<その17:篠田教授の回答やいかに!?>
昭和33年10月1日~12月末日
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10月1日 文芸春秋『オ-ル読物』増刊号 スポ-ツ読本173頁~176頁「5つの疑惑ナイロンザイル」
この記事の切貼りがされていた余白に父が記した文を以下に記す。
ここでは「小説の魚津は逝った。しかし現実のナイロンザイルはマッタ-ホルン遭難以上の歳月をかけるかもしれない」と結んでいる。
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10月14日 父宛 森河敏夫氏からの手紙
大阪大学学生部の森河氏が、篠田氏と岩稜会の仲裁をして、円満解決への道を模索してくださっているが、篠田氏の頑なな態度に困惑されている。以下、解読清書である。
本日は折角電話いただきましたのに外出中にて失礼しました。こちらからかけるとよろしかったのですが,貴君から電話のあったことを知ったのが夕6時頃であったので,かけませんですみませんでした。
9月下旬,上京して朝日新聞社へ藤木(藤木高嶺)さんを訪ね,お目にかかりました。其の結果を早速お知らせすべきでありましたが,本日又上京して朝日新聞の信夫(しのぶ かんいちろう)氏にお会いしてからにしようと思い,其のままになって居ました。お許し下さい。
藤木氏の御考えも,篠田教授に遺憾の意を表させることは至難であるという次第です。
信夫氏が大阪で同教授を訪ねてお話された際も話がうまく進まなかった程であるからなかなか難しいというのが藤木氏のお考えで,小生が先日,名古屋で貴君に申し上げた内容で大体同一の考えでございます。
其の日に信夫氏にも会う積りでしたが,お会い出来ず,翌日の午後なら会えたのですが,小生が「ハト」でこちらへ帰りましたので結局お目にかかりませんでした。本月下旬に又上京しますので信夫氏の御意見を伺いながら藤木氏もそうして見て下さいと申されました。
又一方小生,別の用で後日篠田氏と会いましたので軽く打診してみましたが,遺憾の意を表する考えは毛頭ないことが察知されました。考え方のコースが違うのですから話は完全に食い違って居て,同じダイメン・レヨン(意味不明)で物事を考えるのとちがいます。困ったことです。信夫氏に会って一縷の望みの綱を拝見したいと思って居ります。
若しお急ぎの用件でございましたら,16日の午前10時~正午の間に電話下さいましたら学生部に居ります。
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10月16日 篠田軍治氏宛 「第二回公開状」 岩稜会代表伊藤経男氏
篠田氏から「第一回公開質問状」に応答がないまま8ヶ月が過ぎようとしていた。篠田氏と岩稜会との仲裁もうまく行かず、父は右の公開状を出すことになった。
第一回では、蒲郡実験で岩角を丸くしてあたかもナイロンザイルは鋭い岩角でも強いように見せる実験をし、石原國利氏や岩稜会を苦境に陥らせ、ナイロンザイルを使用する登山者の生命を危険にさらしたことに、遺憾の意を表するようにお願いした訳であるが、第二回では、仲裁者にお願いして円満解決への道を模索しつつ努力したが受け入れられなかったが、何とかもう一度考え直して、仲裁者を入れて「覚え書」を交わし、それを公開して登山者の危険を回避できるようにしていただきたいと記されている。
「覚え書」の部分を以下に記しておく。
覚え書
いわゆるナイロンザイル事件が再び訴訟によって闘われようとしていることは好ましいことではないので、出来うれば話し合いによる解決が望ましいと考え、篠田軍治氏並びに岩稜会関係者にその旨をお伝えしたところ、今日双方の話合いの運びとなり、篠田氏からはナイロンザイルの性能並びに昭和30年1月2日に発生した前穂高岳での遭難原因についての誤解の責任の一端は、篠田氏ご自身にあることを認められて遺憾の意が表され、他方、岩稜会は、篠田氏に対し告訴その他によってご迷惑をおかけしたことについて遺憾の意が表され、ここに両者円満解決をみるにいたった。
よって双方のご諒解のもとにこの覚え書を作成し、事件関係者に送付する。
(仲裁者 署名捺印) 年 月 日
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10月 公開状の送状
上記、「第二回公開状」に付けられた送状である。
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10月21日 新聞各紙に掲載
新聞記事が切貼りされた余白には、以下の事が記されていた。尚、各新聞記事に別個に書かれた文は、新聞の余白に記した。
その反響…新聞・ラジオで大々的に報道さる。告訴は不起訴となったが、真実は、そのようなものを問題とはしていないことがわかる。
各新聞記事をクリックしてください 大きくなってお読みいただけます
この複数の記事は、左上「朝日新聞」、右上は左上の「朝日新聞」記事の続きと書かれているが前半部分のみで短縮版、右中「大阪新聞」、左中「産経新聞」、左中下「読売新聞」、右下「伊勢新聞」、左下「新聞名不明」である。
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同日 父宛 大阪大学工学部金属冶金学教授 美馬源次郎氏からの葉書。
以下、解読清書。
拝復 報告書(説明書)読ませていただきました。同一物で結構ですから、理学部、工学部…等の職員組合、助教授会、教授会、各部長、および教授個人宛に送付されることをおすすめ致します。
この葉書の貼られていたスクラップブックの余白には、以下の事が記されていた。
第二回公開質問状は、大阪大学内部にも波乱をおこした。もとより櫻井氏の御努力も影響があったと思われる。 |
同日 若山富夫叔父宛 日本繊維機械学会 上野達也氏からの手紙
富夫叔父は、出来うる限りの努力をしていた。この手紙は、富夫叔父の要請に対する返事である。以下に解読清書する。
拝復 御書面拝見致しました。合理的なる解釈容易につかず、おもどかしい事と存じます。
以前,御手紙をいただきました折に、本会誌掲載の記事について善処したき旨申し上げましたが、編集委員会にも一応諮ったのですが、何しろ大分前の事であり、又東海支部の会報記事中のことでもあり、今更本会において採りあげるのも事を起こす格好となるし、本会としても悪の判断を下すとなれば、簡単に参らぬし…という様な事情により、そのままに相成った次第でございます。
情状以上の如くでありますので、何卒御諒承の程お願いいたします。 敬白
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同日 父宛 若山富夫叔父からの葉書
以下に解読清書。
前略 先日は夜分に御邪魔し又結構なる物頂き厚く御礼致します。 さて,ナイロンザイル事件の書類,次の所へ送付致しましたので御連絡致します。
大阪市南区難波新地2-28,日本繊維機械学会,上野達也殿(編集兼発行人)
名古屋市中村区島崎町1,日本繊維機械学会東海支部御中
以上2通と後の1通は桑名の東洋紡でナイロンザイル事件に関心を持っている人に送りました。
文芸春秋の9月増刊号は本屋に1冊のみ有り,買って読みました。又,公開質問(今回は公開書状のため変に思いますが)に関する記事が朝日に出ていたとちょっと聞きましたが,公開質問はだいぶ以前のため,前の事を言うておるのか,今回のことかは不明です。中日は毎日見ていますがまだ出ないようです。
