その14:ジャヌ-遠征計画>

昭和32年9月1日~12月末日


 9月1日 『ヒマラヤ遠征計画書』
 募金活動や、後援を依頼するためもあり、この計画書が作製された。これは、活字にされた文と、手書きで追加された文が遺されていた。活字部分は右で見ていただきたい。石原一郎氏が書かれた手書き部分を、以下に解読清書する。

Jannu計画成立の事情

§1 岩稜会の歩みと業績
 岩稜会は昭和20年創設せられ、而来10余年の間、黙々として登攀能力、団体精神の涵養に努め、内容浮弱なるジャーナリズムを排して、和気溢る々温かき友情のキズナの下に、安逸を戒めつつ、鋭意アルピニストとしての精進を重ねて来た。
 その当会の主要なる業績を挙ぐれば、昭和22年には穂高屏風岩正面岩壁の初登攀を成した(之に就いては今日に至る迄、第二登なく、その事情は石岡先生著『屏風岩登攀記』に詳しい。之により福岡における第5回国体に於いて、戦後最大の登攀の一つとして記念講演し、かつ、朝日新聞紙「戦後10年の歩み」には登山記事としては唯一の存在として採録せられている。
 次いで2326年の頃、我国岳界に於て、最も困難視され 積雪期未登の岩壁として 残されて、他に試みるものの無かった明神岳五峰東壁、及び前穂高北尾根第四峰、奥又白側岩壁(甲南ルート)の春期初登攀を完成した(之については日本山岳会々報『山岳』第4647号に採録されている)。
 その他、毎年の各季節を通じ主として我国岳界の代表的岩場たる穂高岳を中心として、数多くの登攀記録を樹立して来た。 尚、ここ数年来に亘り準備し来り、来る10月朋文堂より刊行予定の『穂高の岩場』は上下二巻、会員による穂高の岩登り写真数800枚を収め、穂高の岩場の困難な総てのルートを詳細に解剖・紹介するものであり、岳界にとって画期的な仕事である。(『山と高原』7月号予告)
   
計画書の1頁目と2頁目に入れられた写真

§2 Jannu計画の意義
 もとよりHimalaya遠征の意義はアルピニズムに根ざし、開拓者精神にその意義を有するものである。
 かくして、先ずHimalaya遠征を岳界の岳人が推進して以来、この半世紀の間、8000mを越ゆるPeaksの殆どは 今日に於ては、登頂されるに至った。
 最高峰エベレストの登頂(1953)以後は、7000m級の登攀困難なる山に岳界の注目が注がれるに至った。
 Jannuは世界第3位の高峰Kangchenjungaの傍に位し、その急峻怪異の山容を以て「恐怖の峰Jannu」として、古くから世界の岳人に特異の関心の的となり、その登攀は至難なるものとして考えられていたものであるが、今は改めて登攀の対象として、このPeakを如何にして登頂するかと云うことが、関心を持たれるに至ったのである。

§3 岩稜会とJannu計画
 岩稜会の創設後、会の内容の充実と共に、海外遠征、特にHimalaya遠征に対し熱意を抱き、それを目指して訓練を続けるに至った。
 去る昭和27、福岡山の会のTwins登攀計画に際し、隊員のHimalaya訓練、装備・食料テストについて、冬期富士頂上幕営に、隊員候補として 上岡謙一、石原、松田の3名が参加した。(この計画はその後中止となった)
 次いで昭和28年 第一次マナスル遠征隊には、会員松田は関西地区より選抜されたる3名の中の1名に入っていた。 次いで昭和29年に至り、名古屋大学を中心として、Jannu遠征計画を樹立するに及び、登攀隊のメンバーは尽く当会員を以て充てられていた(下線部、原紙の欄外に「やや誤記」と記載あり)のであったが、このJannu計画はManaslu計画と競合し、当時の事情としては好ましからぬ故を以て、計画の遂行を延期することになったのである。
 いまやManasluの登頂も成り、登山界の主流は挙げて、ヒマラヤの7000m級の急峻且つ登攀困難なるPeakへと向うときに於て、再び延期中のJannu計画を随行すべき時期にあることを確認し、改めて前の計画を検討するに至ったのである。
 29年の頃とは事情も大きく異なり、Nepal入国に関しては極めて容易となり、入山までの事情も極めて明るくなった。いまや当会挙げて、岳会の主流に沿い、山岳の歴史の流れに沿った活動に会力を尽くす覚悟である。

ダージリンからラムセル(Base camp)まで

314 ダージリン→マニ・バンジャン→タンルー(3,063m)シンガリラ尾根、高度差1200mTanlu 10,000ft)→サンダクフゥ(3,680m)(Sandakhu)→

317日 パルート(3,596m)雪11,810ftチャンタプ パルートから2,000m下降した所にある(Changthapu 5,500ft)→

319日 ケーバン(Khebang4,000ftの登り→

322日 ヤルン渓谷に通ずる峠 Jannu!!7,710m

323日 ラムセル(4,400m)ポーター解約地(23日午后Tseram)仮ベースキャンプ設定→

426 Base Camp5,500m

 ポーター…1 27kg  7.2貫)
  クンザ Chunsa

食糧購入 計27マウンド(36kg × 27 = 972kg
 アタ(臼で碾いたひきわり麦の粉)
 ツァンパ(炙り大麦の粉)
 馬鈴薯
 米
 かぶら
 乾野菜
 卵

  購入の際のかけひきについては―バンドの報告

船賃
 神戸→シンガポール<170ドル(61,200円)>神戸→カルカッタ総額<200ドル(72,000円)>

航空機
 シンガポール→カルカッタ<151ドル20セント(55,000円)>(3等)

