<その13:告訴の結末とヒマラヤへの道>
昭和32年6月6日~8月末日
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6月6日付 井上靖先生宛 父と石原國利氏からの手紙
日付は前後するが、<その12>に掲載した井上先生による、篠田氏との円満解決のための話合いに先駆けての意見書である。連名での差出人であるが、実際は父が書いた。これには草稿と下書きが存在する。草稿の方には、1頁目の余白に「井上氏への書簡 わざと甘えていた点がある」と書かれていた。草稿を半分ほど母が清書して、それを父がまた直し、後半を書いているのが下書きである。困難な解読であるが、清書する。
いつも長々となって相すみませんが、終わりまで読んでいただきますよう切に、切にお願いします。
先日はいろいろとご馳走いただき、また、いつもいつも格別のご配慮をいただき厚く御礼申し上げます。私共一同心から感謝申し上げている次第であります。
さて、6月15日、先生と篠田氏とのお話合いに大きな関心を持つ訳でありますが、いずれにしましても、あの線で先生にお願いしてありますことにかわりなく、したがって以下申し上げることは、蛇足に過ぎません。どうかお読み流し下されば幸いです。
(1) 5月16日帰りまして信夫法学部長におめにかかり、先生とのお話のことなど申し上げました。その折「解決の見通しが出来たことは良かったが、しかしこのような恐ろしい事件が陳謝で済むのならば、全ての事件は陳謝で済む訳で裁判所はいらないことになる。今回の事件といい、何千万の収賄といい、これは何といっても、国民に重大な影響をもつ大きな罪悪ほど、結局追及の手を逃れてしまう嘆かわしいことだ」と申されておりました。
(2) メ-カ-側は同封のインダストリ-40頁・41頁でも明らかのようにすぐばれるような虚偽まで、堂々と発表して事件の焦点をずらせ、一方的に我々を狂人扱いしようとしています。実際従来とも表面に表れない裏面の動きは、あらゆる層に対して、各々に相応しい巧妙な扇動がなされていることが私たちには痛感されます。がそれが、今回は更に硬化しているともとれます。しかし一方、先生の氷壁とか、名大・三重大・阪大等の努力によって、ついにこのような虚偽の発表が必要になってきたのだとも想像されます。いづれにしても下手な妥協をすれば、後でどのようにも宣伝されてしまいますので、どうか間違いなく発表されることを切にお願い申し上げます。
(3) いずれにしてもインダストリ-の記事は、個人的な問題よりも生命に関する問題が故意にずらされ、ナイロンザイルの欠点を無視しようとしていることは確かで、このまま放置することはできません。6月15日の結果が不調に終わるようなら、直ちに強硬手段にゆきたいと考えます。この記事の出所を追求することは、直接メ-カ-に影響すると考えられ、三重県山岳連盟の「問題はそういうメ-カ-の態度にある。Sだけが陳謝しても致し方ない」という線が、その場合には図らずもやれそうです。
(4) 5月31日、中日の笠井亘氏(週刊朝日に出ていた人)にお目にかかりました。(以前からよく知っております)笠井氏の言によれば
(a) 篠田氏は我々中日が見に来ていることをよく知っていた。(斉藤検事は、篠田氏は否定していると言っています)
(b) 実験は事故条件と言明され、50㎜,60㎜のデ-タが示されてなされた、と言うことです。
(5) 週間朝日に篠田氏は「ザイルの強度試験と穂高の遭難は無関係だ」と言っています。これは、篠田氏が弁護士ともよく打合せた上に用意されていた言葉と考えられますが、私もいろいろと証拠を検討しました結果、この点が、この事件が犯罪になるかどうかのキ-ポイントと考えます。
つまり当時の事情で切れると知っていて、切れない実験だけをなぜ黙って見せたかという点が、登山家であり学者である篠田氏の資格で、犯罪とならないためには、上記を主張する以外にないようです。もし無関係だという点が押し通せれば「実験では切れることもあり、切れないこともあり」が正当となり、したがって「私には迷惑な話だ」ということになります。(この場合名誉毀損罪は成立しなくても「そういうことをやれば、登山界に危険が発生することがわからぬはずはない」という、道徳的責任は追及されます)
しかし一方、中日・毎日グラフ(この記者は篠田氏の写真を面前で撮っています。<毎日グラフ>)はじめ、おそらく全部の実験参観記者は、実験と遭難と関係ありとみたので、重大な軽率となります。
もし、無関係という主張が押し通せなければ「実験では切れることもあり、切れないこともあり」がそのまま犯罪要件となるはずです。
しかし無関係という点に関し、篠田氏は次の諸点が逃げ切れるでしょうか。
(a) 4月24日の会見(証拠は証人)…『ナイロン・ザイル事件』(以下Nとする)資料82頁
(b) 欧文発表…同封の物。論文の冒頭に、3つの切断事故が並べられ、この原因調査は重大問題だと記され、実験中に東京製綱蒲郡工場の実験としてデ-タが記してあります。
(c) 学会発表(N、105頁)
(d) 『山と渓谷』7月号。東京製綱の要請で篠田教授の実験云々(N、93頁)
(e) 告訴当時の篠田氏の談「あの実験は、阪大のBから依頼されて…」(N、204頁)
(f) 30年2月9日、朝日新聞でザイル切断原因検討会に出席していること。
(g) 『山と渓谷』7月号。北アルプスで3回も切断事故を起こしたナイロンザイルは、その後メ-カ-でも科学的テストを行って保証している。(N、92頁)
(6) 篠田氏は「公開実験は岩角での衝撃テストで、東洋レ-ヨンのはヤスリのコスリツケ実験だ」と主張されるかも知れませんが、公開実験でも、岩角上を横にこする実験と言って、その実験がなされている。(N、136頁)「十数回エッジ上を擦追させたが、切断されなかった」また直ぐ後で「事故ザイル、事故条件で振らせたが切断しなかった」
いずれにしても事故条件で切れることを知っていて、切れない表示をしたことに変わりない。
(7) 週刊朝日の小松氏の話によれば、篠田氏は「写真ばかり撮っていて何も知らなかった」と言ってみえるようですが、実験は丸一日やられていますし(N、93頁はじめ)中日の笠井氏の言、毎日グラフは前回で写真を撮っているし、いずれにしても、もし篠田氏が、実験が遭難と関係なしと言い出されるのでなければ「何も知らなかった」は通らない。要するに篠田氏は実に話がうまいので、充分ご注意していただきたいと思います。
誠に失礼の言文ですが、どうかよろしくお願いします。
最後に、先生が篠田氏に言われることを想像して次に記します。第三者というものは、実に無責任だということを自覚しつつ述べますことで失礼の極みです。