では右取り急ぎ御一報まで 敬具
この葉書の余白には、以下の事が記されていた。
弟は事件の間、終始一貫、涙ぐましい奮闘を続けた
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10月22日 ラジオ放送の内容メモ 夏目放送記者著
二回の公開状にとうとう篠田教授が答えた!この記者のメモは、もっとも重要な資料なので、以下に解読清書して、最重要部分を赤字で記す。
JOCK第1放送,夜10時のニュース
(NHK)第1放送 昭和33(1958)年10月22日(水)午後10時
「大阪発のナイロンザイルに関するニュースの内,篠田氏談」
私の実験は,飛行機や船舶に使うロープの実験の一つとして行ったもので,岩稜会の事故の原因を調べるために行ったものでないから,岩稜会の人々の非難は当たらない。また,私の実験は,ナイロンザイルの強い点と弱い点とを調べるため,3年半もかかってこの6月ようやく完成したもので,岩稜会の人々はこの長い実験のごく一部を聞いて勘違いしたものと思う。ナイロンザイルはすでに岩角に弱いことは明らかであるが,その他の場合には強く,結局,麻もナイロンも長所と短所を持っており,長所をよく知って使えば,ナイロンザイルは登山には非常に適している。(CK.夏目放送記者 提供)
昭和30年4月29日に行われた蒲郡の公開実験は、登山綱としてのナイロンザイルの実験ではなかった!と言うのである。あまりの詭弁に言葉も出ない。
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10月23日 父宛 黒田吟哉氏からの手紙
この手紙は、東京在住の黒田氏から、関東方面に掲載されたナイロンザイル事件関係の新聞記事を知らせるものである。上記10月21日付読売新聞記事が記載されている。
以下に解読清書。
前略 ご多忙の所、再三の御上京ありがとうございました。
今日読売新聞社に行ってまいりましたが、日曜日のためか残品(21日付けの新聞)のことは解らず、新聞を入手することはできませんでしたが、記事は書き取ってまいりましたので、別紙にてお読みください。尚、明日もう一度行ってまいり、何とか入手するよう努力します。
産経新聞社は2部頂いてきましたが、社の保存用らしく、地方版(多摩版、群馬版)をくれました。都内版の記事も見てまいりましたが、内容は何ら変わる所はありません。記事の場所も同じです。全国版については、日曜日のためか不明で確かめることができませんでしたが、おそらく同じでしょうとのことでした。
一両日中に両社の新聞を入手し発送いたしますから、しばらくお待ちください。おそらく読売も入手できるものと思っております。もしできない場合は、写真にしてお送りいたします。
奥様が御病気のご様子、御見舞申し上げます。
皆様くれぐれもお気を付けください。 草々 吟哉拝
石岡様
昭和33年10月21日 火曜日 朝刊 9面 都内版 14版
”ナイロン・ザイル”またもめる 岩稜会 篠田教授に公開状
【大阪発】井上靖の小説『氷壁』で有名な「ナイロン・ザイル事件」の当事者 三重県鈴鹿市神戸新町「岩稜会」代表者
伊藤経男氏は、ザイルの強さを実験した阪大工学部 篠田軍治教授に対し「同教授がメーカーの利益になるような実験を行った」と非難。実験の結果の誤りを訂正するよう公開状を出すと共に、篠田教授の態度いかんでは再び訴訟に持ち込むと20日表明した。
この事件は去る30年1月2日、北アルプス前穂高岳でナイロン・ザイルが切れ、三重大学1年若山五朗君が惨死した。当時はナイロン・ザイルが麻ザイルに代わり、山男たちに流行し出した時で、なぜザイルが切れたかが問題となった。そこで日本山岳会関西支部長
篠田教授が、愛知県蒲郡市のザイル・メーカー 東京製綱で、同年4月29日ザイルの強度公開実験を行った。
結果は「ナイロン・ザイルは岩角に当てても2005kgまでの重量に耐える」とされ、ザイルが切れたのは当時リーダーの岩稜会員石原国利(九大4年(中央大の誤記))が処置を誤ったものだと批判された。
岩稜会は①この公開実験は事故当時の岩角より丸味のある岩角に当てて実験を行った。②鋭い岩角では約70kgでも切れ、更に稜角(りょうかく)60度の三角ヤスリでこすられると麻ザイルの1/20
の強さしかない。このことは同教授は知っていたはずだと主張。岩稜会は同教授に対し、再度実験を行うよう申し入れたが、同教授は受け付けず、更に阪大学生部長森河俊夫氏が調停に当たったが不調に終わったため、訴訟にまで持ち込む決意を固めたと言っている。
この問題は31年に石原君が篠田教授を名誉棄損(毀損)で名古屋地検に告訴、不起訴になっている。
篠田阪大教授の話「だいぶ古い話で、若山君の直接の死因は解らない。遺族の人にはなぐさめの言葉を言ったことはあるが、”ナイロン・ザイル”の実験は、ただ南極観測、マナスル、また捕鯨船のこともあるので、工学的にやっただけで、その発表は学者の良心として恥じない。実験結果によれば、ナイロン・ザイルは強い面もあれば、ある場合には弱い時もある。これを一面だけ取り上げれば都合の悪い方も出てくるが、わたくしには興味のないことだ。こうしばしば取り上げられては、わたしの方が名誉棄損(毀損)で訴えたい。」
以上読売新聞10月21日 朝刊記事
スペースは社会記事中段より下に2段から3段に渡って書かれていました。
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同日 伊勢新聞記事「実験結果に誤りはない 篠田教授、公開質問状に反ばく」
この記事にも、ラジオ放送のメモと同じ内容が記載されている。クリックしてくだされば、全文お読みいただけるが、重要部分を記しておく。
篠田教授談:私たちは3年半かけて強さと弱さの両面から、あらゆる場合を予想してナイロン強度テストを行って来た。結論をいえばナイロンは岩角などでマサツすると弱いが、急激に引張った時などのショックには強い。従って使い方によっては切れる場合もあり得るわけで私も「ナイロンザイルは絶対に切れない」といった覚えはない。岩稜会は業者の圧力でわれわれが実験結果を曲げて発表したと主張しているが、掃海作業用やグライダ-引航用のナイロンテ-プの強さを試すために実験していたものだ。岩稜会の北アルプス前穂高墜死事件の原因糾明とは無関係である。 |
同日 伊藤経男氏宛 三矢証弌氏からの手紙
三矢氏は、新聞を読んで、ご自分のナイロンザイルに対する考察を述べられている。確かに、三つ撚りザイルの撚りは曲者で、後にザイルメ-カ-は、網ザイルを販売して撚りの持つ不具合を是正している。現在でも使用されている網ザイルは、撚りザイルより強いが、やはり鋭い岩角には弱く切れるので注意が必要である。
以下に、解読清書。
前略 突然ながら,過日,信毎新聞に「実験結果が納得出来ぬ」という見出しで,ナイロンザイル事件の記事を拝見致しました。
映画「氷壁」でも拝見致して居りますが,誠に御気の毒な事と存じ上げます。
私も時々ナイロン繊維を使用致して居りますので,私の愚見を御参考までに申し上げたいと存じ,失礼もかえりみず御手紙を差し上げる次第です。御許しの程を。
今更,私が申し上げるまでもなく,あらゆる角度から実験された事と存じますが,その内容がよく解りませんから,私の体験を参考にまで申し上げたいと存じます。
御承知の如く,ナイロンは非常に強靭な繊維ではありますが,硬度が強いものでありまして,これが高級なものほど硬度が高くなって居ります。つまり,硬くなって居るわけです。
