<その16:ナイロンザイルの欠陥広まる>
昭和33年4月1日~9月18日
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4月1日 父宛 川崎隆章氏からの葉書
山と渓谷社からの執筆依頼の葉書であるが、ナイロンザイル事件について間違った情報を得て書かれていることが判る。
冠省、過日はナイロンザイルについて、本誌へ御寄せくださいましてありがとう存じました。
尚、講座に載りました一文も、確かに拝見致しました。つきましては、今回新雑誌”岩と雪”を刊行する運びとなりましたが、右講座に載りました一文を捕逸して、4月末迄にお送り願いたく存じますが、如何でしょうか。
尚、又側聞によればナイロンを凌ぐテリレンにて、東京製綱も特許を取り、ザイル製作すること、ナイロンの弱点は会社も認め、篠田氏も遺憾の意を表し、石原氏も告訴を取り消した、というのは事実でしょうか。
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4月2日 父宛 石川正夫氏からの葉書
朋文堂の石川氏もナイロンザイル事件が無事解決と聞いたと書かれているが、「東京製綱との和解が成立しようとしている」の間違いである。
先日は雑誌『講座』をお送り下され、又一昨日は電話をいただき、ありがとうございます。大兄の発表された文を拝見し、改めて問題の大きいのを痛感しました。しかしイワタのトンチャン(岩稜会 太田年春氏)に聞きますと、先日社長さんが上京され、問題も円満に解決されたとの事で、何よりの事と思っています。
御電話の件は電報で返事を送りましたが、ひとつ12日に宜しくお願いします。無理を申し上げてすみませんが、どうも1日では心配です。それから問題のカラー写真は、朋文堂に無事保管してありました。朋文堂は盲点でした。
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4月2日 中日新聞編集局長宛 石原國利氏からの手紙
篠田軍治氏に対する告訴が不起訴に終わり、第一回公開質問状を出した岩稜会であったが、ナイロンザイル事件の時効が5月1日と迫る中、次の一手として、昭和30年5月1日に掲載された中日新聞の記事「強度は麻の数倍」について、同新聞社に抗議することとした。右の手紙をクリックしていただければ全文お読みいただける。
この手紙には、ナイロンザイル事件勃発から不起訴処分までの経過が要領よくまとめられており、最後にこう書かれている。
以上、貴社に対し数々の失礼を申しましたが、要するに私の意図するところは、今回の事件が人命並びに人権軽視の悪例とならないようにしたいという点のみであります。…
東京製綱と篠田氏は、蒲郡実験の結果をあのように報道した中日新聞に責任があると述べている。中日新聞は、それについて反論なりをするべきところ、これまでされてこなかったので、「ナイロンザイル事件に対する態度を客観的に表明せよ」ということである。
この手紙の貼られていたスクラップブックの余白には、以下の事が記されていた。
告訴は不起訴になったが我々は篠田氏の不法なことを客観的に立証しようと努力した。そのためには中日が立ち上がってくれなければならない。我々は中日に抗議を申し込んだ。この抗議文を石岡が中日に持って行ったとき、偶然にも左頁のゲラが出来ていた。石岡は中日に対し、これで十分であって、とくに返事をもらわなくてもよいと告げた。
左頁のゲラとは、以下の新聞記事である。 |
4月3日 中日新聞記事「岩場に弱いナイロン・ザイル 麻の20分の1の強度 放出のザイルに要注意」
この記事の下余白にも書き込みがある。どのように書き込まれているか判るように、書込み部分までご覧いただけるようにした。
書かれていた文を以下に記す。
この記事は3年前に出されるべきものであったのである。我々はこの記事を出してもらうために3年間努力した、ともいえるのである。真実はここにおいて遂に勝ったのである。
右の記事をクリックしてください。大きくなってお読みいただけます |
4月3日 朝日新聞記事 「ザイルは切れたのではない」
前頁<その15>で掲載した、3月28日に起きた神戸大学山岳部の遭難についての記事である。使用していた11㎜ナイロンザイルは、五朗叔父遭難時と同様の切れ方であったが、それは二人が滑落した際に切れたもので、滑落の反動でハ-ケンが抜けて遭難したものではないかと書かれている。
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4月5日 父宛 川崎隆章氏からの速達手紙
前記4月1日の葉書で、間違った認識をした経緯について書かれている。この中に出てくる横浜税関山岳部会報は、その後送られて来ているので、その日付で掲載する。
石岡繁雄様
御書面確かに拝誦いたしました。来週お上京の由、ぜひ御立寄りくださるよう、お待ちいたします。
横浜税関山岳部の会報4月号を見ますと、植木知司という会の人が、「『氷壁』の背後にあったもの」と題していきさつを書いており、文末にテリレンザイル完成と共に篠田氏も遺憾の意を表し、石原氏も告訴取り消し云々ということが、色々の資料を元として書いていましたので、お伺いした次第です。その点お手紙により、事実と異なることを承知した次第です。インダストリーの記事も拝見しました。
もちろんこの問題はあくまでウヤムヤにしてはいけないと存じますので、正しい登山の為にも、本社出版物を提供したいと思っています。
3月下旬の神大生の滝谷におけるナイロン切断事故は中日紙によれば米軍放出のコゲ茶色のものとあり、一説によればパタゴニア遠征隊のものを1本譲り受けたものとありますが、何れにしてもナイロンザイルの事故であることに間違いありませんので、問題にしないと不幸を重ねる許りと思われます。いずれ御拝眉の折に申し上げたいと存じます。
つきましては先便往復ハガキで申上げました件について、御配慮願えれば幸甚と存じます。
① 新雑誌『岩と雪』に、講座第2号に出ていました記事を加筆されて御寄稿下さい。あの雑誌を切り抜いて、不備の点は原稿に書かれて結構です。〆切4月30日
② 新しく出す『登山講座』第1巻へ鈴鹿の岩場案内略図共20枚くらい、これは急ぎます。4月中旬 第3巻にザイルについて(山の装備・器具部門30~40枚)この方の〆切5月下旬 川崎隆章
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4月6日 父宛 田中栄蔵氏からの葉書
『講座』第2号「前穂高岳に弟を失う」を読んだ感想である。
以下に解読清書。
講座第2号いただきありがとうございました。御文拝読いたしましたが、前半のようでまだ書き足りない感じがしました。
70頁のウィンパ-の件は最近の考え方は少し異なっているようです。浦松氏のものだけでは真相はそうですが、Arnold Lunnなどの見解は異なっています。LunnのZermatt
and the Valaisが発行のLunnのA Century of Mountaineeringによれば、老枯ザイルを使わねばならなかった始末、タグワルダ-のアメリカ行は事情が異なります。
私たちはザイルが神聖であり、切らない、切れないという主張を強くすべきであると考えています。世間の知らない人にもそう言っています。山を判らない人々が何と言おうと、私はスポ-ツ的な考えを主張しますし、それを信じます。これに色々と因子がからみますが、時がすべてを解決してくれると思います。といってどうでも良いと言っているのではありません。問題の解きほぐしが実験試験には時間がかかり、それらを見た上でないと本当に近いことは判らないと思うのです。
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4月8日 名大新聞記事 「山旅を語る 朝明ヒュッテに一泊 鈴鹿愛知川の遡行」
(石岡繁雄 学生部勤務)
父が執筆した記事である。記事をクリックしていただくと大きくなってお読みいただけるが、要約すると…
山行きは人間生活の句読点。人が素晴らしいというものは一度は経験してみて損はない。山登りは逃避だが、逃避が本来の仕事をプラスにするような山行きを計画しなければならない。山を征服するとか、山と闘うといったことは、山岳部の連中にまかせておけばよい。
東海地方の山行きで、全国の人々に自慢してみてもらえるのは何といっても愛知川の渓谷美である。
その後、名古屋から愛知川への行き方や、歩き方などが記してある。
私たち家族も大体、石岡家下宿族の方々や岩稜会員と共に一年に一度は愛知川へ行った。その時の写真をご紹介することにしよう。
この年、石岡家の下宿は平屋3部屋に加えて、二階建て6部屋も建てられていて、計9名の名大生が住んでいた。その中にはタイからの留学生もいらっしゃった。この方は、石岡宅の二階に住まわれていたので、この方がいた時期だけは計10名であった。
写真の上に記してあることは、当時の下宿族の方々が書かれた事項である。従来通り、追記は緑字とした。
石岡家下宿族(名古屋大学学生)の
愛知川ハイキング 1958年5月17日~18日
石岡一家・熊崎・伊藤・江口・大田・柴田・加藤・山路・外村・Mr.Nikon
右より、大田博(名大工学部名誉教授、愛知工科大学学長)、ニコン・チャウスク-ル(タイ国 UDOMKORN ENGINEERING CO.,LTD.)、<後に>伊藤孝治郎、<前に>加藤哲也(トヨタ住宅㈱社長)、母、外村仁(野村證券副社長)、<前に>私、江口昇次(名大工学部名誉教授)、柴田耕作-梓夫(長瀬産業㈱)、<後に>山路幸郎、<前に>熊崎昭一郎(財団法人滋賀県工業技術振興協会)、姉
()内は職業で、判っている方の出来る限り最終的なお勤め先を記しました
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快晴!さあ デッ発
名古屋市昭和区杁中バス停にて
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朝明の清流でスキヤキ準備
腹が鳴る グゥ-グゥ-
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昼の握り飯作り
ソフトボ-ルのようだ
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寝ぼけ眼のまま勢ぞろい
思いはまだ夢の中
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出発!
