場所に着いた。この場所にチリ紙、マッチの軸等が残置してあるのを見て、オカン場であるのを確認した。この位置は次の如くであった。(図1参照)
 前穂高頂上から東壁の上縁にそって高さにして10~15m程下った所にちょっとしたテラス(岩棚T1とする)がある。つまり東壁Aフェ-ス(岩壁)の登攀終了点である。そのテラスよりやや幅広いチムニ-(岩溝)が約10m下に落ち込んでいる。チムニ-の下端より左側は横幅約20m傾斜45度程度の斜面となっていて、約20mでAフェ-ス下部に続く。右側はほとんど垂直な壁で、この岩にそって7~8m下ると、そこで右側の壁は切れていて、そこを右へ廻り込んだ地点がそれである。オカン場は、三人が辛うじて並んで腰を下ろせる程度の平たい岩である。今冬の墜死者若山は、この岩の右端から約1.5m上に登り、更にその上にある幅約60mm、長さ約3.5mのチムニ-を登り、そのチムニ-の出口の庇状に突出した岩にザイルをかけ、右側の壁に移り、右へトラバ-ス(横断)せんとしたがおよばず、現位置から再び行動を開始しようとした時に左足を滑らし、前記突出せる岩を支点として振り戻され、ザイルが切れて墜落して行ったのである。今冬の事故発生当時、墜死者若山が登ってみる直前に、石原國利は前記チムニ-を登り、前記突出した岩にザイルをかけて、チムニ-の直登を試みていたので、今回再びチムニ-を登ってみることとし、チムニ-の右の壁にハ-ケンを打って確保となし、前記突出した岩に触れてみたところ、今冬に於ける感覚と完全に一致した。そこでそのままチムニ-を抜けて、前記突出せる岩の上部に出て、今冬ザイルをかけたと考えられる部分を観察してみたところ、驚くべきことにナイロンの糸屑3種を発見した。現場調査隊は事故は岩角でザイルが切断したためだという考えは、もはや決定的であると話し合った。
 ザイルの切断箇所が判明したので、次に切断時に於ける位置関係を明確にするために、巻尺によって測定した。結果は2図の如くであった。(図中に入れた人物及びザイルの張り方などは、墜死者若山及び石原の身長並びに遺体に結ばれていたザイルの長さを慎重考慮して描いたものである。)
 次にザイルをかけた岩の状態及び、切断箇所の突鋭度その他を調査するため次の仕事をした。
① 岩角は稜角約90度で、稜は約8cmにわたり鋭い部分とやや緩い部分とが断続している。(3図)
② ザイルをかけた岩角の突鋭度を調査するため東洋レ-ヨン製9mm魚釣り用テグスを使用して荷重テストを試みた。しかし、ザイルが動いたと思われる間隔で実験を行った為、デ-タがまちまちである。(実験5回…2kg,5kg,6kg,3kg,5kgでテグスが切れた)念のためにその実験方法を記せば、前記テグスを各々2mの長さに切り、一端に20kg用バネ秤を結び付けた。先刻打ったハ-ケンに、12mm麻ザイルを固定して、テグスの中央部がエッジに当たる点で、テグスの一端と結び合わせた。テグスを前記の岩にかけ、テグスの他端にも12mm麻ザイルを結び合わせて、秤の目盛りを読みながら若山の落下方向に徐々に引張ってテグスの切れたkg数を前記値とした。
 尚、この実験中、先記山本氏以下3人の方々が上部テラスまで来られ終りまで参観された。
③ ザイルが切断した箇所の岩角の石膏型を取るために、準備してきた用具を上部テラスから吊り下げてもらい、飯盒でカリ石鹸及び石膏を溶き、まずカリ石鹸を岩の表面に塗って石膏を流したが、カリ石鹸の量が少なかったためか、石膏の分離が巧くゆかず、第一回目は失敗した。それで二回目は充分にカリ石鹸を塗布し、再び石膏を流したところ、今度は成功した。(4図参照)石膏型を取っていた頃、又白池にテントを張っていられた南山大学の中世古隆司氏他一名がAフェ-スを登って来られた。石膏の型取りが終わったので、前記石原兄弟は上部テラスまで登り、午後2時10分調査を終えた。
 調査の運営上の指導は、上部テラスにて伊藤経男が担当し、かつ記録した。

