<その15:第一回公開質問状と映画「氷壁」> 昭和33年1月2日~3月末日 |
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1月2日 名古屋タイムズ記事 「私はそこにいた」 石原國利氏による手記が載った記事である。國利氏は、事件のあらましを語った後に、最後の言葉は… 切れないというザイルが切れた。切れることがわかっているのに切れない方法で切れるザイルの実験をした。そしてせめて私の身の潔白を示すための告訴も不起訴になった―私は、その背後にある大きな力を今も憎んでいます。死んだ若山君のためにも…。 右は、父のスクラップブックの見開き頁である。「眼前を落ちゆく友」の下には、以下の記述があった。 名古屋タイムズ遠藤氏は、本件について全面的に努力された。 資料をクリックしていただくと、全面の新聞記事がお読みいただける。 |
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1月8日 伊達忠雄氏宛 父からの手紙 <その14>に記したように、伊達氏から尾関氏への進言で、東京製綱との円満解決が成立しようとしている中で書かれた、遺族の気持ちがありありと解る手紙である。 拝啓 年末には格別御無理を申上げ、それにもかかわらず、いろいろとお骨折いただき、厚く御礼申上げます。 お陰様で東京製綱殿と、若山五朗遺族との関係は、全く円満解決し、今後何のわだかまりもなくなりましたことを、衷心から厚く御礼申します。 |
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1月10日 父宛 谷本光典氏からの手紙 八高山岳部の先輩であり、父の無二の親友である谷本先生からの手紙である。 その頃、父の率いる岩稜会に異変が起きていたようである。このことは、誰の口からも語られることはなく、この手紙を読むまでは知る由もなかった。どんな問題が起きたのかは、はっきりとは判らないが、これを含めた谷本先生からの3通の手紙をお読みいただければ、大体の察しはつくように思う。 御手紙を読んでから一日中暗澹とした気持ちで,夕食後に来た患者に当たり散らしてみて,はじめて岩稜会にかけていた期待の大きかったことを悟られて,今更のように君の心中推察に余るものがあります。感情的感傷的になってみてもしようがありませんから,出来るだけ冷静に問題を整理して私の考えを書きます。 荷上げのサポート隊の労力に何の感謝もせず前進キャンプにぬくぬくと寝て頂上へ登り自分だけの功にする人は一人もいそうにない岩稜会に,こんなことが起こるのは実に不思議で理解に苦しむところです。会の運営に於ける民主主義ないしは合議制の最も悪い面が,最も悪い時期に顔を出したとも思えますが,どうせそういうちぐはぐなものが会の中にひそんでいるとしたら,却ってはっきりと現実化してよかったとも言えます。ジャヌーの寄金がもちいと進んだ時期にこのようなことになったら,もっと不様で困ったことでしょう。実は神城へスキーに行った時,宿舎で君の噂話が出た時(もちろんそれ自身は非難や悪口でなく),バッカスがナイロンザイル事件を話し出すと岩稜会の若い連中はそっぽを向いたりこっそり席を外したりするという話が出ました時,何となくいやな気持ちがして帰ったら早速一度忠告しようと思ったことですが,それがこんなに早く現実の問題として直面しなければならぬかと思うと変な気がします。 詳しい話,具体的に誰が(もちろんその人が私の知っている人でなければ問題になりませんが)どんなことを主張したかなどが皆目判りませんので,理解は正鵠を得てはいないでしょうが,私は事態を次の3つに分けて考えを進めます。 ① 岩稜会の発展,例えば具体的にはジャヌー遠征の実現にとって,君がナイロンザイル事件にかかずらい,したがって岩稜会も労力的に,また経済的に,その手序(てついで)をしなければならないということが大きな障害となってきた。それ故に,君がナイロンザイル事件に力をそそぐのは勝手であるが,会としては手を引こうという形式論理的な理由が,そのまま本当の理由として掲げられる場合。あるいは,次の②,③の理由が本当のところであるが,世間体として,この理屈でカムフラージュしてある場合も考慮に入れること。 ② 岩稜会が本当に大きく育った今もバッカスが会を私物視すると考え,もはや「山」にとって副次的な価値しかないバッカスをナイロンザイル(事件)と共に切り捨ててしまおうとする分子が支配的となった場合。これは書いてみてちょっと変な表現になりましたが,いい意味で岩稜会が君を必要としないほど大きく育ったと考えるわけです。 ③ 感情的にバッカスやバッカスのやっていることが鼻につきだしたという連中が支配的となった場合。会の成果が,君の名声の陰で小さくなるとか,ナイロンザイル事件にかかずらうことによって汚くなると考える。多分にジェラシーが混じり,えらくなった仲間を次にはみんなで足を持って引きずり落とそうとする日本人の悪い島国根性,等々の汚い底流がある場合。 |
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1月15日 名古屋大学新聞記事 「ザイルは切れた!」 ナイロンザイル事件当初から、全面的に協力してくださった名古屋大学の新聞に、父の書いた記事が掲載された。右は、その一部である。 |
