昭和25年(1950年)

 12月31日~1月11日 ひょうたん池合宿
 事件の多かったこの岩稜会初めての本格的な冬山合宿については、度々で恐縮だが『屏風岩登攀記』の〈戦後登山の思い出話〉に出ているので、合宿の少し前からのお話しを転記させていただきたい。

 難産の末生まれた明神での合宿の準備が、これまた大変である。何もかもほとんど無から出発せねばならない。
 冬山のための靴下、手袋、それに寝袋はほとんど自家製で、たいてい母親に重荷がかかっていた。現在歯医者をやっている益川は、手袋一つに1ヤ-ルの布地を使ったというので、ヤ-ルと言うあだ名が付いた。濡れれば重くて、とてもはめていらる代物ではない。
 のちに明治大学山岳部のリ-ダ-となった清水は、膨れ上がったキスリングのザックを軽々と背負い、その代り大風呂敷を重そうに持ってやってきた。スキ-とピッケルは弟たちが担いでいる。「キスリングの中はなんだ」と聞くと、「おふくろに寝袋を作ってもらったが、冬の山は寒かろうと言うので、バカでかい物を作ってくれた。キスリングは寝袋一つでいっぱいです」と言う。
 冬山テントのマットには、最初鈴鹿の山へ綿入りの布団を持って行ったが、凍って板のようになり処置なしである。布団のマットにこりて、板マットを作った。長さ40cm、幅7cm、厚さ1cmくらいの板に水がしみ込んでも凍らないようにコ-ルタ-ルを塗り、それを12枚くらい紐で連結し、ぐるぐる巻いて持って行った。初めに作ったのは7kはあった。
 かくしてともかくも出発までこぎつけた。
 私を含めた本隊11名は12月30日の夜行、後発隊2名は元旦の夜行、それに応援のため鈴鹿山岳会の年配の方4名が1月5日、それぞれ鈴鹿を出発した。
 本隊は前川渡でトラックから降ろされた。当時は荷揚げなどということをしなかったので、ザックは50k近くあった。その日は坂巻、元旦は上高地の木村さんの家、二日は明神の吉城屋、そして三日やっとひょうたん池にテント二張を張った。
 後発隊の二名は、島々宿から歩いた。雪が降りしきる中を、足元ばかり眺めて歩いた。いやというほど歩いたので、もう上高地へ着いた頃だと思って、行き合う人に尋ねたところ、「ここは稲核と言う所で、島々宿の次の部落だ。上高地までは十倍以上ある」と教えられ、ガックリしたと言う。私がその話を明神の吉城屋で聞いた時、上高地と稲核とを誤るとは、この二人は頭がどうかしているのではないかとあきれたが、よく聞いてみてまあまあ納得がいった。彼らは夏、上高地へ二度入ったが、一昨年は徳本峠を越し、昨年は島々-上高地間はトラックの中でグッスリ寝込んだので、島々-上高地間のバス道が近いのか遠いのか、トンネルがあったのか、なかったのか皆目判らなかった。しかし今度はその遠さが身に染みましたと、地理の暗さ加減を恐縮した。また二人は、吉城屋までに本隊に追いつかないと、それこそたいへんだと、ほとんど徹夜で歩き、本隊が4日かかったところを2日でやってきた。
私はいつかの夏山で、北穂岳南陵のテント地で寝ころんでいた時、下から3名の登山者が登って来て、「ここは西穂高ですか」と聞かれ、「いや、北穂です」と答えると、「それならそれで、その方が良かったのです」とすました顔で登ってゆくので、すっかりあきれたことがあったが、今の後発隊の話など、その登山者よりも軽率で、他人のことなど笑えたものではないと思った。
 私たちは1月3日、上宮川谷の深いラッセルにふうふう言いながらひょうたん池にたどり着いた。夏、池が出来るひょうたん池の場所は、今ではたんに深雪の凹地にすぎない。腰まで没する雪を踏み固めてテント二張を張った。
 この時のテント生活は、およそ考えられる失敗は全部やったように思う。テントを張り終わると、さっそくガソリンコンロを引っ張り出して炊事を始めた。この時持って行ったコンロは、登山用ではなく、陸軍が満州でトラックのエンジンを温めるのに使ったというものであった。車輪が4個くっついたバカでかい物で、火力は強いが、特に点火の時調子が悪く、下界でテストした時も、最初2,3回は必ず炎に包まれる。あらかじめそうなることを予想して、テントの入口を開けて置いて、炎に包まれると同時にコンロをテントの外にけとばした。そのたびにガソリンが漏れ、雪に浸み込む。それでも夜遅くなってやっと大鍋一杯のめしと、フツフツとたぎる豚汁が、二つのテントにそれぞれ支給された。
 皆腹ペコで、それっとばかり箸を取った。私は豚汁を一口飲んでこれはおかしいと思った。猛烈にいがらいのである。もう一口すすってみたが、それ以上はとても口に入らない。鍋に入れた雪にガソリンが浸み込んでいたのだ。私は食事当番の高井と妻を叱りつけ、大鍋の汁を雪の上に捨てさせた。腹ペコでしかも食べられないとは、泣くにも泣けない。高井は、「俺が呑んで見せる」と張り切ったが、せいぜい4口か5口止まりであった。せめて肉だけでもということで、豚肉だけ拾い集め、フライパンで少し焼いては口に入れてみる。まだだめだと言って焼く。やがて肉に浸み込んだガソリンは無くなったが、同時に豚肉は完全な炭になっていて、口に入れたとたん、苦くて吐き出した。