汽車
 カルカッタ→ダ-ジリン<3等 14R  1/2annas15R = 1,110円)>< 2等 23R63/4annas24R = 1,776円)><1等 45R11/2annas46R = 3,404円)>

貨物船賃
 1容積トン(40立方フィート) ・・・ 149シリング6ペンス(7,500円)(家具類の場合)


  昭和29年~昭和32年9月頃まで使用していた 「名古屋大学学生部」ノ-ト
 このノ-トは、父が名大の仕事で使用していたものである。奨学生の推薦基準のことなどが主であるが、ナイロンザイル事件についても記されているし、挟み込んであった資料(8月に行われた東北大学での会議の部会名簿や須賀先生からのメモ的手紙など)もあった。
 このメモ書きを資料として、報告書などを作成したと思われる。使用したと思われる箇所には赤鉛筆で斜線が引いてある。
 また、ナイロンザイル関係としては、各メ-カ-から出されている「ナイロンの定義」や「抗張力と伸度」「温度による劣化」「摩擦抵抗」等の印刷物からの抜き書きがされている。
その中に「デュポン・ナイロンの繊維について記憶すべき」として10ヶ条が記されていた。この内容は冊子『ナイロン・ザイル事件』の中に反映されている。
 
 難しい計算式や、ナイロンザイルの実験結果が並ぶ中に、当時の父を物語るメモがあるので、以下解読清書してみる。

 (昭和30年)3月13日(日)の晩、五朗の夢を初めて見た。東大生が救出したというのである。仮死状態であったが、手当の結果助かったという。通知をもらったのである。そんな馬鹿なことがあるものかと、完全に否定していたが、まもなく五朗が元気な姿で帰って来た。右手が全部くっついて白くなっていたが、元気に笑っていた。いつもの五朗そのままでびっくりした。しかし私がそんな馬鹿なことはないと、腹の中で大声で叫んでいたが、やがてそのまま目が覚め、やっぱり夢だったと、本当にがっかりした。

3月22日(月)の晩に五朗の夢をみた。急なブッシュ(屏風北壁のような)の中を皆で探していたが、松ちゃんが見つけた。相当傷んでいたが毛の生え際、靴(片方のみ)等で確認。ザイルはなかった。後でしめていた。悲しかった。


  9月2日 朝日新聞記事「ニュ-スその後」
 この記事には、屏風岩で落石を受けた田中氏のこと、篠田氏告訴の不起訴処分のこと、以下の岩稜会総会のことが、報じられている。
 是非、お読みいただきたい資料である。
 
 9月8日 岩稜会総会報告
 この日行われた総会のことは、右の印刷物に書かれているが、印刷が読み取れない部分があるので、以下に解読清書する。


岩稜会定期総会報告  1957924

日 時 昭和32(1957)98日 午前9
場 所 御在所中部電力松風荘
出席者 石岡,伊藤,石原,松田,室,中沢,石原,毛利,森,三林,新井,岩佐,今井,北川,長谷川,太田,林,本田,田中,○中道,○相原,○佐藤,○山宿
  ○印
新入会員

総会議事

Ⅰ.前年度会計報告

 1)会計報告書の訂正
10周年記念会計の支出の部に,「日大医学部御礼」:\3,000
一般会計 未払金の項に,「
40m麻ザイル」\4,000:ダイマツヤ
一般会計 未払金の項に,「穂高岳写真(『穂高の岩場』)代」\40,000:石岡
以上つけくわえます。

   2)当会会計の赤字対策について
会計報告で見られたように主たる赤字の原因は,穂高岳ガイドブック(『穂高の岩場』)の費用があげられます。この件は発行所,朋文堂からの印税で清算します。印税は7分と決まりました。

  3)会費の納入は各自の自覚をもって納入して下さるよう。年間\800です。

Ⅱ.乙会員で現在当会との接触の薄い方々の処置

   1)当会の発展に尽力をつくされた会員は一応別格の扱いとします。目下当会もナイロンザイル事件を取り上げ,社会から一段と関心が深くなってきました。今後堅実な進歩のため当会の組織を強化する必要もありますので,諸兄の努力を願う次第です。
 該当者:武藤,豊田,清水,石田,中道

   2)林,佐藤,山下,西川。以上の諸兄は本人の意思にもとづいて処置しますので,1020日までに当会事務所(神戸北新町ダイマツヤ方)まで連絡下さい。何らの連絡もない場合は退会とみなし処置します。

  Ⅲ.新入会員及び復帰会員の入会紹介

 1)復帰会員:本田善郎,田中 浩

 2)新入会員:山田 猛,中道 徹,山宿勝美,相原英夫,佐藤正郎,太田年春,矢野雅雄

  以上,諸兄の入会が全会一致で承認されました。
  尚,当会の顧問として,名大教授 須賀太郎氏,三重岳連会長 伊達氏にお願いすることになりました。

3)東京支部設立の件

全会一致で可決され,装備として,麻ザイル40m 1発,ハンマー 1発,カラビナ 5発,ハーケン 10発,中ナベ 1発を先発隊として送ります。
 装備管理:黒田吟哉,会計係:沢田栄介

Ⅳ.ナイロンザイル事件不起訴の対策

7月下旬にナイロンザイル事件が不起訴処分になった事は周知の事と思います。まずバッカスより“事件”不起訴になるまでの説明がなされ,その後討議に入り,

 1)ナイロンザイル蒲郡実験の結果が真にジャーナリズム(中部日本新聞等)の誤報であった場合,我々はジャーナリズムに抗議し,我々の立場を明らかにする。場合によっては民事訴訟の手段を使う。

