<その5:若山五朗の遺体発見>

昭和30年7月1日~8月4日


7月1日発行
 以下、二冊の雑誌を掲載する。予告以外は資料の上をクリックしていただくとお読みいただける。
 特に、『山と渓谷』に載ったアンケ-トは、蒲郡実験を受けて、ナイロンザイルを薦めた熊沢友三郎氏・東京好日山荘主の海野治良氏・父と屏風岩正面岩壁初登攀を争った伊藤洋平氏・東大スキ-山岳部・明大山岳部・慶大山岳部・法大山岳部・立大山岳部が、それぞれ答えているので興味深い。
  下の資料をクリックしてください。全文お読みいただけます。

『山と渓谷』193号
<懸垂下降 石岡繁雄著>

    <アンケ-ト>

スクラップブックに記された父の文

 事故の起きたナイロンザイルは、メ-カ-である東京製綱株式会社の科学的テストによって再保証された…これを書いた川崎隆章氏は、その後真相を知り、岩稜会を全面的に応援されるようになった。

 左の資料は冊子『ナイロン・ザイル事件』に掲載された物である。『山と渓谷』に掲載された<アンケート>は、アンケートの文字列をクリックしてくださればご覧いただける。
<岩登りに於けるザイルの破断について加藤富雄氏著>掲載予告


この記事は、父にとって大きな力となる。
この予告広告は次の月と2度掲載されたが、記事になる事はなかった。理由については以下の8月4日の部分をお読みいただきたい。
   
『化学』
<早稲田大学助教授 関根吉郎氏著>
この雑誌を貼ってあったスクラップブックには父の字で以下の事が記されてあった。

「第三者が見ていない所で行った失敗だから、当事者は罪をナイロンに転嫁したのだろう」という登山界の権威、早大山岳部OB、助教授関根氏の発表

 7月13日付
 大阪市立大学山岳部の大島健司氏と東雲山渓会の大高俊直氏宛に、父は右の手紙を送って、ナイロンザイルが切れた3つの現場の現地調査を行いたいので、同行願いたいと申し出ている。

右の手紙をクリックしてください。
全文お読みいただけます。


7月15日
 第二テラスで東雲山渓会員によって、五朗叔父のピッケルが赤錆びた状態で発見された。
 17日には、東雲山渓会の奥又白池わきのテントに保管してあったピッケルを、國利氏が五朗叔父の物であることを確認した。
 このことにより、遺体の発見も間近であると思われた。

7月28日 13:00- 東京製綱蒲郡工場見学会
  東京製綱は、学者等を集めて、4月29日の犯罪実験を再び行った。
 このことについては、右の「繊維機械学会誌 30年9月1日発行第8巻第9号」に掲載されているので転記する。


 7月28日午後1時東京製綱蒲郡工場見学会を行った。
 参加者 50名
 定刻、支部顧問 築源次郎氏挨拶。工場長 是木義明氏より東京製綱の沿革・製綱の種類・製綱の工程・使用繊維等について詳細なる説明があり、製造課長 成田巴氏より紡繊工場に使用される同社製品の中、ミュ-ルのナイロンロ-プ・織機のジャガ-ド・ドビ用ナイロン製吊紐・スピンドルテ-プ等について耐久性・特長等の説明が行われた。
 引き続き3班に分かれ担当技師の案内にて、工場見学を行ったが、世界屈指のロ-プ工場だけに、その製造工程は会員一同に興味深いものがあった。
 なお汽船繋留用65mm麻ロ-プの引張破断試験並びに最近新設されたザイル衝撃破断試験装置による登山用ロ-プ数種の切断実演を見学した。他繊維のものがいずれも衝撃により切断されるにかかわらず、ナイロンロ-プは他より過酷な条件下、ショック吸収率よく、異常が認められなかった。見学後会場にて質疑応答を行い、名工大田中教授挨拶、後、3時辞去した。

 尚、同日の試験の内容が、4月29日の公開実験と同様な内容のものであることは、見学した某氏から父が詳細をうかがった。

7月31日
 ついに、五朗叔父の遺体がB沢上部で発見された。右が発見時の写真である。
 このことは、部隊長こと石原一郎氏が遺体発見時の状況として、『ナイロン・ザイル事件』に詳しく述べておられるので転記する。


 遺体捜索は事件直後の他、4月・5月・6月・7月と行われていた。7月には月初めから岩稜会・三重大学交代で奥又白に天幕を張り、東壁・B沢・本谷・本谷滝下と捜索を続けていた。(図参照)
 遭難当時使用したと思われる、手袋・マッチ等、次々に雪の上に現れた。遭難者のピッケルは第二テラスで東雲山渓会の大高氏が発見された。遺体が雪の上に現れる最も可能性の大きい場所は、過去の例、遺留品の発見場所等の関係で、インゼル下、又は四・五峯間雪渓下と考えていたが、それらの部分には、いまだ何mとも厚みの判らぬ雪の層があり、発見は相当遅れるのではないかと想像していた。