朝明ヒュッテのおじさんと一緒に
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気分爽快
飴玉をしゃぶりながら
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鳩峰にて
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小休止
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愛知川突入 冷てぇなぁ!
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流されないように しっかり!しっかり‼
わぁ!伊藤、外村、ヘソまで水浸し
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元気いっぱい
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どんどん遡る 渡渉にも慣れた
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いかすじゃねぇか
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あづみちゃんをおんぶして
女(すべての)に”あまい“K.S
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幽玄な美しさをたたえる天狗の滝
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天狗の滝で昼食 食後の満ち足りた顔
ルバング島ではございません
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後向くべからず⤵
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三人姉妹…実は?
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このようにして、父は若い方々を事あるごとに山へお連れした。
家族や下宿族からはじまった山行きは、後に豊田高専、鈴鹿高専の山岳教育へとつながってゆく。
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4月12日 新聞名不明の記事「権力に脅迫されぬ明知と勇気を持て」東大入学式矢内原学長告辞
すべての権力から自由な学問の精神を強調したこの告辞は、ナイロンザイル事件を闘う父にとって、力を与えてくれる言葉であったに違いない。
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4月15日 山岳雑誌『山と雪』「映画氷壁に思う」四谷竜胤氏著
滝谷の初登攀を1925年8月13日に成し遂げられた四谷氏のことは、小説『氷壁』に実名で記されている。新潮文庫の94刷、10章541頁にある。この部分を記すと…
この滝谷が初めて征服されたのは、1925年8月13日であった。この日期せずして二組のパ-ティが初登を争い、一つは雄滝の左側を登って滝谷にはいり、Aルンゼをつめ、大キレットに出て、南岳・槍平を経て帰った。一つは雄滝の右側ガリ-を登って滝谷に入り、D沢を詰めて、涸沢岳鞍部に出た。前者は登山家藤木九三氏等であり、後者は早大山岳部の四ツ谷竜胤、小島六郎氏等であった。
この映画の主人公魚津が滝谷で遭難死することを踏まえて、多くの登山家に「何よりも大切なことは登山する人の心構えである」と警告している。登山家にとって下界の思いを引きずったまま、危険な場所を登攀する事は、言語道断といったところだろう。
右の記事をクリックしてください 大きくなってお読みいただけます
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4月15日 父宛 ベ-スボ-ルマガジン社山岳編集部よりの執筆依頼状
この4月に父が受けた執筆依頼は、『岩と雪』・『登山講座第1巻』に20枚・『登山講座第3巻』に30枚~40枚、そしてこの「三つ道具の使い方」8枚である。その上に『穂高の岩場』の執筆もあった。父の忙しさが目に見えるようだ。
謹啓
突然、玉稿を賜りたく、御手紙差し上げます無礼をお許し下さい。
今般、別紙のように小社では山岳雑誌を刊行することになり、是非先生の御指導、御鞭撻を得たく存じます次第です。 東京ではそろそろ谷川岳が問題になりはじめ、遭難防止など、日々対策の会合が開かれておりますが、いよいよ夏山の洪水のようなシーズンを前にして、遭難防止こそ一重大な私達の使命であろうと存じます。それにも先ず三つ道具の正しい使い方を学び取る必要があり、そのためにもその道における先生の御執筆を、是非拝さなければなりません。先生の玉稿が得られましたならば無上の感激でございます。
大変御多忙中のところ恐縮に存じますが、よろしくお願い申し上げます。 敬首 近藤光雄拝
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4月17日 各位宛 岩稜会からの手紙
この手紙は、前記4月2日,3日に記した中日新聞への抗議についての締めくくりである。関係各方面に送られたものである。
右の手紙をクリックしてください
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4月17日 父宛 朋文堂 石川正夫氏からの速達葉書
『穂高の岩場』原稿の催促である。
一昨日は失礼しました。御話もろくにしない内に、ヨッパライ氏につかまり、有無を言わせず日本橋まで連れて行かれ、いくら訳を話しても釈放してくれません。相手が社にとっては大事な著者と来ていますので、おこるにおこれず、「帰る」と言えば、「約束の出版を解約する」と力み出すので弱りました。とにかく酒呑みはいけません。全く名古屋のバッカスでなく、ギリシャのバッカスに、「何とかしてくれ!」と頼みたくなりました。
今日イワタのトンチャン(岩稜会 太田年春氏)から、丁度『穂高の岩場』の図を版下屋に説明している所に電話があり、等級表、ルート図に少々の変更があるとのことでしたが、版下屋のいる時でしたのであわてました。
変更の分、至急お送り下さい。
乱筆お許しのほど 石川拝
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4月19日 父宛 川崎隆章氏からの手紙
この手紙も原稿の催促である。
石岡繁雄様
冠省 過日ご来社の節は何のおもてなしも出来ず申し訳ありませんでした。翌夕お電話いただけるものと思っていましたが,もう一度お目にかかりたかったのでしたが。
さて,『登山講座』第1巻,目下進めており,この巻は岩登りについてふれており,カラビナの強度試験の記事がありますので,これに併せて,第3巻にお願いした「ザイルについて」を至急お送り願えないでしょうか。
大変ご無理のお願いと存じますが,第1巻は原稿が1/3ほど集まらず少し遅れていますので,遅れついでというわけではありませんが今月末日か来月早々に如何でしょうか。『岩と雪』の方の「ザイル切断事件」の方は,第1巻が終わってから致しますので,5月10日頃でも結構と存じます。
大変勝手のお願いでありますがよろしく御高配伏してお願いいたしたくお伺いまで。早々
4-19(4月19日)夜 川崎隆章
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4月 建設省塵調査書宛「空中写真複製承認申請書」名古屋大学学生部長 須賀太郎氏、名にて申請
昭和29年8月27日・昭和30年12月20日に次いで3度目の申請となる。
先の2回の申請は、昭和29年にも記したが、この空中写真と航空写真立体視眼鏡を用いて、『穂高の岩場』に掲載する山々の特定のために使用された。今回の申請は、『穂高の岩場1,2』の中表紙に掲載するために使用した。「複製の目的」箇所を以下解読清書する。
今回申請者の所属する山岳団体で穂高岳の岩登りに関する出版物を発行することになったが、登山者の危険防止のため、空中写真を同出版物に複製したい。
また備考の欄には、以下のように記されていた。
最近登山者の激増につれ、遭難も増加の傾向にある。今回発行する書物は、岩場のもつ危険を明らかにして、遭難を防止しようというのが主な目的である。これには空中写真が大きな役目を持つと考えられるので、是非ご承認を得たい。
この用紙には4月と記されているが、実際に申請したのは6月15日であり、承認を受けたのは6月25日である。その許可書には、建設省地理調査所から領布を受けたことを明記するよう書かれていた。 |
4月 横浜税関山岳部機関誌『榾火』No.85「世にも不思議だった物語 『氷壁』の背後にあったもの」植木知司氏著
4月1日の『山と渓谷社』川崎隆章氏からの葉書で、この機関誌が掲載されていることを知った父だったが、この時機関誌が送られて来て、読むことが出来た。
問題の部分を記し、確実な間違い部分を赤字にして、訂正または追記を緑字で記す。