 2)当事件の担当検事の不明瞭な態度を検察審議会にかけるように働きかける。

 3)朝日新聞連載小説『氷壁』が単行本として出版される時期に,現在までのナイロンザイル事件の経過を新しく発行するか,出来れば『氷壁』単行本末に付加するかして,複雑なこの問題を世間一般の人に理解し易いよう詳細に記し,一段と世論の支持を得るようにする。

  以上の3手段が論議の上,決定しました。今後の方針はナイロンザイル委員会(石岡,伊藤,石原,石原)に一任する事になりました。

Ⅴ.ヒマラヤ遠征

攻撃目標ジャヌーを当会独自あるいは主体とし隊員5~6名をもって攻撃する計画が実現しそうな段階になりました。8月下旬,名大教授須賀先生,学習院大木下是雄先生,石原,伊藤,太田年春諸氏が産業経済新聞東京本社にて運動部長,社会部長と会談し当会の計画につき援助を申し込み,一応産経も色よい返事をくれ活気づきました。一方,産経との関係が朝日新聞にもれ,目下,産経と朝日両者に話を押し進めている次第です。今月月末には一応のまとまった線が出るだろうと思います。

Ⅵ.当会規約の改正

現在まで当会に於いて規約は不文律で行われてきましたが,ヒマラヤ遠征の書類に完全な規約が必要になると思われますので,今度規約の作成を行います。 

総会の報告が非常に遅れ申し訳ありません。
会計係より…会費未納の方,納入願います。今年度分(1957.91958.8)会費も800円願います。

 いつものように、緑字はあづみ追記、赤字は読み取れない部分を埋めた。
 さて、この印刷物の中に、復帰会員として本田善郎氏の名前があるが、そのことについて少し追記しておく。
 本田氏は、屏風岩初登攀を成し遂げた内の一人であったが、屏風岩の壁に残った父を救助することなく、上高地へ降りてあたかも一人で登ったように「屏風を登った」と言って回った。このことが父の逆鱗に触れて、氏は退会となった。屏風岩初登攀10年を期に、やっと復帰となった。このことは、『屏風岩初登攀記』にも掲載されていない秘話である。


  9月20日 父宛 木下是雄氏からの葉書
 ヒマラヤ遠征計画の後援を産経新聞に依頼することになっていたが、そのことについて、急遽知らせてくださったのが右の葉書である。

 松本君からのPrivate communicationによるとSANKEIはJanuuを来年でなく、再来年度に取り上げたいという意向らしい。来年は別の計画が(山ではない)採用決定になるよしい。再来年ならうまく行きそうだ(?)とかいう。以上、未確認情報。来週になればもう少しハッキリするでしょう。SANKEI(産経)に対しては、もちろんこのInformationは゛受けなかった”ことにしておいて下さい。しかし貴兄の方ではあらかじめ考えておくべきことと思うから、ちょっと一筆。

 9月24日 父宛 朋文堂からの手紙
 
前略
 爽秋の候,益々ご健勝のことと存じます。
 さて,突然ながら,本日朝日新聞社社会部より,岩登りの写真一葉貸与されたき旨の連絡がありました。先日,当社社長も出席致しました朝日社会部主催の夏山決算座談会の記事中に使用したいとのことですが,先般雑誌『山と高原』に使用御許可をいただきました穂高滝谷の写真を1枚,当編集部にて朝日新聞に貸与致しました。もちろん先生の御許可をいただかねばならぬことはわかっておりましたが,何分にも時間がなく連絡不能のため,事後承諾をいただくような形になりましたが,諸般の事情を御勘案の上,何卒お許し下さいますようお願い致します。
 写真は,提供石岡繁雄として,27日付朝日新聞朝刊に掲載される筈でございます。 尚,稿料は,朝日新聞より届き次第,御送付申し上げます。
 以上,まことに勝手ながら,お許しいただきたく,御報告申し上げる次第です。
                       朋文堂 編集部
 石岡繁雄 様


  9月29日 伊藤経男氏・岩稜会宛 西糸屋山荘奥原教永氏よりの手紙
 『ナイロン・ザイル事件』を読んでの感想などが記されている。
 以下、解読清書。


 神戸 社長様
 前略 ご無沙汰いたしました。すっかり秋で山は岳沢辺まで紅葉いたして美しくなりました。前年、社長お出かけもこの頃でなかったかと思います。今年は太田君もいず、淋しい限りです。岩稜会の皆さんお元気ですか。お会いしたいものです。2月のスキ-が楽しみで待たれます。
 さて、この夏、ザイルの件についての報告文をいただきましたが、今まで何やかや忙しくて目をちょっと通したきりでしたが、この頃、暇になったり、雨が降ったので、炬燵の番をして読ませてもらいました。
 第一番、皆さんの正義に対する、あくまでも研究され突き詰めてゆかれる努力が、私には何物にもかえがたい尊いものと思われました。皆さまの山に登る傾向と同様の力強さを感じました。大いにやって下さい。残念ながら私には何もお手伝い出来ないのが心配です。
 これ程、貴重な雑誌を何のお役にも立たない私にまでお送りくださり、読めば読むほど申し訳なく思います。感想は、ただ皆さんの言われるごとく、そのまま私の胸が、その通り、その通りとうなづいています。
 私も個人的に、ちょっと新保さん、篠田先生も存じておりますし、関根さんや熊沢さんあたりが何故そんな事を云っているのか、まことに世の中の汚いのが目についてなりません。こうも世の中に地位を保つには、種々と手を打たなくてはならないものかと、残念です。四日市の加藤さんがこの秋には来るようになっています。改めて蒲郡の件について、よくお話を聞きたく思います。
 くどいようですが、私に何もお手伝い出来ませんのは申し訳ありません。よろしく皆々様にお伝え下さい。
 せいぜいの御励みを期待致します。
 今年は改めて冬の山は遠見あたりへ行ってみたいと思います。
 右、御無沙汰お詫びながら。