「岩稜会の告訴のことで世間は大分騒いでいますが、私はこのままでゆけば、起訴になるのではないかと思いますね。というのは、中日の5月1日の記事と(事故条件で切れることがわかっていた)あなたとを一緒にすれば犯罪は完全に成立すると思いますが、あなたに犯罪が成立しないためには、(篠田氏に今まで発表された実験デ-タを知らせる)実験は遭難とは無関係と言われる以外にないと思います。この点あなたも、それを週刊朝日に言ってみえるようですが、しかしこれは随分苦しい主張のようですね。第一そうなれば、あの時実験を参観した中日とか毎日グラフとか、その他の人達は関係があると言っていますが、その人たちは重大な誤認を犯したことになる訳で、あなたがそう主張されれば、そういう人たちから攻撃されることが予想される訳です。それにあなたが、それを主張されることが、一体できるでしょうか。私はあなたの欧文発表を拝見しただけでも難しいように思う。
要するに告訴した岩稜会は、あなたが社会に陳謝すれば、告訴を取り下げると言っていますから、今のうちに陳謝された方が良いではないでしょうか。
起訴ともなって、あなたの犯罪がはっきりしてくれば大変ですよ。
あなたがこれは不起訴になるし、陳謝する必要もないと考えてみえるとすれば、それはとんでもないことです。全日本山岳連盟は、次第に内容を知って強硬になりつつあると聞いていますし、名古屋大学・三重大学・三重県山岳連盟は、元々強腰ですし、この会見の結果を待って、全面的に署名運動を起こすと言っておりますし、阪大内部でも動きがあります。
インダストリ-でも、岩稜会はこれを石原の重大な侮辱としてばかりでなく、公の雑誌が生命に関する品物の性能について、その欠点を隠して焦点をずらしてゆくとは、社会的に実に重大だと、この会見の結果次第では、直ちに起訴にもってゆくと言っています。また署名には名大の法学部長の信夫氏も加わってみえますから、その兄さんの朝日の信夫専務が自分の弟を見殺しにされるとは思われません。
要するにこうなってきてはちょっと不起訴にはなりそうにありませんね。また仮に不起訴になるにしても、それは事件が検察庁にまで広がるだけです。実際私も、今までのあなたの答弁くらいで、この生命に関する根本問題がウヤムヤになっては大変だと思っています。またあなたの犯罪云々は別にしても、この事件はあなたに重大な責任がありますから、学者として、公務員として、スポ-ツマンとして、率直に陳謝されることが当然だと思いますが、あなたはそうは思われませんか。(傍線の部分は、篠田氏がよく使われる言葉で、これを言われるとつい「はあ、そう思います」と言ってしまいます)
無責任な言葉を並べましたが、重なる失礼の段、どうか御寛容のほどお願い申します。
6月6日 石岡繁雄・石原國利
井上先生
尚、従来発表されておりますナイロンザイルの性能に関する文献のデ-タを拾ってみました。
また氷壁のザイルの切れ口については、先日申し上げました「縦の傷」(私の仮称。N本文の47頁から54頁終わりまでに詳しく述べました。特に54頁の11行目からを見ていただきたい)を強調していただくようお願いします。これで自殺、刃物の切断、アイゼンによる切断等、一切否定されます。それに切れ口および現場の岩についた「一定長さの繊維(N、本文50頁7行目51頁の37)を強調していただきたいと思います。私にこの関係がはっきりと理論と実験とから読取できましたのは、30年3月頃で30年11月18日、篠田氏とお目にかかったときは、未だこれに気付かず、したがって「ザイルに関する見解」には何も書いてありません。
6月15日に予定された篠田氏と岩稜会の円満解決に乗り出してくださった井上先生に、くどくどと説明する父独特の文章を読むと、その必死さが伝わってくる。
日付は前後するが、以下の手紙を先に読んでいただきたい。
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7月8日付 父宛 矢野経営研究所からの手紙
この手紙は、矢野経営研究所から篠田氏に、井上先生との会見をしていただけるかどうかを打診していただき、篠田氏から井上先生への回答を、梶原氏が代行して書かれた重要な資料である。以下、解読清書。
大阪大学工学部・篠田研究室内応用技術調会
昭和32(1957)年7月7日
井上 靖 様 梶原 信男 印
拝啓
貴下ご清栄の趣大慶に存じます。
去る6月19日拝眉の節は失礼いたしました。
以来流行の風邪のため約十日間病床に居り昨今やっと治りました。
7月5日篠田先生にお目にかかり東京での貴下のお申し越しを伝えましたところ,先生のご回示は左記の通りであります。 敬具
…記…
貴下ご提案の大要(去る6月19日午後東京有楽町プルニエに於いて朝日新聞社学芸部森田氏同席)
1.篠田先生を名誉毀損罪で告訴した事件につき,井上靖氏は告訴人石原氏その他関係者と篠田先生との間を円満に解決すべく,仲に立って努力したい。
仲裁の具体案は,7月中に篠田先生,梶原信男氏,井上靖氏,三者のナイロンロープに関する座談会を開き,それの速記のゲラ刷りは前記三者および告訴人石原氏等に見せ,関係者全部の同意を得れば,これを週刊朝日紙上に発表する等。
2.井上靖氏より梶原氏に依頼したいことは,ナイロンロープの技術的な問題を400字詰め原稿5,6枚にまとめていただきたい。これは,小説『氷壁』の参考としたい。
以上
篠田先生より井上靖氏へのご回示
本件に関しいろいろとご配慮いただき恐縮です。ところが本件は,刑事問題として篠田が起訴されるか否かを,目下検察庁ご当局にて調べ中のものであります。
本件は法律上の問題となっておりますので,現在のところ篠田はナイロンロープに関しては意見の発表を差し控えております。
したがって,貴下のご提案に係る座談会はナイロンロープに関係がありますので,貴下のご配慮は感謝しますが,なにぶん法律問題の渦中におりますこととて座談会への出席は辞退申します。
以上
梶原より井上靖氏への回示
去る6月21日,梶原は京都地方検察庁に出頭を命ぜられ,篠田先生の名誉毀損罪に関し,共同研究者たる立場に於いて参考人として事情を聴取せられました。
篠田先生をめぐる法律問題が続く限り,梶原は共同研究者として渦中の存在であります。この際,梶原は法律問題解決まで学術発表機関以外への執筆ないし意見の発表は差し控えるのが穏当と思います。
したがって,貴意に応じ得ぬことを大変残念に思います。
なお,篠田,梶原がナイロンロープの学術研究して今までに発表したものは別紙同封の左記(下記)論文のみであります。
Dynamical Behaviour of a Nylon Climbing Rope.