 7月31日、当時テントには石岡他5,6名がいた。早朝から石原兄弟は、本谷滝下からインゼル入口の滝下にかけて捜索し、昼過ぎテントに帰り、昼食をちょうど終わった時であった。後記2名の方が緊張した顔色で、テントに来られB沢上部で遺体を発見したと報ぜられたのである。
 その方は日本雪渓山岳会、山川淳、本田元光の両氏であった。直ちに、石岡は連絡のため上高地に下り、石原兄弟は現場に赴いた。以下は石原一郎の言である。
 「遺体の側に近寄る前に遠方より遺体の写真を撮る。遺体の場所はCフェース下部の急斜面とB沢とのコンタクトラインであり、頭を斜面の下に向け、頭のとなりに両腕を広げ両足を揃えていた。山川氏の報告では『近づかなかったので詳細は判らないが、赤い物が見えたようである』との事であり、私はそれは若山の手袋が赤かったので、おそらくそれのことであろうと思っていたのだが、実際には手袋ではなく、赤い物は橙色のナイロンザイルのみであるので、山川氏の赤い物とは、これのことであろうと判断した。
 周囲には、リュックその他、当人の遺品は何ら見当たらなかった。片足のアイゼンが外れていて見当たらなかった。死臭はほとんど無かった。雪面上にCフェース側の頭・胸の付近に、薄赤いシミが多少見えた。(後に遺体を動かした時、遺体の下の雪にも薄赤いシミが付いていた)遺体は下半身は冬の時と同じであったが、上半身は下着からヤッケまで総て完全に胸まで捲れて、腹・胸・背中は裸であった。腹部に薄くはがれたような傷が見られた。右胸には斜めに細い深い傷が見られた。
 ザイルは結ばれたまま、胸までずり上がり、残りの約2mが体に巻き付いていた。結び目には全然手を触れなかった。遺体のそばに雪の穴を掘り、遺体を埋めた。別のザイルで流失しないように固定した。
 この時の印象では、若山は周囲の地形から判断して、冬墜落したのがこの辺りで止まったもので、静止地点と発見場所とは、ほとんど同一の場所(ほとんど流されていないだろう)と言う感じであった。同年8月2日、再び現場に赴き、雪が溶けて遺体が浮かび出さないように、更に雪を厚く重ねた。
 同年、8月3日、遺体を掘り出して梱包、下降作業を行った。


 五朗叔父は、たとえ滑るようなことがあっても、その優秀なナイロンザイルで決して危険はないと確信して、しっかりとザイルを結んだに違いない。しかしそのザイルをつけたまま、空しく変わり果てた姿で横たわっていた。
 父は遺体にザイルが結ばれていない場合、追及が困難になるのではないかと心配していたが、ザイルは正しくしっかりと結ばれていた。遺体に結ばれたザイルを見て、捜索にあたった皆はホッとしたが、ザイルをつけたまま横たわる遺体を見た時は、誰もが息の止まるようなショックを受けた。 

 発行された時期は少し先になるが、ここで以下の重要資料を入れる。この遺体発見の資料は、三重大学山岳部会報に載せられたものを「ナイロン・ザイル事件」と「真実本」に掲載しているが、ここでは今井氏〔この著者は、原稿にも会報にも名前が記されておらず、澤田氏の「前穂高東壁遭難報告」と続けて掲載されていたため、澤田氏だと思っていたが、1956年発行の『岩稜』から今井氏と言うことが判った。(2019年10月)〕の書かれた原稿を解読清書しつつ、必要部分は会報を追記する。
 ※ 緑字はあづみ解説です。人名で特に記載のない方は岩稜会員です。岩稜会で兄弟で会員となっていられる方が3組あります。石原一郎・國利氏、澤田寿々太郎・榮介氏、高井利恭・吉史氏です。
 
