第十四話 紺碧の章         2018年6月15日起


上の写真は『穂高の岩場2』のハ-ドカバ-の裏表紙に掲載されたものです
場所=「又白」北条・新村ル-トの<北条の大ハング>


ナイロンザイル事件に終止符を打つことに決めた父は
岩稜会の優れたクライマーたちを檜舞台に立たせるために奔走します。
そして自らは、ほとばしる発想を次々と形にしてゆきます。

この章では昭和34(1959)年から豊田高専就任までを一区切りとして
年度ごとに頁を替えて掲載いたします。
<暗黒の章>最終頁にも記しましたように、昭和34年の出来事の内、
ナイロンザイル事件関係を除いた資料を、まずはこの頁に記します。

昭和35年

昭和36年

昭和37年

昭和38年

昭和39年
それ以後の年度は、上のアイコンをクリックしていただくとご覧いただけるように致します。

 昭和34(1959)年 岩稜会山行記録
  昭和33年12月27日~1月4日 穂高合宿
  1月6日~10日 奥又白合宿(8日:筑豊山の会遭難救助)
 11月1日~4日 横尾合宿
 12月25日~昭和35年1月5日 穂高合宿
  

 昭和34(1959)年1月 東海岳連理事長宛 「趣意書」下書き
 父著
 <暗黒の章13,14>昭和32年にも資料が出て来るが、若い登山家の力に押された父は、ヒマラヤへの道を模索し続ける。
 昭和29年から始まったヒマラヤへの夢は、当初、八高山岳部OB会の山稜会・名古屋大学山岳会・岩稜会で実行委員会を作ろうとしたが、思うように資金調達も出来なかった。
 この年の遠征計画では、愛知・岐阜・三重の山岳連盟にも呼びかけている。
 右に掲載した「趣意書」下書きをまずは解読清書するので、お読みいただければ父の考え方がお判りいただけると思う。

昭和34年1月 日
 東海岳連理事長殿
  東海岳連理事 中川…、伊藤経男、………
  別紙趣意書の内容をもつ左記事項を、東海岳連役員会で検討していただくようお願いします。
   記

 高度技術に関する専門部会の設立について

趣意書
 登山を志す者、とくに山への熱情に燃える新進気鋭の若人にとっては、より高度の登山が目標であることは言を待ちません。これは登山がスポーツとしての一面を持つことからしても、当然なことと考えられます。
 最近のいわゆる高度の登山は、厳冬期の大岩壁の登攀という先鋭的な面を持つほか、大規模な極地法登山ヒマラヤをはじめ、世界各地への遠征登山という、幅広い面を持っております。
 この状態特に後者の場合は、一朝一夕で達せられるものではなく、複雑多岐な研究(登攀用具、高度食糧、高度の医学的影響、装備、目的地の地理、言語、風俗、特に千冊に達するヒマラヤ文献の研究等)人材の量的・質的充実、経済力の確保等が絶対必要であります。
 しかしながらこうした能力を得ることは、東海地区の現状では、単一登山団体では困難であると考えられます。
 この状態から脱却し、関東・関西に劣らない高度の登山、出来うればヒマラヤ遠征を実現し、若人の希望を達成させるとともに、東海地区の登山を飛躍させるためには、各登山団体の強固な協力以外にないと考えます。
 以上述べたことは、最近既に一部の人々の強い希望となってあらわれているところで、早晩具体的な形となることは疑われません。
 ひるがえって岳連の性格を考えてみますのに、岳連は個々の登山団体の横の連絡を密にして、登山の健全な発展に資することを目的としてかかげています。
 さて以上の諸点、即ち日本登山界並に、東海地区の現状、傘下の会員の具体的な動き、岳連の性格からして、今や岳連は積極的にこの問題を取り上げ、具現力のある組織を設けるべきではなかろうかと考えるのであります。
 もとよりこれが実際運営に際しては、幾多の困難・不都合が予想されます。しかし岳連参加会員各位の山を愛する熱情と、不屈の努力、謙虚な私情を交えぬ態度とさえあれば、必ずやそれらを除去・解決して、輝かしい成果を上げてゆくと信じて疑いません。
 不可能と思われるような目標にも、それに向かって具体的な努力が、たゆみなく積み上げられていれば、単に好機を逃がさないというばかりでなく、積極的に機会を作り出すことも不可能ではないと考えます。逆に言えば、目標に対する夢と、それを実現するための現実的な準備がなかったならば、あるべき機会も生じないことになると考えます。
 なお実際運営に際して、不都合をできるだけ少なくするためには、適正な運営機構が必要でありますが、とりあえず次記のものを、私案として提出します。