Technology
Reports of the Osaka University Vol 6. No.192 1956
(<その8:告訴へ>で掲載した英文論文「ナイロンザイルの力学的挙動」)
以上
梶原信男氏が,7月8日の消印で井上さん宛に出した手紙の写しです。これはカーボン紙により複写がとってあります。他に英文レポートが同封してあります。
井上さんとしては,これは井上さん宛の私信だから,活字その他によって公表することは差し控えてくれとのことです。
井上先生の善意ある提案も、篠田氏には通じず、会見は見送られることになる。告訴の勝算があるので(実際にはもう不起訴となることを知ってみえたのだと思われる)、会見に出るのは不利だと思われたに違いない。
これは井上先生宛の私信なので、公表することは差し控えて欲しいと記されているが、60年以上経過している今、やっと公表できる重要な資料である。
尚、英文中のBehaviourは、Behaviorである。これはアメリカ米語・イギリス英語の綴りの違いであるので原文通りにして掲載する。
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前後した日付の間に遺されている資料を以下に掲載する。
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6月4日 須賀太郎氏宛 木下是雄氏からの葉書
お返事が遅れて失礼いたしました。私は土曜の午後に発って夜御地に着き、月曜の夜行で帰って火曜1時間目の講義に間に合わすのが都合が良いのですが、そうすると6月中は29,30, 7月1日の土・日・月以外はとれません。ここで良ければ最も好都合。そうでなければ火曜午後発(あるいは夜行発)、金曜朝帰京。これですと25日発、28日帰着の手があります。
こんなところでご都合お伺い申し上げます。7日(金)夜から北大低温研に出かけます。
この葉書は、来訪日決定の打診のためであるが、須賀先生宛のものが、父の手元にあったということは、父にも関係のあった話と思われる。 |
6月16日 『週刊朝日』のクイズ「絵で描いたまんが」
右のクイズの赤囲みの部分は「論」という字の中に「ザ」が入っている。ヒントには「井上靖の小説『氷壁』で問題になっています」とある。
この頃、ナイロンザイルはクイズにもなるほど有名であった。
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6月24日 Mr.Marcel Kura宛て 須賀太郎氏からの手紙
フランス登山隊にジャヌ-登山計画の情報を提供していただけるよう依頼した手紙である。
このホ-ムペ-ジの<青龍の章>「昭和29年」に掲載したが、父はヒマラヤへの道を模索し続けていた。当時、名古屋大学ヒマラヤ遠征会等を発足させていたが、ナイロンザイル事件で3年ほど頓挫していた。名大山岳部や山稜会、岩稜会員からも矢の催促で再開することになる。須賀太郎先生には、お名前をお借りして出されたものである。 |
6月26日 朝日新聞記事「会と催」
日本山岳界関西支部のザイル研究会を催すことを知らせる記事である。
講師には田中栄蔵氏も入っているので、ナイロンザイルの欠点が報告されたものと思われる。 |
7月15日付 Dr.Charles Evans宛 須賀太郎氏からの手紙
チャ-ルズ・エバァンス氏は、登山家で医師、教育者であった。1953(昭和28)年に英国山岳会と王立地理学会が組織するヒマラヤ協議会は、イギリスエベレスト遠征隊を組織する。その副隊長として、エベレスト初登攀に挑んだ。エバァンス氏は第一次アタック隊に指名されたが、山頂まで91mのところで酸素ボンベの不調で登頂を断念。第二次隊のヒラリ-氏とテンジン氏によって主峰の初登攀が成し遂げられた。1955(昭和30)年には世界第三位の標高を持つカンチュンジュンガの初登攀を目指す遠征隊の隊長を務め、同隊員が初登攀に成功した。
この手紙は、エバァンス氏にジャヌ-登頂の可否を相談して、ジャヌ-の頂上の写真を送ってくださるようにお願いしたものである。
この手紙が発見された時には、エバァンス氏著作本の一部を翻訳(石原一郎氏か國利氏のどちらかの字体の物)した文も遺されていた。 |
7月22日付 岩稜会宛 安川茂雄氏からの葉書
この葉書は、屏風岩初登攀10周年記念パ-ティへの出欠のお返事である。
「出」 「欠」
どちらかに記しをつけて下さい。
前略、7月初旬「氷壁」の取材をかねて井上靖氏などと穂高へ参りましたので、下旬は残念ながらゆけません。
ご盛会をお祈りします。
安川茂雄 |
7月23日付 岩稜会宛 森田正治氏からの葉書
前記、安川氏の葉書と同様
「出」 「欠」
どちらかに記しをつけて下さい。
残念ですが、参加できません。盛大な催しとなることを祈っています。
朝日・学芸 森田正治 |
7月23日付 弁護士森健氏宛 大阪地方検察庁からの「不起訴処分通知書」 以下、この葉書を清書する。
処分通知書
貴殿から篠田軍治に対する名誉毀損被疑事件につき、昭和31年6月22日付告訴のあった事件については、昭和32年7月22日左記処分をしたから通知する。(石原國利の告訴事件)
(1)公訴提起
(2)不起訴
(3) 地方・区検察庁検察官に移送
昭和32年7月23日
大阪地方検察庁
検察官次席検事 飯田 昭
國利氏の告訴は、この一枚の葉書で終わる。父や岩稜会の必死の抵抗と多くの方々の支援もむなしく。。。
父が4月25日に斉藤検事にお会いして、不起訴処分を食い止められたのは、わずか3ヶ月であった。 |
7月27日 父宛 神谷文猷氏よりの手紙
<青龍の章>の昭和28年の頁に掲載したが、父はこの頃、名古屋大学名城キャンパスまで、ほとんどの日を片道1時間以上かけて自転車で通っていた。
この時は、ナイロンザイル事件の渦中にあり、身の危険を感じることが度々あり、通勤の道を日々変えていたという。
名大学生部はそんな父を気遣って、8月5日に行われた全国国立大学第4回研修会の議長として仙台へ出向を命じてくれた。出向先は東北大学であった。
この手紙は、出向先の下宿の紹介状である。
日付は不明のため、以下の布団を宅配した時の日付としてある。以下、解読清書。
謹啓
先般貴大学における会議に際しましては何かと大変御世話に相成り、お陰で大変楽しくすごすことができまして誠に有難う存じました。
さて御手紙による御申越の件、早速手配致しまして 左記のところに決定いたしましたから御知らせ致します
記 仙台市向山上平三 吉岡英二 方
右は丘陵地帯で、仙台市を一望に見渡せる 至極閑雅なところです。学校まで徒歩で20分位、部屋は二階六畳間です。吉岡君は当厚生課員、今度の研修会にも参加いたします。内々の人ですから何の気兼ねもいりません。外にもありましたが市中の騒々しいところだったりして 適当と思わず右にしました。
委細については御来仙の上で
取急ぎ右お知らせまで
敬具 神尾文猷
石岡繁雄様
8月2日から9月2日までの1ヶ月間の出向には、最初母を伴った。ちょうど夏休み期間だったので、小学校6年生だった姉と、5歳だった私は、鈴鹿の祖父母の家に預けられた。出向から帰った母は「地元の人たちが何を話しているのかさっぱり分からなくて、まるで外国に来ているみたいだった」と話したのが印象的だった。
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7月27日 父宛 森河敏夫氏からの葉書
以下の宛先不明の父の手紙によると、「7月28日に森河部長にお会いして」となっているので、この葉書は、会見の日取りを決めるために出されたものと思われる。
以下に解読清書する。