 10月3日 朝日新聞社宛 名大山岳会・岩稜会からのヒマラヤ遠征後援依頼書
 この依頼書には、もちろん原稿がある訳だが、びっしりと書き込まれた原稿も遺されている。以下がそれの一部ある。
 この原稿には、先の『ヒマラヤ遠征計画書』の物も含まれていた。朝日新聞には、依頼書の他にこの計画書も渡された。
 木下氏によってもたらされた産経新聞の後援が難しいとの知らせに、朝日新聞に依頼したものと思われる。

 右の依頼書をクリックしていただけば、お読みいただける。


 10月15日 宛先不明だが、たぶんスイスのオスマ-ル・ガ-ドナ-氏宛の手紙草稿と思われる。
 この手紙は、ペンで書かれた部分(英訳用の下書きと思われる)と、鉛筆書きの部分とがある。ペンで書き出して思いとどまり、日本の誰か(槙氏ヵ)に、先に聞いてからにしようと思い直して、聞きたいことを鉛筆書きしたものと思う。
 以下、解読清書。

拝啓 8月13日・9月4日、並びに9月5日のお手紙拝見致しました。我々のJannuに関する問合せに対し親切な御返事に感謝致します。
 あなたのお手紙によりますと、フランス山岳会ではすでに今秋並びに来春のJannu登攀の許可を得たとのことですが、我々も来春を目指してJannu遠征の準備を着々と進めて参りました。
 エヴェレストが登られて以来、195-(3)年のChoOyu(ネパ-ルと中国チベット自治区にまたがるヒマラヤ山脈の山。標高8,201mで世界第6位。チョー・オユーとも表記される)に於けるオ-ストリア隊とスイス隊、あるいは195-(6)年のムスタング・タワ-(ムスタ-グ・タワ-=パキスタンのカラコルム山脈バルトロ山群にある山。K2の西南西15km、パキスタンと中国の国境にある。標高7276メートル。1956年にイギリス隊とフランス隊の初登頂争いとなり、わずか5日の差でイギリス隊に凱歌があがった。)に於けるイギリス隊とフランス隊に見られるごとく、今後のヒマラヤの登攀は、登攀困難な山のバリエ-ションル-トの開拓に向かう趨勢にあると考えます。この意味に於いて、我々もまた来春フランス隊と同時にJannuに入山する事が許されて良いと思うのですが、この点に関し、あなたのご意見をお聞かせ願えれば幸甚に存じます。
 もちろん我々はフランス隊の先取特権を尊重して、フランス隊の選んだ(…ここまでペン字)

○ フランスに次の趣旨の手紙を書くことは、まずいことでしょうか。あなたの御親切に甘えて、あつかましくもお尋ねする次第であります。
○ チョ-・オユ-、ムスタ-グタワ-等で一つの山に一つのパ-ティという従来の常識は代わって来ているのではないかと考えます。実際、登山をスポ-ツとして見る時、あたかもアルプスのそれのように、一つの山に何パ-ティ出かけても差し支えないように思いますが、一山一パ-ティの原則はネパ-ル政府だけの方針でしょうか。それとも我々登山仲間の慣習でしょうか。慣習とすれば、チョ-オユ-・ムスタ-グはどう解さるべきでしょうか。
 私たちは、そこにいささかのまずさが残ると貴殿がお考えの場合は、フランスに手紙を出すことはやめ、同時に来年度のジャヌ-をやめたいと思います。そして来年度秋、又はそれ以後、たとえ第二登でも、やってみたいと考えております。

 夢にまで見たジャヌ-初登攀の道を、フランス隊との競合でまたもや先を越されたことがわかった訳である。
 尚、エヴェレストが初登攀された年号など―の部分があるが、父は下書きや草稿の場合、このように記入はされず、後で調べてから清書の時に入れていた。



  10月20日 父宛 関西登行会小泉順太郎氏からの手紙
 屏風岩の中央カンテを登った小泉氏が、初登攀時に残した父のハンマ-を送ってくださった。送状とその時の模様を伝えた手紙である。

 拝啓  山には新雪の声が聞かれ、紅葉の便りなど伝えられるようになりました。貴会には益々御隆盛のことと存じます。
 さて、私共関西登高会の鏑木及び小生の二名で去る10月12,13日に渡り、石岡大兄等によって初登攀されました屏風岩中央カンテを登攀致しました。その節、当時使用されたと思われるハンマ-をAフェース直下の太い木の枝にかけてあるのを発見し、持帰りました。大兄著、屏風岩初登攀記に記されてありますので別便にてお送り致しました。御改め、御受取下さい。尚インゼルの上Cフェースには同著記の古いロ-プがブラ下がっていましたが、小生等はDフェースとインゼルの境の岩溝を登りましたので、件のロ-プは望見したに止まり、確認して写真を撮りましたが、同写真機は登攀中に落としましたのでお送りできなくなりました。インゼルの中に遺された荷物については、ル-トの都合でか、解りませんでした。
 三のガリ-の下にかけられた丸木橋は貴会によって今夏かけられたものと思いますが?その橋の為に大変助かりました。このル-トを登攀して、大兄等の初登攀にはただ敬服している次第です。
 小会、梶本の話では、九州の方が登られたように聞いておりますが?如何ですか。その後の模様などお教え願えれば幸いに存じます。
 ハンマ-お送りしました事、お伝えしてペンを置きます。
 今年は新雪が早いようです。御身大切に。乱筆にて失礼致します。