 討論して修正していただくことはもとより、今後とも修正を加えてゆく必要があると考えます。

   記

1.部長 1名 人選は役員会で決定する理事が兼任する
1.委員 10名 人選は部長が行う。各県岳連少なくとも2名を含む
1.部員 約20名

 部員の選考等を含む運営上の諸問題の決定は、委員会の議を経て部長が行う。登山の実践等、重要事項の決定については、部長は役員会の許可を得るものとする。当面の事業として定例の集会を持ち、技術的な研究にあたる。(なお登山計画が出来た時は、役員会の許可を経た後、実行委員会を設け、実行に移す)


 1月 福岡大学ヒマラヤ委員会発行 探査隊計画書

 父はヒマラヤの研究に余念がなかった。そこで、右のような資料が集められていた。
 クリックしていただければ、全てご覧いただける。

 1月 未定稿の「ヒマラヤ主要登山年表」(1818-1958)
  深田久弥氏編

 これも上記と同様、ヒマラヤ研究のための資料として残されたものである。

 右の資料表紙をクリックしてください。全文お読みいただけます。

  1月 『穂高の岩場』序文の原稿 藤木九三氏著

 苦節5年を費やし、出版社の朋文堂から散々催促された『穂高の岩場1』が遂に発刊されることになり、藤木九三氏(1909年に東京毎日新聞に入社。1915年朝日新聞に転職。六甲山の岩場をロック・ガ-デンと命名。1928年ロック・クライミングを目的とした山岳会であるRCC同人を水野祥太郎氏・西岡一雄氏とともに発足。1929年、日本初の岩登りの理論書である『岩登り術』を刊行するとともに、8月には、案内人の松井憲三氏とともに、北穂高岳滝谷の初登攀に成功した)に序文をお願いした。右は、そのお原稿である。
 以下に解読清書する。


 『穂高の岩場』はわが国のスポーツ・アルピニズム発祥の聖地だ。現に、四季を通じてザイルと、ピッケルと、さらにアイゼンの総合技術のゲレンデを提供し、時に選ばれたクライマーにとって、真剣な山との対決をうながすアリーナでもある。 かつて、アルプスの先駆者たちが、はじめて徳本峠から、上高地をへだてて正面に仰いだ峰々に驚異のひとみを見張り、神々の統べる(すべる)山として「明神岳」と名づけたのも、これら一連のピークのひとつだった。また、前穂高から北尾根にかけての稜線が、ピラミッドの列を押し立てているのを、御幣岳(ゴヘイダケ)と呼んだのも、往時の岳徒の敬虔な思念を偲ばせるものがある。
 また、典型的な氷河地形としての「涸沢」は、“極東の遊山場” THE PLAYGROUND OF THE FAR EAST の内院であり、そこにあった旧岩小屋や、横尾のロック・シェルターが、あの頃のパイオニーアたちの足溜りとして、アルピニズムの進展に寄与したことは著しいものがあった。そして、かねて大島亮吉氏が、『涸沢の岩小屋のある夜のこと』という一篇の随想を発表して間もなく、彼自身、前穂の一角で若い生涯を断ったのは、単に運命のいたずらだけでは説明できない、多くの暗示をあたえたものだった。
 それにつけても、ヨーロッパのアルプス巡礼から帰られた秩父宮殿下が、岩登りを主として計画された槍・穂高逆縦走のみぎり、わざわざ涸沢の岩小屋を訪ねられたのも、この国の若い世代がもたらしたアルピニズムの発展過程に心を寄せられてのことだった。
 この書『穂高の岩場』は、そうした伝統をバックに、屏風岩正面のクライマーである石岡繁雄君を中心とする岩稜会のグループが、十数年の実践を結集して完成した・画期的な指導書である。なおこの間、井上靖氏の創作『氷壁』のテーマとなったナイロン・ザイル事件の犠牲が秘められていることは、特に本書の真価を裏付けている。   藤木九三



