昭和24年(1949年)

 昨年10月の九州での国体以来、父は『屏風岩登攀記』の執筆に力を尽くしていた。
 この年、4月8日には田中栄蔵氏(ヒマラヤ研究家)よりの葉書で、父が『屏風岩登攀記』の原稿を送り、その批評を求めたと書かれているので、3月下旬には原稿を書き終えていたものと思われる。
 5月3日~6日 岩稜会屏風岩合宿
 九州国体後、岩稜会の会員となった石原一郎氏との交流が頻繁になった。父が「屏風の北壁ル-トはブッシュの連続だから、積雪期登攀はラッセルなのだ」と言ったことと、正面岩壁との相違を石原氏が身をもって確かめたかったため、屏風岩に出かけることになった。

 5月3日
 石原・豊田・高井・岡田、各氏と父は、北壁ル-ト登攀の下見のため、横断ル-トの偵察に出かけた。横断ル-トの入口に達した時、そのル-トは長さ1mほどのツララが櫛の歯を並べたように目の届く限り続いていた。このツララを一つ一つ落として行くのは無理なので、横断ル-トの入口にハ-ケンを打ち、一気にアップザイレン(懸垂下降)で降りることになった。氷雪のために抜けそうになるハ-ケンを気にしつつ、決死のアップザイレンであった。
 小山義治氏(北穂小屋初代主人)・杉浦氏・上田氏は、八高テラス(T4テラス)を往復した。小山氏は屏風岩のブッシュの存在を確かめたかったため同行されたが「屏風のブッシュはブッシュなどと言うものではない。あれは林だ」と言われたとのことである。 

 5月4日
 北壁ル-ト往復。このことについては『屏風岩登攀記』の〈戦後登山の思い出話〉に詳しく載っているので、転記してみよう。

 石原、私、岡田、豊田の順で30mのザイル一本に四人が結び合い、ほとんど連続登攀で登った。この時の屏風岩は、ブッシュの上に雪が乗っていて、屏風岩の取付きから全身雪だるまになって、ブッシュの雪をかき落とさねばならなかった。それでもトップ石原のものすごい頑張りで3時間半で慶応稜のP3に出た。(中略)
 ちょうど慶応稜のP3からP2へ向かう稜線のブッシュの中でピッケルがじゃまになり、私はピッケルを手から離し、ピッケルバンドで右腕にぶら下げたまま登っていた。目に汗が浸み込み、ブッシュが顔にぶつかり、しばしば目を開けていられない。私は垂直に近いブッシュの中で、いっぱいに伸ばした右手に手ごろな枝が触れたので、しめたとばかり握って力を込めたが、その瞬間、その枝が何の手ごたえもなく引っ張り寄せられ、私は危うく後ろ向きにひっくりかえるところであった。よく見ると、私は自分のピッケルのシャフトを木の枝だと思って握っていた。ブッシュかピッケルか握った感覚で判るのだが、疲れが激しくそれを識別する余裕がなかったようである。
 さて、P2まで登って、過去三回眺めたAフェ-スのプロフィルを感慨深く眺め、つぎに反対側の足元に白蛇のように落ち込んでいる第二ルンゼを見下ろした。雪がいくつかの滝を埋め尽くして下まで続いている。滝が露出していればとても降りられるような場所ではないが、この雪の状態ならば下降できると思った。もし下降できればおそらく第二ルンゼの初下降の記録になると思った。当初の計画では下降も北壁ル-トをとることになっていたが、急に予定を変更しP2から第二ルンゼを下りることにした。そこで、急いでP1を往復しようと私たちは岩場の頭P1に向った。
 P2から石原-岡田、私-豊田とそれぞれ30mのザイルを結び合って第二ルンゼの底へ降りた。石原パ-ティは私たちの10mぐらい下にいる。P2から眺めた時には、ルンゼの底はそれほど傾斜が急とは見えなかったが、いま谷の中心に下ってみると、70度以上の傾斜である。雪の壁に手がかり足がかりの穴をあけ、それに手足を突っ込んでかろうじてしがみついている。足場を切るためにピッケルをふるうにしても、身体をかがめることができない。アイスハ-ケンは持っていない。バランスの良い豊田もまったく動けないでいる。石原-岡田のパ-ティも私の足の下でやはり動けない。しかし、まもなく石原がゴソゴソ動き出した。私が恐る恐る首を雪壁から離して見下ろすと、石原は調子が出たものかだんだん動きが早くなり、まもなく30mのザイルいっぱいに降りた。岡田も石原の降り方を見習ってそろりそろりと降り始めた。私も降りねばならぬと思うのだが、アイゼンを突っ込んでいる足場が今にも崩れそうな気がして身動きできない。
 おそらく、最初の一歩さえ動き出せば後はなんとかなるであろうが、それができない。全身がジワジワと汗ばんでくる。そうこうしているうち石原-岡田の速度はどんどん早くなり、みるみる私たちから離れてゆく。私は参った。歯を食いしばった。実は私は今朝、北壁に取り付く時、急傾斜があったので、そこで他の三人にアイゼンの模範技術を見せたばかりだ。三人とも感心して見ていたが、それが今、石原-岡田は下降できるのに私は動けない。しかし私はついに決心して大声で石原に言った。「どうも下降の自信がない。すまんが第二ルンゼの下降を中止したい。二人とももう一度登って来てくれないか」石原は了解とばかり今下降した雪の急斜面を登って来たが、屏風岩中央カンテを登った私としては、まさに大恥であった。(後略)


