湯浅美仁著 『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』 に対する「反証・反論」 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
おわりに 叔父若山五朗がナイロンザイルの犠牲で亡くなって、64年もの歳月が流れました。弟の死に報いるために半生をかけた父石岡繁雄を2006年に見送ってからも、早13年。長い時の流れと共に真実は、暗黒のベールに包まれようとしています。 突然湯浅氏が本を出されたことにより、私たち「伝える会」のメンバーは、4か月かけて真実を追求するために、そのベールを何とか剥ごうと悪戦苦闘して参りました。本の検証を進める中、目にしたくもない本を、苦渋を強いられながら繰り返し読み感じたことは、なぜ湯浅氏がこのような捏造された本を出されたかについてでした。湯浅氏は「遭難防止のために、この真実を登山史に残さなければならない」と真剣に思い込み、主に父や岩稜会が作成した資料の中から、その思い込みに適う文章や資料を引用し、都合のいいように自論を展開し、いわば「湯浅ストーリー」をまとめ上げて、自費をさいて出版されたのだと思います。このことは、湯浅氏との手紙のやりとりでも感じたことでした。湯浅氏は悪気があって出された訳ではなく、高井氏の話を信じて義侠心でされたことかもしれません。一言「こういう本を出します」と言ってくだされば、私たちは湯浅氏の実験のお手伝いもできたでしょうし、湯浅氏の思い込みを一緒に検証することもできたのにと残念でなりません。 今回の「湯浅本」の検証は、私の人生の中で最も神経をすり減らす出来事でもありました。私は父の作った岩稜会の方々をとても信用しておりましたので、まさかこういう本が何の連絡もなく出されるとは夢にも思わず、岩稜会最後の集まりの2006年4月1日に『奥又合宿備忘録』を持参したことが悔やまれてなりません。またそのことで、「伝える会」のメンバーに何ら得ることのない多大な負担をおかけすることになり申し訳なく思っております。 いまさら湯浅氏に、「出された本を全て回収してください」とも言えず、致し方なくこの冊子を、本を配布された先にお送りすることになってしまいました。 確かに父は、褒められるばかりの人ではなかったと思います。しかし、湯浅氏の言われるように嘘をつき通せる人では決してありませんでした。どんなに苦しい時でも粘り強く耐えて、人命を尊重し自分の持てる力を最大限に出そうと努力する人でした。そんな人でなければナイロンザイルの岩角欠陥を20年以上もかけて、法規制を作らせるまでのことはできなかったことでしょう。そんな父に対して「ナイロンザイルに集中した結果、問題解決を遅らせた」旨の記述を繰り返す湯浅氏に対して、今は哀しみしか感じられません。 そして私は今、一人の若者が山で死ぬということの重みを痛切に感じています。さらにそのことを通して、現在も多発する山岳遭難事故が軽減することを強く祈りたいと思います。 最後にこの冊子を出すに当たって、貴重なご意見などをいただいたNITEの長田敏様、菊池久様、名古屋大学博物館准教授の西田佐知子先生、同大学の大学文書資料室助教の堀田慎一郎先生、大泉寺ご住職のR様に、心より感謝申し上げます。また「伝える会」のメンバーの水野高司様には、統括という役割を越えて、この冊子全般にわたって多大なご尽力をいただきましたことを申し添えます。 将来、湯浅氏の捏造された本が独り歩きして、真実が歪められることがないように、心から願いつつ… 2019年11月1日 石岡あづみ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
○ 巻末資料1 (資料4)1955年1月「奥又合宿備忘録」の原本 〔冊子にはこの資料の全ペ-ジを掲載しましたが、ここでは資料の文字列にリンクをかけましたので、クリックしてご覧ください〕 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
○ 巻末資料2 「1955年1月 奥又合宿備忘録」の浄書および検証 「1955年1月 奥又合宿備忘録」の記載事項を四角枠内に清書し、枠外に検証結果とコメントを記す。 なお、記載内容には誤記や未訂正事項、発言者・受信者・記載内容が不明な部分など疑問点が全部で47か所ある。疑問点は次のように分類し、コメント内に()で付記した。尚、〔〕内は検証者の補記である。 *1:誤記・未訂正 *2:発言者不明 *3:受信者不明 *4:記載内容不明 *5:後に書き足し 表紙:1955年1月 奥又合宿備忘録 岩稜会 1~3ページ:白紙 4ペ-ジ:1955年 冬山参加隊員(出発順)〔帰着日は枠外の通り〕 1955年冬山参加隊員 (出発順)〔住所の詳細、電話番号は略〕 22日発 沢田榮介 鈴鹿市 石原国利 東京都 若山五朗 愛知県 南川治資 津市 25日発 石原一郎 福岡県 27日発 高井利恭 三重県 6日朝名着 高井吉文 三重県 6日朝楠着 30日発 上岡謙一 福岡県 6日朝名着九州へ 1日発 松田武雄 鈴鹿市 室 敏哉 鈴鹿市 5日夕神戸着 森 泰三 四日市市 北川たづ子 津市 太田清嗣 鈴鹿市 攻撃目標 前穂 四峰正面 北條・新村ルート 松高ルート 四峰 明大ルート 前穂 東壁 北尾根 ●沢田榮介は、5日夜行で松本発、6日名大病院入院、9日夜救急車で帰宅。 ●石原国利は、9日石岡家に滞在後、鈴鹿市の中勢病院に入院。 ●石原一郎は、9日石岡家に滞在。 ●高井利恭、高井吉史は、第13報(19ページ)にも、「6日朝、名古屋に着いた」記載がある。 ●上岡謙一は、第14報(20ページ)にも「6日朝、名古屋に着き、そのまま博多行きに乗車、帰宅した」記載がある。 ●室敏哉は、第12報(15ページ)にも「5日20:30帰着した」記載がある。 ●1日に出発した5名は、第1報(6ページ)に「2日19時現在、松田・太田・北川は坂巻、室・森は上高地」と記載されている。 ●石原国利、南川治資、石原一郎、松田武雄、森泰三、北川たづ子、太田清嗣の7名は、第17報(24ページ)と最終報(25ページ)から、「9日朝、名古屋駅に着いた」記載がある。 