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1月16日 父宛 谷本光典氏からの手紙 岩稜会の問題の2通目の手紙である。 昨日午後,石原兄弟が小生宅を訪れて,今度の出来事のかなり詳しいいきさつを聞きました。岩稜会として一番大事な時に,こんな不祥事をしでかしてしまったことにすっかりしょげ切っていましたが,何よりも私が心を打たれたことは,2人とも,自分達とバッカスとの心の結び付きは,ヒマラヤよりもナイロンザイルよりも大事だと思っている。それにヒビを入らしてしまったことは何としても残念であるから,もう一度それを元に戻すべく,何とか調整の労をとってほしいと懇願されたことです。思えば君もいい友達を持ったものだと羨望の念と共に胸の内が熱くなりました。 具体的に2,3の案が出ましたが,結局,石原兄の案を骨子として,今後従来のヒマラヤの計画を進めていく過程に於いて,頻繁にバッカスと話し合う場を作り,行動の過程の中で融合していこうという案に決しました。差し当たり君が年末に東京へ行って山稜会の東京勢と話し合った情況を名古屋の山稜会のメンバーに報告し,それでは次に名古屋としてはどのような方法で募金活動を始めるか?等を相談し決めねばならないと思います。あまり時期を失しないうちに,これはやらなければならないと思います。こんなことをしている内に,ナイロンザイル事件に対する態度についても,お互いに誤解している点があれば解ける機会も生まれ,お互いに討論の不足から違って解釈している点があれば再検討する場面も出てくるだろうと思います。 2人から聞いた話から,私が考えれば,バッカスにも幾分勘違いしている点もあり,早合点している部分もあると思います。石原兄弟から私が聞いた範囲では,最初に私が考えたほど悪質な扇動者はなく,君から会の主導権を奪取しようとするほどの悪人はないようです。そんなことよりもむしろ,みんなが(私の聞いた範囲では),この出来事を友情の基盤に立って解決しようと希望していることは素晴らしいことだと思います。ただ,その事だけをお互いに話し合おうとすると,お互いに固くなったり照れ臭くなったりするから,今まで通りヒマラヤの計画を進めていく上で案外楽しく調整出来ていくものと考えます。そんな意味で,近い内に君の東京行き報告を主にした会合がありますから,その時は素直に出席して下さるよう私からもお願いします。 「新聞」有難う。ナイロンザイル事件で事がこじれている時に,初めてナイロンザイル事件が正確に近い形で新聞に載ったというのは,考えれば全く皮肉なものです。私の見聞と記憶に間違いがなければ,これこそ本当に初めて正鵠(せいこく)を得たニュースのように思いますが,違いますか。 何はともあれ,友情の尊さを今さら私が説教する余地はないと思います。友情の基礎の上にもう一度事件を再考して軽挙をつつしんで下さい。 以上,取り急ぎ乱筆まで。 1月16日夜 おたに バッカスどの |
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1月22日 伊達忠雄氏宛 尾関廣氏からの手紙 東京製綱と岩稜会との和解を喜ぶ手紙である。以下に解読清書する。 拝啓 21日付芳状忝く(かたじけなく)拝誦致しました。かねての東京製綱,岩稜会の件については,不肖私の御提言をお聴き届け下され,心より御納得下されました由,これ偏に(ひとえに)貴殿の御仁徳のしからしむところにて,暫く(しばらく)貴状を手に致し瞼の熱くなるのを覚え,遥かに亡き若山青年に対し黙祷を捧げました次第であります。 |
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1月22日 父宛 谷本光典氏からの手紙 岩稜会の問題の最後となる手紙である。 一昨晩は事態円満解決のメドもみつかり,皆さんの気持ちも判り安心しました。昨日,早速石原君へも電話して,山稜会延期するよう伝えました。それまではいいのですが,今日,石原君から電話が来て,「昨日,弟と二人でシャチョー宅へ泊まり,話をした結果,岩稜会の総会(2月2日頃になる予定とか)で私と弟が,バッカスと岩稜会員に陳謝して事態を元に戻す,云々」という話でした。陳謝という言葉はかなり強調して話され,確か三度繰り返して使われたようでした。 マイアミでの話し合いでは,石原兄弟を総会の席で「あやまらせる」というようなことは誰も発言しなかったし,陳謝という言葉も誰も口にしなかったつもりです。恐らくシャチョーと石原君兄弟と話し合いの結論として,石原兄弟が「自分達があやまればすべてがうまく片づく」というようなふうに理解したのではないでしょうか。とすると,これはまた後に何か「しこり」を残すことにもなりかねないと思いますがどうでしょう。 石原君のおかした間違いは悪意や故意からではなく性格的なものであり,それに引きずられた岩稜会の総会出席者全部とシャチョーの軽率が原因であった,とほとんど確認的にマイアミの集いで私は聞いたように思いますが――。 石原兄弟に「自分達二人が陳謝する」ことが結果として強制された,あるいは犠牲としてそうなった,と思われることは間違いであり,そこからはいいものは出てこないように考えますがどうでしょう。 午前中に電話をきいて,「その時すぐマイアミで話し合った時は,そんなこと(陳謝云々のこと)は話題にならなかった」と口をついて出そうになりましたが,やっと止めました。しかしそれから石原君のあの言葉が何となく心に引っかかって,あたかもマイアミで私達が査問委員会でも開いたように思われもし,そのようにもとれる石原君の口調を分析した結果が右(上記)のような次第です。 私の杞憂であれば幸ですが,その辺よろしく気をつけていて,みんなの感情が何となく白波立っているこの際,余計な波乱を起こさないよう充分ご注意下さい。 今日,全然別の用で彦坂さんと電話で話したら,君の東京行きの結果を非常に聞きたがり,「早く名古屋の山稜会を」,いやそれどころか「何を一体ぐずぐずしている」というような口調でした。 取り急ぎ用件のみ おたに バッカス殿 谷本先生は細やかな気遣いで、父や岩稜会員を思ってくださっている。この問題は、今後父からの「岩稜会に告ぐ」となって表面化することになるが、それはまた… |