この場合,直線に引いた時の耐久力は実に強いものです。つまり,図のよう,A端かB端に引いた(A⇔B)時の力は何千ポンドにも耐え得る力がありますが,これが一度キック状になれば無力に等しいものです。下図のような場合
このように撚れた時は,高級な物ほど弱く,切れると申すより折れるというのが本当かも知れませんが,以上のよう,撚れた場合はクサリ縄よりも弱いと申し上げて過言でないと存じます。
そこで,私の考えますに,登山の折,新しいザイルではなかったか,又,ザイルの撚りが強いものではなかったでしょうか。新しいもの,撚りの強い場合,少しでも緩めばキック状になりやすいものです。
このように,撚れた場合は,実にやすやすと切れるものです。当然,今迄にこのキックの状態についても御試験の事と存じますが,あの場合,これより外に切れる原因はないと存じます。転落の時,不幸にして何かの原因でザイルが2,3回転キック状の撚りがかかったのではないかと存じます。これにショックを与えれば,切れるのが当然のように思われます。今一度,御自分で張力実験をされたらと思います。
つたない私の体験が何かの御参考にならばと存じ,失礼もかえりみず一筆申し上げる次第です。
折角の御健康を御祈り申し上げます。
10月23日 伊藤様史侍(侍史?) 食堂主 三矢証弌 46才
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10月24日 岩稜会宛 新川百合子氏よりの葉書
ナイロンザイル事件を闘う岩稜会への励ましの便りである。以下に解読清書する。
前略 機関紙『26号線』に載っていた中岩武の「氷壁」とナイロン・ザイル事件を読みました。井上靖の『氷壁』は,朝日新聞に連載している時,読みましたが,その後その事件がどうなったのか気にもかけていませんでしたが,ここで初めてその真相(私はそう信じますが)を知り,「そうだったのか」という怒りの気持ちを感じています。
どの世にあっても,特に現代の社会では真実を理解してもらうには,どんなに困難な事でしょう。でも,こんな世であるからこそ,私達は負けてはなりません。良心ある多くの弱い者の為にも,あなた方は屈しないで頑張って下さい。貴男方の後ろには,良心と正義のある私達のいる事を考えて,どこ迄も,真実を通して下さい。そして,その手段として一人にでも多く真実を知ってもらう為に,真相をこんな機関紙に出すなり何等かの方法を多く講じて下さい。
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同日 父宛 若山富夫叔父からの手紙
この手紙は、左記の上野達也氏からの手紙に対する返信の内容を記している。以下、解読清書。
拝啓 早速ながら日本繊維機械学会より別便のような返事が来ましたので御連絡致します。何ともならぬからそのままになっているとの返事ですが,又,折り返し次のような事を言ってやりました。
事件は繊維に関するものであり,又,学会の東京製綱の見学会の事も時折出るから,全く関係ないと放置する事もどうかと思う。しかし,複雑であるため,重要段階の時にはその都度連絡するからよろしく頼む。
それから,岩稜会ではザイルは満足する強力なる物が今のところないから衝撃止めの装置を発明し特許をとり,さらに繊維機械のモーターにも利用するように研究しているから,詳細が知りたければ岩稜会へ問い合わせば知らせてくれると思うし,技術照会にもなると思う。最後に,英国のコメット社は生命に関するもので欠陥を発見し発表したが,東京製綱は欠陥を逆に優れているかのように見誤る実験を発表した。これは,日本の産業の海外発展上よくない。しかし,メーカーとしては同情する余地もあるが,学者では社会のため放置出来ない。大略以上の事を連絡してやりました。
又,先日のクラッチ式の衝撃止め装置に似た物を思い出しましたので,略図を書きます。別に大した物ではありません。
では右取り急ぎ御連絡まで 敬具
10.24
兄上様 富夫より
「先日のクラッチ式の衝撃止め装置…」の図面は、父が開発している登山用緩衝装置の手助けになるようにと送ってきたものである。その図面の頁を掲載した。鉛筆字の書き込みは、父が書いたものである。以下に解読清書する。
摩擦が前面に作用しており動摩擦・静摩擦の影響を防止したものではない。しかし、これが特許出願されているかどうか、又その内容を調べる必要がある。
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10月27日 伊藤経男氏宛 風見武秀氏からの手紙
風見氏は、山岳写真家で小説『氷壁』のカバ-写真を撮られた方である。東京山岳写真会の創設からその後の日本山岳写真協会の発展に至るまで、中心人物として活躍された。日本山岳写真協会会長を歴任された。
以下に解読清書。
仲秋の候,いよいよ御多忙の事と存じます。
早速ながら,先日はナイロンザイルの件についてのお手紙を御送付頂き拝読致しました。小生ら数回となく雑誌,その他,機会を得て御意見等お聞きしておりましたが……
つきまして,先日の公開状に関して東京朝日新聞社の社会部記者・百々正夫氏が,社の山関係の記者として結編を出したく,その資料等を集め研究するとて,他に何かナイロンザイルにつき資料等貴方にありましたらお願い致したいとの下。
朝日新聞の百々記者は,先般の深田久弥(作家),山川勇一郎(画家),風見のジュガール・ヒマール隊の係で,目下,山関係記事の第一人者として朝日現役社会部記者として活躍中です。
御多用中,真に恐縮ですが,よろしくお願い致します。 風見武秀
伊藤経男様
1958年10月27日
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10月28日 父宛 四谷龍胤氏からの葉書
文中の『山と雪』は四谷氏が発刊された新聞である。『岩と雪』と混同されやすいが、こちらは山と渓谷社が発行元である。
以下に解読清書する。
岩稜会の御書面,拝受いたしました。篠田氏は某新聞紙上で問題は既に解決したと述べて居られたとか2,3日前に聞きましたが,御公開の文面,私も誠に同感です。ただ,同氏は学究の徒としての面目にとらわれていられることと思います。適当な他によい仲介の人があればと念願して居ります。
次に登山協会の小誌『山と雪』は,私の大衆啓蒙運動の一手段としてやって居りますことで,御購読料を送付下され恐縮して居ります。7月にはグラフ(?)でお仲間入りさせていただき,他人とは思えなくなって居ります。今後ともよろしく御指導,御援助をお願いいたします。
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10月末 大阪大学工学部長宛 岩稜会
篠田教授の勤める工学部の部長宛に、篠田教授との円満解決のための仲裁を、大阪大学工学部教授会に斡旋していただくための手紙である。
以下に、解読清書。
拝啓 晩秋の候,貴殿にはますます御隆盛の段,大賀至極に存じます。御多忙のところ,このようなお願いを申し上げますことは,誠にさしでがましく失礼なことと存じますが,御高配のほど願い上げます。
お願いは,新聞・ラジオで問題となっておりますナイロンザイル事件の解決について,貴大学工学部教授会に御斡旋をしていただきたいことであります。