ナイロンザイルが切断した岩角に麻ザイルをかたけところを上から撮影
(この写真はこの章で2度目の掲載となる)




現場に残ったナイロン屑3種


復元した石膏を真横から見た所

以下に現場検証の写真を掲載する


現場調査班岩稜会員6名
前穂高の頂上にて


左より 澤田氏・長谷川氏・伊藤氏・一郎氏・國利氏
前に 毛塚氏

アンザイレンして、そこから調査の下降をする

 
奥左 白ベレ-帽の國利氏・黒ベレ-帽の一郎氏
手前左から 毛塚氏・澤田氏・長谷川氏

ここからアップザイレン(懸垂下降)

ガスの巻く前穂東壁

1月1日のビバ-ク地点

このような姿で三人並んで休んだ

問題の五朗叔父滑落箇所を登る

①はビバ-ク地点
②の裏に、ザイルを切断した岩角

登っているのは部隊長こと石原一郎氏




 

ザイルを切った岩角(+印裏)に
麻ザイルをかけたところ



懸命に確保する毛塚氏(右)と澤田氏

この時、澤田氏は凍傷で足の指を3本失くした後で
まだ相当に痛んだとのことだ

ザイルをかけた岩を真下から仰ぐ
 
ザイルをかけた岩の直下を登る
 
ザイルをかけた岩を真上から見る

矢印はその岩角
 
真上から写真を撮る
 
真上からの全景

遠景

父の命令に従ったとはいえ、調査は細部に至り、
この時の調査班の方々の執念とご苦労が偲ばれる。

 五朗叔父の腰に巻かれていたナイロンザイルの切り口は階段状をしていて、その端からは、同じ長さの繊維束が離脱した。この現場調査の時に、國利氏が特定したザイルを切った岩角には、それと同じ繊維束が付着していた。吹けば飛ぶようなこの繊維束が、7ヶ月の風雪に耐えてザイル切断箇所を示していたことは、奇跡としか言いようがない。
 父は「五朗の魂が必死にナイロン屑を押えていたに違いない」と語った。

8月9日 若山五朗の告別式

この電報は若山家から、8月5日に
上高地の帝国ホテル気付で、
岩稜会宛に打たれたものである


若山の自宅に組まれた祭壇


五朗叔父の告別式の日のことは、
どこにも記されていない。
ただ、左の電報が残されていたので、日付が判った。
8月9日14時からの式であった。
命日は1月2日なので、その後の法要もその時であり
葬儀の日は特別な意味を持たなかったのだと思われる。

若山の家は信心深かったため、
立派な仏壇があった(左) 

 玄関から続く庭には写真が飾られた


 8月16日
 昭和29年12月28日に明神岳第五峯東壁で、東雲山渓会が登攀中に8mmナイロンザイルが切断して、大高俊直氏が重傷を負っている。この日、國利氏は東雲山渓会の三人のメンバ-と共に、その現場調査を行った。
 前章の7月13日の部分に掲載した、現場検証のお願いの手紙のお返事を、大高氏から7月30付でいただいていた。
その手紙はこのアイコンをクリックして下されば、ご覧いただける。


