その10:告訴の波紋と二人の祖父の死

昭和31年10月1日~12月31日


 2017年7月1日~9月3日に行われました「氷壁を越えて 石岡の安全学から山岳遭難防止へ」の上高地展で、2016年4月から掲載を中断していましたこの頁を再開いたします。長らくお待たせしましたことをお詫び申し上げます。

 山岳雑誌『山と渓谷』に、加藤富雄氏著の暁学園『鈴峯』掲載の「岩登りに於けるザイルの破断」の全文が、207号(9月1日発行)に前半、208号(10月1日発行)後半と掲載された。昭和30年7月1日と8月1日に掲載予告が載ってから実に1年以上の時が流れていた。後半部分には、熊澤友三郎氏の「ザイル問題の私見」も同時掲載されている。
 以下の表紙をクリックしてください。掲載記事がご覧いただけます。

 山岳雑誌『岳人』に上・中・下と3ヶ月連続で、父執筆の「ナイロン・ザイルの強度」が掲載された。
右の表紙は、10月1日付で発売された1回目の102号である。続けて11月1日、12月1日に発行された連続物が読めるようにしたので、右の表紙をクリックしてご覧いただきたい。これも父のスクラップブックに切貼りされていたものなので、文字が欠けている部分があるがお許し願いたい。
 この切貼りされたスクラップブックの下には、走り書きで
「これらの実験デ-タは昭和30年12月、毎日新聞に写真入りで須賀教授指導の実験として出ました」と書かれていたが、その記事は見当たらない。

 『岳人』の102号には、神保正樹氏執筆の「登山とプラスチックの装備」も掲載されていたが、これは篠田軍治氏を擁護した内容である。一部転記する。

 岩稜会より篠田教授の発表を否とする印刷物、新聞記事および法的処置が行われたことは、わが国岳界の不祥事であり、一日も早く良識をもって、かかる不祥事が撤回され、貴重な同教授の業績と、前記の多数の資料が、一般に親しまれる日の近いことを願ってやまない。

 新保氏は、美津濃技術研究部に勤めており、メ-カ-側に属する人であったため、ナイロンザイルの岩角での欠点を認めつつも、篠田氏の蒲郡実験での欺瞞については一切述べず擁護している。

 10月1日付、領収書
 冊子『ナイロン・ザイル事件』は、160部製本された。それにかかった費用は、請求書では1冊320円とされているが、領収書では280円になっている。現在の金額に換算すると1冊が2200円程になる。永和プリント・サ-ビスは岩稜会の黒田氏の下宿先だったため値引きしていただいたものと思われる。尚、各種資料では、『ナイロン・ザイル事件』は150部製本されたことになっている。これは、父が150部と言ったためで、このあたりの大様さが父らしい。

 10月3日付 弁護士森健氏宛、大阪地方検察庁検務第一課からの手紙
 6月23日に名古屋地方検察庁に出された篠田軍治氏への名誉棄損告訴は、一方的に大阪地検に変更された!右は、それを知らせる手紙である。
 篠田氏は、どんな手を使ったか判らないが、有利な地元の検察庁に移管させたのである。


 10月4日付 松本善明氏からの紹介状
 この紹介状に関しては、父が詳しく書いているので、以下に解読清書する。


 石岡上京のさい、矢野氏の案内で、次々と人を訪れ、最後に共産党本部で松本と言う人に会った。石岡は「この事件は、人権擁護(生命の尊重)という点できわめて重要な事件である。また、この事件は純粋にスポ-ツから出ている点が特徴である。あなたが協力したいというお気持ちは有難いが、共産党に支持していただくと、残念ながら社会から色目で見られ、正しい解決が難しくなると思う」松本は「おっしゃる通りです。しかしもし、ご協力出来ることがありましたならば何でもおっしゃってください。またその時のために、一応私の友人である大阪在住の弁護士への紹介状を書いておきます」といって、次の紹介状をいただいた。石岡は結局東中氏を訪問しなかった。要するに大阪では弁護士を頼まなかった。このことが不起訴となった大きな理由であったかもしれない。しかしあの時、松本氏の申し入れを受けていたら(訪問したのはこちらからだが)この事件はどのような経過をたどっていたか、おそらく誰にもわからないであろう。(石岡が共産党本部を訪れたということは、どうしてか朝日の記者の知るところとなり、石岡は朝日の記者片山全平から、詰問される結果となる。しかし以上のことを誰もよく理解してくれた)(以下メモの走り書き部分解読)もし、今だったら松川事件、下山事件等一連の極悪非道の大事件はすんで、共産党をほうむるためのアメリカのCIAの企てた事件と言う事が明らかとなった今なら、おそらく喜んで協力をお願いしていたと思う。