即ち,去る10月16日,三重県鈴鹿市の岩稜会から貴学部の篠田教授に公開質問がなされましたが,その後の情況では両者の法廷闘争に発展する恐れが多分にありますが,私達はこのようなことは学会にとりましても好ましくないのではなかろうかと考えます。真理を究め,最高の教育を行う学者として,相手方が「話し合いによって解決したい。決して無理なことを申し上げないつもりだ」と言っていることに対し,それを拒否して法廷闘争に持ち込んでしまうということは,事情の如何にかかわらず,学者のあり方として世の批判を受けることになるのではないかと考えます。又,同事件がもしも岩稜会の公開質問に言っている通りとしますれば,これは,社会的ばかりでなく,学会としてもゆゆしき問題であり,しかも,新聞・ラジオに大きく報ぜられて社会問題化しております関係から,この問題をあいまいに葬り去ることは許されません。それどころか,この種の疑惑に,学会とくに当該大学が無関心を示されるといった印象が万一にもあったとしますれば,大学そのものに対しても社会の不信を高める恐れがありはしないかと考えます。
従って,この問題は,当該大学の斡旋によって解決し,法廷闘争をさける方向へもっていかれるのが妥当ではなかろうかと,同じ学問の道を志す者として僭越ながら愚考するものであります。
又,この斡旋を,貴殿を通じ貴教授会にお願いするといったことは,あるいは筋違いなのかもしれませんが,従来斡旋への御努力が信夫朝日新聞専務,森河大阪大学学生部長によってなされましたにもかかわらず,不調に終わっています実情から,現在では貴教授会が最もふさわしいと考える次第であります。
同事件の一方の当事者である岩稜会から貴教授会へ御斡旋をお願いしている事情は別紙の通りであり,何卒御高配のほど懇願申し上げます。
なお,教授会に諮っていただくことが,時期的理由などから困難とお考え下さる場合には,主任会等でももとより結構と存じます。
大阪大学工学部長殿
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11月7日 篠田軍治氏宛 「第三回公開質問状」 岩稜会代表伊藤経男氏
10月22日夜のラジオ放送と、同日の伊勢新聞の記事を篠田氏の「第二回公開状」の回答として、この公開質問状が出された。これは、ナイロンザイル事件の第一回収束に至る重要な資料なので、以下に清書する。
冠省 昭和33(1958)年10月16日に御送付申し上げました公開の質問に対しまして,直接にはお返事をいただいておりませんが,新聞(33.10.21の夕刊),ラジオが貴殿の御見解を報道しておりますので,私達はそれを貴殿のお返事としてお受けします。又,たとえ今後貴殿からこれと内容を異にする書簡をいただいたとしましても,この事件の性質は,社会の福祉に関することであり,また質問が公開となっております関係上,実際に社会に伝えられた内容の方が大切であると考え,新聞,ラジオの報道を貴殿のお返事とみなし,それに対する当方の見解とお願いを再び公開で申し上げる次第であります。
私達が御多忙の貴殿にいろいろと申し上げておりますのは前回も申し上げましたように,もし,この事件にまつわる疑惑をウヤムヤに葬ってしまいますときは,今後,人命軽視,人権侵害が後をたたなくなるおそれがあり,且つそれを解消するためには貴殿の御努力が是非とも必要であると考えるからであります。
又,このように考えますのは単に私達だけでなく,名大法学部教授信夫清三郎博士ほか学識経験者20氏の要望書をはじめ現在では実に多くの人々が同様に憂いていられるのであります。従って国民の指導的立場にあられる貴殿には何とぞ積極的にこの疑惑をといていただくように懇願申し上げるのであります。
さて,私達は前回の公開質問を通じ貴殿が遺憾の意を表明されるかそれとも明快に釈明されることを要求申し上げたのでありますが,今回発表されました御釈明は別記しますようにその内容が重要な点で事実に反し,且つ問題点からはずれていると考えますことから明快な御釈明であるとはうけとれません。従って先回申し上げましたように民事訴訟によってでも解決を求めるという段階になるわけでありますが,しかし,ふりかえって考えてみますと貴殿は,真理をきわめ最高の教育を担当される大学教授であられますので,事実でない事を申されたり,筋の通らない事を申されるはずはないわけであり,従って貴殿の御釈明が正しくて,それを事実でないと申し上げる私達の言い分の方が誤っているかもしれず,それに,新聞,ラジオの報道も貴殿の真意を正しく伝えているかどうかも不明と考えられますので,こういう事情のもとで訴訟を起こすという事は軽挙であると考えるのであります。
従って,今回貴殿の御回答に対する当方の不審な点を明らかにして,再び貴殿の御釈明をお願いする次第でありますが,これに対する御回答を今回の様な方法でいただくといった事はいたずらに解決を長引かせるのみではなかろうかと僭越ながら愚考します。これを早急に解決するにはお互いの話し合いによるのが最良の策である事はいうまでもありません。考えてみますと公開質問で申し上げた訴訟の意思表示も従来貴殿とのお話し合いが出来なかった事に最大の原因があるのであります。即ち,私達としましては,その実現のため,昭和31(1956)年当初から面会の機会を与えていただきますよう再度申し上げたのでありますが,いずれも公務御多忙という理由で実現せず,やむなく前回のような公開質問をさしあげる事になったのであります。しかし,今や事件も長引き社会的にも大きな問題となっていることでもあり,他方両者の話し合いが行われた場合の結果を予想しますのに,学者である貴殿が筋の通らぬことを申されるはずはなく,又私達の方も会の中に名大教授須賀太郎ほかの学識経験者を含めていることであり,又従来とても決して無理なことを申し上げてはいないつもりでありますから,話し合いによって容易に解決がつくものと考えます。従って貴殿には何とぞ私達とのお話し合いに御賛成いただきますようお願い申し上げる次第であります。なお,話し合いに御賛同いただきます場合この事件の疑惑が正しく解決されるかどうかが今後の社会に大きな影響をもたらすものとして,社会から注目されております関係上,話し合いは公開の場でなされるべきと考えますのでこの点の御了承をとくにお願い申し上げる次第であります。
右失礼の数々を申し上げましたが,御寛容のほどお願い申します。
記
昭和33(1958)年10月22日NHK第1放送ニュースを通じて報道された貴殿の談に対する私達の見解。
同ニュースは篠田氏の談として「私の実験は飛行機や船舶に使うロープの実験の一つとして行ったもので,岩稜会の事故の原因を調べるために行ったものではないから岩稜会の人々の非難はあたらない。又,私の実験は,ナイロンザイルの強い点と弱い点とを調べるため3年半もかかってこの6月ようやく完成したもので岩稜会の人々はこの長い実験のごく一部をきいて勘違いしたものと思う。ナイロンザイルは既に岩角に弱いことは明らかであるが,その他の場合には強く結局麻もナイロンも長所と短所を持っており,長所をよく知って使えば,ナイロンのザイルは登山には非常に適している。」(CK放送記者提供)と放送しました。
私達は,貴殿のこのお言葉には納得できないと考えますが,その理由は次のようであります。まず先日差し上げました公開質問の要旨を申し上げます。