<明神岳第五峯東壁事故の現場調査>
 今後同じ種類の遭難を繰り返さないようにするためには、遭難原因を究明する必要がある。東雲山渓会の場合のザイル切断も、従来の常識では考えられぬようなもろさであったため是非とも現場を調査する必要があると考え、岩稜会石原國利は東雲山渓会の大高氏を訪れ、このお願いをし一緒に調査してもらうこととなった。
 最も重要な点は
  1. ハ-ケンにカラビナが残っているかどうか。
  2. 切断は岩角以外には考えられないが、そのような岩角があるかどうかの二点である。
 昭和30年8月16日、東雲山渓会大高俊直、亀岡隆志、加藤仁の3人及び岩稜会の石原國利の4名は午前8時30分明神養魚所を出発、現地に赴いた。
 当日の天候は、午前快晴、午後高曇りであった。大高氏の先導で午前11時現場に到着、早速調査に取りかかった。
 事故発生現場は、ちょうど中央リンネに達するル-ト中にある顕著な洞穴の真上5~6mと推定された。
 調査の方針は前穂高東壁の場合に準ずるものであったが、現場で作業することが危険な場所であることと、切断を思わせる岩角は発見できたが、前穂高の場合のようにナイロンの糸屑などを発見することが出来なかったので、切断箇所の断定は困難であり、従って石膏など用意はしたが不要となり、調査は位置関係の測定に留まった。
 しかし、ザイルの切断の原因を推定するに充分の資料を得ることが出来たと思う。
 今冬使用した2本のハ-ケンP1,P2が残存した事。しかもP2にはカラビナがかかったまま残っており、当時の状況からして、P2のカラビナが支点となって振り戻され、大高氏の落下方向から推察して、大高氏とP2カラビナとの中間でザイルが切断したと考えられる。
 壁は約80度の急斜面であり、途中、障害物さえなければ、ザイルは壁面に沿って位置を下げ、遂にはP2のカラビナを支点として止まる様な地形であるが、P2より約60cmの間隔の所に、稜角約90度、約5cmの高さを有する隆起が壁面を上下に走っている。この突鋭度は、石原には前穂高東壁の場合に比して、むしろ鋭いと感ぜられた。墜落の際、この稜角でザイルが切断に至ったと推定する。他に障害物のないことや、墜落方向から推定して、切断箇所はこの稜角のいずれかの部分であったと考えられる。
 これは現場て調査測定した大高氏、石原の一致した意見であった。
 現場の位置関係は図の如くである。

 同日 父宛 田中栄蔵氏からの手紙
  復
 お暑いのにお変わりありませんか。
 過日は五朗さんの亡骸が見つかった電報をいただき、やっと一安心されたことと思いました。早くお返事をと思いながら、新製品の開発をやらされており、日夜あれこれと多忙で疲れ果てて、手紙を書く気分になれないまま、今日になりました。深くお詫び致します。
 7月1日~4日と徳澤に行き新村橋の開通に参加しました。もし、4日が晴天ならば又白に登るつもりでいましたが、3日夜から嵐となり、4日も大荒れで下山しました。A沢やAフェ-スがよく見えましたが、少しご無沙汰していると岩壁がえらく高く見えて、登高できるかどうか怪しいものだと思うほどでした。梶本君とも話し合いましたが、仕事をもっているので、登らずじまいでした。
 お父上もご安心なさると共に、新たにお年を召されたのではないかと心配しています。新盆の今頃はやはり、山の悲しみが、ご一家に憂鬱をもたらしていることと思い、山では死んではいけないとつくづく思います。
 しかし、ナイロンが岩角に弱い事実は、尊い五朗さんの死によって、明るみに出され、多くの岳人に、貴重な警告を与えたことによって、決して無意味ではなかった。否、むしろそのパイオニア的な、事蹟を忘れてはなるまいと思います。梶本君とも岩に登るならば、決して落ちてはいけない。もし落ちるにしても、ダイナミックビレ-をしている時でなければ、死を意味するものだと言う事を話合いました。我々の技術がまだ、多くの研究によって安全にされなければならないことを痛感いたしました。
 五朗さんの霊が安らかになるためには、私たちに残された仕事はまだまだ沢山あります。その一つ一つは、これからしっかりとやり遂げなくてはならないでしょう。そうしてこそ、私たちは五朗さんの霊をいくらかでも安らかにすることが出来、我々の技術にも、心にも、安心が生まれてくるからだと思います。
 もう老兵になりつつある私には、そう感じられます。私にできることがあれば、お手助けを致します。
 新盆を迎えられて新たな悲しみに包まれておられるご一家のことを思うと、お気の毒に存じます。残され、生きている身の上は、やはり、さらにこれを乗り越えて彼岸の彼方の幸のために努力されることだと私は信じます。
 ご一家、岩稜会の皆様によろしく。 敬白
 8月15日
石岡繁雄様   諏訪多栄蔵 

 8月27日 昭和30年度岩稜会定例総会
 この日、鈴鹿山脈山の家で岩稜会の総会が行われて、19名が参加している。詳しい資料は残されていないが、今後行われる松の木の実験方法等のことが話し合われたと思われる。

