<その4:ナイロンザイル事件の勃発>

昭和30年4月23日~6月30日


 4月20日頃、三重県山岳連盟に宛てて、4月29日午前10時より、篠田軍治氏指導の下に東京製綱蒲郡工場において、ナイロンザイルの落下衝撃公開実験を行う旨の案内が届いた。
 父たち岩稜会や三重大学山岳部等は、5月の連休を五朗叔父捜索に当てていたため、この公開実験に参加することが出来なかったので、公開実験には、三重県山岳連盟の暁学園教官加藤富雄氏と、岩稜会副会長の伊藤経男氏が出席することになった。

 4月23日付 田中栄蔵氏宛 東京製綱高柳課長よりの手紙

 拝啓
  新緑の候益々ご健勝の御事とお慶び申し上げます。
 其の後ザイルの件に就いては一方ならず御配慮を煩わし恐縮に存じます。
 扨て予て計画中でありましたロ-プのショック試験用タワ-此度漸く弊社蒲郡工場内に完成いたしましたので、左記日程に依りマニラ・ナイロンロ-プの比較試験を篠田先生の御指導のもとに実施致す事になりました故、御都合宜しければ是非御立ち寄り下され度御案内申し上げます。
 日時―4月28日(木曜日)午前10時より
 場所―弊社蒲郡工場―東海道線三河三谷駅下車 徒歩約5分
 当方準備の都合もあります故、御出席の方々も折返しご通知頂ければ幸甚に存じます。
 先づは御案内まで
 4月23日

 この手紙で判る様に、実験は28日・29日の両日に行われたようである。 

 4月24日 大阪美津濃運動具店で新保正樹氏から父が聞いた話
  父は、公開実験に行けないため、伊藤経男氏と共に大阪におもむく。その内容は『ナイロン・ザイル事件』に記されているので転記する。


 ザイル切断による墜死事件につき、大阪美津濃運動具店研究部新保正樹氏は、岳人81号30年1月号に「ナイロンザイルは麻ザイルにとってかわった」旨の記事を掲げられているので、今回のナイロンザイルの欠陥に基づく遭難事件については大いに責任を感じていられ、それについて一度石岡氏ともお会いしたい旨、新保氏と商取引上懇意である岩稜会伊藤経男から石岡は聞いていたので、4月24日、伊藤の案内で、美津濃運動具店を訪れ、新保氏とお会いした。その折の新保氏のお話の要点。
 東洋レ-ヨンの研究室では、篠田軍治氏の御指導のもとに、麻ザイルとナイロンザイルの比較試験を行い、その報告書が出された。それによるとナイロンザイルは、剪断応力に対しては麻ザイルより一桁弱い。又8mmのナイロンザイルは登山綱には適さないとの結論であった。
 ナイロンが何故麻に比して剪断に弱いかということは不明であるが、篠田教授がもっておられる一つの仮説は、次のようである。左図(右図)を繊維の断面とすれば、麻の場合は矢印の力が加わった場合、上層部から順に削られてゆくが、ナイロンの場合は「球晶」のため矢印の力に対して斜線のようにえぐれて取れてしまう。だからナイロンは剪断に対しては麻に比して遥かに弱いのではないか、というものである。
 尚その折、保安隊が雪の上で履くワカンの紐にナイロンを使ったが、北海道の演習でナイロンはみじめに切れ、全部返品となった、とのことであった。