暑さのみぎりにも拘らずご健勝にてなによりのことと賀し奉ります。先日の部課長会議の際に大変お世話になり、ありがとうございました。本日、電話致しました件、わざわざご来阪くださるのに、不躾と思いますが、7月31日、または8月1日にお越しをお待ち申し上げます。まず学生部へおいで下さいましたら、ご協議申し上げ、その上のことに致しましょう。倉本課長様へよろしくお伝え下さい。
父は、森河部長が指示された7月31日と8月1日は、行けなかったので屏風岩初登攀10周年記念パ-ティと重なっていたが、無理を言って28日にしていただいたものと思われる。しかしこの時代の手紙などが、速達でもないのに翌日配達されるとは考えにくい。7月28日に森河部長にお会いしたというのは、父の記載ミスであろうか。 |
7月 父が書いたあて先不明の手紙
この手紙は、不起訴以後の様子を知る重要な内容のものである。手紙の最初には赤字で「宛先不明なれど重要な書簡の写し」とされていて、余白には「◎この続きを探さなくてはならない」と記されていた。
台風も通過して酷しい暑さとなりましたが、貴殿にはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
ナイロンザイルの事件につきましては最高のご支援をいただきまして、喪心から厚く御礼申し上げます。しかし貴殿には、目に見えぬ圧力がかかり、いろいろとご迷惑をおかけしているのではないかと、心配している次第であります。
先日は名古屋の丸栄デパートの7階で展覧会があり出展を依頼され、切れたザイル・岩角の石膏をはじめ、遺体がつけていてアイゼン・ピッケル、それに30数枚の写真、多くの資料を出品し、連日数多くの人々が集まりました。
また1週間ほど前には、朝日新聞本社記者 片山氏が訪ねられ、約3時間にわたっていろいろと懇談申し上げました。私は朝日の本社の記者が来訪されると聞き、これはてっきり『岩と雪』に書いた信夫専務云々の記事で「あ―いう記事を書いてもらっては困る」とお叱りを受けることだと思っていましたが、そのようなことはなく、むしろ激励していただき嬉しく思いました。
貴殿とも知古の方とか。もし貴殿、何かの機会がありましたら、私が本当に感謝していたとお伝えいただきますれば幸甚であります。
さて、本日の用件に入らせていただきます。実は、大変なお願いを申し上げるわけでお怒りになるとは承知しつつも、これまでの貴殿の御厚意に甘えて、心臓強く、脂汗を出しつつ申し上げる次第であります。実際には当然上京し、貴意をいただくべきところでありますが、職務上何かと多忙にしておりますので、このような失礼な書面を差し上げるのであります。
もとよりお怒りのことは当然でありますが、私が伏してお願い申し上げたいことは、この不躾なお願いは一笑に伏していただいても、もとより結構でありますが、その場合でも今回のことはお忘れいただいて、どうか今までと変わりなく、ご叱責ご鞭撻をお願い申しあげたいのであります。
このナイロンザイル事件は今後の登山界の社会のため、何としても正しい解決にもっていくべき性格のものであるということは、貴殿はじめ皆々様のおおせられるとおりで、不肖私もそれを確信し、そのために努力をつくしている次第であります。しかし問題はその方法であります。4月以来、名大教官(法学部長、民法教授等)、弁護士と相談しました結果では、まず当方から篠田教授に対し熱誠あふるる書簡を差上げ、社会、登山界のため曲げて遺憾の意を表していただくべくお願いする。それでも篠田教授に何ら誠意あるご態度がなければ、民事訴訟によって陳謝要求をするということになり、私が篠田教授に手紙を書くことになっていたのであります。私はいろいろと案を練っていたのでありますが、これが不成功に終わればすぐ起訴と思うととてもうまく書けず、それにこれまでの篠田氏のご態度からして、こうしたことが成功するとは考えられず、それに私の家族が、訴訟となればどんなに金がかかるかわからないと毎日のように反対しますので、実際私も参ってしまいました。いろいろと考えました結果、これはもう一度阪大の関係者に円満解決をお願いし、それでも駄目ならば、そのときはとにかく訴訟にもってゆく、訴訟をやってみて経済的負担があまりかさむようならば(弁護士は無償でもやると言ってくれますし、いろいろ研究しました結果、何十万とはかからないと考えますが)その時にまた何とか考える。こんなことを申し上げるとそれこれ冷笑されるかも知れませんが、私としまして現在これが本当のところなのです。
そこで私は、前回お願いした阪大学生部長にまずお願いしたいと考え、弁護士・名大関係者に相談の上、このことで手紙で依頼しました(このとき『岩と雪』の資料を送りました)。7月28日、阪大学生部長に、伊藤経男と私の2名がお目にかかりました。(このとき膨大な資料を持参しましたが、『岩と雪』だけは三締めお送りしておきました)
その後、阪大学生部長に電話で話しましたが、学生部長は「自分は君の言う通り篠田教授が遺憾の意を表さなくてはならないと考える。しかし篠田教授は、最近他のことで何回も会っているがその様子から見ると、岩稜会が直接そのことを伝えても、成功するとは思われない。問題はその方法にある。『篠田君、君はそう言うが、しかしとにかくここは君が遺憾の意を表するべきだ』という人が中に入らなくてはならないと思う。今そういう人を誰にすれば良いかを考えている。とにかく膝突き合わせて、よく相談しましょう」ということで、結局伊藤経男と私は持参の資料を持って、28日に上阪し、学生部長と約3時間にわたってお話ししました。
この会談の要旨は次のようです。そのとき私は別紙(1)の円満解決案を持参し、森河部長に見ていただきました。
森河部長 「君と電話してからよく考えてみたが、これは容易でないと思った。もちろん仲裁を総長にお願いしてみようと思っているが、(総長はまもなくアメリカへ帰られる) しかし私はそのとき、実は朝日の信夫専務がこの事件の仲裁に入られようと言われたが、篠田教授はそれを受け付けなかった』ということを言わねばならない。しかしそう言えば総長はおそらく断られるだろうと思う。」
私 「あの時と情勢が大きく変わっている。信夫専務が仲裁のために上阪された時は、不起訴決定直前であった。学者の請願書とか三重岳連の声明書、新聞・ラジオの記事があっても、当局はこの事件を本局で調べるということはなく、当局が不起訴という決定を下すということは、私にも明らかであった。(資料を持って説明)当然篠田教授ははっきりと知っていられたはずである。だからこそ「仲裁に入っていただかなくても結構です。」と言えるのです。これは道徳の問題です。実際には本当に学者ならば、こういう状態のときでも、信夫専務の申し入れを断れるはずはないと思うのですが。それに当時は一般世論で岩稜会を支持していたのは、ほんの一部で大部分は岩稜会のやり方を非難していたのです。篠田氏は信夫専務の申し入れを断っても大丈夫と考えられたでしょう。しかし今は新しい告訴に入ろうとしているところです。また世論も篠田氏の印刷物に大きな疑いを持っています。これは『氷壁』が大いに役立っています。しかも今回は民事ですから、あくまで証拠となり刑事のように検事の見解だけで葬られることはないのです。弁護士さえなれ合いをやらなければ、ウヤムヤにはなりません。それに中日・山と渓谷はじめ事件の取材記者がはっきりした態度を示していてくれます。民事になって、篠田氏はスッキリと勝てる自信はないと思います。
この続きは、発見されていない。
赤字部分は、解読不能だったため、それらしい文字を当てはめたものである。
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7月29日 父宛 谷本光典氏よりの手紙
7月28日に行われた「屏風岩初登攀10周年記念パ-ティ」に出席できない谷本氏は、以下の暖かな手紙を父と岩稜会宛に送っている。
岩稜会の皆様へ お祝いの言葉
横尾谷のたき火の周りで,どなたか代読してください。
屏風岩に届くほど,梓川の水音に打ち勝つほど,声高らかに!