『穂高の岩場』で使用された図の一部

 

使用された写真にはトレ-シングペ-パ-が貼られて
写真のカット部分や、入る頁数、場所などが指示されていた



 1月24日 父宛 中尾佐助氏からの速達手紙

 中尾佐助氏(1916年8月12日生-1993年11月20日没、77歳)は、昭和後期-平成時代の栽培植物学者。昭和36年大阪府立大教授となり,55年鹿児島大教授。栽培植物の起源などに関してアジア,アフリカをひろく学術調査する。日本の農耕文化の起源と南アジア一帯の照葉樹林文化との関連を指摘した。愛知県豊川市出身。京都帝大卒。著作に「秘境ブータン」「花と木の文化史」など。
 この手紙を書かれた頃は浪速大学農学部講師。1958年には日本人として初めてブ-タンを訪問し、単身踏査。ネパール・ヒマラヤの照葉樹林帯における植生や生態系を調査する中で、そこに生活する人々の文化要素に日本との共通点が多いことを発見、後に佐々木高明氏らとともに「照葉樹林文化論」を提唱するに至る。
 父は中尾氏にヒマラヤ遠征について、ご意見をいただくために手紙を書いたものと思われる。以下は、そのお返事の解読清書である。

御手紙拝見しました。わたしはやはり依然として、ジャヌーより東ネパール(ジューガルヒマール、ロワーリングヒマール)を一番よい所と考えます。ロワーリングヒマールの主峰は、ガウリサンカール(23,440フィートで、かなり低いが名山です)この山群の写真は朝日新聞社の『エベレスト』に出ています。ナムチェバザールから、この山群の南にあるロワーリングコーラに出る峠の写真、及び新発見のピークの写真が見られます。この川はボータコシの上流で、この河の一帯にも19,000フィート級はたくさんあります。ここへのアプローチの途は、カトマンズからあり、所要日数もロワーリングコーラのベースキャンプ(ガウリサンカール及び新ピーク)まで14日(マナスルより一寸近い)と思います。
 もしジューガルヒマールを選べば、アプローチは1週間ですむと思います。ジューガルヒマールの写真は、『山岳』(日本山岳会機関誌)1952年に西堀さんがカトマンズから写した写真が出ています。

 その説明はゴサインターン山群となっていますが、ゴサインターンはチベットにあって、カトマンズからは見えません。この山群は地図上 Dorje Lakpa (22,876)Phurbi Chyachu (21,839) Kharane Tippa (18,527) など全然知られていない山々です。いずれも大したことはないが、その調子は、西堀さんの写真から判定して下さい。ただし地図上はこの山群の南面は、大きな岩場の附号になっていますが、それがどんなものかは行ってみなければ判りません。アンナプルナの南面のようなことになるか、どうかは全く疑問です。写真で見える上部は、わたくしがダウラギリーからガネシュヒマールまでの間で見た多くのヒマールのうちで、ヤルゲングコーラの奥の山を除いては、一番登りよい様な姿をしていると思います。
 
この様な次第で、わたしは名古屋の方の再考を考慮していただきたいと思います。地図は今度の会合に持っていきます。
ジャヌーに計画を決め、先発、本体を分けて出すことは、現実計画として一方ならぬ手数と思います。ジャヌー程度に文献のある山へ、偵察隊を出すということは、一寸筋が通らないと思います。そんなことではヒマラヤの山はみんな偵察隊が要ることになると思います。