 突然、名古屋地検から大阪地検に移管されたことにより、父がどんなに焦って動いたかが垣間見える文章である。それにしても、告訴人に承諾も得ず、移管することが出来るとは、篠田側がどんな手を使ったのか計り知れない。 

 10月25日 石岡繁雄宛 河出書房からの原稿料支払書

 上の支払書は、この年の6月15日に発行された日本山岳会監修の『登山全書』に寄稿した時のものである。この原稿の校正をコピ-したものが遺されている。右がそれである。クリックしていただくと全文お読みいただける。

 冊子『ナイロン・ザイル事件』の発行や告訴で湯水のようにお金が出ていっていたこの頃、超ハ-ドな日々にもかかわらず、父は少しでもお金の入る仕事は断らなかったようだ。寝る間も惜しんで原稿を書いていた。

 11月5日 中日新聞記事「勇気」
 「紙つぶて」というコラムに載った本多顕彰記者の記事である。
 父はこの記事に共感して、スクラップブックに貼ってあった。ラインが引いてあった部分を、以下に記す。


 われわれは、正しいことを恐れることなく勇気をもって発言する人がますます増えて来ることを望むとともに、そのような勇気ある人を尊敬し強力に支持する思想が国民の間に強い根をおろすようになるのを望まずにはいられない。

 自らを叱咤激励してナイロンザイル事件を闘う中、この記事は父にとってまさに「勇気をもらう」ことになったものであろう。

 11月11日~22日
 岩稜会は会として全日本山岳連盟に加盟していたので、緊急動議として以下の印刷物が出された。このことについて、いくつかの資料が残されているので、一括して紹介する。解読清書の無い資料については、クリックしていただければ拡大してご覧いただける。


 
伊藤経男氏宅に書置きしたメモ
 (下に解読清書)


 「目が覚めてしまったら、もう寝れそうにもないし、腹も減っていないし、気もせくことですので、おやすみ中恐縮ですが出発することにします。しかし、実に爽やかな気分です。では、23日、若松の汽車の窓でお会いします。 Bacchus 社長どの」

 若松とは近鉄伊勢若松駅のことである 


 11月22日開催される全日本山岳連盟評議員会に
 提出する緊急動議


クリックしてください。掲載されている関係資料は、前頁に掲載されている物なので、それを省いた資料がご覧いただけます。 
 

 11月22日付 緊急動議を報道した新聞記事(新聞名不明)



 全日本山岳連盟の機関紙(これは1頁目の表題と5頁目
 の必要部分をつないで合成した物である)

   この経緯について、後に父が遺したメモが右である。解読清書する。

 「ナイロン・ザイル事件」は大々的に新聞に報道されはしたものの、あらゆる陰謀によって、社会には虚偽が流され、真実は逆に影を薄めてゆく。
 虚偽を伝える一つの方法として、篠田氏が評議員であり、熊澤氏が愛知県の代表をしている全日本山岳連盟に、三重岳連からこの問題を緊急動議として提出していただくことを考えた。まず三重岳連に緊急理事会を開いていただいて全岳連への緊急動議のことを、及びその時提出する資料の案について可決していただいた。中川氏・社長(伊藤経男)と石岡とは、この印刷物をたずえて、三重岳連の代表となり、いわば敵地である奈良県吉野市で開かれた全岳連評議員会に出席した。まず印刷物を近鉄江戸橋の車窓で三重岳連理事伊藤晋一氏から受け取る…このメモ(伊藤経男氏に書置きしたメモ)は、その準備を社長宅でほとんど徹夜で行ったが、その仕事を終えウツラウツラしたあと、石岡が早朝無断で名古屋へ帰った時の物である。(この結果は、ナイロン・ザイル事件のうち東壁事件のみ解決した。つまり東京製綱K.K.の全面的陳謝となった。101頁参照(機関誌『全岳連』5号に掲載)。また緊急動議のことは、23日の朝日新聞の朝刊に「三重岳連からの七ヶ条の公開質問」としてトップ記事に載った。(上の11月22日付の新聞は見出しが違うので、他の新聞と思われる。この朝日新聞記事は発見されていない)なお、石岡の父はこのとき命旦夕にせまっていた)