「昭和30(1955)年1月2日前穂高岳で発生した登山者墜落事件の死因並びに他の2件のナイロンザイル切断事故に関連し,ナイロンザイルに従来知られなかった岩角での欠点があるかどうかという登山者の生命にとって重大な疑問がおきているときに,日本山岳会関西支部長であり,登山用具の権威であり,上記の事情はもとより,遭難者の遺族とも会合されて,メーカーと遺族との対立の事情などを熟知し,かつ,その疑問をとくための科学的な研究を行うと発表しておられた貴殿が,東洋レーヨンで行われた実験でナイロンザイルは岩角で重大な欠点をもち岩稜会のいう「わずか50cmのずれ落ち」で容易に切断することを確信せられたにもかかわらず,その点は発表されず,多数の登山者,新聞記者の参観する東京製綱蒲郡工場での公開実験では,ナイロンザイルが岩角で欠点を示さないという実験のみを行われました。そのため,中部日本新聞,山岳雑誌『山と渓谷』『岳人』は,「ナイロンザイルには欠点がない。又,岩稜会の事故原因は,ザイルがエッジで切れたのではなく別のところにあるようだ」と報道しました。この報道のため私達事故関係者は,社会,登山界から「自分達の失敗をかくすため虚偽を報道してメーカーの信用を傷つけ登山界を混乱させた。又,死因についても疑いがある」という犯罪容疑者としての汚名をきせられ,他方一般登山者は,生命の危険にさらされたのであります。即ち自ら実験装置を持たない一般登山者は,権威あるこの結果を信用してそのザイルに欠点がないものとして実際に使用することは明らかであり,生命が随所で失われる危険にさらされたのであります。(先日の公開質問でも述べましたが,昭和33年4月3日の中部日本新聞には「ナイロンザイルには欠点がない」という公開実験の結果を報じたその同じK記者の筆で「今回神戸大学生2名がナイロンザイルが切断して死亡するという事件がおきた。3年前の30年4月29日の公開実験のとき篠田教授はナイロンザイルが岩角にかかったときは麻ザイルの1/20という登山者の生命にとって重大な結果を示す実験を既に行っておられながら,公開実験のときにはその点に触れられず,専らナイロンザイルが岩角で欠点を示さない実験のみを行われたが,もしも篠田教授が公開実験のときナイロンザイルの欠点を明らかにしていられたらならば遭難防止について適当な方策が進められ今回の遭難も防止出来ていたかもしれない」ということが報道されました)
公開実験のためにこうした恐るべき人権の不当侵害が発生した反面,ザイルメーカーには驚くべき大きな利益が与えられたのであります。即ちもしも公開実験の際,貴殿が「岩稜会の死因は,保証付きとして販売されたザイルが事故直後のメーカーでのテストの結果,従来の麻ザイルの1/20の強さしかないことがわかった。つまり,ザイルとは呼べないものであったためである」と発表されたならば,メーカーは業務上過失致死罪で当局から追及されていたかもしれなかったのでありますが,貴殿がこれと逆の結果を示す公開実験を行われましたためそういう問題は発生せず,又,当時メーカーと遺族とが対立していて事情によっては損害賠償の訴訟が行われる可能性もないわけではなかったのですが,それを完全に不可能にしたという利益が生じたばかりでなく,信用確保の点で実に大きな利益が与えられたのであります。即ち,「メーカーはもともと良心的で欠点のあるザイルなどを売ってはいなかった。しかも事故原因の究明と登山者の安全のため権威のある学者に依頼し,加うるに100万円からの設備をつくって協力したとはまことに見上げた態度である」ということが広まり信用は旧に倍したのであります。従って,もしもこうした不当の利害関係をともなう誤報の責任はどこにもないという状態で放置されたとしますと今後メーカーの過失による死が発生した場合今回のことをよき口実としてメーカーは事故原因について事実を有利にまげるべく計画し,学者は今回の例を前例として安心して協力し,その結果,関係のない一般大衆まで生命を奪われるようになることが十分予想されます。又,学者というものは国民の指導的地位にありますから,この行為の影響は大きく,最近強調されている人命尊重の高揚にとっても大きな支障になると考えます。従って私達は,これは放置できない性格の事件であると考え,且つ公開実験のため大きな苦しみをうけた私達がその点を追究すべきであると考えました。又,社会が今後その悪影響から少しでものがれるためにはそういうことは拙いことだということを客観的に確立しなくてはならないと考えたのであります。即ち,国民の福祉を考えられるべき国家公務員であり,又,現在の社会でもっとも信頼をもたれている権威の学者であり同時に登山者の遭難防止を考えられるべき指導的登山家である貴殿が「ザイルの生命にかかわる欠点を事前に承知せられながらそれを発表せられずその欠点すらも長所と誤らざるを得ない実験のみを公開された」ということは拙いことだというように確立しておかなくてはならないと考えたのであります。そこで私達は,貴殿が社会に対し,それについて率直に遺憾の意を表していただくか,それともそういうことはないという納得できる釈明をしていただきたいと考え,昭和31(1956)年当初以来お願いしてきたのでありますが,現在まで何ら回答がありませんので今回再び公開質問でこの点をお願いしたのであります。公開質問の要旨の記述が長くなりましたが,次に貴殿の今回の御回答に対する当方の見解を申し述べますが,以下記しますように貴殿の御反論が私達にとりまして全く意外でありますので,今や論点をはっきりさせるため率直に申し上げます。
さて,私達が公開質問で申し上げておりますことはいずれも確固とした資料の裏付けをもつ事実であり,又,この事件を知る人はいずれも貴殿が遺憾の意を表されるべき事件だといわれているのであります。又,判例をみましても明らかなことであります。
(たとえば,貴殿の不可解な実験の結果として私達はたえられぬ日々を送ることになったのでありますが,当然その責任は追及可能でなくてはなりません。それには名誉毀損罪(230条)によるものがあり,それに関する判例には次のようなものがあります。〔一般登山者の生命を危険にさらすことになった罪はもとよりでありますがここでは省略します〕)
(1)演説の全趣旨及び当時の風説その他の事情によって一般聴衆をして何人がいかなる醜行をなしたかを推知せしめるに足る演説をしたときは名誉毀損罪が成立する(本件の場合,演説を実験に,聴衆を観衆におきかえればよい)。
(2)名誉毀損の訴訟において,もし合理的な人がその発表を原告について名誉毀損的であると認めるならば,被告が原告を名誉毀損する意志がなかったことを示すことは抗弁にならない(本件の場合は,新聞記者は貴殿の行為を名誉毀損的であると認めている)。
(3)そのような事実摘示をすることがはたして公益上必要であったかどうかということが問題の核心である(本件の場合,登山綱の実験であるとすれば,岩場で普通にみられる岩角よりも丸い岩角での実験というものは公益上何の役にもたたない)。
(4)通常人として当然払うべき注意を怠るならば不法行為が成立する。
(5)故意の責任は,……社会がその行為者に対しその行為に出でざりしことを期待し得べき場合であったに拘らずその行為を敢えてしたことを責むるを以てその精神となす。
従って,私達は貴殿が学者であられる以上事実を知らないなどといわれたり,言を左右にされるということはなく率直に遺憾の意を表明していただけるものと考えておりましたが,今回の御反論には全く驚き入った次第であります。
さて,御反論中私達が質問しております点,即ち貴殿が遺憾の意を表されるべきや否やという点に影響を与えるのは「実験は飛行機や船舶に使うロープの実験であって岩稜会の事故原因の究明ではない」という点のみであって,他の点たとえば岩稜会が「一部の実験をきいて勘違いした」とか「ナイロンザイルは岩角に弱い」といった点ではありませんので,「実験は,飛行機や船舶の実験」という点のみについて以下申し上げます。