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1月27日 不起訴処分理由告知請求書 石原國利氏 篠田軍治氏告訴が不起訴になって、半年経って出された告知請求書である。遅すぎたきらいがある。多分、ジャヌ-遠征や『穂高の岩場』発行の準備などに追われていたことと、篠田軍治氏をどのように追求していくかの目途が立たなかったからだと思われる。 |
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1月29日 不起訴理由の告知について この資料が貼り付けられていたスクラップブックの頁の余白には 「斉藤検事は,石岡との話し合い中,じっと下を向いたままである。一言も言えないのである。良心の呵責にさいなまれている姿がありありとみられた」と記されていた。 この資料は、右をご覧いただけばお判りのように、大変読みにくいので、石原國利氏が浄書されたものも遺されていた。 以下に解読清書する。
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2月1日 父の原稿 この原稿は、2012年12月に名古屋大学大学文書資料室に、全ての資料を寄託する時に、あまりに読みにくい資料は原本のスキャニングはせずに解読清書した時のものである。以下にコピ-する。 ナイロンザイルの岩角での強度 ① エッジでの切断荷重はエッジの曲率半径が0.5ミリあたりより大きいときは、ほぼ一様な強さでエッジを介さない単なる引張りの強さに近いが、0.5ミリあたりより小さくなると弱くなり方が激しいこと。 ② 登山者が岩登りで出合う岩角のRは0.3ミリよりかなり小さいこと。 ③ ナイロンザイルの岩角での強度は、R=1ミリはR=0.2ミリより数倍強い。 ④ これにより①W 数字不明 kgは自然の岩角R= 以下数十字不明 切断し、②R=2ミリでは落下。距離3mでも切断しないことが理解できる。T<東京製綱>はザイルテスト装置として、世界一の物を持っているので(資料) 又、試験用岩角は製作したとき、又 4字不明 の正しいこと(R=0,55kg,50m,数字不明)をやっていたので(S<篠田軍治>のS30.11)TとSは蒲郡実験で稜角45度でなぜ強いか、つまり強さは稜角ではなく、曲率半径である、これが分かったはず。公開実験は、石原報告が正しいかどうかをみること、及び予備実験が主な目的であるので、公開実験に使う岩角のRは0.3ミリ以下でなくてはならない。それをR=2ミリで作った。R=2ミリのエッジを作ったことは、故意に実験 2字不明 ザイルが切れないように細工したというより説明はつかない。すなわち蒲郡実験は登山者にとって 4字程不明 、その後のザイル切断事故の素地はTとSにある。 ⑦ R≒0.3以下で行えば、H=50cm以下で切れていた。 蒲郡実験のとき使用された岩角は稜角45度と90度である。不起訴理由告知書により、それらの岩角の曲率半径は45度が2ミリ(以下45度について記す)、90度が0.5ミリとなっている。もし、これらの曲率半径が前記④の岩角の曲率半径0.3ミリ以下であったならば、落下距離50cmで切断していた。つまりナイロンザイルは岩角でも強いとはならなかった。 ◎ Sは岩稜会の 3字不明 について非常に正しいといっている。蒲郡実験との大きな差について、その理由は、先端が丸いことを認めている。 (1) 4字不明 45度8mの落下、横滑り切れない。→岩角が丸かったことを認めている。 (2) 5字不明 をするといいながら、訂正しなかったこと。 テ-プ 1)蒲郡での実験は公開実験、そう公表されていた。 2)三重岳連には立会人を出すようにという依頼があり加藤富夫が出席したこと 3)これを 以下不明 A-3(11ミリ)のザイルをつるしたとき、0.5ミリで900kg,0.15ミリで650kg 現在(2018年3月18日)、「石岡繁雄文書資料」目録を作成するために、名大文書資料室から寄託品の貸出を受けているが、まずはナイロンザイル事件関係スクラップブック5冊から始めて、スクラップブックNo.21が終了したところである。今後残りの40冊を終えたら「その他の資料」として分類されている1827項目の資料を目録に反映させることになる。この時に、文書資料室から貸出を受けて、解読清書しかスキャニングされていない資料もスキャニングしていきたいと考えているので、上記の不明部分も少しは判明することと思う。 |
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2月1日 雑誌『山と高原』「シナリオ『氷壁』新藤兼人氏」 『氷壁』の朝日新聞連載が昨年8月22日で終了して、10月末には初版本が新潮文庫より1冊310円で発売されて、すでに20万部を売り上げ、大ベストセラ-となった。それを原作として、大映によって映画化されることが決定した。 シナリオは新藤兼人氏(脚本家・映画監督)によって書かれた。氏の製作意図は「山に憑かれた男の悲劇である」と書かれている。右はそのシナリオの全文が掲載された雑誌である。中には、実際に五朗叔父の遺体が発見された時の写真(岩稜会提供)も掲載されている。 右の表紙をクリックしてください 全文お読みいただけます |