 この手紙は父にとってとても嬉しいものであった。送られて来たハンマ-は、大事にしていたが、昭和33年11月に大町山岳博物館に寄贈した。その時のことは、その頁で詳しく記す。


  10月29日 槙有恒氏宛 父からの手紙下書き
 この手紙はタイプで打たれて投函された。タイプの資料が遺されているので、それを見ていただけるようにした。

 この内容をかいつまんで記すと、欧州へ行かれる槙氏に、3度も手紙をいただいたオスマ-ル・ガ-ドナ-氏にお会いになったら、遠征の資金調達ができたらお礼状を出すつもりでいるが、延び延びになってしまっているので、お詫びとお礼を申し上げて欲しい。というものである。

 10月 小泉純一郎氏宛 父からの手紙
 小泉氏からハンマ-が届き、礼状を兼ねて、屏風岩の登攀ル-トについて、考察している手紙である。
 以下、解読清書する。 


 お手紙大きな感激をもって拝見しました。又お持ち帰りくださいましたハンマ-確かにいただきました。
 もうすでにひもがくさってとっくの昔,落ちてしまっていると思っていましたのに,今思いかけず手にとることが出来感無量です。十年昔の血が再びかけめぐる思いがします。本当に有難うございました。

 貴兄のインゼル,Dフェース間の岩溝を思い浮かべる事が出来ません。私達のとったルートのどこから分かれ,どこで一致しているのかわかりませんが,又貴兄の詳しい登攀記を拝見するときがあると楽しみにしています。
 3のガリーの丸木橋は今夏渡したのですがお役に立てましたそうで恐縮です。
 尚九州の八幡の方が登られたのは『岳人』に出ております。それによりますとインゼルの中央からひきかえされ,Dフェースの中央ぐらいから北壁にトラバースされ,中央カンテと第1岩溝の間ぐらいを登られAフェース直下に達し,それから第1岩溝(私が救出されましたルート)を登ってP2に達せられたように見られますが,時間の関係とDフェースの中央でのトラバースがむずかしい様に考えますので,インゼルではなくその下のB7から引き返され,Dフェースの下から北壁をトラバースされたのではないかと考えます。又私は,そのときはAフェースを下に達せられたならばハンマーのことにふれられるはずであるが,それが記されてないのをみるとハンマーは既に落ちてしまっているのだと考えておりましたが,今回貴兄からハンマーをいただくに及んで,九州の方はDフェース下を北壁へトラバースし第1岩溝を真っすぐに登られP2に達せられたのではないかとも考えます。いずれにしても,お聞きしておりませんので単なる想像です。又その後,2,3のパーティーが中央カンテを試みられたことを聞きましたが登られたとは聞いていません。今私は赤にそまった屏風のブッシュの中を,そして水晶のような澄みきった空気の中を懸命に登攀せられるお二人の姿をまのあたりに感じ,又色あせたハンマーの木部,黒褐色にさびた鋼を机の上で眺めながらこの手紙をしたためています。二度とその重みを感ずることはないと思っていたあのハンマーは,お二人の親切によって奇しくも再び私達の手にもどりました。私達はこよなき記念物として生涯大切に保存したいと思います。本当に有難うございました。
 末筆ですが,梶本さんには久しく御無沙汰致しておりますがどうかよろしくお伝え下さい。いつまでも,いつまでも語らっていたい気分ですが……。
 皆様の御健闘を心からお祈りしてペンをおきます。
 なおもし御出名の折はどうかお立寄り下さい。
                        石岡繁雄

 お手紙投函しました後で急に思いついたことで,全く蛇足で恐縮ですが,申し添えます。
 昨日は,貴兄のルートについて全く思いあたりませんでしたし,その点は今でも同じですが,ただ私が偵察しなかった部分があったことに気づきましたので,貴兄のルートは,きっとその中のどこかにあったのではないかと思った次第です。


 図でA又はBがそれです。Aの部分は非常に狭い範囲ですから,Bの部分ではないかと想像します。しかし,もともと私達のと異なったルートを試みられるおつもりでしたとすれば,Cの部分を試みられたという気もしました。従って,もし,貴兄が登攀前の偵察で,インゼル,Dフェース間の岩溝を発見せられていたとすれば,私達がそれを発見出来なかったことを恥じ入ります。私達,インゼルに入ってからは,Bの部分のことは少しも気づかず,インゼルの上部のことばかり考えておりました。もし,インゼルの上部にルートがなかった場合,果たして,B部を思いついて引き返して偵察してみたかどうか,実は疑問です。大きな見落としがあったと,今気づいて寒気がします。以上,全くの思いつきです。しかし,貴兄のルートについては,上記のことは全くあたっておらず,私達の更に大きな想像外の部分であったのかもしれません。
 なお,貴兄がCフェースのロープの写真をうつされた場所は,どこからでしょうか。おついでの時に,お知らせいただければ幸甚と存じます。何となく懐かしさを感じますので,勝手な想像を並べて失礼しました。
 又もし当地おいでの節は是非お立寄り下さればうれしく存じます。予め連絡いただきますれば,一層有難いと思います。勤務先の電話番号は④1711,内線52です。


 小泉氏からの報告がよほど嬉しかったとみえて、父は2通も手紙を出している。告訴も不起訴となり、ヒマラヤ遠征もフランス隊との競合という暗礁に乗り上げて腐っていた父にとって、久しぶりに嬉しい出来事であったに違いない。