「夏期捜索行」 今井喜久郎氏著

 梅雨が立ち去るのを惜しむかの如くに一荒れして終わりを告げ、さんさんたる太陽が顔を出し待ちに待った雪解けも早まってきた7月初旬、今度こそはの念願を心に秘めながらも我々の脳裏には春のあまりにもひどかった雪の量が一寸でも少なくなっているようにと考えると甚だ暗澹たるものがあった。夏期の捜索は7月15日より出発し一応7月一杯での発見を目標として、前半を三重大学が中心となって、後半を岩稜会が中心となって行うことに決定した。7月もまさに終わらんとした31日の午後3時、遂に遺体発見に至り、悲しみの中にも会員一同安堵の胸をなで下ろしたのであった。今回の山行きは人員の入れ替わりが激しく特に発見以後に至っては記録も忠実さを欠いたと思うが、出来る限り正確な記憶を想起しながら日を追って記していこう。
 7月15日
 名古屋発22時40分長野行準急にて、石岡・毛利(三重大学山岳部)・新井・岩佐等の見送りを後に、南川(三重大学山岳部)・澤田(榮介)・常保(三重大学山岳部)・今井の4名出発する。
 7月16日
 松本よりバスにて上高地に向かう。上高地に到着しあまりにも雪の少ないのにまず驚く。石原國が北穂から迎えに降りて来てくれていた。この分なら案外早く見つけることが出来るのではないか…と早々にホテルにて荷物をまとめ養魚場を経て出合着が16時ごろなり。直ぐにテントを設営する。途中、澤田の足が痛むらしく心配であったが、やや遅れて追って来た滝川(三重大学山岳部)と石原國に澤田を任せて、南川・常保・今井の三人、先に吹飛ばす。夜に入り相談の結果、澤田は直ぐに又白池へと言う意見であったが、一日置けば足も何とかなるだろうし、本谷から探して行くのが順当であると考えられたので、とにかく見込みのたつまで出合のテントから本谷の捜索を行うことに決定した。
 7月17日(快晴)
 南川・石原國・滝川・常保・今井にて、本谷を下から詰めてみることにし出発する。素晴らしく良い天気で、クレパスの下を通ってパット外からの光を浴びた時など、まさに目のくらむ位であった。クレパス又クレパス、滝又滝と全然手がかりさえも見られなかったが、最後の滝を越えて昼食後、本谷の上部の雪渓を詰めたところ、五峯下部附近で毛糸手袋、更にその付近でビバ-クの際使用せるビニ-ル袋入りマッチを発見した。(石原確認)帰途、奥又白池に立ち寄ったところ、池に幕営中の東雲山渓会の方々のテントの側に赤錆びになった門田製のピッケルが立てかけてあり、五朗ちゃんのピッケルらしく、石原も確実だと主張したので同会大高氏(石原國はすでに良く知っていた)等の帰着を待つことにした。やがて大高氏らが帰られ、15日に第二テラスを通過された際に拾われたとの事、及びピッケル残置箇所にケルンを積んで来た等、お話を伺って前記のピッケルを受け取る。帰途、中畠新道にて高原(三重大学山岳部)・毛利と会い、一緒に出合まで下る。夜に入り再び相談した結果、今日探した本谷の様子、池の雪の少ないことなどから、一刻も早くテントを又白池に移し、池をベ-スとして、本谷上部及びB沢に捜索を集中すべきであることに意見一致し、明日全員にてテントを池に上げることにする。
 7月18日(快晴)
 昨日に勝っても劣らぬ好天気である。朝食後直ちに荷物をまとめ、かなり重い荷となったが石原國・今井両カメラマン?のモデルを兼ねながら正午少し前くらいに池に到着。テント設営後昼食をとり、午後は休息とする。
 7月19日 (曇り時々小雨)
 澤田の強硬な意見により、四峯明大ル-トに高原・滝川。新村ル-トに毛利・南川出発する。石原國はC沢の捜索をも兼ねて、インゼルより明大ル-トパ-ティに指示を与える。新村ル-トパ-ティは取付きが分からず澤田の本谷からの指示も空しく引き返す。常保・今井は五峯の側峯に四・五のコルから取付きカメラを回す。石原國はC沢経由でインゼルに出て、B沢上部を観察するも何も発見できず。明大ル-トを登った高原・滝川と四峯頂上で落合い、四・五の雪渓を下る。帰途、本谷雪渓五峯下付近で毛糸手袋を拾う。毛利・南川・常保・今井はB沢左の沢を登り第三尾根に至ろうとするもならず。得ることなくして帰る。
 天気も崩れかけて来たので、アタックは到底無理と考えられるので、明日は第二テラスまで登ってみることにしてシュラフに入る。
 7月20日(曇のち雨)
 毛利・高原・石原國・南川・今井はA沢、第二尾根経由にて第二テラスに向う。V字状雪渓より石原國・南川は第一テラスを通って、毛利・高原・今井は雪渓を詰めて第二テラスに出る。第二テラスにて若山の黒サ-ジオ-バ-手袋(下山後確認)とビバ-ク時のロ-ソク(石原確認)を拾う。ピッケル残置地点をカメラに収め、手袋の発見地点にもケルンを積んで、その中にロ-ソクを残して来る。Aフェースを登ってみる予定であったが、カメラを回し終わった途端にすごい夕立に痛めつけられ、がっくりして帰途に着く。第二尾根にてB沢の捜索を済ませて空しく登って来た滝川・常保と落合い、クラストしたA沢を危なっかしいグリセ-ドで下る。今日の捜索により第二テラス及び第一テラス及びその下部の岩場には、発見の見込みはほとんどなし。B沢の雪解けを待って気長に探すしかないのではないかとの結論に達した。この雨が少しでも多くの雪を流してくれるように、そして一日も早く発見できるようにと念じながら、後ろ髪を引かれる思いにて、毛利・南川・今井下山する。中畠新道にて小坂(三重大学山岳部)に会う。雨の中をずぶ濡れになって急いで下る。雨に濡れた道を滑り滑り駆け下りながら見る本谷の雪も、肩の荷を気にしながら池に登って行った時に比べて、見る影もないほどに少なくなっている。一日も早く、少なくともこの夏中に再びこの道を上がる日の早からんことを願いながら、バスの終車を気にしつつも振り返り振り返り前穂の辺りを眺めるのであった。
 7月21日~30日
 本谷・B沢の捜索続けるも空し。
   