実際私達にはこのお言葉は青天の霹靂でありました。登山者関係はもとよりそうでない人でも少しでもこの事件に関心をもたれている人には,この言葉は意外に感ぜられると思います。何故こういう言葉が今になって登山家の貴殿の口から出されたのでありましょうか。しかし考えてみますともし貴殿が事実の如何にかかわらず遺憾の意を表さないでおこうと考えられます場合には,貴殿としてこの新事実をつくりあげる以外に道はないように思われます。即ちもしあの実験が登山綱に関する実験ということであれば,あれはナイロンザイルと麻ザイルを岩角にかけて比較テストをするという岩稜会の事故がおきて,そこで初めて必要となった実験以外のなにものでもなくなり,しかも実験の内容は岩稜会の事故条件で切れないことを推知させるものでありますので,名誉毀損罪は成立してしまいます。又,当然登山界に生命にかかわる誤解を与えた責任を追及されることになります。結局この責任を回避するにはもとにもどって「あの実験はザイルの実験とは無関係である」としなくてはならないことになり,そのために飛行機や船舶の実験ということが必要になってきたと考えざるを得ないのであります。
しかしながら私達はあの実験は飛行機や船舶のロープの実験ではないと考えます。それについて次の点を申し上げます。
まず実験の内容であります。飛行機や船舶に使うロープの実験に何故45度,90度の岩角とか登山に使う金輪(カラビナ)が使われましたか。又,何故55kgの錘を「これは登山者の体重にほぼ等しい」といわれましたか。又,公開実験では岩稜会が発表した事故発生直前の墜落者の位置と同じ位置から錘を落とすという実験をなされましたが,それと飛行機や船舶に使うロープの実験とどういう関係がありますか。あの内容の実験を登山者たる貴殿が「ザイルの実験ではなく飛行機や船舶のロープの実験」といわれることは,馬をみせてこれは牛だといわれるのと同じではなかろうかと考えます。何故馬を牛といわねばならないか,馬を馬といわれたのでは犯罪が成立してしまうからだと考えざるをえないのであります。そして誤報の責任は新聞報道にある(昭和32年7月31日の朝日新聞に篠田氏談として掲載)と主張されることは社会の公器新聞報道を愚弄し,ひいては社会大衆をあざむくことであり心外というほかありません。又,貴殿御自身でもあの実験は岩稜会の事故原因究明のための実験だといわれております。昭和31(1596)年大阪大学工学部から発行されている欧文による論文集には,貴殿のナイロンザイルに関する論文があり,その中に東京製綱での実験が岩稜会の1名死亡事故を含む3つの事故原因が不可解であったことに対処しての実験であることがはっきりと述べられております。その他これを示す事実はいくつもあります。
要するに貴殿がこの重大な疑惑に対する釈明をなされるのにこのわかりきった嘘をいわれなくてはならないということはどうしたことでありましょうか。それについて私達はかねて申し上げていることをここに再び申し上げずにはおれません。それは公開実験から半年以上を経た昭和30(1955)年11月18日私達が貴殿に「次々にあらわれる登山の文献がことごとくナイロンザイルには欠点がないと記しているが,これは大変危険なことだから先生には一日も早くザイルの欠点を登山界に明らかにしていただきたい」と文書と口頭でお願いしたのに対し,貴殿はその場ではそれに賛成されながら,12月20日にいただいた書簡では,「上京して東京製綱の社長と相談した結果,ナイロンザイルの欠点を,発表しないことにした」といわれました。又,貴殿がナイロンザイルの欠点を登山界に発表せざるをえなくなったとき,貴殿は昭和31年度の日本山岳会発行の『山日記』に「合成繊維のザイル(当時ナイロンザイル以外にありません)のようなものは問題である。新製品が出たときには,優れた点だけが強調されるから注意しないと万能と誤りがちだ」と書かれましたが,これはメーカーが新製品のザイルを出すとき,そのザイルに生命にかかわる欠点があることを知ってもそれをいわずに,あたかも万能のザイルのごとき宣伝でもって販売することを貴殿はやむをえないとみておられ,事故がおきればそれは使用者の不注意であるといわれているとしか考えられませんが,これで危険防止が出来るでありましょうか。もとより使用者の注意も必要でありますが,危険防止のためにはまずメーカーがメーカーに課せられた「危険防止のための万全の注意義務」を履行して使用者が万一にも誤らないように欠点を示すことが第一と考えます。学者である貴殿のこのお言葉はこの義務をあいまいにし,業務上過失致死罪を空虚にするものとして,メーカーに好都合でありましても一般にはまことに恐るべきと考えます。同時に私達はこのお言葉は公開実験における貴殿の御行為を自ら説明されているものと考えざるをえません。
私達は,私達の見解をそのまま歯に衣を着せずに申しましたが,国民の指導者である学者の行為としてこういう既成事実が出来てしまうということは社会の福祉にとってまことに重大と考えておりますので,この点御賢察いただくようお願い申します。
昭和33(1958)年11月7日 岩稜会代表 伊藤経男
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同日 各位宛 「第三回公開質問状」の送状 岩稜会代表伊藤経男氏
上記公開質問状の送状である。右の資料をクリックしてくださればお読みいただける。 |
同日 名古屋タイムズ新聞記事「篠田教授の回答やいかに」
名古屋タイムズとは、中日新聞社の関連企業であった社団法人名古屋タイムズ社が、かつて発行していた夕刊紙である。1946年5月創刊、2008年10月31日発行分をもって休刊した。
センセ-ショナルな見出しで大きく取扱われた新聞記事である。以下に要約的コメント部分を抜き書きする。
井上靖の小説「氷壁」のモデルとして話題を投げた゛ナイロン・ザイル事件”は4年目を迎えていま、法廷に持ち込まれようとしている。゛切れたナイロン・ザイル”の犠牲者を出した鈴鹿市神戸新町゛岩稜会”=代表伊藤経男氏=が「4年この方明確な結論も出されないのは大阪大学工学部篠田軍治教授の指導で行われた問題の゛ザイル強度テスト”にある程度の作為が働いていたからだ」として同教授あて、11月10日の期限付公開質問状を発送したのに対し、同教授が回答とは別に「誤った実験結果を発表した事実はない」との態度を明らかにしたためだが、その回答期限もあと1日後に迫っている。もし、回答がない場合には訴訟に持ち込むという岩稜会。どう解決していくのか。(遠藤)
右の記事をクリックしてください
全文お読みいただけます
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11月8日 岩稜会代表伊藤経男氏宛 坂部護郎氏よりの葉書
坂部氏(明治30年~昭和47年)は、日本のスキー幕開けの功労者・長岡外史氏の二男で、レルヒ少佐からスキー技術を学んだ。氏は著作家であり、山岳関係や『郵便切手百科事典』、小説なども著作してみえる。以下に解読清書。
前略 ナイロンザイル事件に関し、貴重なる印刷物御送付に相成り精読いたしました。
この問題は登山界の腫物と相成りて居り、これが明朗な解決は一に掛って尊台にあるものとの威を深くいたしました。
今後とも御努力下さいまして、明朗な社会の建設を期されるよう、茲に貴会に対し満腔の敬意を表します。 |