 10月 石原國利氏宛 父からの手紙
 <その13>に掲載した、石原一郎氏に宛てた父の苦言と、同じように國利氏にも叱咤激励の手紙を書いている。


 言葉が下手だから書面で申し上げたい。
 以下に申し上げることは、私的な意味ではなく、名古屋大学とか朝日新聞とか、ひいては登山界全体に影響するものと考えられるので、これを私の心の中のシコリとして残しておくことはできない。
 又、この時をいっすると、それが拙いとわかっても、それら公けへの悪影響なしで、方向を変えることは難しいと考えるので、あえてこれを記す次第である。
 実際には、このような状態で申し上げたくはなかったが、黙っていては改善の道はなく、又朝日に直接依頼するという差し迫った時期に来ているので、又先日、部隊長に長文の手紙をし、社長に話し、貴君に話しても、実質上事態はそれほど改善されておらぬので、最後の機会として率直に申し上げたい。
 この6月、私は部隊長と貴君に、二人がヒマラヤに専心するという決意と努力があれば、ヒマラヤに相応しい状態になるかも知れないから、私も努力したいと言った。その時、貴君はそれを約束されたと思う。しかし、その後、貴君には努力はもとよりあっても、専心の様にはみえない。よろめきの方がひど過ぎると思う。こういう大切な時に、専心出来ないということは、ヒマラヤ計画が軌道に乗っても、やはり専心出来ないことである。
 貴君にして専心出来ないということは、とりもなおさず岩稜会には、ヒマラヤへの力のないことを意味すると私は考える。
 貴君が専心出来るかどうかが、穂高で一応立派な岩稜会が、更にその上のヒマラヤへの力をもつかどうかの尺度になっていると私は思っている。
 力不足でも、自分たちだけの山行ならば問題にならないが、ヒマラヤは明らかに社会的、公的意味を持つもので、自分たちの力を正しく評価せずに軽率に乗り出すことは許されない。
 力がないと評価すれば、潔く引き下がるべきである。私はそう思っている。
 さて、貴君は専心しているつもりかも知れない。しかし私はそうは思わない。この前お話ししたように、専心とはとりもなおさず、ヒマラヤを直接推進する以外のことは、万やむを得ない限りやらないことである。又考えないことである。又ヒマラヤのことだけを考えていれば、ヒマラヤの仕事は、次々と発見され、物凄く多忙になり他をかえりみる暇はない。
 しかし貴君は、冬山のことを考えたり、友人の結婚のことを不必要にまで心配したり、今回の西糸屋のおじさんの御葬式に、神戸から貴君よりももっと長い親交のある、よりふさわしい人がいくらもあるのに、わざわざ自分がゆくような計画をしたりということは、専心でなくてよろめきであると、私は思う。これではとても自分で発見せねばならないヒマラヤの仕事が、出来る筈はないと思う。
 もとより上記のような貴君が今やっていることは、普通では美徳であり誠に結構なことである。しかし公的意味をもった困難な計画を進めている状態において、又貴君の現在の立場において、こういうことはガマンして、ヒマラヤに専心するという気持ちの大きな転換が必要だと愚考する。
 それが転換出来るかどうかが、今回の私たちの計画のキ-ポイントであり、出来ないようならば計画をやめなくてはならないと思う。
 上述のようにこれは、岩稜会には、君に代わる者がいない。岩稜会は今そういう状態だということが、残念ながら事実だからである。
 このことは、今回の朝日への申入れが不成功に終わっても、ヒマラヤの夢を捨てない限り、それはいえることだと思っている。
 ヒマラヤの計画は、経験の世界ではなく創造の世界である。誰か一人は、ヒマラヤの鬼がいないようなグル-プでは、ヒマラヤは出来ないと思う。
 私は貴君が小生の失礼極まる言葉を、気持ちよく率直に聞いていただいて、又、反省し、今後重大決意をして気持ちの転換をしていただけるものと考えている。
 貴君は力の少ない私たちの仲間から、何とかしてヒマラヤ隊を送りたいという私の気持ちと、それにもかかわらず社会的立場から、力が不足しているままでヒマラヤを進める気持ちにはなれないという私の苦衷を全幅理解して苦しいけれども努力していただけるものと確信して、取急ぎ趣旨一貫しないが、御寛容ありたい。

國ちゃんへ    友なるBacchus

 父は何事によらず全力疾走である。若い石原兄弟は父にお尻を叩かれて、さぞかし大変だったことと思う。父は自分と比較して、お二人のことを歯痒く思っていたに違いない。しかし、父について行くことは並大抵のことではない。だが誰かが懸命に動かなければ、成るものもならないのが常であるし、懸命に動いたとしても成らないことの方が多い。
 

 11月1日 雑誌『太陽』「『氷壁』の作者 井上靖の魅力」
 『氷壁』の連載で、井上先生は時代の寵児となる。この雑誌には井上先生の経歴などが詳しく記されている。
 尚、表紙は山下清画伯のものであり、興味深い。
 クリックして下されば、全文お読みいただける。
  11月22日 名古屋の平屋下宿の宅灯配線工事見積書
 右の見積書は、表題のように名古屋の家にあった平屋の下宿の配線工事の見積書である。
 当時、最初に建てられた下宿は、昭和29年4月から3人の下宿生を置いていた。電気の配線は、父が行ったと聞いていたが、下宿の方は業者に頼んだようだ。しかし、その間の下宿の電気はどうなっていたのだろうか。

  12月12日 父宛 谷本光典氏からの手紙
 12月15日に東寿司で行われた「ヒマラヤ遠征計画」の山稜会名古屋近辺在住者用説明会で渡す趣意書の案を、谷本先生がお作り下さった手紙である。以下に解読清書。