 同日 日本山岳会関西支部での篠田軍治氏との会見

 日時 4月24日(約2時間)
 場所 大阪市北区堂嶋ビル向かい、協和銀行ビル3階 日本山岳会関西支部ル-ム
 会見までの経緯
  伊藤、石岡、大阪に同道。美津濃に行き新保正樹氏と会う。
 新保氏から東洋レ-ヨンのヤスリ実験の事を聞いた。そこから電話で篠田氏へ会見希望を伝えたところ、氏は「英文のアブストラクト(要旨)を2通本日中に書かねばならぬので忙しいのだが、大事なことだから」と会っていただけることになった。
 会談前に田中栄蔵氏と共に夕食す。(会談後、上六〔大阪府大阪市天王寺区上本町六丁目の略称〕にて田中・梶本両氏よりご馳走になる)
 石岡発言の要旨
  メ-カ-(東京製綱・東洋レ-ヨン)から代表者がみえて、父若山に二度会っていただいた。その会談の要旨を言えば、非常に丁寧に弔意を表していただいている。しかしながら何故ザイルが切れたかという点になると、遺族はザイルの欠陥といい、メーカーは使用者の誤りという訳で、両者間に非常に大きな隔たりがあって話が分断されてしまう。
 特に第二回目の会見では同行された熊沢氏から、ザイルの結び目に関する疑問さえも感じられる発言が出された。ここにおいてこれ以上の話は、遺体が発見されるまでは、両者のみで面談しても無意味であると石岡は考えた。ここで石岡の個人の見解として、当事者のみの会合であるために話がうまく進行しないのではあるまいか。もし両者が信用できる第三者を間に入れて会談すれば、会談がうまくいくのではないかと考えた。それは父も決して無理なことをいう筈はないと考えているからだ。現在両者の間に仲裁の労をとるにふさわしい人としては篠田先生以外にはないと考えている。誠に面倒なお願いだが仲裁の労をとっていただけないか。
 篠田氏発言の要旨
  東京製綱はこの事件のために、ザイル以外の商品にまで販売力が落ちたことで、逆に被害者側を恨んでいる。篠田個人としては、斯る恨み方は決して正しいことではないと考えている。しかし気の毒とは思っている。ザイル切断の事は登山界として非常に大きな出来事で、是非ともその原因を究明しなくてはならないことだと思う。自分も努力を続けているが、その努力は科学者というよりもむしろアルピニストとしてやらなくてはならないと思っている。そうなると、当然自分の金で研究しなくてはならないが、資金の関係で困難であり、たまたま、東京製綱からの研究依頼があったので、その資金に依って研究を続けている。
 見解が対立している時に一方の側の援助で研究すると言うことは本意ではないが、それだからといって結果を誤ると言う事は絶対ない。
 仲裁の件については、今しばらく待ってもらいたい。結論はこの4月終わりの東京製綱蒲郡工場でおこなう実験によって判明するはずであり、結果は5月中旬には出せると思うから(発表の形式は英文で発表することになるかも知れない)、それまで待ってもらいたい。その内容はあなたの方に有利であってもメ-カ-に有利になることは絶対ない。尚私自身は仲裁の労を取る事に異存はないが、出費者に不利な結果を出した者を、メ-カ-が仲裁者として承諾するかどうかは不明である。メ-カ-が断った場合には、残念ながら仲裁の労は取れない。
(尚、話は主として篠田氏と、石岡が行った。又、隣室が騒々しくかつ話は小声であったので、田中、梶本両氏には聞き取れなかったと思う。又、両氏は2,3回席を立たれ隣室〔好日山荘〕におもむかれたようである。会談後、会談の大要を両氏に石岡からお話したと記憶している)

 この篠田氏との会見によって、父は自分がやった実験に間違いはなく、公開実験でもナイロンザイルは確実に切れると思い、岩稜会側のナイロンザイルの使用ミスによる切断ではないことが証明されると喜んで、安心して五朗叔父捜索に出かけた訳である。尚、重要部分は赤字とした。
 春期捜索に出かける前に、ナイロンザイルを販売された熊澤氏からお電話があり「あなたは公開実験を見に行かない方が良いでしょう」と言われたが、どうしてなのか意味が判らなかった。

 4月23日~5月6日 春期捜索行「今井喜久郎氏著 三重大学山岳部会報」の原稿〔この著者は、会報に名前が記されておらず、澤田氏の「前穂高東壁遭難報告」と続けて掲載されていたため、澤田氏だと思っていたが、1956年発行の『岩稜』から今井氏と言うことが判った。(2019年10月)〕
 文章部分を転記する。その他、行動表や食料表などは、右の行動表をクリックしていただけば全文ご覧いただける。