 それから偵察隊の結果に基づいて方向転換をすると、始めからいうほどジャヌーに自信がなければ、手数をはぶいて始めから一本の隊を出した方がよいと思います。第一交通不便で結果を知らせるのにも、1ヶ月以上もかかるし、そのうえモンスーンの雨は大したことはなくても、雲が多くて山の姿はなかなか思うように見えないと思います。
 手続きとしてはネパール政府のパーミッションがあればよいわけです。そのためにカトマンズまで、アプリケーションを提出しなければなりません。そのかえぞえには、日本からはクリスナ氏、カトマンズではダルシャンがよいと思います。トランスポートビザというものはありません。シェルパの契約はダージリングのミセスヘンダーソンを通してやる必要があります。その時には彼女の御気に入りの西堀さんを通ずるのがよいと思います。そのほか決行と決まれば、日本外務省からの公文書で、印度政府に対する荷物の無税通関の申請をして許可を得る必要があります。無税通関はネパール国にも手続きが要ります。尚、ネパールに対するアプリケーションは出来る限り、マナスル隊に託して、彼等がカトマンズ滞在中にパーミッションをもらっておかないと、官吏道の常として、のびのびになってついおくれてきて、準備に困難すると思いません(思います?)。とにかくパーミッションがないと、前例から見て、エクスペディションの準備は本格的に進まないものです。
 余り御役にも立たないと思いますが、御面接の上で更に必要がありましたら、何でも知る限り申し上げます。
 124日   中尾佐助
 石岡様


 3月11日 父宛 太田年春氏からの親展速達手紙

拝啓
 橋一つ向こうも千里の心地にて、いづこへも御無沙汰を重ねて全く恐縮です。
 先日、松田兄が突然早朝上京し、びっくり致しました。
前の日から小松君が上京してましたので、総てよめたという次第で、今回の両兄の南極行が実現したならば、こんな喜ばしい事はありません。
今後の御配慮を重々お願いして、あえてはヒマラヤの旅を夢見てます。
 さて、今日特に失礼なお願いがありまして、筆を取った次第です。
 その前に一つ問題があります。それは是非共この太田年春を信じていただきたい訳です。行く末は太田もアルペンから消さる様な話も耳にした事もありますが、決してそうではありません。私は信念を持ってアルペン(太田氏が務めていたスポ-ツ用品店。1972年創業の名古屋を拠点とするものではない)の城をより大きく築き上げ、生涯守る義務があります。どこ迄も信じて下さい。
 これはこの位として。
 今回、当社も防衛庁の指定店となりました。それに是非欲しいものは、オネストなのです。特に落下傘にこのオネストなるものを利用したならば、これは大変な事です。大きな問題です。当然登山用のものも、一日も早くほしい事はもちろんですが、これにつき考えて見ていただけないでしょうか。この件につき当方から出掛けるのが当然ですが、いろいろと会っていただきたい人も居りますし、一日、日曜日を利用して御上京願えたら幸いに存じます。
もしお出掛け下さる折には、オネストに関する資料、出来れば現物見本、実験写真、その他関係する物等、御持参願いたく節にお願い申し上げます。
誠に勝手ですが、何分の御返信願えれば幸甚と存じます。
当然な事ですが、旅費一切当方がお持ちいたします。  草々拝具  太田年春拝
石岡様