 7月31日(晴)
 夏期の捜索のために池にテントを張ってから早くも半月以上の日が去ってしまった。一体いつまで…いつまで経ったら発見に至るのであろうか。学業の都合もあり、家庭の都合もあって、テントの住人も入れ替わり立ち代わりで幾度そのメンバ-に変更があったであろうか。今日で7月も終わりである。明日になれば最後のピッチを上げるべし。多数のメンバ-が到着する筈である。クレパスに潜り滝を上って、今日まで続けて来た我々の報いは、日焼けした顔と伸び放題に伸びた髪の毛だけなのであろうか…しかしながら今日も捜索は続けられていく。テントに日が差し込むと同時に、朝食を済ませ、2度目いや3度目かの本谷の捜索に向かう。石原兄弟は今日下山することになっている。黒田・長谷川と共に中畠新道を下り、本谷を下部からもう一度探す。最初の滝から黒田・長谷川下山する。石原兄弟はB沢の滝まで行くが、何も得られず空しく引き揚げる。池への帰途、本谷雪渓上部にて休憩中の雪稜山岳会の方にB沢上部の注意をお願いする。15:00頃、先記の雪稜山岳会の山川・本田両氏よりB沢上部にて若山の遺体を発見したとの報せを受け、安堵の暇も無く石岡は直ちに連絡のため上高地に急行する。石原兄弟は早速現場まで登り、雪を掘って遺体を埋め、転落を防ぐためにハ-ケンを打ちビレ-した後、一応池まで帰る。発見はされたものの現在の人数では如何することもならず、下からの人数到着を待って収容作業に当たることに決定せざるを得ない。
 神戸にて伊藤記
 室と二人で明日出発する予定であったが、明日の昼汽車で行く位なら、今夜の夜行にしようと、大分天気も続いているから、ひょっとしたら今日あたり…と、22時40分名古屋発の長野行準急を約して別れた。19時30分頃、出かけようとして靴を履いた時、電話のベルが鳴った。直感的に上高地から?と受話器を取れば、果たして上高地よりの石岡からで、今日B沢上部で発見されたから、塩三升とプロピルアルコール3本程を持って、直ぐ来てくれ、との事。我々の予感と偶然に一致したこの報せに一種名状し難い感にうたれた。塩は間に合ったが、アルコールの方がどうしても手に入らぬまま、後の諸連絡は澤田(兄、寿々太郎氏)に依頼して、室と共に家を出た。
 遂に発見されたと言う安堵と共に、遺体の様子が心配になり、どうして下ろすかがまた気になってくる。近鉄諏訪駅で、下山した太田と車窓越しに会う。名古屋駅にて上高地に行かれる谷本さん(八高山岳部父の先輩・名大医学部卒・内科医)とお会いし、車中同席する。発車間際になって、三重大の中河先生(三重大山岳部顧問)・南川続いて澤田が、やっと間に合い、皆一緒になった。谷本さんより、いろいろ遺体の処理のご指導を受ける。
 8月1日(晴)
 朝5時。石原國は昨日の現状連絡のため上高地に急行する。上高地にはすでに昨夜連絡を受けて神戸から伊藤・室・澤田兄、津から中河・南川、松本にて遺体発見を知って直ちに戻って来た黒田・長谷川等が待機していた。直ちに伊藤・室・南川・石原國は池に向け出発する。
 途中、新村橋のやや上流で、若山英太氏(若山家4男)と梓ちゃん(姉)に会い話している時、若山富夫氏(若山家3男、跡取り)も来られ、遺体搬出方法を協議する。テントに居る石原兄の意見を持って連絡に下りた石原國の報告「涸沢へ下ろすのが一番安全、かつ遺体に傷がつかず、涸沢小屋をベ-スにしては?」も聞き、石岡の意見「静かな又白、松高ルンゼを経て、又白出合へ下ろして欲しい」も聞いたが、中々まとまらず、石岡は、「とにかく一任するから石原兄ともよく協議して決めてくれ」とのことで、石岡・若山兄弟はテントへは上がらず、ひとまずホテルまで引き返すことになる。先記4名が池へ上がることになり、15時頃、池テントに到着する。遅れて澤田が上がって来た。
 石原兄より遺体の位置を聞かされ、はるかB沢上部を望んで全員黙祷を捧げた後、搬出方法の協議を行う。夕刻18時に至って、ようやくB沢を下降し搬出することに決し、直ちに南川がその旨連絡に下る。同日夜、三重大○(1字不明)木先生、上高地に到着される。