5ペ-ジ:救助隊員(出発順) 救助隊員(出発順) 1955年1月3日 名古屋発8:05 石岡繁雄 赤嶺秀雄 6日朝名帰着 新井春郎 三林 隆 3日夜12時上高地ホテル着 3日夜新宿発 清水(グウ)稔 4日 上高地ホテル着 松本の医師 4日名古屋発朝10 若山英太氏 松本飛騨屋旅館で待機 4日名古屋発夜行 中道 恵 5日后5時にはホテルに着いていた 佐藤(モンク)茂生 帰 室と雲間の滝ですれ違ったわけ 西川忠行 帰 黒田吟哉 大北氏(名大) 6日朝名着帰 岩瀬氏(名大) 6日朝名着帰 若山富夫氏 中河氏(三重大顧問) 浅井美利義成 毛利広昭(三重大) 小山義治 4日、清水グウくんとホテル着夜 飯田 太(信州大学丸田外科) ●石岡繁雄:岩稜会会長、若山家長男。 ●赤嶺秀雄:第13報にも「6日朝、名古屋に着いた」記載がある。 ●石岡以下4名は「6日朝名〔名古屋〕帰着」とあるが、赤嶺以外の3名は「9日朝名古屋帰着」が正しい。6日は誤記(*1)。 ●石岡以下4名の上高地ホテル着が「3日夜12時」とあるが、第4報(8ページ)では「夜中の10時30分に到着」となっている。なお、「上高地ホテル」は、上高地帝国ホテルの冬季番小屋を指す。 ●若山英太(ツネタ):若山家4男。第15報に「7日朝、名古屋着帰」した記載がある。 ●佐藤茂生:第16報に「6日20:30帰宅」した記載がある。 ●若山富夫:若山家3男、若山家を継承。第15報に「7日朝、名古屋着帰」した記載がある。 ●小山義治:北穂高小屋建設初代当主。第17報に「7日全員テントを降りる」記載がある。 ●飯田太:第7報に「4日、養魚場で治療を予定」していた記載がある。 ●浅井利成:三重大 ●このページに記載はないが、第17報(24ページ)には「7日、岩稜会副会長・伊藤経男と上田定夫が上高地に到着した」とある。 6ペ-ジ:現地からの連絡と処置 第1報(電話) 現地からの連絡と処置 第1報(電話) 1.1月2日午後7時 長距離電話 上高地発島々経由 石原一郎発『1日、国利(石原)・榮介(沢田)・五朗(若山)東壁アタック第ニテラスに出たこと確認。其の後ガスのため消息断つ。同夜オカン。 2日、上岡・高井、A沢を登り、前穂頂上付近まで捜索するも足跡なし。故に登路を失い下降しつつあるものの如し。正后頃石原、天幕地を降り、午后7時頃島々着。 (註:島々着とあるは受信者の誤りで、石原氏は上高地まで降って電話をかけたものである) 2日午後7時現在、坂巻に 松田・太田・北川、上高地に島々に 室・森。 尚2日午前、関西登高会の方が又白池に来たので捜索を依頼』 --------------------------- 石岡氏及び伊藤経男(社長)受信 ●若山五朗:若山家5男、石岡の末弟。 ●2日の「石原」は、石原一郎〔國利兄〕を指す。 ●文中の()で囲まれた註について。受信者はおそらくメモを残し、それを読んで本録記載する際に、上田がこのように注記したと思われる。 7ペ-ジ:第2報(電報) 第2報(電報) 2日午後9時着電報。発信者は石原一郎氏で、おそらく上高地から島々まで電話。島々から電報にしたものであろう。内容は左頁の石原氏の電話と同様。 『ゴロウ サワダ クニトシ トウヘキノボリ カエリニフブキノタメマヨウ』 --------------------------------- 石岡氏及び伊藤経男氏受信 ●「内容は左頁」は、6ページを指す。 8ペ-ジ:第3報(電報) 第3報(電報) 3日17:50着、島々16:40局発 石岡氏発 『アタラシイ シラセナシ シゲオ』 第4報 3日 23時45分-24時15分 電話 『16:30、バッカスは島々局に寄ってハイヤーで上高地に向う。山吹トンネルにてハイヤーを捨て、養魚場の息子さん(稲核より同乗)と共に上高地に夜中の10時30分に到着。バッカス・赤嶺・新井・三林、ホテルに到着し待機する。 石原国利・沢田榮介・若山五朗の三名、諏訪多ガイドブックでいうところの第二尾根から応答を得たとのことで望みあるとのことである。救援隊全員現場に向ったとのこと。 現在隊員の居所:石原・森・室の三名はベースまで。到着待機中 松田・太田・北川の三名は養魚場で。待機中 バッカス・赤ミネ・新井・三林はホテルに到着。 凍傷治療準備、救援隊の出発準備をせよ』 -------------------------------------------------------- 処置: 1.若山宅へ電報「ゴロウ ソウナンラシイ シゲオタツ バンゼンノテハイアリ アトシラス」 2.石原宅へ 「クニトシソウナンラシイ バンゼンノテハイシタ イサイワカルマデマテ イシオカ」 3日午后8:30発 ●第3報については、受信者の記載なし(*3)。 ●第4報については、発信者は石岡の同行者と思われるが、受信者共に記載なし(*2)(*3)。 ●「バッカス」は、石岡のニックネ-ムである。 ●「現在隊員の居所」中の「石原」は石原一郎である。 ●松田:「松田武雄」屏風岩初登攀。 ●北川:「北川たづ子」石岡敏子と2人だけの女性会員。 9ペ-ジ:第5報 1月4日午前11:30受信、電話 石岡氏発(*3) 受 話 第5報 1月4日午前11:30発信、電報 石岡氏発 『クニトシブジ アンシンセヨ イシオカ』 『国利・沢田無事。又白のテントに救出、五朗ザイル切れ落ちた。全力で遺体捜索中。 二名の状態。凍傷程度の如何により徳沢まで下れるかも知れない(註 4日中に) 見越へ次の連絡せよ。 電文「父上母上最大の不孝をお詫びします。しかし他の2名が無事だったことを感謝します」 若山富さんに見越へ行ってもらいたい。新聞社へは連絡しないで処理すること』 --------------------------------- 処置: 1.見越へバッカスの電文を直ちに発信と共に敏子夫人が見越へ4日の午后行った。 2.石原氏宅九州へ電報 「クニトシブジ アンシンセヨ イシオカ」 3.石原国利氏下宿(東京都世田ケ谷区深沢町1の47 三田弥兵衛宛)へ電報 「クニトシブジ アンシンセヨ イシオカ」 4.三林隆の欠勤届は、西川が、三重販売購買農協組四日市支所長へ直接持参して手渡した。 課の方の連絡も出来た。(西口氏に) ●「若山富さん」は石岡の弟富夫であり、「見越」は若山家のある地名、現在の愛知県愛西市を指す。 ●処置:1の「敏子夫人」とは石岡敏子、繁雄妻のことである。 ●処置:4の「三林隆」は、3日出発。「西川」は、4日出発。 