<前略>調査に調査を重ねても不明な項目に於いて31年11月11日(昭和33年2月22日)公開質問書を発表、篠田軍治氏。東京製綱K.K、東洋レ-ヨンK.K、新保正樹氏に宛てた。しかも未解決のまま同月末、第1回全日本登山体育大会が、大峯、大台、大杉で開催され、22日(昭和31年11月22日)全岳連の評議員会が吉野で開かれたところ、三重岳連から閉会頃、突然緊急動議が出された。それは石原氏の篠田氏に対する告訴に関する事件の解決への要望だった。現在のままでの両者の解決は望み薄で、このまま放任すれば法廷闘争と云う登山界にとっても大きな不幸を見る可能性が強く、この対立を円満に解決する役目は全岳連が最適であると考え、登山界社会の明瞭化のためにも解決への努力を決議して欲しいと提案された。私当時、記録をやっていて、胸にぐっとくるものがあった。全岳連はこの問題を取り上げ、全岳連としては別な意味からも実験デ-タは必要なために特別委員会を設けて研究を始めた。次いで委員は郡大教授吉田元、瀧川決男氏が決定された。年は明け32年5月16日、全岳連の評議員会が熱海で開催され、研究中の報告がなされた。特別委の研究は着々と進められても、両者の話合は平行線をたどるばかり、その間数人の人が労を取ったが、全て水泡にきした。全岳連がこの問題と取り組んでから、特に頭を使っていた尾関広(廣)全岳連副会長は、話の筋をただ単に、実験にこだわる事無く、要は登山者が安心して使用出来るザイルの出現を心密かに念じていた。
幸いテリレンと云う新製品があるだけにこの話を東京製綱に持ち寄り、ナイロンをしのぐこのテリレンにてザイルを作製する事により全てが解決するだろうと重なる交渉を持った結果、東京製綱K.Kも特許を買取り、製作の見通しがつくと共に話は日に日に好転、今年3月でもって新製品テリレンザイル第1号が完成した。蒲郡での試験デ-タはナイロンザイルの2倍の強度を持つ品である。先日この第1号にお目にかかる機会を得たが、これが岩稜会の事故によって日本の山岳界にお目見えすることになったかと思うと感無量と云うところだった。ナイロンザイルの強度をたてにしていた会社も、弱点を認め、実験を行った教授も遺憾の意を表し、石原氏は、ここに告訴を取消し、(※注参照)長い年月問題となったナイロンザイル事件も、ここにめでたく解決を見る事が出来た。先日三重岳連会長並びに、岩稜会会長が上京し、東京製綱を訪れるところとなった。その際両会長に会う機会を得たが、考えて見れば全岳連副会長の労によりめでたく終幕した岩稜会の事件は"氷壁"の映画にまで進展した訳なのだ。
※注:篠田軍治は遺憾の意を表していない。告訴は不起訴になっている。
この記事に出てくる「テリレンザイル」だが、ナイロンザイルの2倍の強度を持つのは、引っ張り強さだけで、岩角での性能はナイロンザイルより劣ることが後日判明した。
現在でもナイロンザイルが使用されているのは、ナイロン6,またはナイロン66という繊維が、登山用ザイルとしては一番適しているからである。
東京製綱は、またしても充分な事前テストをせずに、このテリレンザイルを世に出した訳である。
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5月1日 『山と渓谷』227号「ナイロンザイル事件」岩稜会著
3月7日に川崎氏から依頼のあった記事が掲載された。
文頭には以下のように記されていた。
世上にさわがれたナイロンザイル事件も、時日の中に忘れられようとしている。しかし、そこにいささかでも疑惑があり真実が隠されているとしたら、それは明らかにされねばならない。当事者である岩稜会側のこれは一つの反論である。
掲載文の最後に「目下『ナイロンザイル事件』第二号の準備中であります」とあるが、これは昭和34年8月31日に発表された『ナイロンザイル事件に終止符をうつに際しての声明』で集約されたものと考える。
右の表紙をクリックしてください 全文お読みいただけます
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5月5日 父宛 若山富夫叔父からの手紙
富夫叔父は、ご存知のように父に残された2人の弟の上の弟であり、若山家の跡取りである。
以下の解読清書をお読みいただくとお判りのように、当時の『氷壁』熱の高まりを具体的に記してみえて興味深い。
拝復 御便りならびに中日への申し入れ文,有難く拝見致しました。相変わらず御多忙にて大変の事と御察し致します。
ナイロンザイル事件も,その後急速に好転して何よりと喜んでいますが,3月28日引っ越ししてより2週間程ごてごてして新聞も取っていなかったため,ナイロンザイル切断して2名死亡等の事件も見越へ行って初めて知ったり,又,4月3日の中日の記事も見ていないような始末です。
5月2日より4日にかけて会社の人と焼岳登山に赴き,お墓へも参ってきましたが,5月4日帰りに島々駅にて岩稜会の伊藤さん外3名の人と会い,ナイロンザイル事件やその外のいろいろの問題を聞きました。現在迄の努力が実を結んで来た事と思い感謝の外ありません。島々の売店でも『氷壁』と木に書いた壁飾り180円が良く売れると言っていましたし,又,バスの中で「沢渡へ着いた時に,この店が『氷壁』に出て来る店でないか」とか言ったりして,何しろ『氷壁』で,いろんな所が新たに有名になり,又,ナイロンザイル事件も当然有名になっている事と存じます。伊藤さんも電車の中で『氷壁』でいろんな人が金もうけをしているが,本元の我々は損ばかりだと笑っていましたが,その代わりにナイロンザイル事件の真の姿が社会の人々を驚かし始めた事と存じます。伊藤さんの話だと本(『穂高の岩場』)も5月下旬にはいよいよ発刊の見通しがつき,岩稜会の大きな発展ともなり,ナイロンザイル事件の解決にも大きな影響が加わるものと思っています。
末筆となりましたが,御家族,御一同様の御健康を御祈り致します。
では右取り急ぎ御返事かたがた御一報まで。 敬具
昭和33(1958)年5月5日
兄上様・御家族御一同様 富夫 拝
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5月16日 父宛 新島章男氏よりの速達手紙
朋文堂の創業者から、直々の原稿催促状である。
あちこちから依頼された原稿の執筆が大変だった父であったし、ナイロンザイル事件のことを知っていただくために、その関係の原稿もしっかり書かなければならなかったが、昭和29年から4年越しとなる『穂高の岩場』の執筆も最優先しなければならなかった。
遅々として進まぬ本の出版に、朋文堂が業を煮やしても当たり前である。
石岡繁雄様 新島章男
その後は御無沙汰していますが,『穂高の岩場』の文字原稿非常に急いでいますが,何日頃,御送付いただけますか。2年越しのものではあり,読者から大分おこごとが来ていますし,一日も早く発刊の運びにこぎつけたく御返事お待ち申し上げます。 早々
5月16日
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5月27日 岩稜会宛 中岩武氏よりの手紙
ナイロンザイル事件に対する激励と、執筆依頼の手紙である。
以下、解読清書。
突然お便りを差し上げます。
『山と渓谷』誌 第227号誌上にて貴会のこと,及び,ザイル事件の事を知り,筆をとった次第であります。
事件の真相については,井上靖氏の『氷壁』や,その映画等でうすうすは存じておりましたが,貴会の訴えを拝読させていただき,社会の矛盾とでもいうものに対する憤りを禁じえませんでした。自分も大阪大学に学んだ事があるのですが,学問――神聖であるべき――が売らんかなの商業主義と結びついて自らを汚すということには,痛憤せざるを得ません。
映画「氷壁」は,事件の真相をえぐって,真実の叫びを吐露する代わりに,甘い恋愛に終始する等,甚だ不満でしたが,更に第2号を準備されておられるよし,実に遺族の方のためにも心強い限りだと存じます。 私は,泉州で仲間と共にある雑誌を出しているのですが,その中には山の仲間もかなりおりますので,もし事情が許されるようなら,寄稿していただければと存じます。
又,事件の詳しい資料や経過,裁判の見通し等をお寄せ下さいますなら,大変幸甚に存じます。
突然,勝手なお願いを申しましたが,よろしくお願い致します。
御健闘をお祈り申し上げます。
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5月29日 若山富夫叔父宛 上野達也氏よりの手紙
富夫叔父は、ナイロンザイル事件解決のために、自らも各方面に働きかけていた。以下は日本繊維機械学会からの返事である。
昭和33(1958)年5月29日
社団法人 日本繊維機械学会 上野達也
若山富夫様
拝復 本会誌見並び記事のナイロンザイルに関する事項についての御書面並びに読資料拝受いたしました。大事な問題とおもいますし,会としても処置を講じたいとおもいますので,編集委員会にかけたいと存じます。いずれ当方の方針が決まりましたら御連絡したいとおもいますので,ざんじ御猶予下さい。
匆々(草々)
これまでの解読清書の中の、緑字は変わらず追記や注記であるが、右の手紙のように、旧字体を使用してある「匆々」などは、読みやすいように「早々」のように、注記を入れずに直してある記載が多いので、お許しいただきたい。
また、文中の赤字は、読み取れない、または意味が解らない文字であるが、明らかな記載ミスと思われる文字は、注意書きを入れずに直した物もあるので、こちらもご了承いただきたい。 |