 8月2日(晴)
 8時朝食後、石原兄弟・室は、遺体の降下収容をより迅速に、より安全に行わんがため、室・石原國はB沢を上り、下降の通路を選定し、必要な確保用のハ-ケンを打ちフィックス(岩場・難所で安全確保のためにロープを固定したままにして置くこと)をしつつ現場まで行き、石原兄はB沢より良ければC沢にするため、C沢の偵察をしながら現場まで行く。伊藤・澤田は本谷よりB沢のスケッチ及び落石の看視と、その経路の確認に当たる。10時頃、南川・長谷川の両名、テントに来る。出合に意外なほど人数の少ないのに驚くと共に、後発隊の連絡如何と、心配になってくる。14時頃、フィックス完了し先記3名、池に帰って来る。17時過ぎ、"アラョッ"の声と共に松田がスノ-ボ-トを背負い、高井(兄)・新井・黒田・常保等が上がって来た。人員は揃った。これでよし、非常に心強い。直ぐに協議を行い、明日早朝から遺体の搬出にかかり、B沢松高ルンゼを経て、出来るだけ早く下ろすことを決定する。今井・黒田連絡のため出合に下る。一方、上高地の石岡・中河・鈴木・北川・岩佐及び親戚の方々は、出合まで上がり、明日の火葬の準備を行う。尚、上高地ホテルのクレさん他2名の方々、及び営林署の方も火葬に用いる木材等の伐採のため、出合付近まで上がって来てくださる。夕方より風強くなり曇ってくる。
 8月3日(曇一時夕立のち晴)
 ややガスがかかっているが、別段作業にさしつかえることはなく、かえって落石を防ぐためには好都合の天候である。6時、石原兄弟・松田・室・高井・新井・南川・常保・長谷川の9名は遺体を運ぶためのスノ-ボ-トを背に、池を出発する。同時刻、出合より石岡・中河・岩佐・黒田・今井の5名は池に向け出発する。上記5名が池に到着した頃。先記9名は既にインゼル上部に達しており、昨日打ったハ-ケンを頼りに、確実な足取りで登って行くのが見られた。時折晴れるガスの合間を縫って、一つ又一つと落石の音が不気味に響いてくる。池に泊まった伊藤は本谷上部のガレ場にて、搬出作業の記録と状況の撮影に当たる。
 ちょうどB沢が上部岩場からの落石の通路になっているため、作業は非常に危険な状態の下で行われている訳である。正午少し前、上高地にテントを張っておられた名古屋大学山岳部の方が3名応援のために上がって来られた。やや遅れて滝川が上がって来た。実習先からかけつけたそうである。作業は、B沢下部の二つの滝によって非常に難航したが、リ-ダ-石原兄の指揮の下に着実に進行し、無事に二つの滝を降下して、13時過ぎ、本谷上部のガレ場に達した。其処で昼食を済ませて、池に居た他のメンバ-も加わり、本谷を松高ルンゼ降り口に向って一直線にトラバ-スしながら下降を続ける。折悪く猛烈な夕立に襲われ、全員ビショヌレになりながら、懸命にザイルにしがみついていく。松高ルンゼ降り口に達した頃には雨も止み、上部からのビトンあるいは木立によるビレ-に、急斜面ということも手伝ってか、下降の速度は急激に早まる。30もしくは40mのザイルいっぱいになるまで急下降させ、幾ピッチ続けたことであろうか…全員疲れのためか、スピ-ドも下に行くほどなくなり、松高ルンゼ取付きへ着いたのは21時過ぎであった。取付きにて検視を行うとの事、全員あまりの空腹のため食事を摂り、再び本谷を下降する。真昼のような月の光と、ラテルネの光を頼りに、何の事故もなく難場を通り抜けたのである。火葬場所に到着したのが22時を少し過ぎていた。既にあつらえられた祭壇の前に全員集合し、しめやかな読経の声と共に、再び悲しみも新たに、今は亡き五朗ちゃんの霊安かれと祈りながら、永遠の別れを告げる。木の間からもれる月の光が、異様なまでに明るく、居並ぶ人々にその影を落とし、白い河原の上に立つ前穂高の峰々も、もう安らかな眠りに入ったのであろうか…ただ黒っぽいスカイラインをクッキリと夜空に投げかけていた。
 8月4日(晴)
 夕刻、家族の方々の胸に抱かれて、五朗ちゃんの遺骨、山を下る。