10ペ-ジ:第6報 4日13時15分受信 上高地バッカス発 電話(*3) 第6報 4日午后1時15分受 上高地バッカス発 電話 『沢田、足凍傷悪いが、自分では良いといって大変元気。4日中に上高地まで下る予定。 国利は全然元気。 中道氏へ連絡せよ。名大から凍傷の権威者2名、今夜夜行で発つよう依頼してあるから一緒に来てもらうように』 -------------------------------- 処置 4日午后1:30、新聞記者からの電話がうるさいので、中道・社長・本田氏、その他全員多勢立会いの下に、石岡氏宅にて情況を報せてやった。 発表文 「1:15、島々局経由上高地にて石岡繁雄氏の連絡によれば、石原・沢田は天幕に収容したが生命は無事であった。残る一名の若山は捜索中であるが不明。遭難原因はザイルの切断による墜落らしい」 (註:中日新聞だけには、鈴木氏に13:00、本部に来てもらって先に連絡し、その他には その後、中日も共に上記の発表を行ったもの) ●文中の「中道氏」は、鈴鹿の歯科医。「名大から凍傷の権威者2名」は、大北・岩瀬両医師。 ●処置の「本田氏」は屏風岩初登攀の善郎父かと思われる。 11ペ-ジ:第7報 4日19時10分 上高地バッカス発 電話(*3) 第8報 4日21時10分 上高地バッカスより電話(*3) 第7報 4日19時10分 上高地バッカス発 電話 『中道氏は松本にて若山常太氏と合流するように、名大医学部大北・岩瀬と富さんが同行(名古屋から、中道氏等と)する予定である。 石原と沢田は養魚場まで降っている。松本から間もなく医師が来る予定なので、清水(グウちゃん)の案内で養魚場まで行って治療に当る予定。 若山は依然行方不明』 --------------------------------- 処置:出発準備中の中道氏に直ちに連絡。ウィスキー・謝礼・カメラ:発見した時用・薬品。 黒田・佐藤モンク・西川忠、神戸発19:20。 中道氏、20:20神戸発。 第8報 4日21時10分 上高地バッカスより電話 『見越のお母さんが行きたいといっているが、上までは来られないから、坂巻までなら来てもいい。その時には敏子夫人に一緒に来てもらうか上高地から北川さんを迎えに下してもよろしい。その旨津島に連絡して返事せよ。 もし五朗が見付かったとき上高地まで降せないから、富さん、常太氏立会いの上、奥又の出合で火葬にする予定でいる。お母さんはしたがって姿を見ることは出来ないことになる。現在まだ見付かったという連絡はない』 --------------------------------- 処置:直ちに見越に意向をきいたら御両親共もう行かないといっておられた旨、22:10、バッカスに電話した。 ●「若山常太氏」は、英太氏の誤り。 ●第7報の「石原と澤田」は「國利と榮介」 ●名大医学部大北は、大北威医師。後に広島大学原爆放射線医科学研究所長、名古屋医療センター名誉院長。 ●松本から来る予定の医師は、飯田太氏。 ●「見越のお母さん」とは、若山照尾、若山兄弟の母。 ●「その旨津島」とあるのは、若山家のことを地名で津島とか見越とか呼んでいたことによる。 12ペ-ジ:第9報 4日午後10:10、上高地バッカス⇔河町本部(*3) 第9報 4日22:10 上高地バッカス⇔河町本部 河町から 「見越へ21時すぎ連絡したところ、行く必要なしとの返事がありました」 バッカスから 『国利、沢田の状態、石原は凍傷全然なく、とても元気である。沢田は両足に凍傷しているため、養魚場からかついで降しつつあり、間もなくホテルに着く予定。既にホテルに松本の医師が着いている。当夜から(4日夜から)明日にかけて全力で捜索中であるが、明日で捜索は打切る予定である。明日は五朗が分ると思う』 河町「今晩そちらから連絡の見込ありや」 バッカス『連絡はない予定である』 河町「五日以後の行動予定を立ててもらいたい」 ●「河町本部」は、鈴鹿市神戸河町の石岡宅に置かれた。現在は神戸2丁目(*3)。 ●「バッカスから 国利、沢田の状態、石原は凍傷全然なく」は、不正確な情報である。 13ペ-ジ:第10報 5日午後1時15分 バッカス上高地発電話(*3) 第10報 5日午后1時15分 バッカス上高地発電話 『沢田榮介、石原国利は無事上高地着。非常に元気で食欲もある。沢田は右足指先の凍傷ひどく、そりで下山する予定である。発熱していない。 五朗は、今日は猛吹雪のため依然不明で、テントの方も心配しているが、小山氏以下強力なメンバーだから大丈夫だと思う。 社長は出発までに、一応上高地に連絡してから出発してもらいたい。 室は5日朝、上高地から下山。今夜中に(5日夜)神戸に着く予定。 高井も今日中に上高地を発って今夜の夜行に乗る予定。 (石原、沢田 二人とも電話口に出て)(元気であると云った。沢田は兄とも電話で話し出来た) 中道氏等一行10名は未だ上高地に着いていない。 --------------------------------- 処置: 1.新聞社が通話毎にうるさいので、記者クラブへ連絡。 2.沢田はうちに報告に帰る。 3.上岡夫人(速達)。中配鈴力と津へ、北川・松田の欠勤届。高井の欠勤届、宮川ダム開発事務所へ郵送。 ●処置:2の「沢田」は、沢田榮介の兄、寿々太郎。 14ペ-ジ:第11報 5日后5:00 上高地バッカスより電話(*3) 第11報 5日后5:00 上高地バッカスより電話 電話ききとりがたし 『中道氏一行上高地に到着した。 沢田は今下山途中で、5日の夜行に乗るつもりをしている。 中道氏・黒田吟哉は2,3日上高地に居残る。 現在テントにおるのは、石原・松田・三林・太田・南川。 五朗は依然として不明で、上からの連絡はない。 テントとの連絡のため小山氏、森泰造がテントに向ったが、ものすごい吹雪のため途中から引返した。 石原氏等の顔をみるまでは下山の予定はたたない。 河町に多勢つめている必要もないから休んでもらうように。今夜は電話しない予定だ』 --------------------------------- 処置: 1.沢田鶴橋氏に、早ければ明朝帰宅される旨電話した。 21:20 2.沢田寿々太郎・今井の二人、20:48神戸発名古屋へ行き、早朝沢田を名古屋に迎える。 ●文中の「石原」は石原一郎、「沢田」は沢田榮介。 ●処置1の「沢田鶴橋」は榮介の父。 ●処置2の「沢田寿々太郎」は榮介の兄。 