2020年2月末~2021年1月末

「石岡繁雄の志を伝える会」の動きご報告


 コロナ禍でしたが、伝える会の仕事はてんこ盛り(^-^;
粛々と仕事に励んでおりました。

 文書資料室のインタ-ネット公開に伴う作業の他に、以下のようなことを行いました。
ご覧くださいませ(*ノωノ)


2月29日

 前々からユ-チュ-ブに動画を掲載した方が良いと言われていましたが、時間もなくためらっておりました。どんな感じでアップすれば良いのかもよく判らなくて、あれこれと勉強した結果、この日ついに‼「2019年度のケルン墓参の様子」(https://www.youtube.com/watch?v=BOUOtqsGxv0 
ここにアクセスしてください。ご覧いただけます)を掲載しました。以前尾登憲治さんがお作り下さった映像です。
 私もユ-チュ-バ-の仲間入り?(^O^)


3月1日

  姉から電話が入って「うちで取っている毎日新聞の広告欄に羽根田治著『十大事故から読み解く 山岳遭難の傷跡』と言う本が出ていて、ナイロンザイル事件のことも出ているよ」とのことでした。姉は湯浅本のことを心配して、変な内容だと困ると思ったようで報告してくれたのでした。
 早速ネットで注文した本が、お昼頃届き急ぎ読みました。「岩稜会冬山合宿」からはじまって「公開実験の成果」までの38頁です。内容は『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』本と私のホ-ムペ-ジから資料などを集めての抜粋で、湯浅本は読んでいられないようでホッとしました。
 その中に何ヵ所か誤りがありましたが、まぁわざわざ羽根田氏に連絡を取って言うほどのことでもないと思いました。
 今後も受け継がれていくであろうナイロンザイル事件の顛末は、改ざんされないように見守って行くことも私たちの任務だと思っています。


3月5日~5月26日

 前々から気になっていた「石岡繁雄の一生」のホ-ムペ-ジを、森川さんに添削していただくことになりました。森川さんはメ-ル程度しかパソコンをなさいませんが、誤字・脱字の発見には優れてみえるのでお願いしました。その作業が終了したのは5月26日でした。


4月10日~4月25日

 ウェッブ上のフラッシュプレイヤ-が今年12月いっぱいで見られなくなると言うので、フラッシュタイトル部分を写真に置き換えました。物凄い量の写真をフラッシュタイトルを利用して掲載していたので、とても全部掲載することはできず、涙を飲んで写真を削らなければなりませんでした。せっかく苦労して作ったのに~と、情けなくなりました(-_-メ)


7月11日

公益社団法人 鈴鹿法人会機関誌『すずかめ』
2020年度の夏号と冬号の2回連載で福島礼子さんの、父に関するエッセイ掲載が決定
 
 ケ-ブルネットテレビ鈴鹿の福島さんからお電話があり、「『山に志を刻む人』の放送の評判が良かったので、法人から依頼されて機関誌に2回に亘ってエッセイを書くことになったので、原稿を見ていただきたい」とのことでした。
 福島さん宅にお邪魔して原稿を読ませていただき、少し直しを入れて写真も提供しました。
 その中に岩稜会の掛け声についての記述があり、その掛け声が「アラヨ」なのか「ア-ラヨ」なのか「アラヨ-」なのか判らず、石原國利さんにお電話して尋ねました。その後、森泰造さんにもお伺いしましたが、お二人とも答えは同じでした。
皆さん!どれが正解かお分かりになりますか?
岩稜会では場合によって、人によって掛け声が違っていたそうですが、だいたいは「アラヨ-」だったそうです。
 ひょんなことから、コロナ禍からこちら連絡を差し上げていなかった國ちゃんご夫妻と森さんのお元気な様子が確認できて嬉しく思いました。