 9月1日 
 父は、蒲郡実験から五朗叔父の遺体発見までの間に、篠田軍治教授の偽りの公開実験を追求するための必須条件を考えた。そのポイントは以下の4つである。
① 五朗叔父の腰にナイロンザイルが正しく結ばれいるか。→遺体の発見
② 遭難現場でナイロンザイルを切った岩角を特定できるか。→現場検証
③ 当初、篠田教授は予備実験をして、ナイロンザイルの岩角欠陥を認めていたが、その実験デ-タを入手できるか。→加藤富雄氏が暁学園鈴峯会記録に掲載された「岩登りに於けるザイルの破断とその対策について」
④ 現場検証で特定された岩角を用いて、新品ナイロンザイルを使用しての実験を行い、ナイロンザイルの岩角欠陥を証明すること。
①から③まではクリアできたので、④の実験を、三重県鈴鹿市にある神戸城跡で、松の巨木を使用して行った。

<岩稜会が行った巨木による実験>
 年月日:昭和30年9月1日
 場所:三重県鈴鹿市神戸本多町 神戸城跡
 実験者:岩稜会 石岡繁雄以下6名・神戸高校山岳部 赤嶺秀雄以下5名
 試験装置及び方法:
  松の枝(地上3.2m、周り28cm)に約90度の角度のエッヂ(1図)を有する岩塊を置き、ハ-ケン及び縄で固定する。被試験ザイルをエッヂにまたがらせ、一端を地面に固定し、他端に錘をつけて落下させザイルの破断状況を調べる。
 錘を垂直に落下させる場合をAのテスト、錘を斜上方より落下させる場合をBのテストとする。
 L…エッヂより錘までのザイルの長さ
 H…垂直落下距離
 尚、錘は重量18貫(67.5kg)の物を使用する。(墜落者の重量にほぼ等しい)
 エッヂよりザイルの固定点までのザイルの長さを3m50cmと定。エッヂは約15度傾きザイルはエッヂの上を5cm乃至15cm移動する。
 テストザイルには新品の東京製綱マニラ麻12mmと、東京製綱ナイロン強力糸8mmの(今冬東壁での事故ザイル)2種類を使用する。

Aのテスト    
ザイル L(cm) H(cm) ザイル破損状況 備考
ナイロン8mm 200 50 全くあっけなく切れる 鋭利な刃で断ち切った感じ5cm程切断部ほぐれる
マニラ麻12mm 200 100 1ストランドの1本切断 同位置で数度行うも切断せず 
マニラ麻12mm 200 200 完全に切断 切れ口は引きちぎった感じ
Bのテスト    
ザイル L(cm) 錘の垂直移動距離 錘の水平移動距離  ザイル破損状況 備考
ナイロン8mm 200 60 70 あっけなく切断 錘の落下位置は垂直落下位置より30cm手前。振子状態に移る前切断
マニラ麻12mm 200 60 70 損傷 エッヂ上のズレ約12cm