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2月11日 『穂高の岩場 1,2』 1954年から取組んで来た『穂高の岩場』が、完成して5月に発刊予定と以下の新聞に掲載された。 1956年の夏休みには、当時まだ大学生だった國利氏と澤田榮介氏はほとんど穂高にこもりっきりだったという。 父に指示された穂高の岩場を登っては写真を撮り、その写真を松本で現像して名古屋の父に届ける。<紅蓮の章>でも少し記したが、少しでもピントが甘かったり、思った角度からの写真でなかったりすると「はい、撮り直し」と言ったという。その時に写された写真のネガが遺されていた。私は名大寄託の前に、國利氏や澤田氏の力を借りてそのネガを『穂高の岩場』のどの頁のどの写真に当たるかを特定した。写真の数は何枚かの連続写真も含んで300枚以上に及んだ。 父はナイロンザイル事件を闘う中、その写真を基に穂高の岩場に掲載されている文章を書いた。 2冊の本は、その頃に穂高の岩場を目指す登山家の、バイブル書となった。 右に掲載した新聞は、本のダイジェスト版的な広告である。クリックしてくださればお読みいただける。 この本は、右のチラシにあるように、ケ-ス入りの豪華版と、普及版があった。これは父が少しでも安くして、多くの登山家に読んでもらえるようにと配慮したためである。 前述のように、「5月刊行予定」とされているが、発行されたのは『穂高の岩場1』が1959年7月15日、『穂高の岩場2』は1960年6月10日である。6年の年月を費やしての発行であった。 |
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2月22日 篠田軍治氏に対する第一回公開質問状 篠田軍治氏を追求するために、抗告に持っていこうにも、民事として訴えるにも資金不足で、結局、公開質問状を送ることになった。この質問状は、各新聞社や関係各位にも送られた。 右の資料は、2013年から2014年にかけて行われた名古屋大学博物館での「氷壁を越えて ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯」の企画展で使用された公開質問状の要約パネルである。これは重要であるので、以下に清書する。 岩稜会の第一回公開質問状(1958年2月22日、抜粋) ―しかもこの事態は、一般大衆の生命が失われる反面、メ-カ-には、その結果として業務上過失致死罪による当局の追求とか、遺族による損害賠償の請求などから逃れられるという利益が生じるばかりでなく、信用確保の点で実に大きな利益がありますので、もしもこのことが、どこにも責任がないという状態で放置されたとしますと、今後メ-カ-の過失による死が発生した場合、今回のことをよき口実としてメ-カ-と学者が協力して事故原因について、事実をまげ、その結果一般大衆まで生命の危機にさらされるようになるということが充分予想されます。又学者というものは国民の指導的地位にありますから、この行為の影響は大きく、生命尊重の高揚にとって大きな支障がおきると考えます。… この資料の全文は、右をクリックしていただければご覧いただける。よく見ていただくと、父が後日記入した薄い鉛筆字もご覧いただける。ただし、鉛筆字は走り書きなのでほとんど解読不能である。 |
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2月26日 伊達忠雄氏宛 尾関廣氏からの手紙 拝啓 ようよう向春に入り貴殿はじめ各位様には益々御健勝の御事と存じます。就いてはかねて御約束申し上げました東京製綱のテリレンザイルの件については,明後28日に入手致すことになりましたので,早速にも参上致したくと存じますが,なるべく皆々様に拝眉出来たら,なお幸甚と存じますので,貴殿はじめ御関係の方々の御都合のよろしき日取り御指示下さればありがたく存ずるところであります。 私の考えとしては貴地(神戸/カンベ?)御指示下されば其の地まで夜5時頃までに到着致すように当地出発いたすべく,早速若山様御霊前に拝したく,其の上にて御懇談拝聴致し,翌日迄に帰浜(きひん)致すよう致したく,以て貴方皆々様に御仕事,其の他の御迷惑にならぬよう心掛けたく存じます。 然れば休日にてはなくともWeek dayにて夜分をつかうように致したらと念ずるものであります。 3月10日前頃の日取りを御選び下されば幸いに存するところであります。先後迄や言いたく,余に拝眉の上,願って可申上(その他のことは拝眉の上申し上げたく存じます)。 敬具 昭和33(1958)年2月26日 尾関 廣 伊達 忠雄 様 足下 前に掲載の、1月8日伊達氏宛の父の手紙を読むと、ザイルの拝受と見舞いについて固辞しているにもかかわらず、ザイルを持って出向くと書かれている。伊達氏からこの話が通じていないのか、または実家の見越に行くのは困るというので、鈴鹿の家に来たいというのか不明である。 |
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2月27日 岩稜会宛 杉浦明平氏からの葉書 杉浦氏は、小説家であり評論家でもあった。 これ以後の葉書などは、公開質問状をお送りした反響である。 以下に、それぞれ解読清書する。 わたしは登山と無関係なので、お送りいただいた資料を見て見当ちがいのようにおもいましたが、読んでいくうちにだんだん重大な問題であることを感じました。井上靖の小説よりも、事実そのものの方が、力強く複雑で、日本社会の内部を照らしだしています。日本の学者が会社に飼われているさまも如実に出ています。石原氏が屈せずがんばることを期待します。もし必要があれば、微力ですが、援助を惜しまないつもりです。 |
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2月27日 岩稜会宛 正木ひろし氏からの葉書 正木氏は、ご存知の方も多いと思うが、著名な弁護士で、著作家でもある。氏からの葉書は、「さすが!」としか言いようがない。 新聞二種拝受。現日本の検察、裁判官憲は、一般官僚機構と同じく、堕落の極に達しています。彼等によって正義を求めることは、「木に縁りて魚を求む」如し。私は絶望しています。 |