 3月14日 父宛 海津明彬氏からの手紙

拝啓 先日はお邪魔致しました。翌日ニコン君に会いまして、転室の話を致しましたところ、御案じになっていた通り、部屋を変えるよりも寧ろ(むしろ)家を変えたいと思って居り、心当たりもあるのだがという様な話でした。
 御宅では色々と御心配下さって、御世話頂きまして、其の御厚意に対しては申し訳ない様に思いますが、ニコン君から見れば、自分の上司の友人の家になるのですから、やはり気詰まりなことはありましょうし、又親と別れてその有難味が判るというわけのものですから、却って其の方がよいかと思われます。又今迄の事は、一切別として留学本来の事から言いますと、勉学に差し支えのない限りは、二度とない外国留学の機会を、一軒の家庭で過ごすよりかは、他の家庭も知ることは有意義であろうと思います。
 そしてニコン君は前にインドネシア(?)から来ていた人が住まっていた下宿で心当たりの所があるから、一緒に見て呉れないかと言う様な事でして、実は査証の書き換えの期限の関係もある事でして、木村君に一緒に見に行って貰った様な事でした。それから私は東京へ行き、昨日帰宅した様な事ですが、木村君から手紙が来ていまして、その家というのは滝子の近くで、主人は京大の電気科を卒業して新聞社に勤めて居り、家は広くて二階を貸して、下宿人が3人許り(ばかり)居るそうです。下宿としては良い家だとの事ですし、一年間御世話になって下宿生活もできる事と思われますので、折角の今迄の御厚意に対して、相済みませんが、転宅の事に就いては、御同意頂けませんでしょうか。私自身御訪ねして御頼みしなければならぬ事ですが、再々此方を留守にしていますので、木村君に話して頂きますが、宜しく御願い致します。
 尚、之に就きましては学校としての考えという事もあろうと思います。殊に(ことに)、今度医学部へ来るポンデーポ君との関係もあろうと思いますが、主任の宮地先生、教務の堀井さんを通して、学校の方へも話す様に申します。
 甚だ勝手を申しまして済みませんが、宜しくお願い致します。24日には名古屋へ行く機会がありますので、其の時御話申し上げたいと思いますが、支障無い限り話を進めて頂きたく御願い致します。 敬具
 3
月14日 海津明彬
石岡繁雄様



 3月15日 父宛-小松英夫氏からの手紙

 ヒマラヤ遠征の他に、若い登山家の夢を叶えるために、八高時代からの親友、鳥居鉄也氏(1918年5月14日生、2008年10月16日没。日本の地球化学者、冒険家。日本における南極調査・研究の第一人者。理学博士。ソ連科学アカデミー南極大陸発見150周年メダル、南極観測20周年文部大臣表彰などを受賞。日本極地研究振興会理事長、千葉工業大学教授などを歴任。1957年第一次南極観測隊に初参加。その後、第4次・第6次南極観測隊では越冬隊隊長を務め、アメリカ隊と5回、ニュ-ジ-ランド隊と16回、中國の南極観測隊の指揮を4回務めた)が南極観測隊越冬隊隊長を務めたので、氏に協力を仰ぎ、岩稜会の松田武雄氏などを推薦した。この中に小松氏も含まれていたようだ。
 その内容が記された右の手紙を解読清書する。


 謹啓
 昨日乗鞍合宿も無事終了し,当地へ帰って参りました。その節は御多忙中わざわざ乗鞍まで御出で下さり本当に元気が出ました。全く知らぬ中にあって松田君も来たので大助かりでした。最初は気疲れもありましたがそのうちに慣れ楽しい合宿でした。装備や食糧にも得るところ大であったと喜んでおります。
 いろいろとくわしい事は松田君から御聞きの事と存じますが,南極行きの候補という事ではなくて乗鞍合宿の協力者であったようです。内陸踏査を予定している,と言われる第
3次越冬に憧れと期待を寄せて厳寒の地でのテント移動と聞いただけで心がはずんだものですが,叶わぬ事と残念です。せめて出発までの荷造りや諸事務でも手伝えたら後々の参考になるのではないか等とも,かすかな希望を託しております。
 13日夜,浅間温泉で宴会がもたれ,雑役係と首脳部の方々と第2次会へまわりましたが,その折に鳥居先生が私のところへお出で下さり「君の事はいろいろ聞いているが,ひとつ長い目で見てほしい」と申されました。