お祝いの言葉
十年の歳月,岩稜会の皆様の歩みに陰ながら深い尊敬と大きな期待とを抱いていた私は,今日,この横尾谷のお祝いの焚き火の周りで,直接皆様におめでとうと言えないのを心から残念に思います。
私たちのバッカスが,その昔,山へ踏み出した最初の一歩から今日に至るまでの足跡を見守ってきた私は,彼の中に私自身を見出して,山へ行けない環境の自分を慰めてきました。したがって,その『屏風岩登攀記』も,それが原稿紙へ書かれる以前から何度も繰り返して読み,今でもその一部分は一字一句にいたるまで憶えています。 岩稜会の今までの歩みの中の,喜びも悲しみも,嘆きも怒りも,他人事ならず,胸をときめかせ,時には締めつけられて送り迎えてきました。
見れば,岩稜会というは,本当に不思議なほど立派な団体です。ひたむきに山とぶつかる,その行動が,かくも立派に人々を鍛え上げ,築き上げたのでしょう。山とは,そのように尊く,美しく,深く,山で結ばれた友情は何ものにも代えがたく尊いものだと思います。
バッカスが岩稜会とその周囲に幾多の優れた友人をもち,立派な山男をはぐくみつつあることに,満腔の誇りと光栄とを感じます私は,岩稜会の皆様の心と心を結ぶザイルがとこしなえに固く,切れざらんことを祈り,次々と立ちふさがる岩壁に,その時々に可能なルートを切り開いて,私たちの心のともしびを高く高くかかげてくださることを,心から心から期待します。 谷本光典
岩稜会のバッカスを讃える詩 おたに
バッカスよ
君の努力と天分の上に
今日の岩稜会の充実と功績とが
大きく花咲いている
そそり立つ700メートル
のっぺりとした屏風岩
あの正面が登られる日を
誰が夢想したろう
食うものがなく
みんなが食うものを求めてうろついた
あの戦後のどろどろの空気の中で
君の屏風岩正面完登は
さっと頬をなでた一陣の涼風だった
君の山へと踏み出したよろめく第一歩を
導き支えたものは自分であったとうぬぼれる僕は
あの時の嬉しさを一生忘れないだろう
思い出すごとに胸のときめく
あの時の嬉しさを
幾日が明け幾日が暮れ
喜び 悲しみ 嘆き 怒りを踏み越えて
岩稜会はなおも
僕たちの心の灯火を
高く いや高く
未踏の岩壁にかかげてゆく
岩稜会に健斗と栄光とを祈る僕は
山男たちの心と心を結ぶザイルのように
会の命の絆である君に
一層の慈愛と躍進とを期待する
―昭和32(1957)年7月28日,屏風岩の記念キャンプファイヤーに参加できないせめてもの慰めとして―
下手な詩です。いや詩ではないかもしれません。
28日の夕方,蒸し暑い診療室の机に向かって,「残念だなあ,横尾へ行けなくて」と思っていたら,ほとんど自然に,眼前の君のおもかげに向かってほとばしり出た言葉です。お笑い種に送ろうと思います。
お暇がありましたら,横尾の様子,手紙ででも知らせてください。写真もあったら送ってください。
まだお目にかかったことのない井上さんにも,こんないい機会にお目にかかりたかったし,須賀先生も足が治って行かれたとのこと,しっかりと歩いて山へ行かれるところをこの目で確かめもしたかったし,元気な石原君,愉快なシャチョーにお会いもしたかったと残念でなりません。
後回しになって失礼ですが,奥様はじめ子どもさん方,お元気ですか。変調な夏です。折角ご自愛を祈ります。 草々 おたに
バッカス殿
篠田氏の不起訴処分に、ガックリしている岩稜会の仲間や、父を励ますために書かれたものと思われる。
父の大親友であった谷本先生は医学博士であり、多くの論文を遺してみえるが、文学にも造詣が深かった。
1989年には『白血病に娘を奪われて』を出版、1999年『芭蕉と杢太郎』、2002年『特老物語―担当老医の句と記』を書かれていて、文才があった。上の文をお読みいただいてもおわかりいただけると思う。
本当にお優しい方であった。
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7月30日 朝日新聞記事「不起訴に決まる」
この記事の最後の部分に…
「同地検では一年余りにわたって両者の言い分(岩稜会側の事情聴取は皆無であったので、検察側の発表が間違いだと思われる)を聞いて来たが、結局『篠田教授は学者として良心的に実験をしたと思われる。また故意に実験結果をゆがめて世間に発表したとの事実は認められない』」と結論に達したものである。
と記載されている。この地検側の結論こそが虚偽である。
この記事の貼られていたスクラップブックの余白には、以下の事が書かれていた。
権力に屈した驚くべき大阪地検の決定。正木ひろし氏の『検察当局には正義はない』という言葉を身をもって痛感する。しかし石岡が名古屋地検に赴いたとき、部長検事をはじめほとんどの検事が「これは実に意外だ。けしからんことだ。しかし抗告という手段が残っている」と教えてくれたのには感慨した。しかし抗告のための弁護士の費用3万円が都合付かず結局見送った。
父たち岩稜会の悔しさは、どれほどのものであっただろうか。
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8月1日 山稜会名簿
この名簿は、八高山岳部OB会の名簿である。
八高山岳部部長だった柴崎陸奥夫先生を筆頭に、八高卒業年度、大正13(1924)年~昭和24(1949)年までの122名の方々のお名前が掲載されている。
この名簿を使用して、ヒマラヤ遠征のための募金活動が行われた。
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8月1日 「ヒマラヤ遠征計画案」
この計画は、昭和29年に作られた「名古屋大学ヒマラヤ遠征会」から派生して、岩稜会に突き動かされた父が立てたものであるが、莫大な費用がかかるため、山稜会・名大山岳部を含めて実行委員会を作ろうとしている。
不起訴処分となって早々、これだけの資料を作成することは、並大抵の努力ではなかったはずである。それとも、辛さ悔しさを跳ね返すためには、良かったのかも知れない。
このヒマラヤへの動きが、日本山岳会東海支部を発足させることになるのだが、それはまた後の章で… |
8月7日 父母宛 祖母・姉・私からの手紙
仙台に仮住いしている父母に向けて書かれた手紙である。
お父さん,お母さん,お元気ですか。梓も,あづみも,とても元気です。安心してください。
もう仙台にお着きになって,さぞ変わったことがたくさんあるでしょう。みんな,お便りがあると,すぐ飛びついて,みんなで読みます。とっても楽しみです。
私も8月3日の日から,習字のけいこに中川先生のところに通っています。8月の末まで習えば,あんがいうまくなると思います。
2日の日は,学生さんたちがみえました。夜は,おてんし(神戸城跡)やじょうこう寺などに案内してあげました。帰ってからは,かっちゃん,四郎ちゃん,ひーちゃん,春美ちゃん,なおちゃんたち,大ぜい来て,トランプしたり,しょうぎをしたりしました。この時,私は本しょうぎを教えてもらいました。それからは,大じいさんに相手をしてもらって,しょうぎに熱中しています。名古屋に帰って,お父さんが帰ってみえたら教えてね。
学生さんたち,とってもよろこんで帰って行かれました。
映画は,あいかわらず,かわるたびに見に行っています。今日は,大友柳太朗の,ぬき打ちろう人(『抜打ち浪人』1957年=東映),少年たんていだんの,かぶと虫の幼虫(『少年探偵団 かぶと虫の妖奇』1957年=東映),赤胴鈴之助の,月夜のかい人(『赤胴鈴之助 月夜の怪人』1957年=大映)の三本立てを,神戸げき場へ見に行きました。3つともよかったので,満員でした。
8月8日は,お母さんのおたんじょう日でしたね。おめでとう。
おとうさん おかあさん
おみやげ おくってね。
さようなら。 あづみ
8月7日
お父さん,お母さんへ
梓・あづみ
おたより有難う。大変皆が喜んで,幾度も幾度も,繰り返し繰り返し読んでいます。とうとう仙台という遠くで住まっていられますね。その後,お二人ともお元気にお暮らしでございますか。