11月11日 朝日新聞記事「公開の席上で話し合いを」
この記事の余白に父が書いた文は以下である。
第三回公開質問状のことが朝日新聞に掲載さる。
朝日の記者によれば、公開質問の返答をとろうとしても篠田教授は行方をくらまし、朝日の記者が東海道線の各駅にはったということである。 |
11月12日 父宛 「寄贈品目録」 大町山岳博物館
大町山岳博物館から9月18日に゛明治、大正、昭和の岳人展“を行うために資料の提供依頼の手紙が入った。これに応えて父は、ナイロンザイル事件関係の重要資料などを寄贈することにした。この寄贈は、五朗叔父が遭難時に腰に巻いていた問題のナイロンザイルも含んでいた。
2012年6月19日に、ケルン墓参の帰路同館を訪問した「石岡繁雄の志を伝える会」のメンバ-は、この時寄贈されて、展示のされていない品を見学させていただくため、「山岳図書資料館」に入れていただいた。その時の模様は、このHPの以下の頁に掲載してある。クリックしてくだされば、ご覧いただける。http://www.geocities.jp/shigeoishioka/new30.html
寄贈品の中の写真ネガなどのデ-タは、後日送付していただいた。これは、石岡資料の散出を防ぐために、どの資料がどこにあるかを調べるためであった。
その時に、お送りいただいた写真と、その説明文が書かれたデ-タを以下に掲載する。
以下は、父が寄贈した際の大町山岳博物館からの寄贈礼状と、「寄贈品目録」である。以下に解読清書。
拝啓 白雪に輝く北アの峯々より吹き下ろす風にも,いつしか冬を思わせる今日この頃,ますます御健勝のことと存じます。
先日は貴重な資料を御寄贈頂き誠に有難うございました。お陰をもちまして市文化祭山岳展を飾ることが出来,市民の好評を得,盛会のうちに終わりましたこと,一重に貴殿の御協力の賜物と深く感謝いたしております。
同封の切り抜きは11月7日の朝日新聞に載りましたものですが,その他,信濃毎日新聞等,地元の新聞にも掲載されました。
今後なお,いろいろの問題で御指導,御協力頂ければ幸と存じます。向寒の折,ご自愛のほど。 草々
昭和33年11月12日
石岡繁雄様 大町山岳博物館
大山博第39号
昭和33年11月12日 長野県大町市大町山岳博物館長 松田正人
石岡繁雄殿
謹啓 晩秋の候ますます御清栄のことと存じ上げます。
さて先般は貴重な資料の数々を御寄贈下され厚く御礼申し上げます。なお資料は当館山岳資料として館内に展示し,来館者の資に供しております。
今後ともよろしく御指導御援助のほどお願い申し上げます。 敬具
寄贈資料目録 大町山岳博物館
資料番号 |
種類 |
個数 |
説明 |
Ⅰ |
ネガ |
1 |
昭和33年10月15日撮影(大正7年1月25日生) |
Ⅱ |
記録 |
1 |
単行本『屏風岩登攀記』 |
1 |
昭和22年7月穂高岳屏風岩中央カンテを初登攀したときの記録を主としたもの |
2 |
ハンマー |
1 |
右(上)登攀のときAフェースの下に残してきたハンマーを昭和32年10月第2登を行った関西登高会小泉氏が発見され石岡に送付したもの |
3 |
新聞切り抜き |
1 |
右(上)を伝える朝日新聞の記事 |
4 |
10年の逆算 |
1 |
戦後重要記事切抜き集(1945~1955)朝日新聞社 |
Ⅲ |
登攀用具の説明 |
1 |
説明書 |
1 |
ナイロンザイル事件の資料を本館に展示するにさいしてその概要を記したもの(昭和33年10月記す) |
2 |
写真 |
1組 |
昭和30年1月2日 前穂高岳で遭難が発生した当時の記録 |
3 |
写真 |
1組 |
遺体収容の写真 |
4 |
ザイル |
1 |
遺体に結ばれていたナイロンザイル |
5 |
アイゼン |
片足 |
遺体がつけていたアイゼン |
6 |
写真 |
1組 |
現場調査の写真 |
7 |
ナイロン糸屑 |
1組 |
現場調査のさいザイルが切断したと思われる岩角の上で発見されたもの |
8 |
石膏 |
1組 |
ザイルをかけた岩角に石膏を流して作成したもの |
9 |
石塊 |
1組 |
現場条件の再現実験に使用した岩石 |
10 |
写真 |
1組 |
右実験の模様を示すスケッチと写真 |
11 |
印刷物(ナイロン・ザイル事件) |
1 |
昭和31年7月印刷 資料と見解を記したもの |
12 |
印刷物 |
1 |
昭和31年11月22日 奈良の吉野で行われた第1回登山大会のさい三重県山岳連盟が全岳連の評議員会に緊急動議を出したがその時配布された印刷物 |
13 |
印刷物 |
1 |
21名の学者が大阪検察庁斉藤検事に提出した要望書 |
14 |
新聞切り抜き |
2 |
名古屋タイムス(昭和33年11月7日付)及び名古屋大学新聞(昭和33年1月15日付)(発行部数が少ないゆえとくに資料に加えた) |
15 |
印刷物 |
1 |
岩稜会から篠田教授に送られた公開状と添付状 |
「寄贈品目録」のⅢの1に記載のある「説明書」は、右である。クリックしていただけば全文お読みいただける。この説明書が貼られていたスクラップブックの余白には、次のことが記されていた。
ナイロンザイル事件の資料の一部(切れたザイル・実験に使った岩角等)14点が長野県大町市立博物館に保存、陳列された。下記(右)はそのとき送付した説明書の写し。
(説明書の上に記載事項)このことは約1年半後の31年7月に日本山岳会会報187号6頁、31年9月,10月に山と渓谷、207号,208号に、いずれも篠田教授以外の人によって発表された。岩稜会は30年8月に(加藤氏の)報をえた。又、30年4月24日、篠田教授と岩稜会員との面接のとき。
以上のように、現在でも大町山岳博物館に保存されているものは、とても重要なので、展示の度に事情が許す限り貸出を受けている。
|
11月15日 父宛 橋村一豊氏からの手紙
橋村一豊氏は、名古屋出身でアルパインガイドを勤められ、日本山岳会東海支部に属した登山家である。
この手紙は、屏風岩を登攀された際に、初登攀時に父たちが残したハ-ケンを持ち帰られて、送ってくださった時のものである。以下に解読清書する。
拝啓。突然お便りを差し上げて失礼致します。私共は東京の成城大学山岳部に在籍する者でありますが、誌上その他で石岡さんのご高名は以前よりうかがい知っているとはいえ、もちろん一面識もございません。
私共は本年9月下旬に穂高屏風岩に山行の機会を持ち、悪天候に悩まされながらも、どうやら第一ルンゼと中央カンテを登ることが出来ました。中央カンテの登攀に際しては、これを初登攀された貴方達パ-ティの苦闘が身を持ってわかり、そのファイティングスピリットに心から敬服している次第です。私共のような者においては、先駆者方々の無言の力強い激励がなければ、到底あのような物凄い所は登れなかったであろうと思っています。
我々は今年の7月頃中央カンテを登ることを決心し、秋の試験が始まる前に登攀を行う予定でした。貴方達のパ-ティが昭和22年に初登攀されたことしか知らず、(先年の10月に関西登高会の方が十年ぶりに第二登されたことは、出発前に買った『岳人』125号の記録を見て初めて知った様な訳でした)。慌ただしい出発前に資料もろくに入手できぬままに、伊藤洋平氏の書かれた『山小屋』記載の記録と諏訪多栄蔵氏の『穂高岳』のみを携えて行く心積もりでしたから、関西登高会の詳細な記録は大助かりでした。