 種々至らぬ事が多く,御推薦頂きながらこの様になってしまった事,何と御詫び申し上げたらよいのか,本当に申し訳ありません。
 松田君は技術もあり体力も優れ人柄も円満で本当に立派な方ですから,彼はぜひとも行ける様にと祈っております。大きな期待と夢をもって参りましたが,どうやらはかなく崩れたようです。せめてこれからの準備に更に参加させて頂けたら望外かと存じます。
 皆々様の御尽力にもかかわらず,私の至らなさ一つの為に裏切りにも似た事になりました事,伏して深く御詫び申し上げます。
 松田君も似た様な心境かと存じますが,彼だけはぜひとも行ってほしいと心から祈っております。
 とりとめもなき事書き並べましたが,御判読頂ければ幸甚かと存じます。
 今後共ぜひ御指導御鞭撻の程,御願い申し上げます。  敬具  
小松拝
石岡様



 3月28日 父宛-朋文堂 楠目高明氏よりの速達葉書


先日は御多忙中のところを,御上京下さりいろいろと有難うございました。上巻新旧対照表,早速に御送付下さりありがとうございました。涸沢分写真(つなぎと焼き込み用の伸ばし)月曜には出来る予定です。等級表,図も入れましたので近く出来上がります。出来上がり次第お送りいたしますからよろしくお願いいたします。なお上巻涸沢分原稿(写植を打つもの)は唯今大森が休暇をとっている(新婚旅行中)のと,印刷所の係が交替して原稿を整理中とのことで,大森が帰ったうえで確認してから印刷所に入れるべき待機中です。
 なお一昨日,キャビネ判写真2枚お送りいたしました。
 まずは用件のみにて失礼いたします。
  楠目高明

 


 4月 石岡繁雄著「家族そろって登山」の原稿(草稿)


家族そろって登山  石岡繁雄

 私など家族づれで(妻と娘2人,ときに妻の母)登山することに十数年来習慣づけられているので,そういう登山をおすすめする文などは簡単に書けると考えていたが,さてとなるとそのむつかしいのに驚いた。
 まず順序としてどういうご家族を対象にすべきかを考えてみた。ご家族のうちのお一人でも登山に経験をもっていられるというご家族にたいしては,山の良さとか山での注意をここで申し上げるほどの心臓はもとより持ち合わせがない。そうなると登山に経験のないご家族におすすめすることになるが,これは容易なことではない。ハイキング程度ならばともかく,また青年諸君ならばともかく,いやしくもお子様をお持ちになる登山未経験のご家庭に登山をおすすめするということは大変なことである。
 簡単に考えていた私のうかつさに驚いたが,家族づれの登山についての感想といったことで述べさせていただくことにする。
 まず,一家そろっての登山の長所を申し上げたい。日常生活を何もかも忘れ,家族全員一つの目標に汗を流して努力し,大自然の美しさを眺めて思わず感嘆の声をあげる。こういう思い出は終生いきいきとしてよみがえる。登山家とは思い出をつくる人種だといわれているが,この思い出が日常生活におりにふれくりかえされる。ご主人だけの登山であれば,ご自分だけで瞑想にふける以外にないが家族全部参加しているのだから,誰の口の端からでも思い出の糸は随時たぐりよせられる。新婚旅行の思い出が夫婦の絆となるように,子供が出来てからの子供ぐるみの旅行とくに登山というものは家庭の安定石となる。近所となりからうらやまれる家庭となることはまちがいない。
 