第二テラスよりAフェースを仰ぐ 

 ×印が遺体発見場所

  電報


父は急ぎ上高地帝国ホテルに走った。
そして、電報を岩稜会の副会長である
社長こと伊藤経男氏に打った。

8月3日 8:05全員揃って遺体の梱包開始 



遺体に被せた雪をどける
ベレ-帽は國利氏

遺体を掘り出す

 
 遺体を梱包する

雪を詰めて梱包 

急な斜面にザイルを張って遺体を確保 

  9:45 下降開始 

遺体の発見場所に残されたスコップ

 

 
 遺体搬出時のスケッチと
移動の時刻

 
奥又白谷に組まれた荼毘の地の祭壇



営林省の許可を得て、根元の直径が20~30cm程の樅の木7本を切って荼毘用とした
22時 検死


 8月3日 検死の状況(「ナイロン・ザイル事件」より転記) 

 8月3日早朝から開始した遺体引き下げ作業が遅くなり、松高ルンゼの下端に着いたのは、午後10時頃であった。検死の予定地は、松高ルンゼ下端から奥又白出合に約100m寄った森林中(荼毘予定地)であったが、あまり時間が遅れたので松高ルンゼ下で行うことになった。
 検死を行ったのは日本大学診療所(徳澤)陸川容亮氏他1名及び上高地の駐在警察(氏名不詳)である。
 列席した人は、三重大学教授鈴木寛氏、上高地ホテル呉沼氏、遺体引き上げを行った名古屋大学山岳部2名、岩稜会10数名、遺族及び関係者数名であった。遺体の模様は発見時の模様を記した資料と同様であった。陸川氏は遺体の頭を持ち上げたり、胸部・脚等を検査し死因について死亡診断書に記された内容のことを、つまり頭蓋底骨折・兼頸椎骨折による足趾であると言われた。ザイルは橙色の8mm強力ナイロンザイルがついたままであった。写真を撮るか撮らまいかと迷っていたが、上高地駐在警官は「後になって貴重な証拠となると思うから、是非写した方が良い」と言われた。この意味は勿論遺体にザイルが付いていることと、その切り口とを示す事である。岩稜会伊藤経男はフラッシュをたいて2枚撮った。石岡はザイルの結びを解いたが、特に結び方法については注意しなかった。しかし、写真から判断して全く正しい結び目であることが判った。 
 無残な五朗叔父の遺体と
強力8mmナイロンザイル



 遺体にはしっかりとザイルが結ばれていた
  ザイルの切口を撮影 


 灯明に火が入り、荼毘の開始

 燃え盛る荼毘の火



荼毘の火を徹夜で守ったのは、父と富夫叔父、英太叔父だった。当時小学5年生だった姉は、この時同行していたが、今でもこの火を忘れられないと言う。

 8月4日 早朝
 お骨を拾うにはまだ熱くて無理だったので、父は用事を済ますために徳澤小屋(現在の徳澤園)に下りようと新村橋まで来たところ、偶然加藤富雄氏に出会った。この時に話されたことは、この後父がナイロンザイル事件を闘う上で、極めて重要な内容だった。また「ナイロン・ザイル事件」から転記する。