5月31日 毎日新聞記事「北ア上高地に遭難者慰霊塔 山へのいましめ 『氷壁』モデル沢田君の願い実現へ」
この記事の沢田君とは、五朗叔父遭難の時のパ-ティの一人、澤田榮介氏のことである。このことに関しては、このHPの<その9>「五朗叔父の碑 原図」のところに掲載した。
クリックしてください 大きくなってお読みいただけます |
6月4日 中部日本自動車学校学生手帳
父は、車の免許を取得するために、自動種学校に入学した。しかし、運転実習の初日6月7日に、6歳だった私を後部座席に乗せて練習し、急ブレ-キを踏んでしまったために、私は前の座席まで飛んで、頭にコブを作ってしまった。父は「わしに運転のセンスはない」と言って、たった1回きりの実習で、免許を取ることを断念した。
父は、考え事をしだすと自転車に乗っていても田んぼに突っ込んだりする人であった。自動車免許を取らなかったことは、良かったのかもしれない。 |
6月6日 特許出願「動力伝動装置」の写し
父は、原稿書きに血眼になっていたはずだが、こんなことも考えていた。一つ考えつくと形にしなければ気が済まない人であった。
特許出願の歴史は古く、昭和23年8月20日には、最初の特許を若山繁雄の名前で出している。その名称は「不足電圧開放器の改良」であった。
父の特許出願は生涯で、日本特許・実用新案・意匠登録・国際特許を含めて209件であった。 |
6月8日 母宛 父よりの葉書
土曜日の朝東京へ着いて、学校の仕事で立川のそばの一橋大学で打合せをし、また月曜日に来る約束をして、名大の寮へ行きました。途中渋谷の東横百貨店(東急百貨店東横店)で、土産を買いました。何は?って、それは後のお楽しみです。寮の四畳半でじっくりとかまえ、『穂高の岩場』の仕事を始めました。案外混んでいて、夕方名大文学部の教授と同室となりました。その教授が「僕はイビキが大きいので、宿でも隣の部屋の人が逃げ出す」ということで、「私もイビキが大きいから競争をしましょう」と言って笑いました。夜12時まで仕事をしたので、その教授が寝てしまいました。最初しばらくはイビキを我慢していたらしいのですが、やがて大イビキになりました。とてもやかましいので、私も寝ました。朝起きて「イビキはどうでした」と聞かれるので、「大したことはなかったですよ」と言いましたら、安心していました。日曜日は朝からがんばって、夜11時まで座りきりで、約2/3済みました。しかし大分くたびれました。今朝月曜日、再び一橋大学へやってきて、今その国立という駅の前の郵便局で、この手紙を書いているところです。1時間ほど約束の時間より早く着いたからです。
午後は朋文堂で仕事をします。青焼きが大分できているようで楽しみです。
もし急な用があれば朋文堂へ(電話)下さい(29-3213)。帰りの日が決まったら、また手紙か電話します。ではさよなら。
石岡繁雄
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6月14日 朝日新聞記事「遭難防止のために」
この記事には、谷川岳で起きた遭難を上げて、多発する遭難防止の呼びかけをしている。その中に、ナイロンザイルのことも記されている。以下は、父が余白に書いたコメントである。
ナイロンザイルが岩角に弱いということは、もはや隅々まで広まった。しかしまだナイロンザイルの切断による遭難があとを絶たない。外国でもこの点は同じである。
右の記事をクリックしてください
大きくなってお読みいただけます
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6月14日 朝日新聞記事「夏山は登山ブ-ム」
小説と映画の『氷壁』が大ヒットしたために、登山客が急増したという記事である。
例のように、右の記事をクリックしていただけば、拡大してお読みいただける。 |
6月17日 岩稜会宛 中岩武氏からの手紙
5月27日付の手紙に次ぐ第二伸である。ナイロンザイル事件を闘うための方策について、鋭い質問をされている。以下、解読清書。
拝復
ご多忙中の処,貴重な資料を御送り下さいまして有難う御座居ました。直ぐにも御礼申し上げるべきところ,大変おそくなりまして申し訳ありません。
早速に熟読させていただきました。ますます真実に対する確信と,一種の勇気に似たものを憶えずにはいられません。力とか権威とかいうものが,時として真実をおしのける様なことをしでかすものですが,この事件も又その一つでありましょう。時あたかも,菅生事件(すごうじけん)(1952年6月2日に大分県直入郡菅生村<現在の竹田市菅生>で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件。犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件である。当時巡査部長として潜入捜査を行っていた警察官は有罪判決確定後も昇進を続けてノンキャリア組の限界とされる警視長まで昇任した)の判決が新聞紙上をにぎわしている折から,一層その思いを深くし不安の念を抱かされます。
さて,御多忙中の上,又々やっかいな事を申し上げますが,次の諸君(諸項)につき御質問する事を許していただきたいと思います。
(1)検察官は不起訴処分にしたそうですが,もはや法的に争う道はないのですか?(又,現に争ってはいないのですか?)
(2)社会的良心に訴える事以外に,何等の方法はないのですか?
(3)資料(B)の中部日本新聞社への申し入れでは,篠田教授の本意ではない事を新聞が発表した事に最大の原因があるかのように主張されていますが,これは,いささか,前後の資料や事情と反するように思えないでもないのですが,私は,新聞社の責任を追求する必要上,こういうニュアンスをつかわれたのだと理解するのですが(つまり,新聞社の発表はどうあれ,篠田教授にもっぱらより大きな社会的責任があると),いかがでしょうか?
自分は中部日本新聞社の記事と,(昭和)32(1957)年7月31日付篠田教授の談話がどんなものかよく存じませんが,(昭和)33(1958)年4月3日の中部日本新聞の記事のみにて,貴会の名誉が回復されたものとは考えられません。
(4)既にナイロン・ザイルの発表は中止されているとか,製造はストップされたとか言われていますが,実際あの事件を契機としてそうなったなら,篠田教授の実験は事実をもって打ち破られたのではありませんか?(もっとも,実験そのものと新聞発表とが本当に食い違っているならともかく)
思いつくままに,ずい分話はずれた事を書きなぐったかも存じませんが,ご寛容下さい。
『岩と雪』は未だ入手致しておりません。一日も早く読みたいと首を長くしております。田中浩氏には是非お会いしたいと思っております。
また,夏山シーズンが近づきましたが,貴会の真な御努力が実を結ばれる事を祈っております。
さて,私共の雑誌について少し触れさせて頂きます。
題は『十六号線』(大阪――和歌山間国道)と名付けており,2,3年の空白を置いて最近復刊した泉州一帯の総合雑誌です。いわゆる進歩的な人達がより多く執筆しておりますが,ドイツのアンナ・ゼーガース女史(小説家)の本邦未発表作品を掲載しているのが,ちょっとしたミソでしょう。
事件の大要については,既知の人が多いと思いますので,実験について,あるいは新聞発表,検察庁の事件の取り扱いについて,その他,社会的に問題を残した点について,貴会の御見解をお寄せ下さるならば甚だ幸甚で御座居ます。
7月10日までに私方までお送り下さるようお願い申し上げます。
長さは,適当に御判断下さって結構で御座居ます。
よろしくお願い申し上げます。 敬具
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6月20日 山岳雑誌 山と渓谷社発行『岩と雪』創刊号「ナイロンザイル切断事件の真相」岩稜会石岡繁雄著 94頁~116頁までに掲載。
この長文の記事は、3月15日発売の『講座』2号に掲載された「前穂高岳に弟を失う」に加筆されたものである。『講座』の<(1)まえがき>から<(7)公開実験の社会的影響>までは、全て同文で、その後<(8)遺体の発見><(9)現場検証><(10)その後の経過のあらまし>と続いている。
この記事は、ナイロンザイル事件が判り易くしっかりとまとめられているので、是非ご一読願いたい。
右の表紙をクリックしてください 全文お読みいただけます |
6月21日 岩稜会「夏山合宿打合せ」
以下に、清書する。
夏山合宿打合会決定事項書(1958.6.21) 岩稜会
1.目標
A. アタック
右岩稜を合宿後半にアタック
B. 写真撮影 <穂高の岩場甲>
屏風中央壁B1迄の下降、第3ルンゼ、北穂東稜、涸沢合宿風景
前穂3峰フェース、下又白下降、霞沢岳、焼岳から上高地
2. 行動予定
A. 先発
8/2 出発(夜行)
8/3 横尾河原
8/4~5 下又白下降を除く全部
8/6 奥又白池へ移動
B. 後発
8/5 出発(夜行)
8/6 奥又白池
8/7~9 右岩稜、下又白下降
8/10 撤収
3. 登降器具の購入
A.ハーケン シャモニー 40発 \3,000
B.埋込ボルト
C.ザイル 東京製綱 11mm 40m 1発 \4,000
D.ヘルメット 3発 \2,100
4. ナイロンザイル事件その後の経過
A.篠田教授にもう一度謝罪を要求する
B.謝罪を拒否された場合には民事訴訟の方法で追求する
5.