 これが北壁ル-ト往復の顛末である。疲れているのになぜ第二ルンゼを下降しようと思ったのか。父には時として、とても無鉄砲なところがあり、ハラハラさせられる。
 この時の登攀で昨年3月に伊藤氏が登った時に、ビバ-ク地点で残したハ-ケンを見つけたので、持ち帰って伊藤氏に送った。

 5月6日
 この合宿の帰り、梓川河岸から仰ぎ眺めた明神岳連峰の異国的な相貌に、岩稜会は魅せられてしまった。第五峰頂上の雪帽子を冠ったような雪庇のやや左下の垂直に垂れ下がった氷のリンネ(ドイツ語。岩壁の溝のようにえぐられた部分。英語ではガリ-)を境として、右に広がった膨大な岩壁の物凄さは、激しい戦慄と闘志とを奮起させた。屏風岩の次の目標を見つけたいと思っていた時でもあり、また明神岳の岩場は岩稜会にとっては、全く未知で、常々ある種の憧れと、怖れを持っていたこともあったので、この素晴らしい光景は、一も二もなく、今後の会の登高目標に決定したのである。
 しかし、その後文献を調べてみると、岩場としての明神岳の峰々は、第五峰東面の他は規模の小さいものであることが判った。五峰の東面に関しては、1932年7月東大パ-ティによって初登攀されたのみで、積雪期はもちろん第二登すら記録されていなかった。
 このことにより、今年度の夏山合宿は「明神ひょうたん池合宿」と決まった。
 6月8日
 岩稜会が御在所岳北谷に鈴鹿高校山岳部と共に「岩稜会ル-ム」を建設しようとしていたことが、この日付の見積書で判った。しかし、実現はされなかった。
  
  7月19日付
 三重県出身の作家、丹羽文雄先生に『屏風岩登攀記』の原稿を送り批評をお願いしていたが、そのお返事がこの日に来た。
以下に、丹羽先生の直筆の手紙を掲載する。
 達筆のため読みずらいので、活字にして以下に記す。


  別便にて原稿送りました。
 石岡繁雄様  丹羽
 一、文章にくせがなく、感じたままを率直に表現されている。別に直す必要はない。この様な長いものを崩れずに一貫している所は、文章の専門家でない筆者としては立派である。
 一、読み物としてみる時、前半が必要以上に書かれている。最初の登山、雪中登山、軍人の時の想出、面白いが前半のその部分は、多少短縮されるが良いと思う。
 一、登山の専門語を実例をあげながら一般読者にも判るように解説されるといいと思う。
 一、
本題の屏風岩のところは圧巻である。論理的にも記録的にも秀れている。
 一、光典氏
(父の先輩の谷本氏。丹羽先生とは懇意だったと思われる)の絵文章は挿入されていいでしょう。
 この夏、父は初登攀した屏風岩を見せに、若山の両親と、石岡の両親を連れて行っている。
 7月20日~31日 明神ひょうたん池合宿
 前記のように、明神を主眼に置いたひょうたん池合宿が17名の参加で始まった。

 7月23日
  石原・本田・松田・室の各氏、精鋭部隊は、このときの合宿の最終目標である明神岳五峰東壁を一泊のビバ-クで完登した。しかしこの登攀の難しさが議論を呼ぶことになる。「夏でも難しい東壁を積雪期に登ることは無理だ」と言う意見と「難しいからやりがいがある。やるべきだ」と言う意見に分かれたのだった。

 同日
  中澤氏・田中氏、明神岳四峰東南稜登攀。
 
 7月26日
  石原・室・田中の各氏、前穂高岳 下又白下降。

 同日
  中澤・岡田・緒方(九州大学)の各氏、滝谷第三尾根、クラック尾根登攀。 

             
 8月
  御在所岳の東南壁で、唯一残された一ノ壁正面ル-トを高井氏が単独で初登攀する。このことについては、前章でもご紹介している「鈴鹿の思い出」に詳しいので、ひも解いてみる。