神戸の方は,梓,あづみ共とても元気で,だいぶ太って,元気に日暮らしていますから,ご安心くださいませ。あづみちゃんもよく遊び,聞き分けもあり,心配した事ございませんから,ご休心くださいませ。食事,体の方は,よく注意しています。梓ちゃんも元気で,時間正しく日暮らしています。花火大会の習字を中川様へ習いに行っています。毎朝8時半から1時間半ばかり習ってきます。南新町のお茶屋様の家です。薬も一回も怠ったことありません。
あなた方が帰られてから,とても毎日暑い日が続き,お風呂を毎日早くわかしています。
学生3人(名古屋の家の初代下宿人)が2日午後5時半にニコニコして来宅しました。お土産にチョコレートをたくさんビニール袋へ入れて2人の子どもにもらいました。夜,大きい風呂沸かし,ビール1本出し,本座敷で,懐石膳でキスさしみ,たこの諸口(鉢),かますの塩焼,吸物,キスフライ,やさい2品の膳にして3人に出しましたところ大喜びで,食事6時過ぎ,それから神高,天守台,町の夜景,神戸劇場の前で氷飲んだのやそうです。梓,あづみの案内役です。帰って,花火上げ,それから稲垣の子ども全部(祖母の妹の子4人),中道のハルミ,ヒーちゃん(岩稜会の歯医者中道氏の子ども、当時隣の家に住んでいた)等,皆でトランプ,将棋等,10時頃まで賑やかに楽しく遊び,二階で3人寝てもらいました。家が大きいので,江口様などニコニコで「大きい旅館で泊まっているようですわ」と大喜びでした。天気もよく,富田の霞ヶ浦から神戸に来たと申していました。先生や敏子様に会えなかったので書いてきたと言うていました。3日は9時に起こして朝食,11時半にすし。昼食すませ,12時30分に鼓ヶ浦へ3人厚くお礼言うて出ました。天気が暑い日で,海水浴には快適でした。
梓,あづみは,どこへも連れて出ません。ただ神戸劇場がかわるたびに見に,私が付いていくのが何よりの楽しみとしています。ちょうど子ども向けが多く,三本立てで好都合です。
8月8日は敏子ちゃん誕生日ですね。今年は仙台で二人で楽しく過ごしてください。小槍で迎えたり,仙台で迎えたり,思い出になりますね。
こんな近情ですから少しも心配なく。
東京から日光,中禅寺,等,なかなか疲れたでしょうが,仙台のお家が涼しそうですし,なるべく簡単に日暮らして,有効に旅してください。
梓,あづみも口にこそ出しませんが,手紙が来たり,ハガキが来ると,飛び立って2人で大喜びです。
ラジオ,新聞に事故が出ないかと,とても気にして心配しています。やっぱし親子ですね。有難いものですよ。昨日も昼寝の時間に,3人で地図出して仙台までの汽車の道順を見て,「東京からでも遠いのやなあ」と話し合ったのです。宇都宮は私も通りましたが,市中は知りませんが,大きい駅と思いました。宇都宮,郡山,福島,仙台ですか。
こちらの方は,皆が体に注意しますから,あなた方もお体お大切になしくださいませ。 かしこ
学生さん来宅のとき将棋習って,その後は,おじいさんに毎日遊び相手になってもらいやっています。おじいさんも梓となら勝てますからニコニコで「一番やろか」「一番やろか」と言うてきて,午後や夕方やっています。 先日も昼の時に,井上(隣りのおじさん)が「梓ちゃん,やろか」と言うてきて,うってもらいました。まだしっかりわからず,ぼつぼつ駒のはこび等,細かいところ教えてもらっています。やるという気がえらいです。今度名古屋へ帰ったら,学生まかしてやりたいものだと言うていますが,おじいさんの相手では上達しますかしら。
繁雄さんの先生ならよろしいが。
前にも掲載したが、近鉄鈴鹿市駅の近くにあった映画館「神戸劇場」は、曾祖父が大株主であったため、映画が変わるたびに株主優待で招待券が送られて来た。そのため娯楽というと映画がもっぱらであった。
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8月8日 父宛 伊藤経男氏からの手紙
岩稜会会長(前述のとおり、父はこの時会長から退いていた)社長こと伊藤氏からの手紙である。
早速手紙をと思いながら延引致し申し訳ありません。4日下山以来、種々の事でガックリしております。ナイロンザイル事件不起訴を帰って知り、バッカスの六感のほど恐れ入りました。
どこまで我々は苦しめばよいのか、全く神の存在が疑わしくなります。
愚かな斉藤検事、悪らつ傲慢な篠田博士を思うと、腹が立ってなりません。その上、朝日もまた、非常に紳士的な記事を出し、ますます我々が何か怨みをもって告訴したようにも一般社会から取られるのではないかと心配です。しかし純粋な気持ちでやっているのですから、 どのように見られてもかまわない訳ですが、別な段階において、以前にも増して苦しまなければならない事を覚悟しなければならないと思います。
ここまでは岩稜会として、あくまで進むべき道であると考えますが、小生個人として、不起訴発表後の篠田博士に対する考え方は、次のような気持ちで行く覚悟を決めました。岩稜会の方針に反するようですが、もう我慢ができません(今までも心の隅に時々浮かんでいた事です)。
科学者であり博士であるという事を唯一の楯に、ただ自己保全と名誉の為、尊い人命を無視し、一般社会を欺瞞し、数多くの人々を苦しませ、そして大手を振って世を闊歩する篠田軍治こそ、善良な市民の風上にも置けぬ極悪人であり、大犯罪をおかした死刑囚でさえ最後には仏心にかえり、悪業を悔い、世間にわびつつ刑に服して行くものを、彼は一片の後悔心も示さず、博士だ、教授だ、その道の権威者だと、大きな顔をして国民の上に立ち、公平な報道機関を無視し、世の人々を虫けらの如く鼻先であしらう傲慢不遜な態度を思う時、もう彼個人への怨みは、どうしても消すことができない。今後は何らかの方法で以て徹底的に彼にわからせてやらなければ、益々彼を増長させ、再び如何なる悪業をかさねるやも知れず、出来れば彼を学界からほうむり、極悪人たるの烙印を押して、苦しみぬいてきた我々の立場を、反対に彼にあじあわせてやらなければ、虫がおさまらない。
こうして手紙を書いて居ても、今ごろ彼は得々として取り巻き連中に話しているだろうと思うと、もう ~~~~~~~~~~~~~~~
今までの方針に反する様ですが、ショックが大きいだけに、少々頭が変になって居ることはたしかです。今後のバッカスの意見もお聞かせください。
井上さんにもこのこと書こうと思いましたが、なにかのついでにバッカスより社長がものすごく怒って居るとお伝えおきください。
朝日の岸田記者も、バッカスに会って非常によく事件がわかった。篠田という奴は全く胸くその悪い奴だと言って、今帰ったところです。
次にカンチャン(田中浩氏)の事ですが、お別れしてから横尾で2日間(30日、31日)静養。徳沢より往診をねがって、命に別状ないからじりじりに下げるようとのことで、1日徳沢に移し、小生、北穂東陵の写真を撮り、國ちゃん・竜(河合隆氏)・岩佐、滝谷クラック。山田三男、9時松本。涸沢槍の写真撮り、ボッシャン(石原義弘氏、石原兄弟の弟)を看護婦にして行動。部隊長・ギンヤ(黒田吟哉氏)等も下又白、明大ルート等の写真撮りにて、本の方の仕事も大して支障も来さず、小生、4日下山。6日、カンチャン父、徳沢に迎えに来て、上高地まで部隊長と、9時2人にて降ろし、カンちゃんと父2名でハイヤーにて松本まで。信大病院でレントゲンをかけ、全く異常を認めず。その足で大阪まで帰った旨、昨7日、大阪より小生あて電話がありました故、ご安心ください(加トさんも本日8日心配して電話がありましたが、以上の旨話をしましたら、大いに安心されました)。カンちゃんの件は、まずまず一段落しました。
横尾以来心配で飯ものどに通らず、寝られなかったのも夢のようです。
写真の方(『穂高の岩場』に使用)、ドンドン整理して居ります。大至急送付するつもりですが、不起訴の件で大分皆ガックリした直後でもあり、困って居ります。
遠くはなれていては、中々思う様にいかず、只々一人でむかついて居る次第です。
ではこれにて、ひとまず筆を止めます。体に気をつけてください。
夫人にもよろしく。お互いに、夫人はいたわりましょう。では、アラヨ。
8月8日 社長
BUCCAS殿