 遭難事件以来早くも100日以上を経過した今日、雪解けを文字通り首を長くして待っていたが待ち切れず、4月下旬から5月上旬にかけての連休を利用して捜査行としては初めての大舞台からなる山行を試みることとなった。準備は3月中旬まで入院していた澤田の退院を待ってさっそく実行に移された。
 計画としては、主として学生会員からなる先発隊が荷揚げ、テント設営、偵察などを行うのを待って、後発隊が到着次第捜索を本格的に行なおうとするものであった。
 思いがけぬ多大の残雪と、相次ぐ新雪のため行動ははかどらず、やむなく引き返したのであったが、その行動記録を当時の日記と記録をもとにしてつづってみることにしよう。
 4月23日
  東京より石原國利・黒田・石田の3名、三重大から南川・滝川・常保・小坂・今井の5名、各々夜行にて松本に向け出発する。
 4月24日(曇のち雨)
 早朝、松本駅に着き合流する。共同装備、個人装備を合わせて百貫(375kg)を超過している荷物を円滑に荷揚げするため一応島々まで電車で行く。島々到着後、深山荘の方とも相談した結果、小雨がパラつき始めたことも手伝って、ハイヤー2台を連ねて行ける所まで行くことにする。途中で難航した箇所もあったが、警察署・沢渡西村屋・養魚場ご主人宅・坂巻温泉等で冬の御礼方々入山の挨拶をしながら、11時頃に中の湯まで到達する。前日は坂巻までしか行けなかったそうであるが…松本タクシ-の運転手さんと愛すべきフォ-ドに心から感謝する。中の湯卜伝の湯にて見越からいただいた心尽くしの御弁当で昼食を済ませ、ようやく本降りになってきた冷たい雨の中を上高地目指して登る。夜行の疲れと平均12貫(45kg)以上という重い荷も手伝って全員帝国ホテル着が15時頃であった。この雨の中を奥又白出合まで直行するのは身体を弱らせるだけだと思い、ホテルで泊まることにする。
 4月25日(晴)
 昨日の雨が夢かと思われる位に素晴らしく晴れ上がった。冬からの残置物・今回の荷揚げの品々を各キャンプ別に梱包し直し、北国研究所の御厚意による快適な背負子にそれぞれ8~9貫の荷をつけて河童橋を渡ったのが11時頃であった。養魚場手前の明神橋が流出しているとの話だったので、梓川右岸の道を渡って行く。12時30分養魚場に着き冬からの残置物を加えたりし、昼食を済ませて13時30分出発し、奥又白出合にて泊まる。
 4月26日(晴)
 昨日に続いて快晴に恵まれる。目が痛くなるような紺碧の空にくっきりと線を描く前穂高の峰々が今更のように美しく感じられる。さて、本日からいよいよ本格的に行動を開始する。8時45分、石原國・南川・石田・滝川の4名が奥又白池へ、9時、ホテルに残置した荷物のボッカのため黒田・常保・小坂の3名が各々出発する。池へ向かった4名は中畠新道を通り、池到着後(12時40分)、冬からの残置品を掘り出し、テントを乾かしたり整地をしたりして16時20分に出合テントに帰る。やや遅れてホテルへ下った3名も帰る。全員出合にて泊まる。
 4月27日(雨)
 風雨強く荷揚げ中止。午前中は荷物の整理などして過ごしたが、午後は退屈しのぎにと対岸へ直行できるように橋をかけることにし、流木を集めて2時間余りかかって成功する。名付けて"すきやまばし"と言う。
 4月28日(晴)
 やや風が強かったが荷揚げには差支えることはない。9時20分、石原國・南川・石田・滝川・常保・小坂の6名、池の荷揚げに上がる。池にてテント一張り設営し、雪洞をも併せて作る。10時20分、石原一郎出合に到着し昼食後11時40分、池へと上がる。滝川・常保・小坂テント設営後出合に下る。今夜からキャンプが池と出合の二ヶ所に分かれる事になる。明日からは池では捜索を始めるだろうし、今夜は後発隊が名古屋を出発している筈であるから、ようやく行動も軌道に乗り出した事を感じる。しかしながら如何にも残雪の多いのが唯一の気がかりである。明日からは毎日幾人かが、出合~池間を往復する事になる。
 4月29日(曇のち晴)
 (池)石原國・南川はA沢経由三本槍より第二テラスを観察するも何ら発見に至らず帰る。午後、石原國・石田はB沢上部捜索するも発見するものなし。途中より雪となり、視界きかず15時30分、池に帰る。
 (出合)黒田・今井、後発隊との連絡のため下る。ホテルまで下るも(12時)未到着のため中の湯まで下る。後発隊は石岡・松田・北川・長谷川・太田・島塚・若山富雄・若山英太・鈴木・大橋・山北・青木・吉川の13名からなり、15時30分ホテルに着き泊まる。
 左前より 父・富夫叔父・?
奥又白池キャンプ地にて
 英太叔父、奥又白池のキャンプ地にて
第二テラスの捜索に向かう  
第二テラス上縁の雪壁。岩壁はAフェ-ス下部 

 
池キャンプの捜索隊 
前列左より 富夫叔父・父・英太叔父・大井氏・松田氏・
黒田氏・森氏
後列判別できず
左より 富夫叔父・父・松田氏・黒田氏    春の捜索隊








 4月30日(晴)
 (池)後発隊到着に備えてテント二張り設営する。
 (後発)8時過ぎ石岡以下10名ホテルを出発し、出合にて昼食後、池へ向かう。荷揚げのため同行した滝川・黒田・常保17時20分池より帰る。鈴木以下5名は坂巻まで下り、昨日残置せる荷物を持ち19時10分出合に来る。後発隊の到着にて池テント9名となる。
 5月1日(雪のち晴)
 池にて約40cmの積雪を見、出合にても一時は真っ白になる。午後は晴れあがったが大橋以下3名がホテルへボッカのため下っただけで、残りの者は休養日とする。
 5月2日(晴のち曇)
 出合より長谷川以下9名池へ荷揚げのため上がる。池より石原一・松田・石原國・南川、6時に出発する。石原兄弟・松田V字状雪渓より第二テラスへ達するも、積雪多く且つ雪の状態極めて不安定なるため、捜索を中止して稜線にて待機中の石田・南川と共に15時40分、池テントに帰る。伊藤・室・高井・森、出合にて昼食後、12時15分池へ向かう。午後やや遅れて新井出合に到着する。滝川、養魚場までシュラフザックを取りに下る。16時30分荷揚げを終えて前記9名、若山兄弟と共に下って来る。若山英・滝川・今井は石岡よりの手紙持ち、西糸屋へ北穂会の方々の応援を頼みに下る(17時)。小山氏他に快く引き受けるとの返事いただき、ホテルにてスコップ4丁拝借し21時30分出合に帰る。
 5月3日(曇のち雨)
 出合より新井以下6名池へ上がる。太田・大橋ホテルへボッカのため下る。池テントより石原兄弟・室・松田・高井・森・南川・石田の8名、第二テラスに向い全員にて第二テラスの発掘作業行うも雪量膨大なるため遅々として進まず、第二テラスでの捜索を断念する。テント帰着は18時であった。伊藤が心配して途中まで迎えに上がって来る。午後北穂会の小山・小松・太田・平沢の4氏が池に到着される。出合より若山兄弟・山北・服部・小坂ホテルへ泊まりに下る。
 5月4日(雨)
 出合より新井以下5名池へ上がる。ホテルより小坂上がって来る。しかしながら、朝より雨降り、ガスに包まれて、捜索続行不可能なため、捜索は打ち切られ、池テント(14時)、出合テント(14時)、各々撤収し全員ホテルに下り泊まる。
 5月5日(晴)
 再び素晴らしいまでに晴れ上がったが、荷物整理のため石原國・石田・新井・南川・滝川・黒田・長谷川・太田・常保・今井の10名を残して、全員夜行にて帰途に着く。
 石原國・石田の2名養魚場へ行き挨拶方々荷物の整理をしてくる。他の8名は装備の整理のため遅れ、先記2名と共に坂巻まで下り泊まる。
 5月6日(晴)
 坂巻11時発のバスにて上記10名帰途に着く。松本にて東京に帰る石田・石原國と別れる。春期捜索行ここにむなしく終わりを告げる。