 翌日は、雪のちらつく中を、アタック目標の最南峰
(五峰東壁のこと)と四峰へ偵察に出かけた。また留守部隊は、雪を踏み固め、掘り下げ、六畳の部屋くらいの広さの雪洞を作った。テントがあまりにも狭く、それにコンロの調子が悪いので、炊事は雪洞の中でやることにした。
 次の日、いよいよアタック開始である。朝3時出発ということで、妻は雪洞の中で徹夜で準備をした。最南峰のアタックメンバ-は、石原と屏風岩の松田、それに約一時間先行して、私と中澤、高井がF3の下までのラッセル、四峰東稜は、屏風岩の本田、室、カンチャンの田中、岡田の4名であった。しかし午後から吹雪となり、テントも雪洞もみるみる雪に埋まっていく。
 夕方には四峰隊がフラフラで帰って来た。最南峰の二名は真夜中に、これまた中央リンネから引き返してきた。引き返す時もたいへんで、絶壁に張りついた氷を割って、その下の岩を露出させ、それにハ-ケンを打ち、ザイルをかけて懸垂する、ということを繰り返してきたそうである。20時間のアルバイトであった。
 K大学山岳部のパ-ティが梓川から、四峰隊が垂直に近い雪の壁を下降しつつあるところをガスの切れ間から眺め、ホテルの木村さんに、「あのパ-ティが無事に下降できるとは思わない」と話し、木村さんはとても心配されたそうである。
 次の日、私はアタックを繰り返すことは危険と考え、ひょうたん池を撤収することにした。朝から準備したが、いざ出発という時になって、あれが足りない、これが見当たらぬと言うので、テントの周りの雪を1mほど掘り下げた。コチコチに凍った上着、靴、鍋、リュックサックなど、次々に掘り出され、テント生活のだらしなさに呆れかえった。
 かくして出発は午後1時頃となった。
 大部分の者は冬の穂高は初めてで、それにテントの居住性が悪く、特に寝袋の毛布は板のように凍っていたので、睡眠不足で出発の時からフラフラしていた。しかし、ひょうたん池から明神までは下降一方であるから、夕方までには吉城屋に到着できると思った。
 私は、落伍者があってはいけないと思って、最後尾を歩いた。下宮川谷に入った頃から歩く速度が急に落ち、先がつかえて進めないので、20分も30分も雪の上で寝ころんで待った。そのうち暗くなり、月がこうこうと照り始めた。
 私は、先頭はとっくに吉城屋に着いていて、夕食の準備をしていてくれるだろうと思い、月見もおつなものだと、時刻が遅くなっても別に気に留めなかった。
 まもなく梓川の河原の林に出る。4日前置き去りにした13台のスキ-が雪をかぶって並んでいる。スキ-はそのままにして懐中電灯の光を頼りに30分も歩くと、明神養魚場の裏の幅3mほどの流れに出た。ここに丸木橋がかかっているが、橋に雪が凍り付いて、じつに滑りやすい。私は橋の中央で滑り落ちそうになり、バランスを取るために腕を大きく振ったはずみにピッケルを流れに落とした。スキ-のストックでピッケルを拾い上げたが、ピッケルは氷の棒になっていた。やっと丸木橋を渡り終わると、そこに大きな氷の塊が転がっている。懐中電灯で照らしてみると、それはザックであった。そのザックの持ち主は、先ほどの丸木橋で足を滑らせて流れに落ち、ザックともぬれねずみになり、水から上がると同時に、全身氷の鎧を着たようになった。それでザックだけ転がして置いて、先を急いだに違いなかった。
 その時、私の懐中電灯の光の中に、4,5名の一団が、大きなザックを担ぎ、腰を折り曲げて、弔いのように黙々と歩いているのが見えた。背の低いのが妻に似ているようであった。私は、彼女は隊の先頭を歩いていて、数時間も前に吉城屋に着いていることと思い込んでいたので、ハッとして思わず妻の名を呼んだ。すると、一団の内の一人が、「奥さんは返事ができないでしょう」と言う。私は、突然危険を感じて、「馬鹿野郎!」と大声で叫び、「なにをボヤボヤしとる。全員ザックを捨てろ。ザックは明日取りに来ればよい。お前は伝令だ。すぐ吉城屋へ走り、途中歩いている者にザックを捨てて引き返すように言え。また吉城屋にいる者に、すぐ救援に来るように言え。お前は俺と一緒に敏子に肩を貸せ」と言うと、私はザックを雪の中に投げ下ろし、妻の方へ走った。彼女は、私の声がまったく聞こえないらしく、ザックを背負ったまま、同じ歩調で歩いている。懐中電灯で顔を照らすと、目はほとんどつむったままだ。すぐザックを肩からはずし、背中をどんどん叩いて大声で呼ぶと、わずかにうなずいてそのまま倒れようとする。私は妻の腕を肩にかけ、懸命に歩き出した。もう一人が反対側から彼女の腕を肩にかける。