ヒマラヤ遠征資金の寄付
見越のおばあちゃんより、遠征資金として15,000円を寄附されたので、ありがたく受け取りました。
6. その他
A.神校山岳部の合宿参加を誘う
B.合宿参加者
食糧計画の都合があり、未決定者は7/10迄に出発日、期間を通知されたい
尚、現在までの参加決定者は
先発 バッカス、社長、本田兄弟、山田、三林、中道、長谷川、山宿、佐藤、佐野・毛塚
後発 石原國、新井、太田、相原
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6月25日 『登山講座』第1巻「ザイルの強度について」P136-146 石岡繁雄著
同「御在所岳の岩場」P313-319 岩稜会著
この二つの記事は、川崎隆章氏から依頼のあったものである。
この『登山講座』は1958年に1巻が出されてから、1960年に別巻が出されるまでに6巻を数えている。
右の表紙コピ-をクリックしていただくと全文お読みいただける。 |
6月26日 父宛、新島幸男氏からの手紙
またもや、催促状である。
父ができ上がっている文章を変えるので、困ってみえる。この父の文章変更癖は、死ぬまで変わることが無かった。私も散々父の原稿の活字化清書をしたが、出来上がると直ぐに直して、また打ち直しということが何度もあり辟易したのを思い出す。
御伝言の件,石川正夫氏に早速連絡してみましたところ,航空写真と概念図を並べるようにレイアウトを変更すると字数にも影響あり,最初の割付通りにしたい由。これは今から変更することは,すでに完全原稿として印刷所に渡冊後ではあり進行上にも悪影響が生じますので,私方としてもレイアウトマンの意志を尊重して,このままにして頂きたくお願い申し上げます。
タキ谷(滝谷)ネガ借用の件は石川君記憶にない由につき,恐縮ながら何頁のどの写真のネガを誰から借用するのか改めて私まで御申越し頂ければ善慮いたします。
出来上がりは,きっとスッキリしたよいものになるとは存じますが,余りに予告より遅れ,読者からは文句が来るし,最初契約の印刷所ではやれなくなるし,いささか弱音を吐いています。先ず最初に文字の写真植字の校正を近日中出校いたしますから,できるだけ早く返校方,あらかじめお願い申し上げます。校正は普通活版組と違い,後からの挿入削除が困難ですので,可能な限り3字削れば3字増やす式に御配慮願い上げます。先ずは要用のみ。 早々
6月26日 新島章男
石岡繁雄様
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6月 機関誌『全岳連』第5号 全日本山岳連盟
この掲載文は、右の赤囲み部分で、短いので以下に記す。
三、ナイロンザイルの件
三重県岳連提出のナイロンザイルに就いての全岳連研究委員会の研究発表依頼の件は、尾関副会長仲立ちとなり岩稜会伊藤経男、伊藤忠雄両氏と共に再三東京製綱社長及び高柳麻綱課長等と会見、接衝の結果、東京製綱は岩稜会に対し、一切の事に就いて深甚なる陳謝の意を表したので円満解決した。
このスクラップブックの頁余白に記された文。
ナイロンザイル事件のうち東壁事件はともかくも解決。残るは蒲郡事件だけとなった
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6月 雑誌『平凡』マンガ「てんてん娘」倉金章介氏著・「ひょうたん駒子」手塚治虫氏著
『氷壁』の映画化で、ますます知名度の上がったナイロンザイルは、マンガにまでなるようになった。どちらのマンガも「ナイロンザイルが切れる」ことが出てくる。以下をご覧いただきたい。
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6月 横浜税関山岳部機関誌『榾火』No.87「切れたナイロンザイル」植木知司氏著
4月号で掲載された「世にも不思議だった物語 『氷壁』の背後にあったもの」の間違い部分の訂正が載った。右の表紙をクリックしてくだされば、ご覧いただける。
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7月1日 伊藤経男氏宛 植木知司氏よりの手紙
上記の『榾火』同封の添え状で、同4月号No.85に載せた記事の間違いに対する詫び状である。
以下、解読清書。
梅雨時とは申せ連日の干天、早くも夏山が訪れて参りましたね。貴殿、益々御活躍の御事と察し申上げます。
去る日、私共の山岳部・部報"榾火"に貴会のナイロン・ザイル事件を"世にも不思議だった物語"として、掲載しましたところ、私の至らなかった為に間違った筆になってしまったにもかかわらず、御親切な御教示をいただき、誠にありがとうございました。深くお詫び申し上げると共に御礼申上げます。この件につきましては訂正方々同部報6月号に"切れたナイロンザイル"として掲載致しましたので同封致します。
ご一読いただければ幸いです。(これはもっと早くお送りする予定でしたが、発送の不手際から今頃となってしまい申し訳ございません)
貴会が穂高を始めとした岩場に於ける御活躍は、耳、目で拝聴、拝見し、その御努力にはただただ頭の下がる思いでおります。今度朋文堂より出版される"穂高の岩場"私もその発行を心待ちにしている一人ですが、ともかく貴重な資料が書棚を飾る日を楽しみにしております。
今後とも、よろしく御指導下さいます様お願い申上げます。 |
7月15日 印刷物「岩稜会員に告ぐ」岩稜会会長石岡繁雄著
この印刷物は、岩稜会会員に向けて書かれたものである。
これまでにこのHPで掲載した石原一郎氏と國利氏宛の父の手紙にも見られるように、長引くナイロンザイル事件の追求と、『穂高の岩場』出版のための作業に従事しなければならなかった岩稜会員は、ジャヌ-遠征計画もなくなってしまったため、不満の声が高まり、父も谷本先生に相談したり、ずいぶん苦しんだと思うが、ついにこのような文を書くに至る。擦り切れて読みにくいため、以下に清書する。
岩稜会員に告ぐ 岩稜会会長 石岡繁雄
私は,会の責任者として以下のことを述べる義務を感ずる。10年以上の経歴を有する当会会員諸君に,こういうわかりきったことを今にいたって述べなくてはならないことは誠に残念であるが,それかといって絶対に放置出来ない問題である。
(イ)当会では現在以上に大きな危機と見られる時代が過去に1回あった。それはあの屏風岩登攀に大きな功績を立て,且つ当時会の運営の柱となっていた本田善郎君を除名した時である。従ってその当時の会員は,これから述べることはよくわかっているわけであるが,その後新しい会員が増加し,こういう登山のモラルについて勉強不足となり,それにあまりにも平穏にすぎてきたため,この基礎的なことをうっかりしている者が出来,そのために今回の問題が発生したと考えられる。ここに,この大切な点を明らかにするとともに誤って考えていた者は,即刻正常にもどってもらいたい(なお,本田君については,当時の私の決定をよく了解され,1年前再び会に復帰され目下大いに活躍中であることは諸君御承知のことである)。
考えてみるとこういう危機はどこの山岳部にもある。その乗り越え方によってそのクラブが立派に成長するかどうかがきまる。換言すれば,会が立派になるかどうかは,こういう問題がおきたとき責任者である者がその解消のためどれだけ努力をするか,そして会員がそれにどういう反応を示すかによってきまるのである。ふりかえってみるのに私はこういう手紙をこれまでに何回もかいてきた。その度に諸君は私の気持ちを了とし危機をうまく乗り越し,今日の岩稜会をきずいたと信ずるのである。今回ももとよりうまく乗り越えられると思っている。もしそうでなければいうまでもなく岩稜会は解消されるべきである。この問題は人間の生命に直接かかわるからである。
(ロ)岩稜会は,いわゆる実業団山岳部である。山を登り山を研究することによって,お互いの親しみを増し,お互いに楽しみ合う会である。又,それによって登山界と社会に何らかの貢献をする会である。
楽しみは一般のスポーツと同じで困難な目標が達せられたときほど大きいので,我々が困難な目標を目的にすることは当然である。しかし困難な目標はそれだけの力なくしては達せられない。同時に,困難な登山ほど危険がともないやすい。遭難が発生したのでは楽しみはない。それどころか,学校山岳部と異なって実業団の場合は,社会の圧迫のため消滅のうき目をみる。即ち,危険防止は何にもかえられない大切な点である。危険を冒すくらいならば登山をやめた方がよい。危険防止のための第一のものはチームワークである。人の和である。少なくとも,お互いにわだかまりがあることをみとめながら,漫然と困難な目標にあたることは許されない。チームワークの万全でないことを意識しつつ先人がなしえなかった危険に立ち向かうことは罪悪である。
チームワークとは指導者(リーダー)を中心として打って一丸となることである。それ以外にない。個人個人に当初は不平があっても,会の目標が決定したからには,喜んで協力することが必要である。これが出来ないで会に非協力を表明し別行動を宣伝し,他の会員をそのために説得するような会員は会員の資格はない。すべからく会を退いてその者の好む会に赴くべきである。
「会の目標はこうだが俺は賛成しないから別のことをする」というのではチームワークは成り立たない。計画が失敗するばかりでなく遭難の発生の可能性が大いに増大する。「俺はボッカなんかやりたくない。アタックがやりたい。アタックメンバーに入れてくれなければ別のところを俺だけで登る」というのが幼稚な山岳部ではよくあることである。実際万人に向く計画などというものはない。ヒマラヤ計画にしても隊員以外の者は長い間山へも行けずにうっとうしい仕事に従事しなければならない。このことは確かに不服であろう。しかし,その不平をこらえて協調出来るかどうかがその会員が出来ているかどうかを示すものである。又,そういう不平を許すような会ではヒマラヤの資格は全くない。以上要するに,チームワークに欠点のある会は,困難な目標を選ぶ資格がないことを述べた。