〈暁の章「戦後の思い出」からの続き。緑字はあづみ追記〉 

 さて、ここで当然衆目を集めたはずの、一ノ壁正面ル-トは、その当時どうなっていたであろうかと言う疑問が起きる。一ノ壁第三ル-トが登られながらも、なぜ正面ル-トが手つかずであったのであろうか。壁の中央に長々と横たわるオ-バ-ハングのバンド、さらにその上の、ホ-ルド
(手がかり)・スタンス(足がかり)とも皆無とみえるフェ-スは、野心的登山家の意欲をも凍結させるに充分であった。屏風岩中央カンテ突破の技術をもってしても、おいそれと、取付く訳にはいかなかったのである。しかし、この登攀不可能ともみられたル-トに対し、ひそかにかつ執拗に試登を繰り返していたグル-プがあった。それが私の畏友、谷口氏をリ-ダ-とする桑名の東芝山岳会のメンバ-であった。私たちがそのことを知った時は、川崎・富田両氏によって、オ-バ-ハングのバンドが突破され、その上のフェ-スに苦闘が続けられていた。東芝山岳会が開拓しつつあったル-トは、一ノ壁に向って、右側から取付き、斜め左上へと登り、オ-バ-ハングのバンドを越し、越してすぐの地点から右上へと派生するリス(クラックよりも幅が狭く、指やハーケンが入る程度の細い岩の割れめ)にしたがって登ろうとするものであった。確かに偵察ではこれ以外にル-トは考えられない。しかし、このリスは見た目にも至難のリスで、両氏の苦闘にもかかわらず成功しなかった。(このリスは、ずっと後になって、人口登攀技術を用いて登られた。いわゆる〝一ノ壁右ル-ト"の一部となっている)いずれにしても東芝山岳会が、こともあろうに一ノ壁の正面ル-トに挑み、しかもオ-バ-ハング帯を乗り切っていると言う情報は、神中山岳部の主力メンバ-を動揺させた。しかし、そう言われてから一ノ壁を眺めれば、なるほどオ-バ-ハングのバンドは突破できそうに見えるが、その上のリスは絶望的である。もちろん他にル-トは見当たらない。 私も、やはり正面は無理なんだなと思っていた矢先、高井が私のところにやって来て、正面を単独で登ったと言う。どこをどう登ったかと聞くと、オ-バ-ハングを越してからハングの上の狭い棚を左上につめ、そこからフェ-スを直登したと言うのであった。これが現在左ル-トと呼ばれるもっともよく登られているル-トである。このことを谷口さんが聞いて私に「岩稜会に負けたのなら悔いはない」と語られたが、私もいささかすまない気持ちになったものである。
 またその頃、藤内沢と第一ルンゼの分岐点の少し下にある一枚岩をテストスト-ンと名付け、バランスクライミングのトレーニングを行った。やがてアイゼンを履いて登るようになり、重いザックを背負って登るようにもなった。ついには手ばなしで登る者が出てきたのには驚いた。
 この頃、戦前に小槍専門の名ガイドで、また平田恭介氏とともに、かの有名な、一ノ倉・滝沢下部の初登攀を成し遂げた浅川勇夫氏が私を訪れ、私は神中山岳部の連中と一緒に藤内壁に案内した。浅川氏のパ-ティが藤内滝左岸のトラバ-スをされるのを、私たちは右岸から見学したが、浅川氏の確保技術がたいへん参考になった。(私事で恐縮だが、浅川氏は、私の妻の13歳の誕生を小槍の頂上で祝った時の、ガイドを務めてくれた)また北穂小屋の小山氏を藤内壁に案内した。〈以下、該当年度に送る〉


 合宿以外でも岩稜会の方々は、いつも山に入っていられたようである。
 8月1日
  この日に、『屏風岩登攀記』の序文が須賀太郎先生(父名帝大時代の恩師)から届いている。そのお原稿を掲載する。
 以下の2通の便りは、岩稜会員から届いたものである。お二方とも、登攀の記録などを伝えている。他にも多数の便りが来ているが、岩稜会が、いかに意気揚々と山に登ったかを、うかがい知ることができるので、一部ご紹介する。
 この頃の岩稜会の流行り言葉は「アラヨ― プルプルプル」であった。手紙の終わりに出てくることが多い。「アラヨ―」は登攀での掛け声で、この言葉は現在でも三重県山岳連盟に受け継がれている。
 また、石原一郎氏のニックネ-ムは部隊長であった。
 8月17日付
 石原一郎氏からの葉書