 明神橋のたもとへ来た。月の光をいっぱいに反射した梓川が眼前にひらけ、寒風がさっと耳を凍らせる。あの橋げたが点々と抜けた吊り橋を、どうして渡ったか覚えがないが、吊り橋を渡り切った所に、2,3人がいて、妻を橋から下ろすのを手伝った。
 踏み固められた道を、吉城屋へと急いだ。しかし、雪の踏み跡は一人分の幅しかないので、三人が蟹の横這いのように縦に並んで歩くより仕方がない。三人のうちの一人が足を踏み外せば、三人とも一塊になって深い雪に転がり込む。
 三度も四度も転がりながら、やっと吉城屋に近づき、囲炉裏から漏れる灯りを見た時には“助かった”と思った。そのままドカドカと、雪や氷の破片がいっぱい落ちている板の間を横切って、赤々と燃えている囲炉裏を切った部屋に入った。その時、三人がいっせいに滑って、私は息がとまるほど腰を打った。倒れたままの妻を囲炉裏まで引きずった。
 鈴鹿山岳会の三人、それに吉城屋のおじさんの顔が見えた。私は、「妻が意識を失っているようです」と言うと、鈴鹿山岳会の中道氏は、すぐカンフルを用意する。しかし、横たわっている妻を見ると、じつに静かに眠っている。私は全身でフウフウと呼吸をしているのに、これはまた何ということだろうと思って、口に手を当ててみると、呼吸していない。この時には、私はもちろん、一同息をのんだ。私が妻の身体に触れると、それこそ氷のように冷たい。大急ぎでカンフルを打ち、口からウィスキーを流し込み、胸をぐいぐい押え、皆で全身を摩擦した。(この時、人工呼吸なるものは知らなかった)
 一分ぐらい経ったであろうか。妻の胸が急に大きく動いて呼吸を始めた。彼女は、「寒い、寒い」と、ガタガタ震え出した。
 紅茶を飲ませ、手足をいっそう摩擦する。やっと危機を脱したが、私はワ-ッと泣きたい気持ちだった。
 石原、本田、松田、室、高井など元気な連中は、もう明るいうちに吉城屋に着き、夕食の準備も終わり、遅い遅いと言いながら待っていたが、よもや、そんなことになっているとは夢にも知らなかったと言う。
 それにしても、妻がほとんど無意識であのつるつるの丸木橋を渡ったことは、信じられないことであった。しかし、彼女はなぜこのように弱かったのだろうか。
 妻は、一昨年暮れの木曽御岳登山の時には、頂上の寒冷の中で、むしろ一番強かった。だからこそ冬の穂高へ同行したのであった。
 彼女に聞いてみると、ひょうたん池合宿中、一度も用便をしなかったという。用便をするには腰まで潜る深雪を、直径1mくらい踏み固めて穴を掘り、その真ん中でしゃがまなくてはならないが、白一色でどこも身を隠す場所がない。とても恥ずかしくて、そんなことは出来ないし、それを思うと、何も口を通らなかったと言う。
 私はアタック隊員用のテント、妻はもう一つのテントと、ほとんど別々にいたので、私がそのことに気付かなかったのはうかつであったが、この時以来彼女を冬山に同行するのはこりごりした。女性の冬山登山の資格は、なんといっても、衆目の中でお尻を出すぐらいの心臓がなくてはならないと、つくづく思った。
 それにしても、養魚場の裏で妻と一緒に歩いていた連中が、彼女がへばっていることが判っていながら、なんらの処置にも出ていないことは不思議なことであるが、これは人体に疲労と寒冷が強く作用すると、脳細胞の働きが悪くなるためで、そういう遭難事例はよく耳にする。
 