 労多くして実りのない捜索であった。

 この捜索の時のことを父は『屏風岩登攀記』の中に記しているので、転記する。


 又白の遺体捜索本部には、いろいろなお客さんが出入りした。その中には本心から遺体捜索の応援に来てくださった方々もあったが、そういう目的ではなく、ザイルが遺体に付いているかどうかを見るためにやって来たような人もあった。
 遺体捜索という事は、遺族にとってはもとより、山仲間にとってもやるせないものであり、テントの中はしんみりしがちである。ところが、外部からお客があると、最初はお悔やみを受けたりしてしめやかだが、お客を交えて話をしているうちに遺体捜索を忘れ、なにかのキッカケでバカ話に移行し、時にはテントが割れるほどの大笑いとなる。私は、そこまでくると故郷で捜索の結果いかんと、待ちこがれている両親の顔が目に浮かび、急に緊張した顔になる。そうすると誰かがそれに気づき、また元の静けさに戻る。それがまたバカ話に変わる、という状態が繰り返される。
 また、お客さんが来られるたびに、紅茶だとかしるこ等をサ-ビスする訳だが、こういう場所では、それが案外大変である。この時の合宿には新人を交えなかったので、炊事のために立ち上がる者がいない。誰もがしんみりした話や、バカ話に夢中になっている。やむなく女性の北川さん(岩稜会には二人の女性会員がいる。一人は母で、一人はこの方である)は、その仕事を一人でやった。北川さんにしてみれば、男性は遺体の捜索で大変だから、炊事だけは自分の手で、と思って必死にやったことと思う。
 炊事のために雪を取りにゆかなければならないが、靴を履いている暇がない。それかといって靴下のままでは濡れてしまう。結局北川さんは、あの又白の雪の上を素足で走った。女の子がテントから素足で飛び出してゆくのを見て、私でさえビックリするくらいだから、お客はさぞビックリしたことと思う。
 捜索の結果、遺体が発見できず、中畠新道を下る時には、北川さんは睡眠不足でほとんど倒れそうであった。お客さんたちは、そんなことは露知らず「岩稜会では女の子でも雪の上を素足で歩く」という噂をつくってしまった。
 <中略>
 たしかに、私たちは戦後10年間、食料も装備も最悪の中で、滝谷・屏風・明神・又白と困難な登攀を無事故で通した。しかも奇跡的に助かったという事件が相次ぎ、会の連中でも、遭難は岩稜会を避けて通ると本気で思った者があったようである。そのジンクスがついに破れ、昭和30年1月2日、私の弟が墜死した。現在までこれが唯一の遭難であるが、その時でも生き残った二人は「岩稜会に遭難が起きるはずがない。必ず生きている」と確信していたという。えてして、遭難しても不思議でない軽率な登山では遭難せず、十分に慎重に考えて選んだナイロンザイルに、これまで全く知られなかった欠点があって、それで遭難してしまう。なにも山に限らず、世の中はこうしたことが多い。これは全て運命のなせる業だが、だからといって慎重さを欠いたり、世の中はサイコロを振るようなものだと考えてはいけないのだが、どうも割り切れない。

 この捜索の間に、重要な蒲郡実験が行われ、父は捜索隊のリ-ダ-としての義務から、この捜索に同行したことを深く後悔することになる。
 春期捜索行の間に勃発したナイロンザイル事件は、父の一生を揺るがし、宿命として生涯をかけて闘うことになるとは、この時には誰も思わなかったのである。

 4月29日 東京製綱蒲郡工場で行われた篠田軍治氏が指揮するナイロンザイルの公開実験
  この実験について、まずは新聞に掲載された文面を読み比べていただきたい。


 29日 毎日新聞夕刊 「ナイロンロ-プの強さ試験、登山事故に対応」
 〔蒲郡発〕去る1月2日前穂高の奥又白で若山五朗君(三重県岩稜会)がナイロン・ロ-プが切れて死亡するなど、最近登山ロ-プによる事故が頻発、材料が従来通りの麻がいいか、ナイロンがいいか、岳人間に大きな話題をまいているが、東京製綱蒲郡工場では29日午前10時から阪大篠田軍治教授、中京山岳会熊澤副会長らを招いてナイロン・ロ-プの落下衝撃試験を行った。工場内に高さ約10mの御影石による岩場を作り岩場の岩角を80度、90度といろいろ変化。55kg(普通の人間体重)の分銅を突然落としてロ-プの抗張力その他を各方面から検討した。