15ペ-ジ:第12報(報告及伝言)室敏弥君5日20時30分到着 第12報(報告及伝言) 20 室敏弥君5日 昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていたが 1日朝3人出発。第2テラスに昼までに出る予定が午後3時になり、尚登ることとし、頂上直下20mでオカン。翌2日朝、国利トップで登ったが、3mストップした時止った。 腕疲れて戻った 岩角で切れた。沢田はラスト。 后4時、高井兄・上岡二人によって 落ちたことは2日 ツェルトだけ 高井達は2日の后四時2人と話をした。それで落ちたことが初めて分った。 12本のハーケンがあったがカラビナは5つ ハーケン7本落し、最後のアップザイレンにピトンが不足するに至って退却も出来なかった。 高井が天幕に急報。石原・高井弟二人は、上高地に下り、電話した。途中関西登高会、早稲田に依頼。 Bルンゼ、Gルンゼに落ちたものに違いない。 北壁―第二テラス 3人はB沢をつめ、Cフェ-ス・第一テラス・Bフェ-ス・第2テラス、 Aフェ-ス途中で、オカン。2日間2晩同じ場所でオカンしたわけである。 ●16ページ以降は「室2談」「室3談」…となっているので、それに準ずればこのページは「室1談」になる。 ●記載内容から判断し、3日にベースキャンプのテント内で國利・榮介から聞いたものと思われる。口述のメモは残っていない。以下個々に検証する。 ●上部欄外に追記された「昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていたが、」は、事故直後から現在に至る國利・榮介2人の報告・証言と異なるので、発言者は不明である(*2)。 ●「第2テラスに昼までに出る予定が午後3時になり、尚登ることとし、頂上直下20mでオカン」これも2人の報告と異なるので、発言者は不明(*2)。 ●「3mストップした時止った」に下線が引かれ、その下に「腕疲れて戻った」と書き込まれている。ここは、後に書き足されたと思われるが不明(*5)。 ●「今度、五朗ちゃんがトップになり、カラビナ通さずに70cmスリップ」は、なぜわざわざ「カラビナ」の言葉が使われているのか大変不思議であり、いったい誰が発言したのか、室が尋ねたのでそう返事があったのか不明(*2)。 ●「70㎝スリップ」も、2人の報告と異なるので、発言者は不明(*2)。 ●「ザイルを岩角にかけただけ」の「だけ」も、前の「カラビナを通さずに」に関連する言葉に思われる。実態はハーケンを打つ必要もなく、すぐ上に突き出た岩があったからである。 ●「8 ㎜ 40mナイロンザイル新品」の下の行間に、「岩角で切れた。沢田はラスト」と書き込まれている。沢田の名前が明記されているので、発言者は沢田で、後に書き足されたと思われるが不明(*2)(*5)。 ●「落ちたことは2日 ●「高井達は2日の后四時2人と話をした。それで落ちたことが初めて分った」この部分は、高井兄・上岡2人、またはいずれかから聞いたと思われる。 ●「12本のハーケンがあったがカラビナは5つ」この文章は行間に書かれている。後に書き足されたと思われるが不明(*5)。 ●「ハーケン7本落し、最後のアップザイレンにピトンが不足するに至って退却も出来なかった」これは國利か榮介いずれかの発言と思われるが不明(*2)。 ●「高井が天幕に急報。石原〔兄〕・高井弟二人は、上高地に下り、電話した。途中関西登高会、早稲田に〔捜索を〕依頼」ここは、第1報と一致し、主に石原兄の発言と思われる。 ●「Bルンゼ、Gルンゼに落ちたものに違いない。3人はB沢をつめ、北壁―第二テラス〔以下の下線部分の上に追記〕、Cフェース・第一テラス・Bフェース・第2テラス、Aフェース〔上記Gルンゼに向けて線有り〕途中で、オカン。2日間2晩同じ場所でオカンした訳である」この部分は、主に石原兄の発言かと思われるが、高井兄か不明(*2)。 16ペ-ジ:(室2談) (室2談) 10人 3日には、石原氏がおらず、それで、早セ田4人、関西登高会 西糸ヤ2人も共に、救出、3日11時、2人とも元気であった。 (15時) 室がA沢にかかったとき、上から下りて来たわけ。意識も元気も旺盛であった。 沢田は足が凍傷、特に右足が悪い。 国ちゃんは右手の指がいたい、左耳がいたい、足は靴がよかったので大事なかった。 天卜の中で湯の中でもんだ。足は痛かった。 沢田は窮屈なくつだったので、凍傷になったものである。 アイゼンをしめすぎたのではないか 再び 4日 室は徳沢を経て上高地に下り、徳沢に連絡に行くのに丁度沢田と出会った。 達一行 4日はいい天気だったが5日、今日は悪い。 高井・ニューギニヤは、2日間の捜索でフラフラ。 三林 松田・ ●(室1談)を一旦中断後、5日に報告されたものと思われるが、時間は記載無きため不明(*4)。 ●「3日〔の救出活動時〕には石原氏〔兄〕がおらず、それで、早セ田4人、関西登高会 ●「救出、3日11時(15時)、2人とも元気であった」これは、高井・上岡の発言と思われる。また、(15時)は下線部下行間に追記。11時開始で15時救出完了と思われる。 ●「室がA沢にかかったとき、上から下りて来たわけ。意識も元気も旺盛であった」は、室の印象である。 ●「沢田は足が凍傷、特に右足が悪い。国ちゃんは右手の指がいたい、左耳がいたい、足は靴がよかったので大事なかった。天卜〔テント〕の中で湯の中でもんだ。足は痛かった。沢田は窮屈なくつだったので凍傷になったものである」。これは國利・榮介2人からの聴き取りと思われるが、「窮屈な靴だったので」の下に書き足された「アイゼンをしめすぎたのではないか」は、誰の発言か、それとも推測かがわからない。 ●「4日、室は徳沢を経て上高地に下り、再び徳沢に連絡に行くのに丁度沢田達一行と出会った」では、「再び」が上部に、「沢田達一行」が下部に書き足されている。 ●「4日はいい天気だったが5日、今日は悪い。高井〔兄〕・ニューギニヤ〔上岡謙一〕は、2日間の捜索でフラフラ。松田・ 17ペ-ジ:(室3談) (室3談) 5日はとても捜せない。天候非常に悪い。 中道さん達10人とは、雲間の滝付近で会った。 それまではいつも、五朗ちゃんがミッテルだったが、2日朝、一寸のところが全然登れず。 国さんに変って、五朗ちゃんがトップになった。 ッカス バッカスは残念がっていた 岩にかけてつり上げようとした。( スルメ 食欲旺盛で、ハム呉れ、と云った。