 母はこの時のことを振り返って「凍死と言うのはとても気持ちの良いものだよ。最初は寒いと思っているけど、そのうち雲の上を歩いているようで、フワフワと気持ちの良いのなんの…」と笑っていた。なんと!まぁ。。。
 1月1日
 元旦の伊勢新聞に「技術と装備を十分に」という父の書いた文章が載った。
 屏風岩初登攀以来、登山家として認められた父は、新聞や雑誌から原稿の依頼が入るようになっていた。
 1月12日
 岩稜会が明神岳登攀に失敗したニュ-スは、早くもこの日三重新聞に掲載された。


 3月29日~4月10日 明神合宿
 明神岳に失敗した岩稜会は、再度積雪期を狙って合宿に入った。参加者は石原・田中・高井・森、各氏と父であった。
 そして、石原氏と高井氏は五峰東壁を狙うが、またしても天候に恵まれず雨のため退却する。

 4月7日
 明神をあきらめて、合宿参加者全員で上高地ホテル番小屋から西穂高を往復するが、帰路上高地に着いた時には真っ暗であった。雪の中、懐中電灯を頼りに歩いて、中ノ瀬橋を渡り梓川を後にして番小屋へと急いだ。距離としては5分もかからないであろう。小屋の灯りがもう見えるころだと思っていると、急に森林が無くなり目の前に大きな川が現れた。それは梓川だった。父たちはわずかの間にUタ-ンしていたのだ。5人もいて、どうして180度向きが変わったのに気付かなかったのか、不可解としか言いようのない出来事だった。
 4月日付不明
 その頃から岩稜会は、積雪期の岩場のトレ-ニングのために、重装備とアイゼンで藤内壁の各ル-トを登っていた。
 一ノ壁正面ル-トをアイゼンで登る計画を高井氏と森氏が立てた。高井氏と父は一緒に出掛けたが、一ノ壁の取付きで待っていても森氏が現れないので寒くてかなわない。高井氏は「バッカスと二人で一ノ壁を登ろう」と言いだした。父はその頃、技術が低下し、一ノ壁正面ル-トは地下足袋でも登っていなかった。それで断ったが、高井氏が承知しない。「これは大変なことになったぞ」と思ったが、ようやく観念してザイルを結んだ時、森氏が到着した。
 トップの高井氏は積雪期の一ノ壁正面ル-トの初登攀に意欲を燃やして、猛然と登った。しかし、あと数メ-トルと言う所でスリップ。ハ-ケンが3本抜け、4本目で停止した。その時森氏は、トップの直下10mくらいの所のオ-バ-ハングのバンドの上で確保していたが、高井氏が墜落する時、アイゼンが森氏の頭をかすめた。そのショックで森氏は失神したが自己確保用のザイルで、身体を大きく空中に傾斜させ、立ったままの姿勢でいる。高井氏はオ-バ-ハングの下まで落ち、空中で足をばたつかせていた。結局、森氏は頭の一部がハゲになった。
 森氏の来るのがもう30分遅かったら、父の頭がハゲになっていたところだ。
  5月7日付
 伊勢新聞に「死体の前合掌と食事」と題して、『屏風岩登攀記』の想い出の山旅の中の、〈初めての穂高〉回想の手記の抜粋が掲載された。