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3月7日 岩稜会宛 「山と渓谷社」川崎隆章氏からの葉書 ナイロンザイル事件が未だ未解決、あるいは当局の裁定が歪曲されたまま葬られるおそれあることは、岳界の為黙視出来ないものがありますので、飽くまで登山の正しい発展の為、貴会を支持する立場をとりますので、御健闘ください。 ついてはとりあえず、本誌5月号「火山脈」欄2頁を提供しますから、事件内容を重点的に書いてお送りください。400字5枚で、〆切3月25日まで。 同日に書かれた姫路市の内海繁氏からも手紙が来ている。この手紙は遺されていなかったが、正木氏から始まる公開質問状に関する激励などの書簡は、岩稜会員の手によって浄書されていたので、その中から以下に解読清書する。 御送付下さいました諸文書を読み、心ひかれました。 これまでこの問題について、ひどく無知であったことを自ら責めました。この問題は徹底的に究明されねばなりません。それは単にこの事件の関係者の黒白のためだけでなく、今後も起こりうるさまざまの同種類の問題のために必要です。今日の日本の社会組織では、科学の進歩が必ず社会の利益のためにでなく、営利のために動員されるからです。 私は船舶の錯鎖を製造する会社に関係しておりますが、人命を保障するチェーンについては、厳密な試験をやっております。そして現在では、鉄鎖が最もチェーンの材料として適当とされておりますが、「ナイロンのチェーン」ということも、想像としてすでに話題にのぼっております。 しかしそれに対して関係者たちは、単に「鉄より強いナイロン」という、一般想定だけでは問題にならぬ、あらゆる(空白)の条件において、即ち温度、湿度、衝撃の性質、摩擦の有無、障害物の位置、角度等々の、あらゆる合せにおいての強弱が問題だと言い、まず可能性はないと推定しています。 ナイロンザイルについても、そういうあらゆる条件の合せにおいての、何回ものテストが行われねばなりますまい。 一つの条件の下での一度のテストでは信用できません。 まして前のテストでは「弱い」と出ているとすれば、由々しい問題です。スポーツのレコード争いなら、公認記録ということもありましょうが、人の命にかかわるもののテストには、公開実験のみが優越するという様な危険な扱い方は罪悪でしょう。もしその上に、今日の日本では、あらゆる場合に発生することが想像できる様なスキャンダルが背景に存在したとすれば、大変なことです。「キレイな原水爆」と同じ証言を、私は思い描かずにおれません。 真実はトル?よりも弱いかの様な今日の日本で、真実をつらぬくことは、大変な努力と困難を伴いますが、もし御主張の如き不明朗な形で事態がうやむやにされているのなら、あくまでもその究明のために奮闘して下さる様、希望致します。 それは単に関係者個々人や貴会の名誉のためだけではなく、現社会の病原の一つにメスを入れることですから。 取急ぎ右まで。 |
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3月8日 岩稜会宛 「中日新聞 運動部」笠井亘氏からの葉書 前略 関係者が出張その他で不在だった為、返事が遅れました。 |
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3月7日 伊藤経男氏宛 東京製綱高柳栄治氏からの手紙 尾関氏のお骨折りで、伊達氏と共に東京製綱を訪れた社長(伊藤氏)への礼と、伊達氏宛に遺族への挨拶状を送った旨の報告である。以下、解読清書するが、高柳氏の文は候文であり、大変読みにくいので、一部漢字をひらがなにしてある。 拝啓 寒暖不同の候,益々御健勝の御事とお慶び申し上げます。 さて昨日は尾関様の御案内にて伊達様と共に遠路はるばる御上京の上,御丁重なる御挨拶をいただき,長年に亘る問題もここに円満解決に至りました事は,ひとえに貴会を始め各位の御理解ある御配慮の賜と深く感謝致します。御配慮に対し厚く御礼申し上げます。尚,其の節お話がありました御遺族への御挨拶状は,お約束の通り伊達様へお送り致しておきましたから,何卒御高覧願います。御遺族の皆様ならびに岩稜会の各位にくれぐれも宜しくお伝え願います。 三木社長からもくれぐれも宜しくお伝えするようにと私に申し出がありました。 時下折角,ご自愛の程祈り上げます。 先は御礼,御挨拶迄。 敬具 3月7日 高柳 栄治 伊藤 経雄様 侍史 高柳氏は、昭和31(1956)年6月25日付で東京製綱の取締役となられた。 |
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3月7日 伊達忠雄氏宛 東京製綱高柳栄治 上の手紙と同様の手紙である。 拝啓 春寒料峭の候,益々御清適の御事とお慶び申し上げます。 さてこの度は長年に亘り兎角わだかまりを残しましたザイルの件も貴会の御理解ある格別の御取り計らいにより円満解決に至りました事は,ひとえに御仁配の賜と心から感謝致します。特に昨日,伊藤様と共に遠路はるばる御上京の上,ご丁重な御挨拶を賜り誠に恐縮に存じます。御恩情に対し厚々御礼申し上げます。今後とも一層御厚誼賜りますよう,お願い申し上げます。 尚,其の節お約束致しました御遺族に対する御挨拶状,茲許(ここもと)同封御送り申し上げましたから何卒宜しくお取り計らいの程お願い申し上げます。 御遺族の皆様ならびに岩稜会の各位にくれぐれも宜しくお伝え願います。 三木社長からもくれぐれもよろしく申し上げるようにと申し出ました。 尚,時下折角,御自愛専一の程,祈り上げます。 先は御礼,御挨拶迄。 敬具 3月7日 高柳 栄治 伊達 忠雄 様 侍史 赤字は、解読不明箇所である。 |