 今日逢ってから考えました。山稜会に廻す趣意書の一案を書き送ります。御検討下さい。これに尾ヒレをつけて計画書を添えればよいかと思いますがいかがですか。
 15日までに、ほとんど完全な形に作り上げておいて下さい。
 14日午後から15日正午頃まで私はうちに居りません。15日は必ず出席します。

 八高山岳部と山稜会の輝かしい歴史の中で、山稜会の名を掲げてヒマラヤ登山隊を送る気運がようやく熟して参りました。
 エヴェレスト・K2・カンケ・マナスルと8000m級が次々と登られるにつれて、ヒマラヤ登山に新しい一面、すなわち高度は兎も角として、より困難な山々が国際的に問題になって来ました。
 登られぬであろうと洩らしたとか聞きます、そのジャヌ-を!
 私たちは図らずも数年前から旺盛な登高意欲を以て研究し、究極の目標として夢見て来ましたのも、単なる偶然ではなく、全ての山々でヴァリエ-ションル-トに偉大なパイオニアを送った八高山岳部の伝統の発露であると思います。
 ヒマラヤの7000mと岩登り!
 この輝かしい試みを、山稜会の名に於いて私たちに試みさせていただきたい、というのが私たちの念願です。
 そして私たちは、かってそうであった様に、ジャ-ナリズム、いやマスコミの線を避けて我々自身の力で、この新しい登山隊を送り出したいと思います。
 かかる見地から、同封しました計画書にお目通しの上、この企画の為に、何分の御寄金の程、願い上げる次第であります。
 近く当事者が参上致しますから、寄金名簿に御記名の程、願い上げます。実際にお金を頂くのは、恐らく昭和33年末頃になると存じます。
 右何とぞよろしくお願い申し上げます。  敬具
   ジャヌ-登山隊後援会 発起人一同
××殿


 12月18日 山稜会在京12名宛 山稜会有志9名よりの募金要請書
 この要請書には、昭和29年のヒマラヤ計画からの経緯や、今回の計画の様子がまとめられている。父が12月22日~24日の間に上京して、東京の山稜会メンバ-に詳しくご説明に上がるとされており、参集をお願いしている。山稜会の有志9名は、名古屋近辺在住の以下の方々である。
 下郷次郎八氏・熊沢正夫氏・近藤素生氏・椙山正雄氏・彦坂与孝氏・大倉辰三郎氏・横井博一氏・谷本光典氏・藤本武氏である。
 右の要請書をクリックしていただければ、お読みいただける。
 

 12月19日 父宛 竹内富美子氏よりの手紙
 上記募金要請書と『ヒマラヤ遠征計画書』をお送りした竹内氏の奥様からの手紙である。竹内氏も父の親友である鳥居氏もおられず、父はとても残念に思ったことであろう。
以下、解読清書。


 大変お寒くなって参りました。平素はすっかり御無沙汰致しおりまして、失礼をお許し下さいませ。その後もいろいろと山岳界にて御活躍の御様子をお喜び申し上げます。
 さて、先日、ヒマラヤ遠征の計画書、並びに御本を御送り頂きまして有難うございました。せっかくの遠大な計画が進められております時に、はなはだ残念でございますが、私共主人、本年の2月よりブラジル出張にて、来年4,5月頃に帰れれば幸いと思っております様な事にて、今日すぐにも皆様と御一緒に御骨折り出来ません状態におりますので、この事を御知らせ申し上げます。御手紙によりますれば、22日御上京の御予定との事、御出で頂きまして、私でまた主人の方へ伝える事ございますればお伺いしたく、何卒お立寄り下さいませ。ただ先に申し上げました様な訳で、行動出来ないのが本当に申し訳ない事と思っております。私が一番よく存じ上げております鳥居鉄也様も南極にて御留守中で、主人がその旨早速に伝えるつもりでおりますが、聞きますればさぞ残念に思う事と思っております。
 御忙しい中を御上京下さいまして無駄な御時間を費やして頂きますのを恐れまして、取急ぎ御返事申し上げました。
 先生方、並びに会員の皆々様に何卒宜しくお伝え下さいます様、御願い致します。
 かねてからのご計画が輝かしい成功に終わります様、心から御祈り申し上げます。
 大切な御身体御自愛の程祈り上げます。
 先まで乱筆をもちまして失礼ながら御返事まで。 かしこ
 12月19日    竹内富美子
石岡繁雄様


 12月19日 三重県山岳連盟 伊達忠雄氏宛 全日本山岳連盟副会長 尾関廣氏よりの手紙
 伊達氏が、ナイロンザイル事件について三重県山岳連盟から上層部の全岳連に進言してくださった。その結果、岳連副会長の尾関氏が動いてくださることとなった。その模様を伝える手紙である。以下、解読清書。


 拝復 18日付芳状拝受、洵日御丁重にして、御入念なる御来京、肝銘了承致しました。貴県岳連の方々の不幸なる亡友を思うの情については、その御胸中を御拝察致し、御同情に堪えず私、不肖ながらその力の及ぶ限りに於いて努力致す存念にて居ります。
 東京製綱の社長三木氏には連絡致し、近々に面接致し具体的に懇話申し上げるつもりでおります。
 相手が事業人ではあるが、私の誠意と熱意をもって丁寧に話すことに致します。
 何れ各々については後便にて御返事申し上げます。また全岳連事務局へも詳細連絡致しました。
 右、御返事方々申し上げたく。  敬具
 昭和32年12月19日   尾関廣
伊達忠雄様