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 日付は不明であるが、須賀先生とご子息の勝彌氏とご一緒に、松田氏を伴って御在所に赴き、当時5歳の姉に岩登りの指導をしている。夏山合宿に連れて行くための訓練と思われる。
 御在所山荘前にて 
後列右より 父・母・?
前列左より 姉・勝彌氏・松田氏
 
 父にザイルを握られて   御在所にて
一番上が松田氏
その下左に須賀先生
下段左より 母・姉・勝彌氏 
 8月5日~12日 奥又白池合宿
 明神岳の積雪期登攀は残っていたが、明神の夏山は全て登りつくしたので、この時の合宿は又白と決めた。それは、前穂高岳北尾根四峰正面岩壁を始め、いくつかの積雪期未踏の岩壁が残っていたからである。
 この時の合宿から父の弟の若山五朗が参加し、姉も加わった。
 明日は、かねてからの目標だった前穂高四峰新村ル-トを攻撃するという晩に、明朗で強い意志を持っていると思っていた松田氏がしみじみと話し出した。「夏でも難しい明神の最南陵中央リンネを、重装備を付けて登らなければならなかった冬の合宿の時、考えただけで身震いがして止まらなかった。しかし、この計画は長い議論の末決定されたことだったし、みんなが自分を期待して、この登攀のために半年もかけて準備してくれた。今更怖いからやめたとは言えないので、登攀の前の晩に『なんとか明日の朝腹が痛くなりますように』と一生懸命祈りながら寝たが、朝になっても腹は痛くならなかった。あんなに祈ったのにどうして痛くならないのかと恨めしく思った。しかし、いよいよテントを出発してしまうと、臆病風はあとかたもなく吹っ飛んで、じつに爽快な気分になった」と言う。皆がシ-ンとなって聞いていた。
 さて、その翌朝、快晴の中、これから向かおうとする四峰正面は、朝日を受けて赤く染まっていた。メンバ-は石原氏と松田氏だ。準備万端整えて、ハ-ケンやカラビナでズッシリ重いザックを背負い、いよいよ出発という時に、松田氏が「腹の具合がどうもおかしい」と言って腹を押えている。よもや仮病ということもないだろうが、昨夜の話があったので、皆変な顔をしている。父が「少し歩いてみたら治るんじゃないか」と言い「僕もそう思います」と言うことで、石原氏と松田氏、そして父は又白尾根をゆっくりと歩いて行った。10数名の岩稜会員が心配そうに見送る。しかし、歩くにしたがって腹痛が増し、顔が真っ青になっていくので、引き返すことにした。
 テントに着いた頃には「う~ん、う~ん」とうめき声を上げている。これは冷え腹に違いないと、セ-タ-などを巻き付けてどんどん暖めたが、痛みは増すばかりだ。そこへ運よく九州大学医学部の先生たちが上がって来られた。天の助けとばかり診察していただくと「これは盲腸に違いない」と言われる。慌ててセ-タ-を外して、水筒に雪を詰めて患部を冷やした。翌日、痛みが落ち着いたので、松高ルンゼをザイルで確保しながら松田氏を上高地へ下ろした。それからタクシ-で松本へ、さらに鈴鹿に連れて帰り病院で診てもらうと、患部が破裂寸前だと言うことで、ただちに手術になった。
 こんな訳で、この合宿の計画は中止となった。
 テント地にて
 左端が五朗叔父