(ハ)その他,会の運営について諸君が知っておかねばならぬことがある。
① 我々の会は学校山岳部と異なり,実業団であるので社会的事情を考慮し,これに対応しなくては,結局,会員はその圧迫を受けて会は滅亡してしまう。10年前屏風岩登攀のときでも我々は鈴鹿市,三重県の一般人のサービスのために多くの時間をさいていたのである。今回でも社長が三重県観光課に協力するために大きな犠牲をはらったり,金城山岳部や(須賀顧問直接の依頼による)名大関係者にサービスすることも上記の意味からも大切であり,とくにヒマラヤ計画を少しでも有利にするためには,絶対必要なのである。それもわずかなサービスである。同様にして現在,各地の高等学校で教鞭をとっている5名の会員諸君がその学校のために山を通じてサービスしていることは,会の方針にも全く一致することである。会のこの方針に対し反対を主張しつづけることは危険な認識不足であり,絶対に許されないことを承知すべきである。
② 会の目的が定まったならば,その達成をまって次の大きな目標に移ることが,仕事を立派にやるためにも危険防止のためにも是非必要である。「二兎を追うもの一兎をえず」のたとえがあるが,このことは登山には特に大切である。又,次の大目標を定めるときには,まず計画の当初において,リーダーとか,本会においては,幹事会にはかってよく検討の上,リーダーの決定によって行うのが当然であって,今回のように一人の者が考え,それを一部の者に話し,リーダーに知らせることなくその準備をし,既成事実にしてしまうやりかたは,全くいけない。この前例はチームワーク破壊のもとであり,もとより危険なことである。誰もかれもそういうことをしたならばどういうことになるか,考えてみるまでもないことであり,今後二度とくりかえされてはいけないことである。
(ニ)以上のことは単に技術があるという長所のためすべてに優れているかの如きうぬぼれによっておきることが多い。このうぬぼれが人間を無反省にする。登山は技術だけではない。人の生命をあずかるのである。3年や4年の経験では不充分である。又,技術がうまいということは,他の人間との比較でいえることである。従って,人間の登ったルートならばいつも登れる。だから俺は無敵だとウヌボレるようになる。人が登ったことのないルートでは登れるかどうかはまるでわからない。そういう時にこのうぬぼれは大いに危険である。こういう者を困難な登攀のリーダーとするときは遭難の可能性がある。今までの登山史がそれを示している。たとえば,自分が登れなくなるとこのうぬぼれが急に破れるため理性の判断を欠き自分でも登れないというその困難な場所へ力のない新人をまんぜんとトップに立てるというような決定を行うことになるのである。リーダーは,技術よりも経験があり,メンバーの意見を虚心にきく,正常な理性を失うことなく,人の和を主とし,安全を旨とするものでなくてはならない。ましてや今回述べているようなことで認識不足をおかしているうちはとうていその資格はない。
又,リーダーは困難な場面に立ちいたって進むか退くかを考えるとき,会員の中で安全な方を主張する者があれば,自分は登るべしと思っても安全な方の主張に従って決定を下した方がよい。万一自分の判断にあやまりがあるとも知れないからであり,もしあやまれば死であるが,一方,安全な判断に従っておけば誤っていても登れなかったということだけですむからである。
又,次の機会をねらえばよい。たとえば,次の目標を右岩稜にしたような場合,登攀のリーダーとなる者は,この点とくに留意しなくてはならない。要するにリーダーは,自分は人間である以上,自分の判断は必ずしも正しいとはいえないこと,又かならず遭難してはいけないことを常に考えていなくてはいけないのである。
(ホ)さて,今年の計画で,私は『穂高の岩場』下巻のための山での最後の仕事,約3,4日分を完成の後(雨ならばもとより順延),つまり『穂高の岩場』という朋文堂の社長の依頼によって始まったこの大きな目標完遂の後に,右岩稜という次の目標に進むという決定を行った。あらゆる事情から判断して,それが妥当と考えたからである。『穂高の岩場』の仕事に対してはチームワーク不足でもさして危険の心配はないが,次の目標である右岩稜は古来悪絶をもってうたわれた未登の岩壁で,甚だ困難かつ危険な場所である。これを会の目標にするからには会のチームワークには一点のくもりがあることも許されない。しかも現状では会のチームワークは全く不充分である。従って私は,今しばらく会の様子をみていてそれでなおチームワークが改善されなければ,私は右岩稜という次の目標に移ることを禁止しなければならないと考える。右の判断並びにこれにもとづく計画の変更については,7月25日までに全会員に通知する(現在としては,一応従来の線にそって準備をつづけられたい)。どのような決定にしろ会の総意の上でその権利を与えられている私の決定に対し,不満のある者は直ちに会から去ってもらう。このことは会の責任者として又もし遭難がおきればどのようなことになるかわからない鈴鹿に住む社長や私の立場としてその責任上当然の決定である。山の問題のうちでもとくに危険防止に関しては,歯に衣をかぶせて討論されてはいけない。徹底的でなくてはいけないし,不安を感じたならば遅延は許されない。私は全会員が気持ちよく率直にこのぶしつけな警告を受け入れ反省すべきは反省して,立派なチームワークをもって,会の向上に一致して努力してくれることを信じて疑わない。
なおそれについて山と渓谷社の近刊『登山講座』第1巻早大山岳部の杉本氏の「リーダーシップとメンバーシップ」の中から左記(下記)を引用した。さすがに長い伝統をもつ早大である。この大切な問題について少しのあやまりもない。
① 重要な決断を下す際,隊員の意見を聞くことは良いが隊全部の行動を多数決で決定する如きは,絶対に避くべきである。
② 計画の実施にあたって一番大切なことは,リーダーは全計画の実施状況をその時々において正確に掌握しなければならないし,メンバーは各自の任務を知悉(ちしつ)して良くリーダー指揮下に入らなければならない。
③ 登山において大切なことは,ある程度の教養と登山技術を基礎とした経験であるが,誰がこの点にすぐれているかと判定することはなかなか困難であって,ここに他のスポーツと異なる点がある。同一山岳団体に所属して多年の間には水が低きに流れるが如く自然に決定されてゆく。この間の事情を説明する例は,マナスル遠征における槇隊長の例であって,他のスポーツでは60才前後の隊長,指導者は想像も出来ないであろうが登山の世界では立派な成果があげられる。
④ パーティーにある程度の経験があるメンバーがあった場合とか,大学山岳部員でいえば2年部員位で生意気盛りのメンバーがいる場合には,リーダーの指令が虚心坦懐に受け入れられぬことがある。しかし,若干の遅延や論争が隊に致命的な結果を招来することさえあるのだから,リーダーは自分の経験能力に自信をもって,またメンバーの意見を取捨して敏速果敢に判断を下さねばならない。そして,又リーダーは一たん指示した後はメンバ-に反対意見や不平を許してはいけないし、メンバーもその指示に服すべきである。
⑤ 隊の協調とはチームワークである。登山以外の団体スポーツではチームワークがとれなくても試合に負けるだけであるが,登山では生命の問題である。登山においてはあらゆる面のチームワークが必要である。優れた大学山岳部やクラブ山岳部で良くチームワークがとれているのは,チームワークを重視して不適格な者を部から淘汰しているからである。
⑥ いずれにしても各メンバーの注意の焦点,チームワークの焦点をリーダーに集めて,リーダーが協調の中心になることが必要である。
⑦ チームワークに不安のあるときは,高度の登山を行ってはならない。
⑧ メンバーとしての心得は,リーダーの立場を理解し指令に服するためにも,リーダーシップを勉強すべきである。又パーティーの方針が決まっていないときにリーダーに意見を申し出るのは少しも差し支えないが,一度リーダーの意志が決定し指令がだされた時は,喜んで服従するようでなくてはならない。ブツブツ不平を言ったりしてパーティーの気分をこわし,チームワークをくずすことは一番いけないことであって,スポ-ツマンらしくあっさり服従すべきである。
⑨ メンバーがあってリーダーがある以上完全な自由はないのであって、オーケストラに指揮者がある如く共通目的に向かって各メンバーの意思を統制する必要がある。
⑩ リーダーにも過失がないとは限らない。しかし,リーダーの過失はおそらく注意を払いすぎた結果であって,不成功の場合にもリーダーの行為が正しかったと認めることはパーティーにとって少なくとも安全であると同時に,不服や不賛成を表してリーダーを非とすることはパーティーの調和と活動力を破壊するものである。
以下は、父がこの印刷物を貼った余白に記した文である。
「ナイロンザイル事件」も「穂高の岩場」も実に長い試練であった。いやになるのも無理はない。これは,そのときの苦しさを物語る一コマである。
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7月18日 父宛、谷本光典氏からの手紙
父の苦境を聞いて、暗澹たる思いで書かれた手紙である。父の生涯を通して支えてくださった大親友谷本先生ならではの文章に心打たれる。
今頃こんなことをバッカスが声を嗄らして(からして)叫ばねばならぬとは!