それを抑えるのに苦労した位である。 雪洞はとても出来ず、2人が2晩オカンしたツェルトだけで、岩壁の途中でオカンした。 同じ場所で 体力は知らず、気分的にはもう1晩までならもつと思うと云っていた。 高井の呼び声に僅かしか返事出来なかった。声が出なくて5回呼んでも1回位しか返事出来ぬ。 救援を求めて上ばかり見ていたので、首、肩が痛いといっていた。 5日はそりには丁度よくスキーには少なすぎる。タクシーは沢渡までなら入れる。 --------------------------------- 処置: 1.室から直接沢田氏宅へ電話し、沢田君の最も近い情況を報せた。 2.今井・沢田兄、2人は名古ヤヘ21時出発。 3.松田・太田・森へ、室から直接電話報告。 ●(室2談)に引き続き報告されたものと推定される。ただし、聴き取り日・記載日は不明。 ●「5日はとても捜せない。天候非常に悪い。〔上高地に向かう〕中道さん達10人とは、雲間の滝付近で会った」は、室の自談。ここまでの記述と、余白以降に書かれた17行の記述は、語りのトーンに変化が見られる。 ●これまでは1日から5日まで経時的に語られているが、「それまではいつも、五朗ちゃんがミッテルだったが、2日朝、一寸のところが全然登れず。国さんに変って、五朗ちゃんがトップになった」と、ここでまた(室1談)で語られた2日の出来事が繰り返されている。それは何故か理由は不明(*4)。 ●「岩にかけてつり上げようとした」について、(室1談)では「カラビナ通さずに70㎝スリップ。ザイルを岩角にかけただけであった。8㎜ 40mナイロンザイル新品、岩角で切れた」と記載されており、ここでは「岩にかけてつり上げ」と変更している。誰の発言か不明(*2)であり、「吊り上げ」の意味も不明(*4)。あたかも別の視点で語られているように感じられる。 ●「バッカスの注イを忘れてしまっていたものである」の記述は非常に不明瞭かつ重要な文章である。前文に続く言葉としたら、「バッカスの注意を忘れてつり上げようとした」ことになり、國利や榮介の発言ではないので、第3者の発言となるが、誰かは不明である(*2)。 一方、前文と切り離して挿入文とした場合はどうか。例えば、3日のベースキャンプで聴き取りした内容を、4日に室から報告を受けた石岡が漏らした言葉とする場合である。それでは石岡はどんな注意を日頃していたのであろうか。ナイロンザイルの岩角欠陥が明らかとなった後ならば、いろいろ推定は可能であるが、よもや麻ザイルよりも弱いと思っていなかった当時、現実味のある注意とは何であったかを特定するのは困難である(*4)。 ●「バッカスは残念がっていた」と上記の上部に追記されている。これも室が石岡の様子を話したものとすれば、挿入文の一部であるが、石岡が何を残念がっていたのか不明である(*4)。 第3者の発言とすれば「つり上げ」以降の発言は一貫性を持つ。この場合は(室1談)で「昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていたが」の追記を、室か上田に求めた第3者(6日に帰鈴した)が、同様に自説を(室3談)にも記述させたとも考えられる。 ●「それ以上詳しくきいても、2人は泣きだすので、詳しくはきけない」について、誰が何をそれ以上聞いたのか不明である(*2)。やはり3日のテント内での室の聴き取りの継続とするのが妥当と思えるが、なぜ國利・榮介の2人が泣き出すのかは憶測するほかはない(*4)。 ●「食欲旺盛で、ハム呉れと云った。〔「スルメ」が「ハム」の上に書き足し〕」「それを抑えるのに苦労した位である〔書き足し〕」この記述内容の発言者は高井兄であると言えなくはないが、断定はできない(*2)。 ●「同じ場所で」「体力は知らず、気分的にはもう1晩までならもつと思うと云っていた」は、行間に書き足したものと思われる。この記述の仕方は明らかに高井兄・上岡が、救助前に2人から聞いたと思える内容である。 ●「救援を求めて上ばかり見ていたので、首、肩が痛いといっていた」は、行間に書き足したものと思われる。やはり高井兄・上岡の発言かと思われるが、國利・榮介の発言としても成り立つ(*2)。 ●総合的に判断し、小さな字でぎっしり書かれた「それまでは」以降の17行は、6日に来鈴した高井兄の発言とするのが妥当であろうが、断定はできない(*4)。 ●「5日はそりには丁度よくスキーには少なすぎる。タクシーは沢渡までなら入れる」は、室の自談かと思われる。 18ペ-ジ:(室4談) (室4談) 2日に高井・上岡氏2人が行っても、1人が降って結びつけ、1人だけで引張り上げねばならぬ。それは困難だから、声を聞き乍ら高井は引き上げた。(又白に) 10〔早セ田4人、西糸屋2人、上岡、高井、関西登高会2人〕 3日には 下界への急報と、2人を救けるのと、どちらを先にすべきであったかは、軽々に論じることは出来まい。 石原氏は又白に岩稜会だけしかいなくて、困ったので、下に下ったわけである。下りる途中で、関西登高会に会い依頼。徳沢で早セ田に依頼。ホテルで下界に電ワしたわけである。 言 最初、新聞に洩れたのは、太田が自宅へ バッカスからの伝言 1.発見されたら、暇があれば、一緒に行動した人は、ダビに付すときに参加した方がよい。 2.五朗のことだからはっきり云えるけど(他の人だったら云えないが)、死体が見付かっても、危険だったら打切って初夏を待ってもらいたいと思っている。 3.詳しいことは室に語ってもらう。(現場の情況について) -------------------------------- 今井、沢田兄の5日夜泊った旅カン。名ゴヤ駅前長谷川旅カン(54)1630 后11:15 沢田宅へ伝えた ●(室3談)に引き続き、6日に報告されたものと推定される。 ●「2日に高井・上岡氏2人が行っても、1人が降って結びつけ、1人だけで引張り上げねばならぬ。それは困難だから、声を聞き乍ら高井は引き上げた。(又白に)」ここも6日の高井の発言と思われる。 ●「3日には8人で」の人数が10人に改められ、「早セ田4人・西糸屋2人・上岡・高井・関西登高会2人」と吹き出しで記入されている。また、「引き」「吊り」が消されて「救い」としている。同じく高井の発言と思われるが、(室2談)では関西登高会10人とあり、2名となった理由は不明(*4)。 ●「下界への急報と、2人を救けるのと、どちらを先にすべきであったかは、軽々に論じることは出来まい」は、現地の生々しい状況を肌で感じてきた高井の発言と思われるが、一郎の苦しい立場が窺い知れる(*2)。 ●「最初新聞に洩れたのは、太田が自宅へ言ったことから始ったのかも知れぬ」は、4日第5報で石岡より「新聞社へは連絡しないで処理すること」と指示があった件、誰の発言かは不明(*2)。「(本田・石岡母堂)」の記述は、2人から漏れた可能性もあると示唆しているが、誰の発言かは不明(*2) 19ペ-ジ:第13報 6日朝、6:25 名古屋にて、沢田兄発 電話(*3) 第13報 6日朝、6:25 名古屋にて 沢田兄発 電話 『今、汽車で降りて来たメンバーは、名大の先生2人、赤嶺先生、高井兄、高井弟、そして、沢田弟である。 榮介はしょげている。 今から、名大病院に入院して、9時に診察を受けることになろうと思われる。 病院に行くメンバー 沢田弟、名大の先生2人、赤嶺先生、高井兄、今井、沢田兄。 帰宅する人 高井弟。神戸へは電話連絡することになるかも知れないとのことである。つまりすぐ神戸に行くとは限らないの意。 以上、報告。いずれ病院から又電話する。 沢田の家に連絡願う』 --------------------------------- 処置: 1.沢田氏〔榮介父〕へ電話。沢田氏〔同〕、名古ヤヘ行くつもりであるとの返事 2.本田氏〔善郎父〕、中道へ電話「神戸駅出迎えの要なし」 20ペ-ジ:第14報 6日 前10:17 河原田より高井吉史発電話(*3) 第14報 6日 前10:17 河原田より 高井吉史発 電話 『沢田榮介の凍傷はあまり心配しない方がよいということが云える。 国利さんは2、3日上高地におって、歩けるようになったら自分で下る、といっていた。 五朗さんの捜索は現在、石原、松田、太田、新井、南川があたっており、小山さん・西糸屋2人は昨日5日の朝、天幕へ登って行った。 黒田吟哉は上に上って行ったが、同級生の二人、西川、佐藤モンクの2人は、沢田を沢渡まで下したあと、ハイヤーに乗れないから、この二人は今日の汽車で帰ってくる。 赤嶺さんは、今晩までには当然帰るであろう。 新しい応援はいらない。 ホテルでは、木村さんが石岡氏と打切ってはどうかと話していた。 上岡さんは、一緒の汽車に乗って名古ヤに降りたが、すぐ博多行があったから今朝、九州へ帰って行った』 21ペ-ジ:第15報 6日 前10:40 名大病院より 沢田兄発 電話(*3) 第15報 6日 前10:40 名大病院より 沢田兄発 電話 『今入院した。2晩寝ていないので、沢田榮介は疲れて今眠っている。 診察はまだだ。 連絡 名大病院今永外科1号詰所に願う。代表電話、名古屋(73)1521 --------------------------------- 処置: 1.沢田氏宅へ電話して、上記連絡。 2.社長他2名分の中央線今夜の乗車券は払戻し、又は、他に転用するよう取 計 3.しかし、社長がすぐ三宅から帰って来て、再び切符の払戻しは取止めた。(后1時半) 22ペ-ジ:第15報〔第15報が2つある〕6日后14:47-14:53 上高地バッカス発 電話(*3) 第15報 6日后14:47-14:53 上高地バッカス発 電話 『 沢田の模様はどうか。 社長上ってくれ。今夜出てもらいたい。 持ってくるもの 中道氏から依頼 :ゲルト2万、油紙5枚、伴ソウ膏5箱、50cc注射キ1本 すきやきしたい:生肉、野菜、ネギ 国利、石原、神戸にあずかってもらいたい。みんなが揃うまで。 五朗は全然分らない。 小山氏他5名、今日又白へ登って行った。 森泰造は、8,9日に帰る。 富夫氏、英太氏、帰った。 見越から電話で、ソウサク打切れといって来た。 おばあちゃんの手紙見た。梓の手紙は未だ見ない 』 -------------------------------- 処置: 1.森泰造〔宅〕に電ワして、8、9日帰ることを伝えた。 2.社長、林、上田と三人行くことに決定。 3.中道氏に薬品用意依頼。 4.上田は学校に報せたが、自宅にはしらせてないから、7日朝~昼に電報で タノム サダオ シヤチョウトカミコウチニユク お願いす ●処置2の「社長、林、上田と三人行くことに決定」と記されているが、社長と上田は7日朝に出発したが、林は不参加であった。 ●最終行の「タノム」は赤字で追記されており、電報は頼んだの意味。 23ペ-ジ:第16報 15:25、今井・沢田兄・赤嶺先生 着(*3) 第16報 15:25 今井 赤嶺先生 着 沢田兄 沢田は病院で殆どねている。 主任はいないが、うまくいけば切断しなくてすむ。 ○6日午後8時30分、 佐藤、西川 帰宅 昨夜、沢渡に宿泊、バスにて島々に出る。松本発午後13:01分の列車に乗る 7日、午後2時30分 上高地発 バッカス ○今日、天幕を撤収、上高地へ下った。明8日の夜行にて松本を発つ予定。 ○名古屋よりすぐに石岡、石原兄弟が見越の意向を聞き返事せよ。敏子夫人も名古屋まで出迎えてくれないか。 処置: ① 上田先生の欠勤届、発送。自宅へ電報、電話をかけた。 ② 新井、三林、社長、吟哉、上田、松田、清水、太田、南川宅へ9日朝帰ることを連絡した。北川さんは山川さんに頼んだ。 見越の返事はバッカス一人でよいとの事。 ●第13報の続報で、出迎えの澤田兄と共に名大病院に立ち寄った赤嶺が、澤田兄・今井と石岡宅で報告したと思われる。 ●下部には、第17報が書かれているが、全文✖で抹消されている。 24ページ:第17報 7日午后3時5分 島々より、(バッカス) (*3) 第17報 7日午后3時5分 島々より(バッカス) 全員テントを降りる(五朗探せど不明のため断念する) 全員8日の夜行にて帰省する。9日の朝5時頃に名古屋着。 社長、上田先生、上高地へ無事到着す。 見越の方へ電話で知らせてくれ。 --------------------------------- 処置: 1.全員の帰省を各宅に連絡する。 2.見越へ電話してその結果を島々局へ電報を打つ。 3.新井、三林、社長、吟哉、泰造、上田、松田、太田、南川、北川、清水宅へ連絡した。 4.見越の意見はバッカス一人でよいとのこと。 ●抹消の「第17報」とは記載事項、筆跡共に異なる。上田は上高地行きで不在、筆者不明。 ●処置3,4で、筆者がまた代わっている。 