父が出向のため、夏山合宿で負傷した田中浩氏のことは、全て手配された。その上に不起訴処分である。伊藤氏の苦悩が手に取るようにわかり、胸を打つ。
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8月12日 父宛 石原國利氏からの葉書
『穂高の岩場』についての葉書である。
前略
昨夜別便にて、穂高の岩場上巻の補充プリントをお送りしました。目を通して石川さんに転送して下さい。必要ネガ番号のリストを作製して下されば、至急取り揃えてお送り致します。プリント中調子の悪いのは、上高地で焼いたものですから、焼き直せば立派になると思います。新井・三林・岩佐の諸兄に手伝ってもらって、昨夕やっと整理がつきました。毎晩遅くまでかかり、ちょっとふらふらです。あと下巻の分がありますが、綺麗な写真が多いので楽しみです。
では、在仙中に充分静養を重ねて下さい。
岩稜会員は、それぞれにそれぞれの役目を持って邁進する。
それを取りまとめる父は、ナイロンザイル事件・ヒマラヤ遠征・『穂高の岩場』発行等々、1人で何役もこなしていたのである。 |
8月24日 父宛 石原一郎氏からの手紙
ヒマラヤ遠征についてである。以下、解読清書。
昨日午後3時に東京に着き、矢野の家に泊まりました。昨夕はギンヤ(黒田吟哉氏)、七・八(澤田榮介氏)と会いました。
さて、数日前にスイスから航空便の返事が須賀先生のところに届きました。
ジャヌ-のこと非常に元気づけられました。本文は私が持っておりますが、全文コピ-して茲許同封します。
右の手紙により槙さんに会うべく遠路をとりましたところ、生憎目下越後方面に旅行中で、27,28日頃でないと帰京されない由です。
私は27,28日頃までしか滞京できませんので、離京までにはもちろん会うべく努力しますが、槙さんの帰京に間に合わぬ場合には、貴兄が東京通過の際、槙さんと会って下さいませんでしょうか。右あらかじめのお願いです。
ただいまトンちゃん(岩稜会 太田年春氏)から電話、トンちゃんと会ってから朋文堂へ行くことにしました。
今度の夏山での写真、ネガ(『穂高の岩場』に掲載するためのもの)持参いたします。
では、お元気で。
8月24日昼 部隊長より
Herr BACCHUS
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8月24日 父宛 母と姉からの手紙
詳しいお便り大変嬉しく何度も何度も読み返しました。今日あたり、あまりお手紙が来ないので病気でもしていられるのではないかと心配いたしておりましたところです。
写真もどうもありがとう。どれもこれも懐かしい想い出の数々、梓やあづみ、おばあちゃんやおじいさんに詳しく説明して話しました。
その後、私もだんだんと良くなりますが、昨日から右側の頭だけ痛く、それに腰が痛めます。お父ちゃんにいつもよくもんでもらうのに、それも言えず一人こつこつ叩いています。出血もまだ少しあります。1600円取られました。でも、もう大丈夫ですからご心配なく。
おばあちゃんも私が参って2日ばかりは元気がありませんでしたが、その後入れ歯はまだ出来ませんが、何でも美味しく食べて元気が出て来ました。なかなか胃の薬も飲もうとしませんので、私が黙って消化剤買って来て、この頃では食後に飲んでいますから、そう胃も悪くなるまいと思います。
昨日(23日)は昼過ぎ米田様遊びに来られ、津の光子叔母も青森から帰ったと参り、二人とも夜までみえました。
26日、おばあちゃんが私たち送りがてら名古屋に来ることでおばあちゃんは、留守番の御飯炊きに神尾さん頼むと申し、おじいさんはいつもの調子で秀子や寿子頼むと言い、またその事でひともめしました。せっかく稲垣も離れ、きっぱりと他人頼んだ方がお互いに良いと私たちも米田様も思い言うのですが、どうしてもわからず、米田様にも食って掛かる始末で、ほんとにおじいさんには、ほとほと困ってしまいます。
花火もやはりあの山の陰で見えませんでしたか。
あなたお一人でさぞお掃除もせず、汚くなっている事でしょうね。蚊帳もたたまず放り込んである事でしょう。
とうとうあの汚いお風呂へ入られましたか。ほんとに嫌ですね。一人残っていられるあなたがお気の毒でなりません。
朝、顔を洗う時、手を洗う時、ああ不自由していられる事だろうと思っています。
あなたのお便りでお金が足らず心細そうで気の毒です。せめてビ-ルくらい飲んで下さい。2000円入れておきます。
では、お身体お大切に。
ただいまお昼前ですが、梓はお父ちゃんへ出す手紙書いてしまって、おじいさんと将棋指しています。おじいさんは将棋する時だけ「えらいわ)」と申しながら。あづみは前の家の子たちとどこやら遊びに行っています。
吉岡様には早速礼状を出して置きます。
今日は午前中おばあちゃんとお墓参りに行って来ました。
見越しにもお便りいたしておきます。 かしこ
お父さんお手紙ありがとう。皆で読みました。松島・鳴子の写真もお母さんに説明してもらって楽しく見ました。
私たちは26日の日に名古屋へ帰ります。そろそろ帰る用意をしています。
習字も25日の日まで習います。今は、花火大会の他に、くずした字も習っています。
地球儀も完成し、びっくりするほどよくなりました。6年生にはどうしても見えません。貝の標本や、その他いろいろと作りました。お父さんが帰ってみえたらお見せします。
この頃は豆台風が近寄っているので、ざわざわと庭の木の葉がゆれます。とっても涼しいです。
名古屋に帰ったら、どうせほこりまるけ(埃だらけ)で、草がぼうぼうだと思います。でも、お父さんの帰ってみえるまでには、きれいにしておきます。
また、帰ったら将棋の相手をして下さいね。早く本将棋がうまくなって、みんなをびっくりさせてやりたいと思っています。それにはお父さんにみっちりしこんでもらおうと、うきうきしています。将棋の駒はお父さんに買ってもらったいいのがあるし、台はおりたたみ式を持って行きます。お父さんが帰ってみえたら、いろいろたくさんしてもらう事、する事があります。そういう事を考えると、とても楽しくなります。
それでは、さようなら。
お父さんへ 梓より
この頃の一家の様子が、はっきりと分かる手紙である。
鈴鹿の家は、昨年祖父を亡くした祖母と曾祖父母が暮らしていた。この手紙で知ったのだが、この少し前まで、稲垣一家(祖母の妹寿子一家)も一緒に住んでいたらしい。私には優しい大じいちゃんだった曾祖父も、そうとうな頑固者であったことも知らなかった。祖母も苦労したのである。
母は、小さい頃から身体が弱く、この頃も病気をしていたらしい。それに加えて、丈夫な祖母まで体調を崩している。祖母の病気と言ったら、歯周病くらいしか思いつかない。40代から総入歯であったそうなので、この時に全ての歯を失って、入歯のできて来るまで食事に苦労していたに違いない。
当時、名古屋の家の前にあった日赤病院が、結核病棟だったことは前に掲載した。そこに通っていた、隣りの家のおばあさんの猫がよく家に遊びに来て、姉と私はその猫を可愛がっていた。そして、小児結核にかかった。私はそんなにひどくはなかったが、姉は相当ひどくて、1年程寝込んでいた。毎日、日赤病院から看護師さんがペニシリンを打ちに来た。その注射が痛くて、姉と二人で二階の屋根に逃げたことが忘れられない。たぶんこの頃も、家族は姉の小児結核が心配だったのだろう。
私は、下宿の学生さんたちから「豆台風」と呼ばれるほどの悪ガキで、早朝から下宿に行って、寝ているお兄ちゃんたちを片っ端から布団をはいで、体の上で飛び跳ねて起こしたそうである。「豆台風が来たぞ!」となると、お兄ちゃんたちは隠れたり、逃げたりしたと言うから、父母は心配したことだろう。
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8月25日 母宛 父からの手紙
仙台から出された手紙である。以下、解読清書。
22日付のお便りで安心しました。こちらでは1週間の議長をすませ,いよいよ,あと1週間というところです。今日は土曜日で,あれから一度も町へ出ていませんので,それに,午前の議長の報告(演説。このため2日ぐらい,いろいろと準備しました)も成功しましたので,12時半,大学前からバスに乗り,例の牛乳のある東一番町でおりて,先日「「ヘッドライト」をみた映画館で「白鯨」をみました。