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3月15日 講座第2号「前穂高岳に弟を失う」 65頁~78頁 父執筆 この文章は、若山五朗遭難時点から篠田氏の蒲郡実験までを詳しく述べていて、興味深い。以下に、まえがき部分を記してみる。 (1) まえがき 昭和30年1月2日、前穂高岳で私の弟が墜死した事件は、遭難という登山界では別に珍しくない事件であるようにみえたにもかかわらず、新聞、ラジオ、雑誌で再三取り上げられ、山岳連盟から声明書が出されるとか、学者21名の要望書が発せられるとか、はては、朝日新聞連載小説にとりあげられ、しかも今なお未解決の問題として、社会問題化しつつある。それはこの事件が単に遭難墜死という当初の事件から離れて、全く内容を異にする新しいしかも今後の社会に大きな影響を与えると予想される事件に発展したからであるが、私は当初から関係した者として、以下拙い見解を述べさせていただくことにする。 なおここでは紙面の関係で、この事件の前半のみを、しかも私のまわりに起きたことを中心に申し述べてゆきたい。 上は、この雑誌の表紙である。クリックしていただくと掲載頁が全てご覧いただける。 左は、この記事の表紙にあたる部分で、名古屋の自宅応接間で撮られたものである。 この雑誌が貼られていたスクラップブックの余白には、以下のことが記されていた。 この雑誌は、五朗の母によってアメリカの友人をはじめ各方面に送付された。またこれに補充して山と渓谷社発刊の『雪と岩』第1号に掲載された。これは大きな反響をよんだ。 掲載の最後には、編集者が小説『氷壁』のあらましを記しており、最後の言葉としてこう書かれていた。 魚津というのが石原君であり、死んだ若山君が小坂となっている。八代教之助というのは大阪大学教授篠田軍治博士のこと。しかし、小説の後半において、だいぶ真実と違ってくる。なぜなら”ナイロン・ザイル“事件はまだ解決していないから…。 実際には、小説『氷壁』と現実のナイロンザイル事件とは、ずいぶんかけ離れたものである。少しだけ対比してみよう。年齢は前穂遭難時で記入した。
上記の表で重要部分は、八代教乃助の職業である。八代は山に登ったこともなく、メ-カ-側の人間とされている。一方、篠田氏は教授で日本山岳会関西支部長という地位にある。5回の展示で解説員をやった私が質問を受ける中で、この二人を混同していられる方が結構みえた。 父が存命中、平成11(1999)年に父を尋ねられた広島大学大学院の高木伸幸(現在別府大学文学部教授、井上靖研究会理事)氏は、博士論文に『氷壁』を取り上げられたので、その取材にいらっしゃったのである。 その論説「『氷壁』論―『孤独』と『信頼』」の中で述べられていることを簡潔に紐解いてみよう。 1.魚津を孤立させるために、登攀パ-ティを2人にし、生存者を1名にすることで、目撃者のいないところでの事故とした。 2.ナイロンザイルの切断事故は、実際には昭和29年12月28日東雲山渓会、昭和30年1月3日大阪市立大学山岳部と、わずか1週間の間に3件起こっている訳だが、それを1月2日の前穂東壁の事故だけにしぼった。 3.魚津の職業を製綱会社の兄弟会社社員として、ザイル切断の真実よりも会社の利益を優先する企業社会の圧力が、魚津に直接押しかぶさるようにした。 この3点によって、井上先生が発言されている「いいわけがどこにもできない立場に立っている人間を書きたいと思っていた」と言う事が成立する。周囲の人々から自分が正しく理解されない魚津の孤独は高まる訳である。 登山は、パ-ティの仲間を信じて登ることが大前提のスポ-ツであり、フェアプレーの精神の非常に純粋なものということであるが、その延長線上のように『氷壁』では常磐大作から、魚津は「八代教乃助を信じろ」と再三言われている。これは、フェアプレーの精神を忘れてはならないということである。 八代教乃助を信じる事(公開実験を信じたのではないが)。小坂を信じて自殺説を打ち消す事。 魚津は「登山家」として「孤独に耐え」、そしてまた「登山家」として小坂を「信頼」し抜いた男と見てよかろう。 そして「<アルピニズム>という形を取りながら、「孤独」と「信頼」というモチ-フが流れており、やや甘口の大衆性を含みつつも、現代社会の様々な困難に自ら挑み、克服しようとする一つの生の有り様が示させている」と結論付けている。 また、続編にあたる「報告書『ナイロン・ザイル事件』の活用―『氷壁』補考―」では、小説と『ナイロン・ザイル事件』を対比させて考察されていて興味深い。 |
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3月18日 映画「氷壁」 新聞連載で人気をはくした『氷壁』は、豪華キャストによって映画化された。原作獲得にしのぎを削った各社であったが、大映が権利を獲得した。 右上は新聞広告で、右中は一家で封切りを観に行った時の入場券の半券、右下2記事は雑誌(たぶん明星)の記事で、谷川岳にロケに行った時の模様を川崎氏が書いている(右)。「遺体発見のシ-ンで雪に埋められた時は生きた心地がしなかった」とのこと。それぞれクリックしていただくと詳しくご覧いただける。 ロケの様子は、徳澤園の食堂に掲げられている当時の写真からも見ることができる。 下は、その時のプログラム。 原作:井上靖 監督:増村保蔵 脚本:新藤兼人 キャスト: 魚津恭太;菅原健二 小坂乙彦;川崎敬三 八代教乃助;上原謙 八代美那子;山本富士子 小坂かおる;野添ひとみ 常磐大作;山茶花究 |
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3月20日 父宛 岳人編集部よりの執筆依頼 石岡繁雄様 |