14才の長女は「器具はこわれることがあるが,この思い出という心の器具はいつまでも残るからお金を出してもおしくない」といっていつもこの方に賛成する。
 さて次はこういう思い出を残すような登山はどうすれば出来るかという点である。
 一家そろっての登山がうまくゆけばたしかに器具を買うよりもよいと思うが,そういう登山は手放しでは得られない。貴重な金とチャンスをまちがいなく,すばらしさにかえなくてはいけないが,これがむずかしいわけである。
 たとえば危険防止という点について私の一つの経験を申し上げれば,子供も小学校2年生ぐらいになれば,まあ安定してくるが幼稚園ぐらいでは丸木橋一つ渡るにしても万一の心配がたえない。3mほどの細引きで猿まわしの猿のようにしばって歩くのだが,これは格好のよいものではない。昨年など北穂高岳からテントの密集する涸沢へおりてきたが、衆人監視の中で娘が猿の真似をしたものだから,それこそ大笑いで穴にでも入りたい気持ちだった。
 しかし登山未経験のご家族となれば,ご両親ご自身こうした経験がないともいえず,そうなるとどうしてよいかわからなくなる。たとえ近郊の山でもうかつにはおすすめできないわけである。
 しかし家族そろっての登山はむつかしいということだけを申し上げていても仕方がないから,何とか妥協点を求めねばならない。結局,安心しておすすめ出来るのは,ハイキングとかロープウエイのある山とか頂上までバスが行く乗鞍岳などということになる。お金に困られない方は,案内人をつれて上高地から焼岳とか槍ヶ岳への登山をおすすめしたい。これでももちろん十分楽しい思い出が残るにちがいない。
 とにかく,決意と方法によっては家族全員それぞれ生涯の玉をもつことになるのだから、何とか実現にまでもっていっていただきたい。
 そうなれば私に課せられたこの文の責務も、まがりなりにも果たされたというものであろう。



 4月1日 父宛 太田博氏(元石岡家下宿族)からの手紙

拝啓
 長い間御無沙汰申しておりますが,その後皆様にはお変わりありませんか。私もお蔭様で完全に元の健康体に戻れるようになりました。レントゲン写真では殆どその影像が認められなくなったそうです。学校の方は,今春やっと修士論文を書き終えることが出来,3月25日には,江口,熊崎,伊藤さんと共に修士課程を修了出来ました。米国へ留学する予定でしたが,都合で中止せざるを得なくなりましたので,機械工学科の機械力学講座助手として石岡さんとは同じ学校に奉職することになりました。小生がこれ迄やってきた燃焼問題とは対象が異なりますが,新しい意欲を燃やして新しい問題に取っ組んでみるつもりです。
 以前から石岡さんが研究しておられたオネスト・ジョン等一連のメカニズムでの振動について小生にお聞きになられたことがありましたが,これからは小生の専門がそれでありますから,さらにお力になれると存じます。
 それから訪問の度毎につい忘れてしまうのですが,昨年7月の電気,ガス代がまだ払ってないのが気になります。それで,足らないかもしれませんが,200
円を同封いたしました。
 機会がありましたら,訪問したいと思っております。
では又。 敬具。  太田博
石岡繁雄様


 4月7日 父宛 鳥居哲也氏からの葉書
 
 松田氏を南極観測隊越冬隊の一員に加えていただけるように鳥居氏にお願いした訳だが、以下はその一回目のお返事である。


 前略
 先日は,参上し,大変ごちそうになり,ありがとう存じました。 大変無理な日程を,都合をつけていただき恐縮に存じます。
 早速ながら松田君の件ですが(本件は「宗谷」(1956年~1962年までの南極観測船)帰国後本格的に考えますから現在のところ確定的ではありません),調理について本格的に考えていただきたいと思います。6日午後,立見氏と話をしたら大変よい案と賛同をえました。
 尚,上京は6月頃から出来るとよいので,5月までに車の免許とか無線機の知識書をうるよう御指導下さい。帰れば全く忙しくてやりきれません。

 皆様によろしく。

 4月17日 父宛 鳥居哲也氏からの葉書

 一通目の葉書から10日間ほどで、松田氏の南極行きはほぼ固まったようである。
 以下に二通目の葉書を解読清書する。

前略
 連日会議を行っております。差し当たっての考えとして,松田君に御願いする考えは強くなってきました。4月中に方針をきめ御連絡致します。
 御話の次第,極めて結構なことで,誠にありがたく厚く感謝致します。余り一度にやると大変でしょう。東京へ出馬は早くて5月下旬か6月中には何とか正式に御願いするつもり。
 5月6日頃,ひょっとしたら行くかもしれません。
  草々



 5月1日 岩-42.依頼書:中部電力社長宛-山稜会会員有志

 5月20日 山-68.雑誌:?近況お知らせ「石岡繁雄氏」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

昭和24年にご案内いたします。
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2015年3月2日掲載