 五朗叔父と姉
 姉は裸で素足である。雪渓で遊んでいるが元気なこと!

 8月14日付
 伊勢新聞「五歳の幼女穂高へ」
 岩稜会が山へ行くとなると、なんでもニュ-スになった。
 現在では、乳呑み児を背負って穂高に入る若い両親の姿をよく目にするが、この頃は子どもの姿は皆無だった。

 
 10月28日~11月1日
 この間、第五回国民体育大会が愛知県で行われることになり、登山部門だけを三重県がやることになった。また、登山のスケジュ-ルに藤内壁の岩登りが取り入れられた。
 この時の大変だった準備の模様は父の著書『ザイルに導かれて』に記されているので転記する。


 国体に岩登りが採用されたのは、このときが初めてであった。もともと国体と言えば技を競うことを連想するが、そういう雰囲気の中で山登りをやることは、事故防止の点で問題があることはもちろんだが、後日に及ぼす影響から言っても、きわめて問題である。特に選手が高校生ということでは‟大問題”を絵に書いたようなものである。私は、国体登山実行委員会の席上、否決になると決まっていると思いながら、しかし、鈴鹿で国体をやるのに藤内壁と言う日本で有数の岩場が、少しの検討もされないまま、見過ごされることはおかしいことだと考え、ともかくも岩登りを提案した。しかし、それが案外簡単に採用され、むしろ提案した私の方がびっくりした。と、同時に運営面について、大いに責任を感じたのであった。そして、当時の『山と渓谷』に記したように、岩場の難しさはそのままで、しかも絶対安全という特別の工作をする決心をした。このため、ザイル200m、カラビナ100個、ハ-ケン200本を県に購入してもらった。
 岩稜会員と神高山岳部員は、夏休みの大半を藤内壁で合宿して、そのための準備をした。しかし、考えてみると、このような幸運は簡単には転がっていない。戦後5年間黙々と開拓してきたル-トが、今や全国的に脚光を浴びることになったのである。私たちは、それらのル-トから10本のル-トを選んで、安全工作に取りかかった。また、それらのル-トの各部に、現在知られているような名前を付けたのであった。兎の耳・正面バットレス・第一ルンゼ・中又・鋸岩・前尾根のP1からP4まで、その他、奥又・奥尾根・インゼル等々である。