 以下が夏号です。ご覧くださいませ。


以下の本文をクリックしてください
大きくなってお読みいただけます






神戸高校で見つかった「南極の石」について、まとめてご紹介


9月1日

 衣斐さんからメ-ルが届きました。その概要は「赤嶺先生(岩稜会会員で元神戸高校教師)のご子息和彦さんと緑雨文化賞式典のとき司会をしてくれた河原徳子さんのご主人孝さんは今非常勤で神戸高校に勤務していて、このコロナ禍で授業が出来ない間に2ヶ月程かけて地学教室に眠っていた鉱石群の整理をされました。
8月お盆過ぎにお二人から一度見てほしいと云っていただいたので拝見し驚きました。県の博物館にも無い貴重な化石や鉱石等々の資料がお二人の熱意でみごとに整理され陳列されていました。古くは大半赤嶺先生の筆跡で整理メモが記されてますがインクが判読しにくくなっていてそれらを書き直してありました。この猛暑の中、よくなされたと感心して帰りました。
 
お訊ねしたい件は、寄贈資料の中に『南極の石』というのがあり、この寄贈者のことをお二人から訊ねられました。この寄贈者は神戸町の松田武雄さんという方であろうことはすぐ分かりました。松田さんは旧制神戸中学最後の卒業生で中部電力社員で私が中学生の時に第4次南極探検隊に炊事班として以後2度宗谷で行かれた人で、帰国後神戸小学校講堂で話を聴いた憶えがあります。
 
石岡先生の記録の中にこの『松田武雄』さんの名前をご覧になられたことはあられましたでしょうか。」と言うお尋ねでした。
 「南極の石」はまず間違いなく松田さんの寄贈品であると思いましたが、完璧を期すために岩稜会の2,3の方にお電話して確かめて、直ぐに衣斐さんに松田さん寄贈であることをお伝えしました。神戸高校の方では、「南極の石」に寄贈者のキャプションを付けて下さることになりました。
 その上で衣斐さんは、神戸高校に展示されている化石や鉱石などの見学をさせていただけるように手配してくださいました。


9月26日

 神戸高校の鉱石・化石などの標本の見学

 10時に神戸高校正門前で、衣斐さんと待ち合わせをした水野さん・小川夫妻と私は、赤嶺和彦先生と引き会わせていただきました。
 和彦先生とは、赤嶺先生がお亡くなりになった後お会いしたことがありましたが、一度きりでお顔もはっきり判りませんでした。ご挨拶の後早速、元地学教室にご案内くださり、現在の標本の状態などのご説明がありました。その後、廊下に設えられた展示場で、標本を見せていただきました。

神戸高校正門を入ったところの
校舎にかかった垂れ幕

元地学教室
赤嶺和彦先生のお仕事部屋

全ての鉱石や化石などが写真を撮られて
分類整理されパソコンで管理されています。
左が赤嶺先生、ちょこっと隆平さん
はつこさんで私です。


パソコンでの管理画面

何だか私たちの会が作った
資料整理のための年表に似ています。


「南極の石」の展示

南極昭和基地で採取された石です。

南極の石」に付けられたキャプション



南極の石」の裏に記された文字

松田さんが昭和基地で越冬されたのは
1959年と1966年の2度です。


上の写真をクリックしてください
松田さんがご逝去された時に越冬隊長の鳥居さんが
南極での松田さんの活躍を書かれた弔辞がご覧いただけます


展示された化石の数々

ナウマンゾウの化石もありました!

熱心に展示品の説明をされる先生



校舎の屋上にて

鈴鹿市を展望できる屋上にも
ご案内くださいました。
左から、隆平さん・赤嶺先生・私・はつこさん



はつこさんと入れ替わって

カメラマンの水野さんの写真はこれ1枚


鈴鹿市街を眺める

この後、屋上にある元天文台の中も見せていただきました。先生は天文台の復活にも力をつくしてみえます。有意義な見学となりました


9月28日

 赤嶺先生から、先日の見学の件でメ-ルをいただきました。必要部分を以下転記します。


ついつい長く説明してしまい、お疲れになられたのではと心配しております。
岩石、鉱物、化石など、900点以上の標本の整理には、相当の時間と労力がかかりましたが、今だからこそできる仕事だと思い頑張っています。
まだまだ化石の同定作業や標本の整理作業が残っていますが、来年の3月までには、完成させたいと
考えています。
松田さんのことなど、詳しく聞かせていただき、更に南極の片麻岩のことなどよくわかりました。 松田さんは、神戸高校山岳部の草分けの頃の方だったのですね。 石岡先生の神戸高校在職3年間の偉業を改めて感じさせていただきました。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。