唖然とし,次いで暗然とし,正直な話,私は溜声(ため息)をつきました。過去にあれだけの立派な履歴を持ち,将来もまた大きな未知数として注目をそそがれている岩稜会。井上靖の『氷壁』という媒体を通じてではあるが,社会にあれほどの問題を投げつけた岩稜会。屏風岩を登り,東壁を片付け,不幸な事故を単なる事故に終わらせず,あれほど輝かしい教訓を掬み(すくみ)とっている岩稜会。それほどの岩稜会が,今頃あんな基礎的なことでリーダーが心を配らねばならぬとは,ちょっと信じられない気がします。しかし現実の問題としてバッカスがああ言わねばならぬ事態が生じているとすれば,あの文書を以て全会員の反省を求めねばならぬことも当然でしょう。会の中の指導的分子にリーダーシップの欠けていること,人の和の乱れ,会員一人ひとりの自暴目的の主張,分派行動といったような,山岳会として致命的な欠陥が現れたことは推察出来ますが,あの文書の中に,それが具体的に書かれていないことが残念です。あなたとしては,それは読む人が自分の胸に聞けばいいと思われるでしょうが,そのような無自覚分子は,抽象的な注意ではなかなかぴんとこないものです。そんなことで判る人は,最初からそんな方へ間違ってゆかないものです。具体的に,あの時のあれはこう,これはこうと実際に起こった事を指摘して,注意を喚起するという方法をとられるとよかったのではないかと思います。そのことがたとえしばらくの間,会の中へ気まずさを持ち込んだとしても,やがては正しく消化されて行くものと思います。私の想像するところでは,会の中で石原兄弟派の反逆的行動,ダラ幹化が根底にあると思います。あなたも言われる通り,こんな問題は歯に着物を着せてはいけないと思います。会員とあの文書の内容で会談される時,必ずその点を補足される(具体的な事実を引き合いに出す)ことを希望します。
観門(観法:意識を集中させ、特定の対象を心に思い描くことによって仏教の真理を直観的に認識しようとする修行)とは誠に名ばかり,ロクな知恵も出ませんが,以上のように思います。
実をいうと私は最近,あなたや岩稜会に関したことではありませんが,信頼していた人から手ひどく裏切られて,広い意味の人間に対する不信といったようなショックを受けた直後ですので,あなたの持ち出したケースはそれとは全然違いますが,山と,それを介しての人間同志の間柄に不信を基底とするトラブルが起きているのと,殊にそれが信頼している岩稜会の出来事だというのは一層ショッキングに感じます。願わくば,この大きな障害を効率的に乗り切って,岩稜会が大きく飛躍してほしいと衷心より祈っています。誰にも傷がつかないようとか,世間体が悪いとか,あの人の顔を立ててとか,コソクな手段を選ぶことなく,根本的な対策を立てることが肝要です。
以上,とりとめなき乱文,御判読下さい。難関をうまく乗り切られることを心より祈ります。 おたに 拝
バッカスどの
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7月22日 父宛 石原一郎氏からの葉書
結婚報告と住所変更の葉書である。
住所にある宇佐美悦二方とは、祖母照尾の実家である。
一郎氏は結婚という節目にあり、岩稜会の仕事にも従事する事が出来なかったのだと思われる。 |
7月24日 父宛 福田正勝氏からの手紙
以下で掲載する『アサヒグラフ』「一家揃って山登り」に掲載された6家族の内の一方からの手紙である。
右の資料をクリックしていただけば内容をご覧いただけるが、「一家揃って山登りの集い」とか「家族ぐるみ山岳会」のような名称で会を作りたいという内容である。
この会に石岡家が入ったという記録は残されていない。 |
7月27日 雑誌『アサヒグラフ』「家族揃って山登り!」
この記事に掲載された写真は、7月6日に名古屋自宅応接間で写された。
記事の内容には、若干の誤りがある。姉の年齢は13歳、私は6歳であった。また、文中の「岩稜会(名大山岳部)」は、「岩稜会(旧制神戸中学山岳部OBを母体とする山岳会)」とされなければならない。
家族揃って出演したテレビの思い出を、ここに記しておこう。
昭和34年7月3日に東海テレビに行き、撮影があった。この放送は、生番組であったか、録画であったか定かでない。ただ、せっかくのテレビ出演ということで、可愛いワンピ-スを着せられた私は、姉の隣に座り、照明が暑くてしかたがないので、スカ-トをヒラヒラさせて涼を取ろうとした。すると姉が隣からスカ-トを抑える。他のことは全く覚えていないが、このことだけはしっかりと覚えている。
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7月31日 父宛 大森久雄氏からの手紙
朋文堂の大森氏からの手紙には、『穂高の岩場』の発売を1年延期すると書かれている。遅々として進まぬ進行状況に困り果ててのことと思われる。以下に解読清書。
前略
暑気厳しき折、御健勝のことと存じます。
『穂高の岩場』については種々御配慮をいただき厚く御礼申し上げます。
さて、これははなはだ唐突で、また申し上げにくいのでありますが、本日、編集・営業の合同会議の際、『穂高の岩場』の現在の進行状態が問題になりました。現在のままでは発売は8月下旬あるいは9月上旬になりますが、それでは当初の予定を大幅にずれることになり、社長をも含め慎重検討致しましたが、営業政策上やむを得ず、発売を一年延期しなければならぬことになりました。
写植原稿の直しが予想以上に多く、その進行が思うように捗らず、また文字原稿が全て校了になりませんと、写真の青焼きが出稿せず、現在の文字原稿の進捗状況から見て、とうてい予定の8月上旬には間に合わず、まことに申し上げにくいのでありますが、来年春 上下巻引き続いて発売致したいと存じますので、石岡様の方にも種々御予定があることと存じますし、その御予定を狂わせてしまうことは、当方としてもまことに遺憾なのですが、事情御賢察の上御諒承いただきたく、伏して御願い申し上げます。
昨年今年と引続きの延期には、何ともお詫びのしようもございません。
延期につきましては、文字原稿は、御不満の部分は新規に改稿いただいて結構ですが、その際には今回のように校正が出てから大幅な直しはございませんようスムースに進行ができますよう、伏してお願い申し上げます。尚、写真の方はいっさい現在のままで進めさせて頂きたいと存じます。
まことに突然で、しかも不快なことでまことに申し訳なく、さぞ御立腹のことと存じますが何卒まげて御諒承いただきたく、よろしく御願い申し上げます。
このことが本書刊行に熱意を注がれている岩稜会の皆様に与える打撃も多いことと存じますし、御期待に添えないのはまことに申し訳ないのでありますが、何分にも写植文字の進行がはかどらず、重ねてお詫び申し上げると共に御承認くださいますようお願い申し上げます。
尚、小生明日より用務にて山へ入りますが、留守中は編集の横山が責任を持って代行致します故、よろしくお願い致します。 編集部 大森久雄
石岡繁雄様
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8月2日 昭和33年夏山合宿計画 岩稜会
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この合宿には、左の資料にあるように、岩稜会員19名が参加したが、その他に、須賀太郎教授・須賀勝彌君(須賀先生長男)・金城学院大学山岳部・石岡家下宿族・中日新聞社古門茂雄氏なども参加となり大世帯での合宿となった。
岩稜会は『穂高の岩場2』の写真撮影を主眼として、屏風岩中央カンテAフェース下降隊を上級者で編成して、その方々を写しながら、他の岩稜会員は慶応稜より北壁を下った。
須賀先生が顧問をする金城山岳部と、下宿族、そして母・姉・私は別行動をとった。
その時の写真が下宿族のアルバムにコメント入りで残されているので、掲載しよう。先と同様、写真の上に、当時の下宿族が記したコメントを記載して、下に私の追記を緑字で記入する。
余談だが、当時の下宿族はとても仲が良く、特に後に私の義兄となる柴田、外村氏、山路氏(山さん)の三人と、加藤氏(甘ちゃん)で、三悪一甘と呼んでいた。加藤氏を甘ちゃんと呼ぶようになった訳は、お母さまが足繁く下宿を訪れられたからである。
炊事も当番制で行い、電気釜も共同購入した。何かといっては集まり呑んで騒いだ。新人歓迎会から始まって、ビ-ルコンパ・夏祭り・夏山合宿・クリスマスパ-ティ・追い出しコンパ等々…とにかく賑やかで楽しい下宿であった。
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夏山合宿 1958年8月2日~8日
8/2 夜、名古屋出発
8/3 朝、上高地 朝もやの大正池に心を奪われる
上高地行きバスの窓ガラス、落石のため割れたと思いきやさにあらず、実は須賀先生の石頭。ケがなくてよかったね。
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徳沢で腹ごしらえ
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お熱いところをひとつ。夫婦は良いね
中央、母にお茶を手渡す父
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延々と続く人の列。横尾へ、横尾へ
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大きいね
大きいのは母の口
右より、義兄・母・加藤(甘ちゃん)・江口。前に私 |
屏風岩のプロフィル
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横尾のベ-スキャンプ
設営終わって夕食準備 甘ちゃん手をどうかしたの? |
飯はまだかなぁ
右より、甘ちゃん・伊藤さん・江口さん・山さん・
外村さん
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煙が目に染みる
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あぁ うまかった。夕食後のけだるさ
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梓川の流れにさらわれた鍋を
ようやく拾い上げたときの歓声
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8/4 下宿族は槍ヶ岳へ
不覚にもサブ・エッセン(サブザック?)を横尾へ忘れ
おかげでフラフラ…山とは腹が減るもんです
槍ヶ岳頂上にて
甘ちゃんは途中でくたばったの?