25ペ-ジ:第18報 7日午后7時30分 神戸より上高地へ(*3) 第18報 7日午后7時30分 神戸より上高地へ 見越の意見を伝えた所全員直ちに名古屋より帰宅するとのことであった。 --------------------------------- 処置:見越へ連絡事項 バッカスも名古屋からすぐには見越に行かないことを伝える。 緊急処置を必要とするもの 豊科警察署への捜索願を提出する事。(その際に2,000位の物を贈る事) 捜索願の用紙を用意する事。 最終報 9日朝全員名古屋着。中道、上田は先に神戸へ帰り、残り全員は見越へ向う。見越より帰りてからは、名古屋より毛利、浅井、南川は名大病院へ行き、その他は石岡夫人と共に全員12時18分神戸着にて帰宅する。 同日夜、沢田榮介、市役所救急車にて帰宅する。 以上で全員帰宅したわけである。 ●このページの筆者は3人と思われる。 ●最終報では、中道・上田以外は見越に立ち寄りしており、石岡の気持ちの揺らぎが感じられる。 ●文中の抹消線は処置完了の意か。 26ページ以降について 26、27ページは、白紙。 28ペ-ジには、筆者不明の遭難事故報告書のメモ書きが途中まで書かれ、破られて最終ペ-ジに挟まれていた。 それ以後に、遭難・救助活動の行動記録以外の、関係者連絡先名簿、見舞い者・個人立替・支払い控え・入出金等の諸記録が記載されている。また、56ペ-ジには、1960年の東海岳連のヒマラヤ遠征に参加した石原國利氏の遠征記録のメモ書きなども記されていた。そこで以下、記載事項・タイトル・他特記事項のみを下記一覧表にまとめるにとどめる。 なお、金銭出納に関する記載はすべて、岩稜会が別に作成した「特別会計」(全13頁)まとめられている。このことからも本備忘録が雑記帳のようなものであったことが分かる。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
○ 巻末資料3 (資料5)1955年1月「上高地ホテルで作成した遭難報告書」 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
○ 巻末資料4 (資料3)1954年12月22日~1955年1月6日「岩稜会冬山合宿前穂東壁遭難記録原本」・ 『三重県山岳連盟会報』「前穂高岳東壁遭難報告」-澤田榮介 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
○ 資料リスト ※ 文献番号は、「湯浅本」掲載の「文献」を指します。 ※ 資料は付属のDVDの「資料リスト」をクリックしていただくとご覧いただけます。 ※ 資料は出来る限り全文、または掲載のある章を読んでいただけるようにしました。また「湯浅本」に使用してある部分については、四角で囲んで該当ペ-ジを記入してあります。 ------------------------------------------------------------------------------------ 資料1.1954年11月22日付毎日新聞夕刊「映画『白き神々の座』と冬山」座談会 -熊沢・浜野・村田・水野・石岡 資料2.1954年「昭和30年度岩稜会計画書」 資料3.1954年12月22日~1955年1月6日三重県山岳連盟報「前穂高岳東壁遭難報告」澤田榮介 資料3-1.1954年12月22日~1955年1月「岩稜会冬山合宿前穂東壁遭難記録原本」・ 『三重大学山岳部会報』「前穂高岳東壁遭難報告」-澤田榮介 資料4.1955年1月「奥又合宿備忘録」 資料5.1955年1月「上高地ホテルで作成した遭難報告書」と、全文掲載の新聞記事 資料6.1955年1月~11月木製架台の実験 資料7.1955年1月13日付朝日新聞記事「北ア遭難体験記 死の喚起と戦う三日」 資料8.1955年1月18日付石岡宛大島健司氏からの手紙 資料9.1955年1月18日付諏訪多栄蔵氏宛石岡からの手紙 資料10.1955年1月25日付岩稜会宛石岡からの葉書 資料11.1955年2月23日東雲山渓会大高俊直氏から國利氏が手渡された手記 資料12.1955年5月1日付中日新聞記事 「初のナイロンザイル衝撃試験 強度は麻の数倍 蒲郡T製綱で画期的試み」 資料13.1955年4月22日~5月6日春季捜索行-今井喜久郎著 資料14.1955年7月1日『化学』 資料15.1955年7月15日~8月4日夏期捜索行-今井喜久郎著 資料16.1955年8月6日「前穂高東壁事件の現場調査」 資料17.1955年遭難救助特別会計 資料18.1956年7月浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献1)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献10)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献12)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献13)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献14)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献15)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献16)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献22)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献30)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献31)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献57)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献59)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献60)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献66)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料18.