 12月30日 三重県山岳連盟伊達忠雄氏宛 全日本山岳連盟尾関廣氏からの手紙
 矢継ぎ早に話が進展して、東京製綱の三木社長にお会い下さった尾関氏から、伊達氏に宛てた手紙である。


 拝啓 いよいよ本年も歳末となり,お互いに思い出で多い歳を送る事になりました。
 貴殿には益々御勇健にて御歳年,輝かし新年をお迎えにお成りの事については幾重にも御祝着申し上げます。
 就いては先般来のナイロンザイルの件につき本月20日,東京製綱株式会社の本社(東京)に社長三木龍彦にお会い致し,約2時間の会談を致しました。
 早速御書面差し上げるべく毎日努力致しましたが,雑務に追われ通しにて遂々延引致しましたが,その模様につき概略を申し上げます。
 本年5月頃初めて三木社長お会い致した時とは感じが違いました。本件の発端当初頃に,当社(東京製綱)岡常務取締役は本年お亡くなりになり,その節に岡常務と同行され貴地に於いて若山様御関係,岩稜会御関係の方々等々と親しく面接され,この事情をよく諒承されています由の片柳(高柳)氏を三木会長室に呼ばれ3人でお話を致しました。お話については,これ迄の概略の経緯(当方側の)お話し致すと共に,貴殿より18日付け詳細に亘る御意向の御書面を、御両氏の面前で読み上げ聴取して頂きました(詳しく申し上げると同室,3人で読みました)。
 非常に感慨し聴取されましたように見受けました。3人はいともねんごろであって理屈は一切ありませんでした。岩稜会の方々の胸中はよく拝察出来ました。
 就いては若山氏の死亡につき,東京製綱が平然として,尚且つナイロンザイルについて一方的な暴慢的な自信を以ている事は更になく,あの事件からも,また(捕鯨,漁網等に使用して)あるいは摩擦のために,また長時間の水浸し,日に晒す等々の場合には改良すべき点ありとして研究の途にありますこと,また死者並びに御家族の方に対しては御不満があったかは存じませぬが,会社としては意を尽くして御弔問申し上げて,何かと責任を恐れてのような非礼はなかったつもりであります由,申されて,御手紙にあるようにその間に意思の疎通の欠けていた事はまことに残念でありますという意思表示をされていました
 尚,ザイルについては一層に研究を重ねて,売り出すときにはその使用についての注意書きを添付するように致したい事,またその適否は別として,ナイフエッジにかけねばならぬ場合には摩擦防止のパットを取り付けては如何か―等々,その深甚の考慮をめぐらしている話などありました。尚,来年はナイロン繊維の一段と研究されて米英の特許になっている由のTelylane(Terylene)(テリレン)を東レと帝人とで,この特許を買取られてヤーンの製作をされるので,これでザイルを作り出します由,その節はまず第一番に尾関に差し上げますから試用して下さい会社も充分に試験は致しますからとの事でありました
 概略右様の次第ですこぶる遺憾の意向を示して,且つその後の研究には没頭して,今後の登山界にも犠牲者の出ないように良品を作ることに努力されている事を表示されているので,これ以上に一札を貰う事も差し控えて来ました。しかも片柳(高柳)氏を交えての生き証人との話し合いでありますので―)。そこで,私の考えました事はテリレンザイルは必ず呉れますからこれが入手致しましたら,若くして逝った若山五朗氏の御霊前に供えて御供養申し上げたらと思います。その節には東京製綱から何等かの形で弔意を表させるように取り計らうつもりです。それが入手したら直ちに不肖私が錦地へ参上して,御弔問と共にこのザイルを御渡し致します。以て新製品の御試用と御批判をまず貴岳連より御願いすることに致したいと念願致しています
 以上の他に,まだ筆紙に尽くしがたい点はありますが,拝眉の節に譲ると致しまして,ここのところにて筆を止めます意をつくしていますが,皆々様に御不満があろうと拝察致しますが,御意見がありましたら何なりと御申し越されたく,私の出来る限りの努力を致します。
 右申し上げたく乱筆失礼,何卒御判読を御願い申し上げます。  敬具
  昭和32(1957)年12月30  尾関 廣
伊達忠雄様

 追伸
 全岳連報に掲載する原稿については貴方原案御考慮

 この手紙は、右上のようにスクラップブックに貼られていた。



 12月 東京製綱株式会社宛 三重県山岳連盟よりの告発状
 この手紙は、三重県山岳連盟が東京製綱社長を、業務上過失致死罪で刑事責任として追及するという内容の重要な手紙である。
 この資料が貼られていたスクラップブックの余白部分には「東京製綱をして、全面的に陳謝させる動機となった書簡」と記されていた。
 上記の手紙のように、全日本山岳連盟が動いてくださったお蔭で、ナイロンザイル事件は動きをみせるに至った。

 
右の資料をクリックしてください。全文お読みいただけます

 この年の最後に、前年亡くなった祖父正一の納骨のために、京都の東本願寺に行った時の写真を掲載させていただくことにする。
 昭和33年(1958)2月9日、東本願寺で納骨を済まし、寺巡りなどした後、嵐山の「花乃屋」旅館にて1泊。10日は大阪でシネラマを見て、神戸から有馬温泉で1泊。次の日、神戸元町で買い物などして帰宅したのは21時20分だった。
 家族でどこかへ行くと言ったら、山ばかりだったので、初めての旅行だった。





右より、父・姉・母・私・祖母

ポッポッポ♪鳩ポッポ♫豆が欲しいかそらやるぞ

みんなで仲良く食べに…来たらイヤァ~ン(^^♪



豊国神社にて

             
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2018年3月6日記