文中のバッヂとは、以下の写真「岩稜会会員バッチ」のことである。


 8月24日付
 岡田氏からの葉書

この手紙は7頁に及ぶが、登攀関係の時間などの記録の部分だけを掲載する。

左の封筒をクリックしてください。内容がご覧いただけます。 
 9月1日
 『屏風岩登攀記』のゲラが出来た。以下はその表紙である。これは、父が残した56冊のスクラップブックの1冊目に貼られていた。
 この頃の父は、この本の出版に追われ、合宿以外の山行きには参加していない。
 この後、岩稜会内では「明神岳五峰東壁」積雪期初登攀について論議がされ、「無理だ」とする意見がまさり、一時期中止とされたが、石原氏の強硬な意見でこの冬に実行されることが10月27日の岩稜会総会で決定された。
 その間に会員同士の意見の食い違いのまとめなどで相当翻弄されて、父は忙しい日々を送ったようである。



 9月25日
 『屏風岩登攀記』初版本、碩学書房より発行。
 10月2日 『屏風岩登攀記』出版祝賀会が行われる。
 会には、須賀先生を始め、八高山岳部時代の恩師柴崎先生や親友の谷本先生・牛島氏、出版社の南部社長も来てくださっている。しかし、岩稜会からは伊藤氏(通称社長)と中道氏しか参加されていない。なぜだったのかは不明である。

後列左より:本田氏・南部氏・智子ちゃん・米田氏・谷本先生・牛島氏・中道氏・和子ちゃん・伊藤氏
中央左より:勝彌氏(須賀先生長男)・靖子ちゃん・後ろに若山の祖父・須賀先生
前列左より:鶴子ちゃん・母・父・柴崎先生・晴美さん(中道氏長女)・尚子ちゃん
名前のみの女性名は、全て母方の祖母の4人いる妹の子である。
 10月17日付
 長越茂雄氏は、ペンネ-ムを安川茂雄と言う登山家であり、山岳小説作家でもあった。三笠書房の編集長も務めた。本名を一時期長越成雄としており、この葉書でも成雄になっている。
 父とはこの時面識はなかったが、田中栄蔵氏の紹介で『屏風岩登攀記』の批評をしてくださった。この葉書は氏からの2通目の物である。

 

 11月3日 宇治橋渡始式 三夫婦参列
 伊勢神宮の宇治橋が架け替えられて、橋の無事を祈り最初に通行する式典が行われた。これには、三夫婦三代揃った家族が縁起が良いとされて、石岡家も渡始をして参内した。
 右に掲載した資料は、写真を写していただいた写真館が、出来上がった写真と共に送ってくださった物である。「宇治橋渡橋式」と書かれているが、「宇治橋渡始式」が正式名である。

 
 11月18日付
 長越氏より8頁からなる長文の手紙が届いた。内容は屏風岩での伊藤氏と父との軋轢の苦しさを、ご自身にあった出来事を含めながら書き進められている。以下にその1頁目を掲載する。小説家らしい素晴らしい文章なので、手紙をクリックして全文をお読みいただければ幸いである。




 左の手紙をクリックしてください。
 全文がお読みいただけます。
 昭和24年に発行された父に関係する山岳雑誌を以下に紹介する。

 9月1日発行『岳人』特集号
「下又白下降」
岩稜会・鈴鹿高校山岳部著



この文章は、途中で切れている。
上の表紙が張り付けられていたため読み取れない。ご容赦願いたい。
12月1日発行『山』
『屏風岩登攀記』書評
長越成雄氏著 



長越氏の書評は『山』の表紙に張り付けられていたため、上の様な掲載になった。
内容をお読みいただくと、お判りのように、積雪期の正面岩壁初登攀は伊藤氏とされている。これはもちろん誤解で、実際には昭和33年になってからである。
山に見識の深い長越氏ですら間違われるほどだったのである。
 12月10日発行
日本山岳会機関紙『山岳』
「積雪期の穂高屏風岩正面岩壁登攀」
伊藤洋平氏・大津秀夫氏著



これは、昭和23年の「岳人」10月号とほぼ同じである。参考のために載せることにした。

 上の雑誌をクリックしてください。内容がお読みいただけます。
 10月30日~11月3日 第4回国体 富士山
 この国体には松田氏が一人で参加した。
12月31日~1月11日 ひょうたん池合宿

 ついに、明神岳五峰東壁積雪期初登攀に挑む合宿の時が来た!
この時、私が生まれないかも知れないような大事件が起こった!!
そのお話は昭和25年に送ることにしよう。

乞うご期待!



上の写真をクリックしてください
昭和25年にご案内いたします

2015年3月6日掲載