文献73)浄書版『ナイロン・ザイル事件』 資料19.1957年7月30日付朝日新聞記事「屏風岩で落石!1人負傷」 資料20.1957年8月30日付石原一郎氏宛石岡よりの手紙 資料21.1958年6月20日『岩と雪Ⅰ』「ナイロンザイル切断事件の真相」-石岡繁雄著 資料22.1958年7月15日「岩稜会員に告ぐ」岩稜会会長石岡繁雄著 資料23.1958年7月18日付石岡宛谷本光典氏からの手紙 資料24.1958年7月27日『アサヒグラフ』「ナイロンザイル論争果てて」 資料25.1958年10月付石原國利氏宛石岡からの手紙 資料26.1959年7月15日『穂高の岩場2』P104,105 資料27.1959年8月『ナイロンザイル事件に終止符をうつにさいしての声明』岩稜会発行・ 三重県山岳連盟発行 資料28.1959年9月12日『ナイロンザイル事件 論争を終止するに当たって』-三重県山岳連盟 三重大学水町助教授著 資料29.1964年10月20日『東海山岳』1号 論説「遭難を防止するために」石岡繁雄- 日本山岳会東海支部発行 資料30.1972年1月15日『穂高に死す』-安川茂雄 資料31.1972年12月1日『岩と雪』28号 登山綱強度と確保の問題点-金坂一郎 資料32.1974年3月20日『山のこころ」-福田宏年 資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会 資料34.1985年7月20日「高みへのステップ」p32-39-文部省 資料35.1987年5月『岩稜』p66,67 資料36.1987年5月『岩稜』p105,106・p359-361 資料37.1987年5月『岩稜』p110,111 資料38.1988年3月1日「登山用ロ-プ安全基準調査研究委員会小委員会」議事要綱 資料39.2003年3月1日『岳人』669号「ナイロンザイル切断事件から半世紀」-石岡繁雄・中川和道・ 久保利永子 資料40.2005年5月1日『ザイルに導かれて』「鈴鹿の思い出」p20-30 資料41.2006.1.10石岡繁雄の一生HP<過去のペ-ジ>NHK土曜ドラマ『氷壁』と井上靖文学館に関するペ-ジ 資料42.2006年1月29日井上靖16回忌式次第 資料43.2006年5月9日付高井利恭氏からの葉書 資料44.2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44-1.2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 1955年1月6日付毎日新聞長野県版「竹節運動部長談」 資料44.文献34)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献42)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献45)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献46)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献48)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献52)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献62)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献63)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献67)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献70)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料44.文献72)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』 資料45.2007年6月2日『屏風岩登攀記』「ある岩稜会員のはなし」 資料46.2007年6月2日『屏風岩登攀記』p148,149 資料47.2007年8月15日『石岡繁雄氏追悼号』-日本山岳会東海支部報 資料48.2011年11月『前穂高岳東壁遭難50年目の検証』湯浅美仁著 資料49.2012年2月9日澤田氏メモ 資料50.2013年9月名大展示で使用された「未解決の日本山岳会名誉会員問題」パネル 資料51.2013年11月5日~2014年1月30日「氷壁を越えて」名古屋大学博物館企画展ポスタ- 資料52.2014年4月18日「『氷壁』のザイルが語るもの」菊池久著 資料53.2015年5月8日石岡繁雄の一生HP<新たなる旅立ち>「第13話 暗黒の章」 その2:若山家の怒りと、ナイロンザイル切断の波紋 資料54.2018年2月16日石岡繁雄の一生HP<新たなる旅立ち>「第13話 暗黒の章」 その11『氷壁』の進展と父の苦悩 資料55.2018年7月20日『井上靖研究』 第17号 資料56.2019年4月『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』〔表紙〕 資料57.2019年6月2日付伊勢新聞記事「三重の本書評『前穂高東壁遭難63年目の検証』 湯浅美仁著」 資料58.2019年6月21日「湯浅美仁著(2019)『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
湯浅美仁著『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』 に対する「反証・反論」 2019年11月15日発行 編集発行=石岡繁雄の志を伝える会 「石岡繁雄の一生」HP https://shigeoishioka 代表=石岡あづみ 〒513-0801 三重県鈴鹿市神戸2丁目6番25号 2019.11.23更新 |