<上高地での加藤富雄氏と石岡との会話>
 加藤富雄氏の暁学園鈴峯会記録発行の経緯
 石岡は、8月4日上高地新村橋の西のたもとにおいて加藤富雄氏と偶然お会いし、同氏と次の会話をした。(名古屋大学学生川島伸麿氏が一緒に居られた) 尚、加藤氏は三重県暁高教官・三重県山岳連盟会員・中京山岳会会員(副会長は熊澤友三郎氏)であり、墜死した若山五朗と一緒に山行きをしたこともあり、石岡とも懇意であった。30年1月2日遭難の報を聞いて現地にかけつけられ、遭難報告書作製の手伝いをされ、ナイロンザイル切断の原点がナイロン・ザイルの岩角欠陥によると思っていられたようである。
石岡「山と渓谷30年7月号に、あなたの『岩登りに於けるザイルの破断について』の予告が出ていたが、どんなことを書かれたか。三重県山岳連盟の人たちも興味を持っていた。」
加藤「その経緯は次の様である。ご承知のごとく、私はザイル切断の原因については、ナイロンザイルが岩角支点では麻に比べて弱いからだと思っていたが、4月29日の実験を目前に見るに及んで切断の原因が判らなくなってしまった。尚、実験には篠田氏が『次は何番の実験を行え』と言うように命令をしておられた。しかし、公開実験の帰途東海道線の車中で、同じく立会に来た東洋レ-ヨンの社員からデ-タを見せてもらって移しとったが、(この時その社員は、もしこのデ-タを発表する時には、篠田氏の許可を得てからにしてもらいたいと要請された。それ故に会報には某レ-ヨン研究室として某を入れた)。これは麻ザイルとナイロンザイルの比較試験で、ザイルを岩角に使用した場合にナイロン・ザイルは麻ザイルに比しはなはだしく劣る場合がある(約10%)と見なされるもので、前穂高東壁でのザイル切断原因を容易に察知できるものであり、誠に重要なものであると気付き、蒲郡での実験との矛盾に驚いたが、その後蒲郡での実験が、実際にあり得ないような丸みをおびた特殊の岩角を使用しての実験であったことに気付いた。その後私は熊澤友三郎氏から蒲郡実験の詳細をまとめる様に依頼された。私は同実験の詳細を書いたが、もし蒲郡での実験すなわち、実際にあり得ない様な条件で行われた結果のみを発表し、一方ナイロン・ザイルの弱点に関する実験を承知していながら発表しないことは、今後同様な遭難事故が発生した場合、自分自身犯罪を形成する罪があると考え、蒲郡実験に東洋レ-ヨンでのヤスリ実験を加え記載して熊澤氏に渡した。ところが後になって熊澤氏はその記事の中、東京製綱の実験関係のみとし、他には紙を貼って私の原稿として『山と渓谷』に送ったことを知った。熊澤氏はおかしなことをされると思いつつも、直ちに山と渓谷社に紙の貼られた原稿の発表中止を依頼すると共に、もし発表するとしても、それは熊澤氏の名で行ってもらうよう要請した。しかし万一の発表に備えて原文(削除前の全文)を前記鈴峯会レポ-トに加え謄写印刷して山と渓谷社に送り、同時に若干の友人にも送付したのである。山と渓谷30年7月号の次号要目に私の名が出ていた経緯は以上である。
 尚、後での話であるが、加藤氏としては「山と渓谷に送った原稿は、2回に渡って次号要目に発表されたにもかかわらず遂に発表されず、又これについて山と渓谷社から何らの頼りに接しないのは不愉快である」とのことであった。

 このことは、蒲郡実験時に岩角に丸みが付けられていたことの証明であり、父は真実が明らかになったことを大変喜び加藤氏に感謝した。
 岩稜会員の中にも、蒲郡実験の結果を知って、父の言うナイロンザイルの岩角欠陥に疑問を抱く者もいた(それほど大学教授と一流企業は正しいと思われており、世間の風評は岩稜会にとって厳しいものであった)ので、この加藤氏の話を現地にいた岩稜会員にしたところ、皆一様に驚き、真実を知って憤慨した。
 その後、1週間ほどして、加藤氏から鈴峯会記録第二号が送られて来た。以下がそれである。 

 7月20日発行
 <暁学園鈴峯会記録第二号「岩登りに於けるザイルの破断とその対策について」 OB加藤富雄氏>
 この掲載の、重要部分を以下に記す。

 東京製綱のテストの時に使用した岩石支点は、そのエッヂが、比較的滑らかで丸みがあり、私たちが人気の少ない岩場で手に触れる様な、鋭い刃状ではなかった。
 もし、この時のエッヂが、穂高などの岩に見られるような、ナイフ状のシャ-プな、しかも鋸状のギザギザがある岩片であったならば、東京製綱のテストの結果は相当変わったものになったのではないかと思われる。
 このことは、某レ-ヨンのテスト結果がその裏付けをしてくれる。即ちヤスリの擦過に対して緊張したナイロン・ザイルは、マニラザイルの1/8~1/10程度の抗力しかなく、さらに8mmナイロン・ザイルに至っては、わずか2~3回の擦過(10cm程度の擦過)によって切れている。
 ナイロン・ザイルがヤスリ状の岩角の擦過に対しては異常に弱い。この点に、今冬の東雲山渓会(トラバ-ス中の切断)や岩稜会の事故原因が潜んでいるように思われる。
[中略]
 岩角の擦過は、その機会が多いばかりか、滑落時にこれを未然に防ぐ方法がほとんど見当たらない。従って、ナイロン・ザイルは、完全な雪上登攀のような場合はとにかく、一般の岩場においては敬遠した方が安全であって、その性能が更に明らかとなり、この点が解決されるまでは、マニラ麻ザイルを注意して使用すべきだと思う。