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3月20日 岩稜会「鹿島槍・五竜岳登山デ-タ」 20日~23日 鹿島槍ヶ岳 参加者:石原一郎・上岡謙一・高井利恭・石原國利・岩佐弘・黒田吟哉・佐野孝・常保(三重大)、各氏 23日~25日 五竜岳 参加者:石原一郎・高井利恭・石原國利・佐野孝・石原義(石原兄弟、ポッシャンと呼ばれていた)・津島高工4名 写真左;3月22日鹿島槍にて、右後ろより、國利・高井・今井・上岡・常保・佐野、前右より、一郎・黒田 写真右;3月23日鹿島、狩野治喜衛宅にて |
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3月22日 毎日新聞記事「『氷壁』主人公の犠牲無にせぬ」 『穂高の岩場』の出版報道である。まだ写真撮影中であり、出来上がっていないが、もう報道されている。 2月11日に記した新聞と同様に、早過ぎる報道である。 右の記事をクリックしてください 大きくなってお読みいただけます |
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3月 父宛 神戸大学山岳部からの手紙 3月28日に滝谷クラック尾根に向かった山岳部員青木氏と山内氏が、登攀中滑落、11㎜ナイロンザイルが切断して墜死した。このことについて、神戸大学山岳部から切断理由について父に問い合わせがあり、意見を出し、詳しい事情等を山岳部に聞いた返事である。 お忙しいところ,いろいろと有益なご意見をお聞きかせ下さいまして有難う御座いました。 大学山岳部の通例で,新入生(30人)入部,キャンピングから始めて確保の練習等,混雑が続き,その上に卒論実験,就職のことまでからんでまいりまして,リーダーは交代いたしましたものの,あまりザイルの調査の方は進んでおりません。やっとザイル,ナイロンのデータ集めが進行中という程度です。スタッフと申しましても,山岳部生活2,3年,工学部建築,機械,応化,理学部物理等の学生で,それぞれの分野で応用力学の知識を得るのを待って行わねばならないような現状ですから,相当気長にやっても,どれほどの成果があがりますか,全くお恥ずかしい次第です。 非常に有意義なご意見をお知らせいただいたり,アドバイスをしていただいて,嬉しく思います。しかし全く残念だと思いますのは,いろいろな科学的データを,自信を持ちましてお知らせすることが出来ないということです。 と言いますのは,あの事件当時,遺体を発見し,収容にあたりました5人は,山原が最高3年で,(本格的冬山登山)本格的な遭難現場を経験しましたこともほとんどなく,相当あがっていたといいますのが事実のようです。青木寿兄は別としまして,自分を含みます他の4人は,20才,21才で,今から思いますならば,非常に至らない所が多かったようです。それに,下山後,種々のデータに関する最終的な確認も行われず,N側のむすび目(アイスハーケンとカラビナが付いていたと思われる)があったかどうかにつきましても,意見が一致しないというひどい状態です。 その他, 1.自分は遺体発見連絡のため上高地に下り検死現場には立ち会いませんでしたが,死に顔を見ただけというひどいもののようです。 したがって,ザイル(体に付けていた約9㎜のゼルブストザイル(orウエストロープ)が,どれほど体にくいこんでいたか,N,Mのうちどちらがひどかったか等のデータが不明です。また,ゼルブストザイルは遺体と共に焼却されましたので,その傷の有無すら不明です。 2.合宿が大規模で,最終の日であり,2人の出発の時の装備に関するメモが残されておらず,カラビナをいくつ持って登攀を行ったか,スリップ→切断の時,果たしていくつカラビナが使用され,いくつ抜けて紛失しているか等も推測することができません。なお悪いことに,2人の所持していたカラビナが,岐阜において関係のないカラビナと混同して,カラビナの傷よりスリップの時かかった張力を推測することは全く不可能です。 また,フィルム切れのため現場写真さえないことなどを考え合わせていただきますならば,およそ当時の混乱は想像していただけると思います。部長,先輩一同から,ナイロンを岩,それも滝谷クラックのそれに,シングルで使用したことについて激しい批判がありましたが,遭難そのものの原因も全く研究不足に尽きるものと赤面しております。 このような事情ですから,現場におりました我々ですら推測の上に推測を重ねているような次第です。ナイロン原糸,ナイロンザイルに関する知識を広く求め,御遺族の悲しみが薄らいでいくのを待ちまして,出来るだけ科学的にこの事件をみつめ,原因追求より,むしろこの事件を機にナイロンザイルを調べてみたいと思っております。現物も見ていただきまして,第三者としてこの事件全般に関します客観的なご意見とか,これからのナイロンザイルに関します意見をお聞かせ願えますなら非常に嬉しく思います。 “放出”ナイロンロープに関しまして,そのストランド中に撚り込まれました製作者を示す紙(同封しております「Supplementary Catalog Sheet No.C57」の(copy)“Our Plymouth paper identifying maker” will be found it the center of one strand)より,米国プリムス社を知ることが出来ました。(「補足カタログシートNo.C57」に,ストランド中に撚り込まれました製作者を示す紙があった) 大阪のある貿易会社の調査によりますと,この会社もやはりデュポンの原糸を使用してロープを作っているようです。 Plymouth Cordage Company Plymouth, Massachusetts, U.S.A.(「プリマス・コーデージ・カンパニー」米国マサチューセッツ州プリマス) 返事は,Mr. T. Chadwick, Jr. / afm. General Sales Department(T.チャドウィックJr.氏 / 空軍勲章?米国音楽家連盟? 一般営業部) という,相当有名な繊維業者より受け取りました。 