 この記事は残されておらず、『ナイロン・ザイル事件』に掲載された物を転記した。

 5月1日、中日新聞 「初のナイロンザイル衝撃試験 強度は麻の数倍 蒲郡T製綱で画期的試み」
  新春1月2日前穂東壁を登行中の三重県岩稜会のクライマ-若山五朗君がナイロン・ザイルを使用中切断しそのため墜落死したが、その遺体捜索に岳友たちが向かったという29日、登山綱の代表メ-カ-である東京製綱蒲郡工場では、我が国で初のザイルに対する落下衝撃その他登山者のための貴重なテストが行われた。これはこの冬、北アで相次いで起きたナイロン・ザイルの切断事故に対し、ザイル専門の各種テストを行うため工費100万円を投じて設けられた高さ10mの鉄骨やぐらを用い阪大工学部篠田軍治教授指揮によって行われたもの。
 当日テストに使われたザイルはマニラ麻12mm、同24mm、ナイロン8mm、同11mmの登山用ザイル4種で1000フィ-ト近くがこのテストに供された。テストは90度と45度の角度を持つ磨かれた花崗岩エッジおよびカラビナを使用しての衝撃試験が21種、20度の傾斜をスライディングした場合、花崗岩エッジに対するもの1種、同エッジ上で振子を利用したストロ-ク3種など28種類のケ-スについて行われたが、まず角度90度のエッジに対するマニラ麻12mmはエッジからの長さ2mの綱の先端に55kgの分銅をつけ1mの高さから落下させたところ実にあっけなくぷっつりと切断してしまった。今まで登山家があれほど信頼を寄せていた麻の登山綱が分銅および確保地点に何ら弾力性を持たせなかったにせよ余りにももろいのに居合わせた中京山岳会副会長熊澤友三郎、東京在住の有名登山家海治良氏らは"あっ"と息をのんだほどだった。
 これに対しナイロン・ザイルは11mmで長さ3m50cmのものをエッジの上1mのところから落下(4m50cm落下)させてはじめて切断するという麻に数倍する強力さをみせた。鋭いエッジには弱く、今冬の遭難もこれが原因と想像されていたのが意外な強力をみせたわけで、東壁での問題の8mmナイロン・ザイルも長さ3mのものを3m落下させても切れぬという衝撃及びエッジに対して強い抗力だった。ただこのナイロンも水に濡れた場合は弱くなり8mmはカラビナを支点として長さ2mm50cmを2m、11mmでは45度のエッジで長さ3m50cmを4m50cmそれぞれ落下させるといずれも切断した。このほかエッジの上のストロ-クでは東壁での切断時と同一条件の長さ2mのナイロン8mmを横1m50cm、高さ1mから落下させたがこれも切断しなかった。従って東壁での事故もエッジ上の衝撃という想像の原因は影が薄くなったようだ。
 こうしたテストはすべて弾力性のない分銅を固定した確保によって行われたもので山での実際面より以上の悪い条件(実際は人力による確保のため弾力がある)だったが、いずれにしても同日のテストは従来のザイルさばきの一部に誤った認識を持っていたこともわかり、麻とナイロンの強度もはっきりしたわけだ。しかしこの試験だけでナイロンがあらゆる場合に強いといいきることはできず、また麻綱も確保地点を支点から遠くし、方法も身体や綱自身の伸張度を利用したジッヘリング(確保)をすれば相当の強度を発揮することもこの試験でわかった。
 試験の結果は当日篠田教授が高速度カメラに収めあらゆる面から研究することになるので、その結果によって登山界に新しい発見がもたらされると思われる。なおこの設備は各山岳会員たちが外国製のもの、現在使用中で年数を経たものなどテストしたい場合は、いつでもどんな方法でも応ずると同製鋼ではいっているが、とにかくこの設備ができたことは、日本の山岳技術を一層前進させる尊い施設ともいえるものだ。
(写真に付けられたコメント 写真㊤は8mmのナイロン・ザイル長さ2mのものを1m落下させ45度のエッジで切れなかったザイルを調べているところ。写真㊦は90度のエッジ②から長さ3mの麻ザイルに55kgの分銅①をつけウインチで巻き上げ、ザイルを1mたるませてウインチを外し落下させる直前)

 この新聞は父の遺したスクラップブックに貼られていて劣化して読みにくいため転記した。その新聞の横には父のコメントが入っていた。

 「ナイロンザイル事件、ここに発生する。東レ、東京製綱・篠田教授は不法の利益をうるために財力と大学教授の地位という絶対の組合せを利用し、故意に死因を曲げ、一般登山者の生命を危険にさらすという史上空前の犯罪を行った」