12月10日 石岡正一祖父逝去

 <第四話セピアの章>で掲載したように、正一祖父は東海銀行名古屋本店の店長になり、昭和30年5月に昭和区山手通りの家ができると、銀行の帰りが遅くなる日は、2階の西側の部屋で泊まって、昭和区滝子町まで通った。その頃、血圧が高くて通院していたが、酒量を控えてやっと血圧も下がり、医者に「もう大丈夫でしょう」と言われて早々、接待があり出かけて泥酔して帰宅後、大いびきをかいて眠ったまま起きて来なかった。おじいちゃん子だった姉は、朝枕元に行って「おじいちゃん!早く起きてよ」と言ったそうだが、2日間眠り続け、帰らぬ人となった。脳卒中であった。
 祖父の死は、あまりにも突然で、52歳という若さであったため親族一同嘆き悲しんだ。特に姉の悲しみ方は尋常ではなかった。自作の「おじいちゃんの歌」を墓前で歌っては泣いていた姿を思い出す。私もその歌を覚えてお墓に行くと二人で歌った。「♪鈴蘭咲いてたあの丘に おじいちゃんと一緒に行ったっけ、今じゃ遠い遠い夢 あの丘もあの山も みんなおじいちゃんが生きている あ~ぁ もう一度でいいからおじいちゃんと一緒に遊びたい♫」私は当時4歳でほとんど何も覚えていないが、銀行のおじいちゃんが家に来るときはいつも、ブリキの玩具を買って来てくれたことと、母のおニュ-のハイヒ-ルを履いて、ガタガタと廊下を歩いて叱られたことを覚えている。
 現役の店長だったので、葬儀には花輪が延々と並んだと言う。 


 12月11日 若山繁二祖父逝去
 正一祖父の葬儀手配であたふたしていた翌日、見越しの家から連絡が入った。なんと繁二祖父が亡くなったと言う。享年74歳であった。 五朗叔父亡きあと、失意の人となった繁二祖父は、8月3日に行われた奥又白谷での「五朗遺体発見一周年追悼式」には元気で参列したものの、その後、癌と分かった時は、もう末期であった。しかしなんとか正月は越せるだろうとの医者の見解もむなしく逝ってしまった。でも、まさか正一祖父逝去の翌日に亡くなるとは、誰も考えてもみなかった。父は、両方の家の葬儀でとても大変だった。
 繁二祖父が最後に言い残した言葉は「ナイロンザイル事件をウヤムヤにして、五朗の死を無駄にするな」であった。父は、思いも新たに「ナイロンザイル事件」を闘うことになる。
 尚、とても不思議なことであるが、二人の祖父の葬儀に関する写真や資料が全く残されていない。正一祖父の突然の死と、繁二祖父の二重の不幸に、写真を撮ることさえ忘れていたのかも知れない。ただ、12月11日、14日付で、石原一郎氏からの二通のお悔やみの手紙と、20日付で日本育英会の笠勇氏からのお悔やみの手紙が残っている。

以下の写真をクリックしてください
<その11:『氷壁』の進展と父の苦悩>へご案内いたします…



上の写真は、この年に撮られた岩稜会会員です
前列右より、今井・石原(國)・伊藤・父・室・毛塚
後列右より、黒田・不明・長谷川・不明・不明・不明・松田・不明・河合

2018年2月16日更新