同封のカタログ以外には,ほとんど注目すべきことは書いてないと思いますが,ナイロンのImpactに関しますデュポン社のデータを紹介されたのは幸いだと思っております。手紙の一部を紹介いたしますと, ……… However, the Dupont company estimate that Nylon will absorb a shock load to the amount of two and one-half times that of Manila Rope(Musa Textiles) on an equal weight basis and eight times that of Manila on an equal size basis. For further information may we suggest that you write for Dupont Bulletin No x-99 of February, 1959, which has the title “Impact and Energy Absorption of Nylon”. We believe that you may get this bulletin from E. I. Dupont de Nemours & Co., Inc. Textile Fibers Department Wilmington 98, Delaware, U.S.A.(しかしながら,デュポン社は、ナイロンが同等の重量でマニラ・ロープ(学名:Musa Textiles)の2倍半、同等サイズでマニラの8倍の衝撃荷重を吸収すると推定しています。詳しい情報については、デュポン社報No x-99(1959年2月)の「ナイロンの衝撃とエネルギー吸収」をお勧めします。この社報は,以下のところから入手できます。 E. I. デュポン・ド・ヌムール株式会社 テキスタイル繊維部 米国 デラウェア州 ウィルミントン98 これは,京大,神大,等の研究室,ロープ,ナイロン会社(在阪の),大阪の米国貿易会社のデュポン部のいずれにも入っていないようです。山岳部がすでに発注しておりますので,到着しましたら,お見せ致したいと思います。 一方,神戸大学工学部工業化学科の奥正己教授(農博,高分子化学,特に羊毛に関する世界的に著名な学者のように聞いております)の研究室で,いろいろとナイロン関係の文献を調べますと, Impact Strengthについて(衝撃強度について) Dr. H. F. Schiefer; Physicist and Assistant Chief of textile section, National Bureau of Standards, Washington. Principal interests are mechanical, electrical and performance properties of textile, including effects of straining and nuclear* radiations on textiles. *このスペルは不確かで自分も意味がわかりません。(ハーバート・F・シーファー博士; 国立標準局(ワシントンD.C.)繊維部門の物理学者。主任補佐。研究領域は、繊維の機械的、電気的、性能的特性。織物のひずみや核による影響を含む) このシーファー教授のImpact Strength に関する論文が出てきました。繊維関係でも,この研究をやっている人はほとんどなく,非常に独特な装置でこの実験をやっているようです。この論文は現在リコピーをやっておりますので,もし参考にされるのでしたらお見せすることが出来ると思います。 目についている他の論文の一部に, 『繊維学会誌』例えば15巻,5号,401ページの群大中里氏の「撚りの構造に関する研究」(第10報) 『応用物理』28巻,4号(1959年)には,「合成樹脂の摩耗の研究」 等がありましたが,参考にはならないものでしょうか。 また,奥教授から「低温(滝谷の場合ですと,30℃マイナスくらいまでに下がっていたと思いますが)においては,ナイロンのplasticityは極度に低下しているものと思われるが,この時,強いimpactを受けると極度に悪い結果が予想されないか,ドライアイスか低温室を用いて実験してみるとおもしろいだろう」とのアドバイスを受けましたが,冬山におきましてナイロンロープを考えます時,やはり非常に大きな問題を含んでいるのではないでしょうか。 |
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3月 神戸大学山岳会・山岳部機関誌『山と人』 この機関誌の58頁から67頁にかけて、滝谷クラック尾根で起きた遭難の模様、3月29日に発見されたご遺体の状態、3月31日に行われた遺体収容の模様、そして反省等が細かく記してある。特にナイロンザイルについての重要部分について、父がスクラップブックの余白に書いている。以下である。 神戸大学山岳部の2名、滝谷クラック尾根にて墜死。遺体には切れたナイロンザイルが結ばれていたのである。しかも神戸大学ではナイロンザイルが岩角に弱いことを知らなかったのである。驚くべき事実。印刷物の65頁を見られたい。(なお石岡は切れ口の模様からナイロンザイルが切れたために遭難が起きたと確信した) 印刷物とはもちろんこの機関紙のことであり、該当部分には赤線が引かれている。右の表紙をクリックしていただけば、全文お読みいただける。 |
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以下の写真をクリックしてください <その16:ナイロンザイルの欠陥広まる>へとご案内いたします 2018年3月23日記 |