 父は、ナイロンザイル切断事故が起きてから、ナイロンザイルの岩角欠陥に関する問題を「ナイロンザイル事件」と呼んでいたが、この蒲郡実験で事態はさらに深刻化して、父の記す通り、まさに犯罪を伴った「事件」へと発展した。この記載について、なぜザイルが切れなかったのかを直ぐに父は明らかにするが、世に認められるまでには長い時間を必要とする。

 ここで、父がはじめて蒲郡実験の結果を聞いた、春期捜索行の時のことを著書『屏風岩登攀記』の「墓参―ナイロンザイル事件の一断面(昭和50年)」より紐解いてみることにする。
 
<メ-カ-後援の追実験>
 (前略)
 わたしたちは前穂高の中腹にある雪に覆われた奥又白池の幕営地にテントを張った。そこは、元旦早朝、弟たちが出発した所である。捜索は深雪のため遅々として進まず焦燥の日々を送っていた。
 5月3日、一緒に大阪に赴いた伊藤が後発隊でやってきた。伊藤は蒲郡実験を報じた5月1日付の中日新聞を私に渡した。私は雪の上でそれを読んだ。それには6段抜き"ナイロンザイルは麻の数倍"という見出しで「若山君の遺族や友達が穂高へ捜索に向った4月29日、東京製綱蒲郡工場でS教授によってザイルの実験が公開された。ザイルは若山君たちが使用した物と同一のもの等、数種類が用いられた。岩角は90度と45度の二種類、実験の結果、8mmナイロンザイルは石原発表と同一位置関係の落下衝撃で切断せず、また45度の岩角で3mの落下距離で切れなかった。前穂高の事故の原因は、ナイロンザイルの岩角欠陥によるものではないかというウワサがあったが、この実験の結果、ナイロンザイルは岩角でもマニラ麻の数倍も強く、従って前穂高の事故の原因はザイル以外にあるようだ」と記してあった。
<生命を売る手品>
 私は信ずべからざるものを見て仰天し、周りの雪が紫色に変じた。私は「実験はインチキだ、手品だ」と叫んでいた。私にはこの手品のからくりがすぐ分かった。岩角が面取りして丸くしてあったにちがいなかった。エッジの部分を1ミリ面取りすれば、ナイロンザイルは急に強くなる。このことは私の実験で分かっていたのである。しかしこの実験をやっていない人には、たとえエッジの丸みに気がついたとしても、この程度の丸みがナイロンザイルを極端に強くすることになるとは想像できなかったであろう。 
 小さなナイフの先端の丸みの意味はわかっても、あの膨大な実験装置とS教授の実験という肩書きの下では、それに気付きそれを指摘する状態への移行はありえないであろう。それが手品の手品たるところである。いずれにしてもS教授は、石原発表が正しいことを承知せられながら、それが正しくないという印象を観衆に与えられたのである。
 なぜ蒲郡実験前に行われた一桁弱い実験を行なわれなかったか、そのことに言及されなかったか。それこそが実験の目的である死因の究明と登山者の安全に役立つのではないか。この実験の目的は明らかである。ナイロンに弱点がないこととザイルメーカーに責任がないことを社会に印象づけることである。しかしそれは一般登山者の生命の犠牲の上になされたのである。企業が自社製品の欠陥を隠したという例はあっても、一般社会人を、策をもって弱いものを強いと積極的にだましたという例を知らない。生命を売る手品をおこなったということを聞かない。
 さらに重大な点は、企業だけがそれをやったというのではなく、登山者の生命を守ることに常に心掛けるべき日本山岳会の支部長が、また国民と真実の味方であるべき国立大学教授がその謀略に協力したということである。もしこの事件をうやむやにしたならば、この種の事件は防止できず生命尊重と人権擁護の精神が空虚なものになってしまう。私はこのとき、私の生涯をかけてもこの問題を追求する決心をしたのであった。それは、我慢するには、あまりにもひどすぎることであった。
 私たちは遺体を発見できず、重い足取りで両親のもとに帰ったが、父のまわりには、ザイルがほどけたという雰囲気が支配していた。父は軽率な息子に代わって社会に陳謝しなくてはならない状態であった。父のどうしようもない怒りが、私を嘘つきとののしらせ、勘当せしめたのであった。父は翌年、村人の白眼視の中で病死した。
 ところでザイルがほどけたということであれば、石原はザイルの先端を切ってザイル切断を偽装したことになる。リーダー石原は犯罪者(信用毀損罪)とみられるに至ったのである。著名登山家であるW大学のS助教授は雑誌「化学」に「自分たちの失敗をザイルに転換した不届きもの」と発表し、S教授の実験を予告していた山岳雑誌「山と渓谷」は、「ザイルメーカーは科学的テストによってナイロンザイルを保証した」と発表した。
 私は、蒲郡実験追及の手はずを考え、それを実行に移した。庭に高さ2メ-トルの木製の実験台を作り、鉄製の90度のエッジを固定した。それにかけた8ミリナイロンザイルは、15.5キロの錘を65センチ落下させただけで確実に切断した。私はその実験を、訪れる人すべてに見せた。