 本当に有意義な見学に感謝でした。
 この後の先生とのメ-ル交換の中で、2019年度のインタ-杯で男子3位、女子7位という優秀な神戸高校山岳部の顧問の先生をご紹介してくださることが決まりました。



10月1日

 赤嶺先生がご紹介くださって、赤嶺先生と共に3名の山岳部顧問の先生方が来訪されました。
 当日は水野さんにもお越しいただいて、研究所に置いてあるミニ実験機のメンテナンスをしていただきました。抜粋のパネルを並べたり、資料を用意したりして先生方をお待ちしました。
 14:30、先生方がお着きになりました。顧問をされている岸田先生から現在の山岳部の状態や、山岳部が競う競技の内容に付いてなど面白いお話をうかがい、父の事についても、資料などを用意して知っていただくことが出来て、嬉しく思いました。

まずは記念撮影

左から、岸田先生・赤嶺先生・西先生・
私・横山先生。
西先生は赤嶺先生と共に鉱石などの整理もされているとのことでした。


資料をお渡ししてご説明

山岳部に寄贈させていただく父の執筆本や
資料等をお渡ししてご説明しました。

熱心に話を聞いて下さる先生方



仏間に用意したパネルをご見学

切れたナイロンザイルのケ-ス

実物の8mmナイロンザイルは
特に興味をお持ちのようでした。


研究所の山形オブジェの前にて



ミニ実験機によるナイロンロ-プでの
模擬実験


鋭角で簡単に切れるロ-プに
ビックリの先生方



話しもはずんで…

「山岳部の生徒さんたちにも見に来ていただけると嬉しいのだけれど」とお話ししました。


研究所2階の父の仕事場

窓から見える神戸高校はすぐお隣です。
貴重なお時間を割いて来てくださった先生方!
本当にありがとうございました。


9月7日

 九州登山情報センタ-(愛称 山の図書館)館長重藤秀世氏より手紙が届きました
創立3周年に際して、2007年5月19日に行われた中川和道氏の記念講演会の講演録などを冊子としてまとめて出版されたいとのことで、その「まえがき」部分を私に書いて欲しいと言う原稿依頼のお手紙でした。その手紙に添えられて手作りの冊子が入っていました。その冊子の目次部分をまずはご覧ください。

 「まえがき」を書くことを前提に、まずはその冊子を熟読しました。その結果中川氏の講演の中に重大な間違いを発見しました。そのため以下の文を重藤氏宛送りました。尚、重藤氏にお送りした文には、参考資料などが付いていますが、長文になるため割愛しました。

2007519日 山の図書館創立3周年 記念講演会
「ナイロンザイル事件の社会史」中川和道氏講演録の間違い部分について

経緯:
 1. 97日、「山の図書館」重藤秀世氏より書簡が石岡宛届く。内容は同封の冊子「講演と討論会録」のまえがき部分をあづみに執筆依頼であった。
 2. 98日、まえがきを書く方向で、冊子を熟読し、中川氏の講演内容の間違いを発見する。
 3. 
99
  ① 740分、石原國利氏に電話して、大きな間違い部分を話して、どうするべきかを相談。早急に重藤氏に電話して間違いを正してもらうように依頼するようにと指示を受ける。
  ② 950分、重藤氏との電話のやりとりは以下の通り;
 あづみ「講演録の間違いを訂正していただきたい。または発行を止めて欲しい。」
 重藤氏「講演録は自費出版ではなく、出版社から依頼を受けて作成するものなので、発行を止めることは出来ない。講演録自体を直すことも出来ないので、注釈を付けて説明をいれたい。」
 あづみ「こちらの指示するところへ、注釈を付けてもらい、どのような内容に直されたか検閲した上で、こちらで手直しをしてから出版していただきたい。まえがきの執筆については、それから考えさせていただく。」