(甘ちゃん撮影)
右上より:熊崎さん(熊さん)・伊藤さん・山さん・
須賀先生・勝彌君
下右より:?・外村さん・?
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槍沢にて
全員ふらふら
腹が減って、腹が減って
だって、今朝は雑炊だったんだ
外村君しっかり!
何、大丈夫
右より:伊藤さん・外村さん・伊藤さん・甘ちゃん・
熊さん、後ろに:山さん |
8/5 横尾から北穂へ
涸沢の雪渓をゆく |
北穂南陵のとりつきにて
ジュ-スを一杯
これより上は水がないぞ
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南陵で休憩
何がそんなにおかしいの?
この辺りでブロッケンの妖怪を見た
後列右より:江口さん・熊さん・義兄・山さん・?・母
前列右より:甘ちゃん・伊藤さん・姉・私
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南陵のとりつきにて
登りはこれからだ
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北穂頂上
その日の落日に映えた雲海は実に素晴らしかった
右より:義兄・山さん・母・外村さん・伊藤さん・
江口さん・熊さん・甘ちゃん・姉
小さいのは私
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8/6 北穂―奥穂―横尾―上高地
今日も快晴 山の寒気が身にしみる
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奥穂小屋前
ここで昼食 外村、茶碗一発割る |
岩尾根を行く
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大きい股
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奥穂頂上 3190m
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涸沢の雪渓を下る
マンボ調
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ザイデングラ-ドを下りきって一服
8/7 全員無事下山
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8月12日 岩稜会宛 日本G.H.Mよりの葉書
拝啓 残暑の砌(みぎり)、貴会益々御発展、御活躍の事、誠にご同慶に存じ上げます。就きましては、今回、東京に於ける、第2次RCCの如く、中部地区のクライマーの横の関係を密にし、尖鋭アルピニズムの旗印の基に、レベルの向上を期して、同人会を結成したく存じます。
下記の通り準備会を開催することになりましたので、希望者は御出席下さい。
記
Ⅰ.期日 昭和33年8月28日 PM 6:30 より
Ⅰ.場所 名古屋市中区広小路4丁目3番地
伏見町電停前 ワダコーヒー店(ブラジル)電話23-3454
Ⅰ.資格 主として冬期バリエーションルート登攀を志す方
日本G.H.M. 発起人 名古屋山岳会 加藤幸彦・名古屋RCC 二村嘉彦
連絡所 名古屋市中区仲ノ町2丁目 鹿島山荘 電話 23-6660
当日会費 100円
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8月13日 岩稜会伊藤経男氏、他御一同宛 信州大学松本山岳部よりの葉書
岩稜会が遭難救助をした山岳部よりの礼状である。以下に解読清書する。
残暑お見舞い申し上げます。
過日、4峰甲南ルートにおける当山岳部の遭難に際しては万難を排して迅速な援助を下さいましたこと、深く感謝しております。小松先生がおられても我々だけではどうにもならなかったと思われるのに、あのように早く行動できたのもすべて岩稜会の方々のおかげです。さらに奥又出合のテントにおいても、我々部員4名が一方ならぬお世話になり、感謝のしようもありません。今後一層貴会の発展を祈ると共に、私達信大山岳部と親密にしてくださることをお願い申し上げます。甚だ簡単ですがお礼に代えさせて頂きます。
8月13日 信州大学松本山岳部
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8月15日 機関誌『26号線』8月号No.2「『氷壁』とナイロン・ザイル事件 中岩武氏著 日本共産党泉州地区委員会文化部発行
この機関紙への原稿依頼があったが、原稿の執筆に追われていた父は、資料の提供をして執筆はお断りしたようだ。そこで出されたのが、この記事である。
機関誌が切貼りされた余白に父は以下の事を記していた。
中岩氏の記事は、実にキ-ポイントをつかんでいる。 |
8月23日 長野県商工部長宛 伊藤経男氏からの質問状
長野県商工部より、奥又白谷の五朗叔父ケルンの撤去命令が出た。正式には「中部山岳国立公園特別地域違反行為」となるとのことである。岩稜会は、このことについて、5つの質問をしている。
また撤去には「遺族はじめ全員が、十分納得の上善処したい」と記している。
これ以後、今もケルンは健在である。とにかく、良かった‼
右の手紙をクリックしてください
大きくなってお読みいただけます |
8月 雑誌『旅』「ザイル」諏訪多栄蔵氏著
ザイルについて、細かく記された記事である。
諏訪多栄蔵氏は、本名田中榮藏氏で日本山岳会関西支部員でもあり、篠田軍治教授とも親しい間柄であった。
父は、この記事の余白に以下の事を書き留めていた。
スワタ氏の記事は、誤りが多く不可解である。板ばさみとしての苦しみがよく分る。 |
9月4日 父宛 羽賀正太郎氏からの葉書
羽賀氏は、東京出身。1926(大正15)年に奥多摩御岳山に登って以来、長く登山を続ける。山村民俗の会、東京雲稜会などの会員として活躍し、全日本山岳連盟、東京都山岳連盟などの役員を務めた。多くの案内書を書き、追悼集『高いばかりが山じゃない』がある。
葉書の内容は、父が出した特許についてである。以下が解読清書である。
御無沙汰いたしてます。あなたのダイナミック・ビレーの用具について、特許が目下公布中で、10月頃には許可決定は先ず確実のことを、不図した機会に伺いました。お慶び致します。(公布についてはまだ見てませんが、近く拝見させていただきます)この様なことは初めてのことであり、埋込みボールドの登山用具化としての商品的なこと異なり、まことに結構なことと存じ、たまたま渡辺君(山溪編集長)より何か良い原稿が欲しいと相談を受けましたので、大兄のことを話をしました。発表してよろしい段階でしたら、是非承知してやってください。
山溪よりは数日前依頼の手紙がそちらに届いたと存じますが、大兄のダイナミック・ビレー用具については、おそらく東京を中心にした関東方面では、誰も全く知らぬことです。※ナイロンザイルをより強くする方法を群大教授の吉田広(元?)君が研究してますが、完成は数年先?
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9月11日 父宛 森河敏夫氏からの葉書
森河氏は大阪大学学生部長である。以下に解読清書。赤字は解読難解部分である。
つづいて御健勝の御様子何よりのことと賀し上げます。
先日は雑誌をお送り下さって有難うございました。早速拝見させていただきました。
一度貴兄にお目にかかり篤と御相談申し上げ度いと思います故,若し当日御手すきでしたら,来る13日(土)伊吹颪碑(伊吹おろしの碑)の除幕式に御出でいただき坐って探して下さい。小生は14時15分着の近鉄で参ります故,会場へ到着は14時半頃になります。
登山に行かれるため13日午後早く出発されるなら,又,別の機会に致しましょう。
以下は、父が葉書の貼られたスクラップブック余白に記した文である。
大阪大学学生部長は,本件仲裁のため努力されたが,篠田氏をかこむ不可解な人達のため(たとえばP177「電気機器とナイロンザイル」(『岳人』昭和44年11月1日発行に掲載)をみられたい)成功しなかった。森河氏はじめ,御努力いただいた方に衷心から感謝をささげる。
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9月18日 父宛 大町山岳博物館からの展示資料寄贈依頼状
「゛明治、大正、昭和の岳人展“資料寄贈(または譲渡)についてのお願い」が届いた。
前半のお願い部分が読みにくいので、以下に清書する。
謹啓 時下ますますご盛昌の段慶賀に存じます。
さて当館では文化の日を中心に移転開館1周年を記念して、゛明治、大正、昭和の岳人展“を計画し準備をすすめております。
近代アルピニズムに貢献された人々、山岳文学者、山岳研究家など山岳界で活躍された人々の各種資料を収集し、その業績をたたえるとともに、これら資料を末永く展示、保存し、観覧者の便に供したいと思います。
つきまして、でき得ましたら別紙により資料をご寄贈(または譲渡)下さいますようご配慮のほどお願い申し上げます。
この呼びかけで、父は五朗叔父の遺体にしっかりと結ばれていたナイロンザイルなどを大町山岳博物館に寄贈することになるが、それについては該当の月日に詳しく記す。 |
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<その17:篠田教授の回答やいかに!?>へとご案内いたします
2018年4月12日記
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