 この頃は、携帯電話もなく一度山に入ってしまうと連絡の取りようがなかった。蒲郡実験から4日も経ってから、やっと伝えられたこの結果を読んだ時の、父の衝撃がいかに強かったかをあらわにする文章である。この時から、國利氏と父を主として、岩稜会や若山家も社会の非難の的となり、いわれのない迫害を受けることになる。父は焦燥感を押えて、五朗叔父の一日も早い発見を待った。叔父と共に、腰にしっかりと巻かれたナイロンザイルが発見されれば、事態は好転すると考え、それまでは反撃に出ず、ナイロンザイルの岩角欠陥を明らかにするための実験に力を入れた。

 後年になるが、父は蒲郡実験時の篠田側の実験デ-タを入手している。入手した経緯や時期は不明である。読み取りにくいが、以下にそのデ-タ表を掲載する。
 右の図は、「水平距離のある場合の落下」図であるが、デ-タ内のLcm、Hcmの参考になるので掲載する。




 前章<その3:ナイロンザイル切断原因の究明>でご覧いただいた「ザイル試験」のノ-トから判る通り、捜索から帰ってから直ぐに実験をはじめている。メモより少し判りやすくして、若干転記してみる。

 昭和30年5月6日 捜索から帰って直ぐに、ナイロンザイル切断に関する考察開始。
○ 剃刀を皮で研ぐ場合…分子の移動という。
○ ザイルの場合には裂けではないかもしれぬ(摩擦の点は考えねばならぬ)従って先端の鋭さのみ。即ちelementを切断する事のみが問題…elementの切断にはΘが問題になる。衝撃とcreepとの関係。鉛筆をナイフで押して切る場合とは異なる筈(要実験)
○ 刃で切る場合の仕事量の測定
○ W=f(Θ,h) h…尖鋭度
○ リンゴの皮をむく時。尖鋭度をみてそれに力が比例するか。
○ 5月1日の中日の記事より、東京製綱ザイル試験結果まとめ 
角度 材質 太さ ロ-プ長さ 高さ 荷重55kg 特記事項
90° マニラ麻 12mm 2m 1m 切断  
90° ナイロン 11mm 3.5m  4.5m 切断  
90° ナイロン 8mm 3m 3m 切れず  
90° ナイロン 8mm 2.5m 2m 切断 水濡れ・カラビナ使用
45° ナイロン 11mm 3.5m 4.5m 切断 水濡れ
不明 ナイロン 8mm 2m 横1.5m・高さ3m 切れず
 今後の研究に待つ。
○ 岩角のテスト
 1) 刃の科学的テスト方法 新しい単位→一定圧力によるある切れ方
 2) 硬度の測定
 3) 撚りの影響…6)と関係あり
 4) 摩擦とは何を意味する
 5) 分子切断とは
 6) ゴトンゴトンと一撚りずつ切れてゆく。それが剛体のようになっているのではないか
 7) 岩角に麻が沿いにくいというのが何を意味するか。そこにエネルギ-が蓄えられる
 8) Notch Effeet
 9) 細いザイルで50kgまでで切れるのでテストする。これを二つ位用意する
 10) 伸び。抗張力
 11) 島田商事 仲ノ町2115 原田さん 23-3600 ドライアイス
 12) 尖鋭であるということは集中荷重を意味するがそれだけか。とびの問題
 13) 角に布を置いてテストする
 14) 水に濡れた

 この後のノ-トには、中日新聞に載った数値を基にした上記表と、以前行った名大・名工大での独自の実験結果から、ナイロンザイル・麻ザイルの切れるまでの荷重値を計算しており、それを裏付けるための実験を、5/15,17,22日と行っている。その結果や計算が細かく書かれているが、省略する。興味の有られる方は「ザイル試験」のノ-トをご覧いただきたい。

 5月12日 「衝撃時における登山綱切断防止装置」の特許出願
 穂高屏風岩正面岩壁初登攀第四次攻撃の時に、滑落した武藤氏と父を救ったナスカンから発想を得て、登山綱切断防止装置の開発に取り組んでいた父は、ナイロンザイルの岩角欠陥が明らかになると、特許の申請を急いだ。
 この登山綱切断防止装置は、登山者が墜落の際に、衝撃により登山綱へ急激な張力がかかって綱が切断することを防止する装置である。弾性体が持っている運動のエネルギ-を歪みエネルギ-として蓄積する性質を利用した物で、小型スプリングによる衝撃エネルギ-吸収装置を反復作動させることで、必要なエネルギ-吸収を行うことが出来、しかも登山者と登山綱との間に入って動作するために、地形的な問題にも対応できると言う特徴を持っている。この装置は「自動制動確保器Mountaineering automatic shock absorber,MSA」と呼び、その最初のタイプである。
 右の写真がそれであるが、とても重くて扱いにくかったため、今後この装置の改良に励む。


 右の写真をクリックしてください
 特許出願公告「昭33-5316」がご覧いただけます

 6月1日 『岳人』第86号47頁 「登山綱のテスト」(この記事もスクラップブックに、下の写真と共に貼られていた)
 
100万円かけて作られた
蒲郡工場の実験装置全貌 
錘をクレ-ンで吊り上げる

傾斜を設置する作業 
設置されたエッジとクレ-ンで引き上げられた錘
90度と45度の花崗岩エッジ
見るからに角が丸い 
切れかけたザイルと壊れたカラビナ


 6月29日 『毎日グラフ』13頁 「命の綱の切れたのを」
  この掲載は、非常に矛盾の多いものである。写真に付けられているコメント(写真と共に拡大転記)と本文を転記する。