神戸城跡での実験
 
松の木にかけられたザイルと実験



使用した岩角その1

使用した岩角その2

テストAのスケッチ

テストBのスケッチ

実験のメモ

実験のメモ


上のメモをクリックしていただきますと
全てのメモをご覧いただけます


 9月上旬 上記の、現場検証と実験から、岩稜会はザイルに関する第一回見解を出す。
 
<岩稜会のザイルに関する見解>
 墜落によってザイルが切断する場合、ザイル切断箇所は、ザイルの支点(カラビナ・岩角等)と考えてよい。従ってザイルの性能を考えるに当たっては、①ザイルの抗張力、②伸び、③支点での劣化度等の総合的なものをもってなされなければならない。
 麻ザイルとナイロンザイルとを比較してみるのに、支点がカラビナのように丸くて滑らかな場合には、ナイロンザイルは麻ザイルより強い。これに反し、普通の岩場に見られる岩角のように、角が鋭かったり(ここに鋭いと言うのは、稜線の角度の事ではない。指で押さえてみて痛いとか、丸味があるとか言う度合である。例えば右図のイ)とロ)は共に同じ稜角であるが、イ)はロ)に比し鋭い)
 面状に凸凹がある場合は、ナイロンザイルは麻ザイルより弱い。(今冬の三つのナイロンザイル切断は共に岩角によるものだと考えられる。確保者にはザイル切断のショックは全くなく、従ってザイルの切断に全く気付いていない)ザイルを岩角で使用する場合には、ザイルを岩角にかけないようにすることは出来るとしても、墜落の時に、ザイルが岩角に引っかかることを避けることは難しいので、ナイロンザイルは麻ザイルに比してかなりの制限を受ける。しかし、勿論麻ザイルと言えども、岩角が支点になる場合は、カラビナの場合に比して相当に弱くなるのを(いわゆる直接確保の場合よりも更に弱くなる)特に注意せねばならない。ナイロンザイルを固定綱として使用するとか、或は全く岩角に接触する怖れの無い場合で使用する場合には、ナイロンザイルは麻ザイルに比べて、従来知られているような多くの利点を持つものである。
 「尚、墜落者の確保に際しては、従来は直接確保の手段が取られていたが、最近この方法が否定され、いわゆる制動確保による方法が推奨され、これ以外に安全な方法はないと考えらるようになった。しかし、ここに注目しなければならないことは、今冬の三つのナイロンザイルの切断事故においては、いずれの場合も確保者に墜落のショックが伝わらないほどあっ気なく切断している事実である。(東雲山渓会、大阪市立大学山岳部の場合は、確保者はザイルの切断に気がついていない)つまりナイロンザイルが岩角を支点とする時には、確保者にショックも伝わらないほど弱い場合があるので、制動確保技術云々は全く問題にならない訳である。要するにナイロンザイルで岩角が支点になった場合には、おそらく確保の手段はないと考えてよいと思う。」
 次に述べる調査、実験デ-タ及び「29年11月慶応山岳部(富士山で11mmナイロンザイルが切れかかった事件)、29年12月末東雲山渓会、30年1月大阪市立大学山岳部の場合」を参照して、使用の際の注意とせられれば幸いである。
 調査Ⅰ、前穂高岳東壁面での現場調査
 実験Ⅰ、木製ヤグラによる実験
 実験Ⅱ、巨木による実験

 次の章に行く前に、少し岩稜会の副会長伊藤氏のことを紹介する。
 伊藤経男氏、通称社長(鈴鹿市でスポ-ツ用品店を経営する社長さんであった) 温厚な性格で、父の最も信頼していた方で、岩稜会の会員からも敬愛されていた。鈴鹿山岳会から岩稜会員となられて、年は父より1歳下であった。突っ走る父にハラハラドキドキしながらも、ひたすらついて頑張ってくださった。この後のナイロンザイル事件を闘う中でも、重要な役割を果たされる。酒豪の方ばかりの岩稜会員の中で、全くのゲコで、お茶を飲みながらいつまでも酒宴に付き合ってくださる心優しい方であった。
 作家の井上靖先生からも好かれて、昭和46年9月から10月にかけて、アフガニスタン・ネパ-ルへの取材旅行にも、國利氏、上岡謙一氏と共に、同行している。その時の取材を基にして書かれた長編小説『星と祭』では、伊藤氏は「伊原」として登場し、ニックネ-ムは実際と同じで「社長」である。ちなみに國利氏は「岩代」で「邦ちゃん」、上岡氏は「上松」で「ニュ-ギニヤ」(太平洋戦争のニュ-ギニヤ戦線で、数少ない生き残りであったため、岩稜会ではこの名前で呼ばれていた。上岡氏は「自分は山をやっていたので生き残れた。もしやっていなければ今頃はこの世の者ではなかった」と言ってみえる。岩稜会の中でもトップクラスの登山家である)であった。作品中、井上先生は「架山」、同行の画家「池野」は、生沢朗氏である。岩稜会のお三人は、小説での性格も、ご本人そのままであり興味深い。
 岩稜会では、社長と神戸高校山岳部の顧問を務める赤嶺先生、そして父とで三羽烏と呼ばれていた。父が2006年8月15日に亡くなった後、同年の10月9日には社長が、そして翌年の3月21日には赤嶺先生が後を追うように亡くなられた。

以下の写真をクリックしてください
<その7:登山者の命を守るための闘いへの道>へご案内いたします…




2016年3月14日更新