ちょうど,マック1をめざすゼウト様の映画のようなストーリーで,私向きで,大変感激しました。社長が「いい,いい」と言っていたのを思い出します。3時に外へ出て,ビアホールで100円のビールを飲んで(200円しか持っていなかったので)家へ帰りましたら4時で,あなたの手紙が来ていたので,今手紙を書いているところです。リンゴを2つ買って,残り4円でした。しかし,靴をなおしたり,頭を刈ったり,原稿用紙を買ったり,学校の帰りに氷やミルクを飲んだり,学校へ売りにきた土産を少々買いましたら,1500円使ってしまってびっくりしました。三度ほど計算してみましたが,やはり,それだけ使っていました。ちょっと気をゆるめると駄目だとよくわかりました。
隣の部屋の学生が昨日から帰ってきています。今,下手な英語を声をあげて読んでいます。下で子供が物凄く泣いています。私はハダカで汗かきかき手紙です。明日の日曜は,一日かかって原稿(まえがき)の修正をするつもりです。
梓がはさみ将棋が強いらしいですが,お父ちゃんが一つとられたら負けということでやると言っておいて下さい。しかし,梓が強いとは心強いですが,ちょうど私の中学時代のように勉強のさまたげにならないかと心配です。
ピッケルの山内の住所がわかったので行ってきますが,ピッケルを今買うというわけではないので,ちょっと行きにくいわけです。石川さんから頼まれたナタ1本ほしいとは言いにくいのです。それに,『屏風岩登攀記』でも持ってゆけばよいが,何もなしで行くのでは,いささか具合悪いです。
もう写真は,フィルムが前のがなくなったので,とらないつもりですが,山内の仕事場をとってくるのは,このさい必要かと思いますが,油断すると帰れなくなります。
おばあちゃんはどうですか。くれぐれも大切にしてあげて下さい。草とりなどすると拙いですから,玉子屋のおじさんに頼むか,ほっておいても秋には枯れます。この家で草とりしているのをみたことありません。では,別に書くこともないようです。たしかに,牛乳を飲むと元気が出ます。
8月24日
繁雄
國ちゃんや学生諸君によろしく。
梓やあづみの顔がみたくなりました。
この手紙は、たぶん前記母の手紙と入れ違いに出されたものと思われる。理由は、母が入れたはずの2000円が届いていず、父はお金に困っているようだから。
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このような手紙はほとんど遺されていないので、ちょっと息抜きにその頃の石岡家の写真を紹介することにしよう。
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昭和32年正月
名古屋の家の応接間にて
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鈴鹿の家の裏庭にて
ヒ-ちゃん(中道宏氏、中道家3男)と私
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場所は不明です
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下宿していた國ちゃんと
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岩稜会の山本先生が来訪されて…
山本先生のカメラを得意げに首から下げる私がいます
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右後の山本先生の前に座っているのはご長男
山本和雄氏は、有名な山岳写真家です。
上高地ビジタ-センタ-の展示室や横尾山荘の食堂の壁に
今でも作品が遺されています
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庭の父手作りのブランコにて
山本先生が写してくださった写真は
さすがに素晴らしい |
応接間にて
やんちゃな私はやんちゃっぽく! |
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左の写真は、山本先生に肩車してもらっている私です。
この時、今の南山大学がある小高い場所にお散歩に連れて行っていただきました。
道すがら、チョコレ-トが落ちているのを見つけた私は「これ食べて良い?」「良いよ」と山本先生。喜んで食べてしまいました。
その後、肩車されつつ…戻してしまったのでした(/ω\)
山本先生は頭からすっかりチョコレ-トだらけ‼本当に申し訳ないことをしてしまった私です。
私の気分が悪そうな顔がわかりますか? |
8月26日 父宛 大阪地方検察庁からの手紙
借用書類返送について
貴殿より借用中の「岩稜会資料 ナイロンザイル事件」等御返送致します。
昭和32年8月26日
大阪地方検察庁 斉藤検事
名古屋市昭和区山手通3-3
石岡繁雄殿
不起訴処分となり、岩稜会から持ち出された膨大な資料が返された。
数行の送状で幕を引いた事件であったが、それで終わる父ではなかった。
さて、次なる一手は… |
8月30日 石原一郎氏宛 父よりの手紙
ヒマラヤについての、父の苦言。
以下、解読清書。
電話で言い忘れた点がありましたので、早速ペンをとりました。明日来名の折、例のチョ-、オユ-の本を持って来ていただいて、國ちゃんに研究してもらって、装備・行程表等を作ってもらったらどうかと考えます。その他マナスル関係を持って来て下さい。
ヒマラヤはやれば出来る仕事ですが、一通りの努力では出来ないと考えます。私は健康上の理由でヒマラヤへは絶対ゆけませんので、もっぱら縁の下の力持ちをやります。しかし、もとより、どうしてもヒマラヤへ行こうという熱意と努力の出来る人があっての縁の下の力持ちですから、こういう人がいないとわかれば、小生は努力をやめます。また、小生の縁の下の力持ちは誰に対してもやるという気持ちはありません。名古屋のヒマラヤ隊は貴兄と國ちゃんが必ず主力になると考えるから縁の下の力持ちをやりたいだけです。
「ナイロンザイル事件」にしても、小生は石にかじりついても、やってきたつもりです。いかなる時間をも、私には、そのための苦しみの時間のつもりです。
ヒマラヤに関しては、いかなる時間をも、それに集中するということを、今回は、少なくとも貴兄にやってもらいたいのです。貴兄にその熱意と実績が伴わないと知れば、私は縁の下の力持ちをやめます。貴兄が続く限り小生も続けます。屋根へ登って梯子を取られることは、小生一人だけでは嫌なのです。
私は過去2回、ヒマラヤは小生の大きな犠牲の上失敗しているので、誠に男らしくない言い分ですが、この点はっきりしておきたいのです。
ヒマラヤのキ-ポイントは、入国許可・外貨・資金の3つでしょう。そのためには、入国許可と立派な努力による立派な、人がついてくるだけの計画が必要でしょう。
実際、先日貴兄にお願いしたスイスへの手紙の件が、すでに2週間を経過しながら何もなされておらず、単にヒマラヤのことを学校で宣伝してみたり、澤田に言ってみたり、ということで終わっているのが残念です。一分一秒休みない努力の連続だけが、ヒマラヤを可能にすると考えます。どうか奮起を熱望します。
小生から國ちゃんには、少なくとも当初は何も言いません。貴兄から次々に仕事を与えて下さい。
どうも勝手なことばかり並べましたが、御寛容下さい。
ヒマラヤのための組織着手は、スイス・ネパ-ルから返事が来て、そこに可能性が出来てからです。目下は何も考えずに、それに集中し、一方具体案のための真剣な勉強をすべきです。
乱筆失礼しました。 BACCHUS
BUTAICHO殿
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2018年3月6日更新
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