 〔本文〕強くて切れぬといわれたナイロン・ザイルが、今冬、穂高・北尾根周辺で三度も切れて犠牲を出したので、いま、夏山シ-ズンを迎えた登山界では、その性能再検討が問題となっている。すでに発売元T社では発売を中止して製品を回収、愛知県蒲郡の工場に10mのザイル衝撃試験用の鉄骨ヤグラをつくり、公開実験を行った。
 ナイロン・ロ-プは、麻に代る新ザイルとしてマナスル、アンナプルナ遠征をはじめ、南氷洋捕鯨にも使われ、X線による原糸検討では分子構造も完全で、また、衝撃、結節強度、抗張力、耐寒試験では、マニラ麻よりはるかに優秀で、英国製バイキング・ナイロン・ザイルと比べても劣らなかったが、鋭い岩角で横に摩擦し、衝撃を加えた場合、非常に切れやすいことが確認された。(①)このためマナスルで使われ、穂高で切れた8mmのナイロン・ザイルを登山用命綱として使用することを中止すべきで、新製品に対する過信が事故を生んだものと関係者はみている。







高速写真を撮る阪大工学部篠田教授(右)と川辺助手
落下抗張力試験
ナイロン・ザイルはマニラ麻に比べて
約3倍の強さがあった。
ナイロン・ザイルを80度傾斜から55kg分銅を
落下させた瞬間、
ナイロンの強度はマニラ麻の半分の直径で
済むことがわかった。
(②)
穂高で切れた問題の8mmナイロン・ザイルを2mから
55kgの落下荷重の衝撃を加えたが切れなかった。
(③)
シャ-プ・エッジの切れない限界は
マニラ麻20kgに対して65kgだった。
 11mmのナイロン・ザイルを45度のナイフ石にひっかけ55kg分銅を3m落下させてみたが、切れなかった。
しかし20kgの分銅を下げて三角ヤスリにかけて往復摩擦させたら、マニラ麻は110回もったのに、ナイロンはわずか10回で切れてしまった。(④)
11mmナイロンの切れ口
岩角による衝撃で切れた11mmナイロン・ザイルを顕微鏡でみると、
激しい瞬間的な摩擦のため、一部が融着している(左)
普通の切断部(右)

 この毎日グラフの記事についての矛盾点を記載するために、重要部分を赤字にして各々丸数字を緑字で付けた。
 本文①において、
鋭い岩角で横に摩擦し、衝撃を加えた場合、非常に切れやすいとなっているが、蒲郡実験では写真コメント②,③のような結果となり、5月1日の中日新聞夕刊に記載があるように、五朗叔父が墜落死した時と同じ条件で実験したとき(横に摩擦し衝撃を加えた)にすら8mmナイロンザイルは切れなかったのに、なぜこのような報道がされたのか。また、写真コメント④に三角ヤスリにかけて往復摩擦させたら、マニラ麻は110回もったのに、ナイロンはわずか10回で切れてしまったとなっているが、蒲郡実験ではこのような三角ヤスリを使用した実験はされていないのではないか。どこで入手した情報なのだろうか。
 この記事を書いた毎日グラフの記者は、この矛盾をどう考えてこの文を書いたのかお聞きして見たいと思う。
 
 また、スクラップブックの他の頁の記事の間から発見されたメモ用紙には以下の文が記されていた。

 この記事は、いうまでもなく、ナイロンザイルが麻ザイルの1/10ということを示す問題の「三角ヤスリ」の実験の一部である。もとより蒲郡では行われなかったものである。
 毎日グラフの記者がどのような経路から、発表されていない「三角ヤスリ」の実験を知ったかは分からないが(追求しても分からなかった)篠田氏が蒲郡実験以前にナイロンザイルの生命にかかわる欠点と、死因が何であったかを熟知していたことを示す重要な証拠である。
 毎日グラフの記者がこれを知りえた経路については、106頁「加藤氏と石岡との会話」に示されるように、東レの社員の良心がその原因であったかもしれない。
 この大犯罪の計画も、すでにほころびが生じていたのである。
 真実は、あらゆる機会に、思いがけないところで頭を出しているのである。(173頁中岩氏の書簡参照)

 6月30日 NHKラジオ「朝の訪問」放送
  この放送は、当時新築した名古屋の家で行われた。父母が取材を受けて登山歴などを話している。母の声が1オクタ-ブ高いのが、緊張の表れかと思う。

  左のアイコンをクリックしてください。放送がお聞きいただけます。


長らくお待たせいたしました。
2015年10月10日、11日と行われました鈴鹿高専祭での展示と、11月28日、29日の
「岳都松本 山岳フォーラム」での展示が無事終了いたしました。
この頁に加筆してやっと「その4:ナイロンザイル事件の勃発」を完成させました。

以下の写真をクリックしてください。
「その5:若山五朗の遺体発見」にご案内いたします。




2016年2月8日記