 さて、国体開会式の当日、選手たちが国体行事の第一日の予定である田光へ出向いた後で、下見のつもりか、松方さん・藤島さん・藤木さん・西岡さん・入沢さん・関根さんといった日本山岳会の主だった人たちが、藤内壁が見たいと申し出られ、私が表銀座のル-トを案内した。この時一ノ壁正面ル-トを松田と室をそれぞれリ-ダ-とする2つのパ-ティが、デモンストレーション的に登攀した。一行は一ノ壁の上、第一ルンゼ右又、展望台、ツルムのコル、奥又を経て岩場の上へ出、それから頂上へと向かった。燃えるような紅葉が一行を迎えた。また、遥か北方、釈迦が岳付近には、今朝別れた国体選手が一列をなし、けし粒のように歩いていた。
 しかし、岩登りの本番3日目は、朝からドシャ降りの雨で、岩登りは中止された。私は予定通り国見岳まで迎えに出て、一行と一緒になり、裏道を、雨雲に包まれて何一つ見えない藤内壁や、真っ白な滝となって水を落としている前壁ルンゼを横目で見ながら、湯の山へと急いだ。その翌日はまた快晴となった。国体の行事は終了したが、国体選手の有志が岩場を訪れた。確か群馬のパ-ティが、一ノ壁第三ル-トを登ったが、中央のテラスで足場を崩し、ちょうど俵を蹴飛ばしたように墜落した。しかし、工作されていたザイルのため、ことなきをえた。
 国体で思い出すことの中には、通信用のバッテリーを頂上へ上げた時の苦しさである。
 また国体を記念して、御在所の頂上と朝明の伏木谷に山小屋が作られた。頂上の小屋は、薪がないことと、水に不便なため利用価値は少なかったが、朝明の小屋は予想通り、鈴鹿山脈が誇る愛知川探勝の根拠地となり、現在の繁栄のもととなった。
 私は国体の時まで、愛知川へは一度訪れただけであったが、国体以来しげしげと足を運び、朝明ヒュッテの最初の管理者小津桂次郎さん(後、伊勢谷小屋経営者)とは、家族ぐるみの懇意となった。
 国体の後、伊達さんと私とは、県から表彰状をもらったが、当時私たちは穂高の明神の岩壁に死闘を繰り返していた時であったので、表彰にはなんの感激も伴わなかった。
 次の話は、国体登山の裏話の裏話だが、開会式の前夜、中央の国体役員は、湯の山の旅館で宿泊し、跡部さん・熊沢さんを始め地元の我々は、近鉄山の家に泊まった。この時、我々のいる山の家へ「中央の国体役員は、『国体登山の行事は、日本山岳会等の行事であって、地元の者は人夫がわりに働くだけだ』と考えている」という情報が入った。これには一同憤慨して、代表を出してことの真相を確かめることになった。熊沢さん、私を含む数名が、山の家から湯の山の寿ホテルまで、暗い山道を往復した。

 この時、三重県の代表としては、神戸高校から3名の山岳部員が選ばれた。
 岩稜会員と神戸高校山岳部員は、この時ばかりはおおいばりで山登りが出来るので、それこそ水を得た魚のように嬉々として働いた。
 国体としての岩登りは雨のため中止となり、父たちの苦心は水の泡となった。しかし、前述のように一ノ壁第三ル-トでは役に立った。開会式当日、行事に参加せずこっそり岩場に取り付いたパ-ティがあったが、安全工作を無視して登り、墜落して骨折した。安全工作が正しかったことが証明されたようなものである。
以下に掲載する表紙は、国体に関するものである。
お読みいただければ幸いである。

10月1日発行
『山と渓谷』国体鈴鹿山脈特集
「国体登山競技岩登り部門」
 石岡繁雄著
 
第五回国民体育大会 登山競技
「計画実施要項」

 
11月1日発行
「第五回国体山岳部門コ-ス概要」
 伊達忠雄氏・石岡繁雄著
 

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12月26日~26日 御岳(父不参加)
12月25日から翌年1月5日 明神合宿

昭和26年に掲載いたします
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昭和26年にご案内いたします