右の表紙をクリックしてください。
全文お読みいただけます。
 
8月4日 燃え残ったお骨を拾う

まだ熱いお骨を拾う富夫叔父と國利氏

荼毘の跡にケルンを積んで参る父



荼毘の跡地はテントが張れる程の空き地になってしまった。拾いきれないお骨や灰はそのままになった。他の登山者がテントを張って荼毘の跡だと気付いたら気持ちが悪いだろうと言う事になり、石を積んでケルンを作った。
國利氏も額ずいて…

お経を読む父

遺体捜索にご協力くださった方々が参られる



上の写真をクリックしてください。
春期捜索からのビデオがご覧いただけます。
古いフィルムですので、音は入っていませんがご容赦ください。


 同日 遺体に結ばれていたザイルの模様(『ナイロン・ザイル事件』より)

 
 (1) ザイルの状況は1図に示すとおりである。(先端Aから20cmは、篠田軍治氏にお渡ししたので、現在保管してある物は、全長368cmである。尚、1月2日遭難当時生存者の側に残されたザイルの切り口は、救出に来ていただいた関西登高会の梶本徳次郎氏によって保管され、後、石岡に移ったが、学習院大学教授木下是雄氏が研究してみたいからとの要請により同氏にお送りし現在に至っている。)

 (2) ザイルの状況を詳細に説明するため、まずザイルの構成を記す。



3撚り(3ストランド)



各ストランドは、内側2本の繊維束と、その周囲をまわる10本の繊維束から出来ている。



各繊維束は更に3本の繊維束が撚り合わさって出来ている。


それはそれぞれほぼ180本のナイロン単糸から出来ており、それぞれの単糸は、ザイルの端から端までつながっているようである。

 ザイルは橙色に染色してあるが、ロ-プとなってから染色してあるので、橙色は外部のみで、内部は白色のままである。
 従って、ザイルを3本のストランドに分けてみると、各ストランドは橙色の部分と白色の部分とが交互に並んでいる。
 又、ストランドを構成する12本の繊維束のうち、外側の10本はそれぞれ交互に橙色、白色と並んでいるが、内側の2本は白色のままである。


 (3) ザイルの状況を1図に示したAB・BC・CD・DE・EFの五つの部分に分けて説明する。
  AB間…胴に巻いていた部分であって、新品同様であるが、かなりの幅に渡って赤黒いシミがある。3日検死終了後石岡は、ザイルの結びを解いて遺体からザイルを離したが、結び目の位置を側尺しておかなかったので、AB間の厳密な長さは不明である。しかし、経験上と遺体の写真から、1図に示した範囲にあると考える。
  BC間…幅3cmの毛羽立ちの他は傷はない。又AB間同様赤黒いシミがある。
  CD間…軽い毛羽立ちが、ほぼ一様についている。
DE間…深さ1mm乃至2mm程度のエグレで、ストランドを構成する外部の10本の繊維束のうち、3本乃至5本が傷ついている。各ストランド共同様である。
EF間…各ストランド共概ね同様である。そのうち1本を2図に示す。Ⅰ.Ⅱ…は山の数(ピッチ)を示す。ストランドの外側を構成する10本は、次々に切断しているが、例えばⅡで2本、Ⅲで1本、Ⅳで2本、Ⅴで2本という状態である。

 (4) 単繊維の先が2乃至5本位ずつ溶解状をなして、くっついている箇所が所々にある。又、EF間には、長さ3cm、6cm、9cmといった繊維束が相当くっついていた。
 検死の際石岡はEF間に触れたが、ナイロンの糸屑が次々に手に残るのをみて、不審に思った。8月末頃切断部をよく観察してみたところ、これらの糸屑は、いずれもストランドを構成する12ヶの繊維束であって、長さも上記のようにほぼ一定していることに気付いた。

 ナイロンザイル切断部分の「確保側(國利氏側)」と「落下側(五朗叔父側)」の写真


 切断部分のストランド写真


 同日
 若山五朗の死亡診断書


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2016年3月4日記