 講演録の間違い部分と注釈をつけていただきたい内容は下記の通り;
  1. P5最終行「ナイロンザイル事件は三つの産物を生みました」
   ① P61行目「もちろん第一に、ザイルの安全基準を作った」 ◎世界初の安全基準の法制化は石岡の最大の功績であるが、その成立には紆余曲折があり、後述の関連事項を参照されたい。
   ② 3行目「第二に…『穂高の岩場』を生みました」 ◎本書はナイロンザイル事件前の19547月に安川(長越)茂雄氏経由で、朋文堂社長の新島氏より「穂高の岩場を紹介する解説書を出したいので、是非、岩稜会にお願いしたい」と申し入れがあり父は快諾したものであり、ナイロンザイル事件の産物ではなく、事件以前から取組んでいた物である。
  2. P28 見出しを抜いて、4行目から6行目まで「石岡を委員長にしよう」…  ◎石岡が委員長になったことはない。
   
補記1.:石岡が登山用ロ-プの委員を務めたのは197311月から1991年までである。
  3. 同ペ-ジ内、左下の資料と、「合格マ-クとエッジの…」について  ◎安全マ-クは、安全基準ができて直ぐに付けられたものではない。業界の抵抗を排し、表示されるまでには約10年の歳月を要した。
  4. P30 安全基準値とUIAAに関する注釈:◎〔文章案〕90度ゼロRではせん断衝撃試験に耐えるザイルは存在せず、全てのザイルは不合格となってしまう。そこで石岡は必要強度1,200Kgf1/8の強度150Kgfでも、クライマーはそう認識して使えば少しは役に立つと思った。将来のザイルの開発にも指標となるし、自らが開発中の登山用緩衝装置(MSA)開発の励みにもなると考え、矛盾をはらんだ規制案に賛成した。石岡はナイロンザイル事件前から、自らの屏風岩登攀の試登の際の墜落事故で、ザイルがS環に絞られて切断しなかった経験から、制動器開発の着想を得ていた。
  
5. P40 「国が味方についた」の副題を除いて5行目~8行目  ◎国は文字通りの味方では決してなかった。
  6. P41 副題を除いて5行目「3は、…」 ◎1.に準ずる。
  7. P47 副題「自動制動確保器の開発」13行目「石岡先生のご指導のもと、中川たちは、こういう自動制動確保器というのを開発しています。」 ◎石岡の指導のもとに、中川氏・中島氏が開発された訳ではなく、石岡の数々の特許製品を基にした共同研究である。
  8. P49 1行目の後に補記・または注釈を挿入  ◎石岡が登山用緩衝装置の着想を得た、1946106日、屏風岩初登攀第四次攻撃時のエピソード参照。
 この当時、制動確保という概念はなかったが、後に、石岡はこの経験から、登山綱切断防止装置を発明する。
登山用緩衝装置第一号となる通称「オネストジョン」を試作し、1956年には試作品を完成させている。
  9. P56「穂高の岩場」 ◎1.に準ずる。
 10. P84 7行目「遺体が出たのは9月だったですね。」 ◎五朗叔父発見は、731日。

                                 以上
2020910
  石岡繁雄の志を伝える会 石岡あづみ

 父の功績が後の世に伝えられることは、とても有難いことです。しかし、講演は、その場限りで流れて行くものですし、間違いもあると思いますが、文章にして残すとなると、間違いは間違いとして置かないと、歴史が改ざんされてしまいます。重藤氏には本当に申し訳ないと思いましたが、以上のような指摘をさせていただきました。
 今回の「山の図書館」からの出版についても、出来る限りの協力をさせていただきたいと思っていたのですが、その後、重藤氏からのご連絡はありません。冊子はどうなったのでしょう?


12月16日

 CNSテレビの福島さんからお電話が有り、鈴鹿法人会の機関誌『すずかめ』冬号に掲載する「その2 山に魅せられた者たち 命を守る闘い」の原稿が出来たので、今日中に見ていただきたいとのことでした。
 メ-ル添付で送られて来たお原稿の校閲をして、写真の提供もしました。




あけました!2021年‼




1月30日

 公益社団法人 鈴鹿法人会機関誌『すずかめ』冬号発行です!

夏号の続編「冬号」


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ホ-ムペ-ジをご覧くださっている皆さま!

いつもありがとうございます
またご報告させていただきますので
今後とも「石岡繁雄の志を伝える会」と、このホ-ムペ-ジを
よろしくお願いいたします

2021年2月2日 あづみ記