登攀に取りかかったのは9月25,26の両日で、25日の夕方から26日へかけて台風22号のもたらした豪雨で、実に辛い登攀とビバ-クを強いられ、全く辟易となりました。
石岡さんが6時間以上の苦闘をされたと聞いておりますインゼルブッシュへのトラバ-スも、ハ-ケン・ステップがそのまま残っていて、十分使用に耐える状態でした。我々は二人パ-ティで登ったためと、先駆者の方々の記録と偵察でル-トが前もって比較的良く判っていたので、割合スムーズにAフェースの下まで達する事ができましたが、ここまでで日没となりビバ-クをさせられました。実は日帰りをやる心積もりでいたところ、不覚にも寝過ごして遅くなって横尾谷出合いのテントを出たため、T0の取り付き点へ着いたのが午前9時過ぎになってしまい、天罰覿面で、ビバ-クでは全くひどい目に会いました。Aフェースの下へ着いたのが午後5時頃で、これさえ登り切れば、何とか強引に日帰りができると思って薄暗くなって来たのを無理して登り始めましたが、それまでの登攀で腕の力が相当消耗しており、打ち残されていたハ-ケンの所まで這い上がりましたが、ハ-ケンにぶら下がる様にしていた腕の力が次第に抜けていき、カラビナを掴んだ掌が開いていく様な始末で、これは危ないと、慌てて釣瓶の様にしてゴボウで下りテラスへ引き返して、Aフェースの下でビバ-クとなりました。
翌日再びその点へ達した時、前日我々がカラビナを掛けたハ-ケンの一つが幾分古くてグラグラしており、手で引張ると抜けるような状態でしたので、それを持ち帰りました。我々が察するところ、このハ-ケンは型もこの頃見かけぬ古い物であり、錆びているところから見ても、インゼル・ブッシュへのトラバ-スに打ってあった物と同じで、多分貴方達のパ-ティが初登攀の時に使用されたものではないかと思います。
我々は決してハ-ケン抜きにうつつを抜かし、それを業とするが如き者ではありませんが、このハ-ケンは、もし貴方達が使用された物なら、もう10年以上の年月を経ており、一見して全幅の信頼の置ける様な物でもありませんので、あの場所には不必要と思い、持帰った様な訳でございます。
我々も記念として持って来ましたが、もし貴方がたのご使用になったものであれば、懐かしさもひとしお深かろうかと思い、別封としてお送りする次第でございます。つまらないものだとお考えになればそれまでの物かも知れませんが、先駆者に敬意を表するよすがとも思い、かかるお便りを差し上げます。
尚、これらの事項は、私が勝手に思い付いた独りよがりの様なもので、心苦しいと申されればはなはだ残念でございますが、またもしこのハ-ケンが貴方がたの使われたものでなければそれまででして、その場合は私共の方へ送り返されたり等、返ってご面倒な手間をおかけする様でしたら、そのまま打ち捨てて下さって結構です。
話は変わりますが、『岩と雪』1号にて拝見しました貴方の「ナイロンザイル事件の真相」を一読して、ある意味で、実に驚きただ呆れている次第で、一部学者を含めたメ-カ-側の不誠実と言おうか、敢えて恥ざる厚顔な態度に、一登山者としてばかりでなく良識ある者にとって、真に遺憾なことだと思うと共に、心からの怒りがこみ上げて来るを禁じ得ませんでした。
これは貴方の言われる様に登山者や岳界加之(のみならず)、社会にとっても少なからぬ悪影響を及ぼす事柄だと思います。事件の起こった当時の29年には、私はまだ高校に入ったばかりで詳しいことを知らずにいましたが、この度は、その後の経過の真相を知るに及んで、実に驚くことが多うございました。
私の様な若輩がどうこう申すのも、おこがましいことでしょうが、岳界の良識と道義を貫いてあくまで不正と戦われんことを、そして万人に納得のいく様な結果を導き出される様、陰ながら御拝しております。
『山と渓谷』233号へ載った貴方のザイル切断防止装置という独創的なご研究、大変興味をもって拝読致しました。
以上、乱文乱筆にてとりとめのないことばかり書きましたが、この辺で失礼させていただきます。 敬具
1958年11月15日
石岡繁雄様 成城大学山岳部 橋村一豊拝
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11月16日 中日新聞記事「氷壁の争い続く」
この記事はナイロンザイル事件のあらましをつづった上で、「山男の友情と信頼で結びあうザイルなのに、これをめぐる対立は冷たくそして厳しい」と締めくくっている。笠井亘氏執筆による。
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同日 東京新聞記事「岩稜会が強硬態度 篠田実験に重大欠陥」
上記の記事と内容はほぼ同様である。記事の切貼りされたスクラップブックの余白には、以下のように書かれていた。
東京中日新聞にも事件の内容が正確に伝えられた。
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11月17日 「衝撃時における登山綱切断防止装置」の特許証と、その特許に関する資料
昭和29年から開発を進めて来た登山綱切断防止装置が、日本特許を取り、特許証が発行された。
オネストジョンと仮称された装置は、以下の写真のものである。この現物は現在名古屋大学博物館に寄贈して、保存されいる。
この特許は、昭和30年5月12日に出願されたものである。
昭和30年5月12日 「願書番号通知書」
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7月17日付で発行された「特許証」
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オネストジョンを装着した石原國利氏
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以下に、特許になるまでの軌跡を、掲載する。
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昭和32年5月22日 拒絶理由通知書
(以下に「理由」を解読清書)
重量物を吊り下げるために重量に應じて調整するようになした装置は自在懸垂器として本出願前公知である。
(例えば昭和15年実用新案出願公知第9570号公報参照)
本願の要旨とする綱切断防止装置は前記公知のことより、必要に応じて容易になし得る程度のことと認められるから、発明をなしたものと認めることは出来ず、従って特許法第1條の規定に該当しない。
これに付いての意見書を40日以内(7月3日まで)に提出しなければならなかった。
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昭和33年7月23日 「特許公報」
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昭和32年11月27日 「通知書」
昭和32年10月14日に送付した訂正書の住所が、願書の物と違っていたため、住所変更届を出すように求めた書類である。
願書提出の時は、名大の官舎(名古屋市昭和区山手通2丁目14番地)に住所があり、訂正書を出した時は、自宅(昭和区山手通3丁目3番地)であった。
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昭和33年3月14日 「通知書」
訂正書の提出を促す通知書である。この提出の締切は4月14日であった。
(以下に手書き部分を解読清書)
32.10.14日付差出の訂正書中
特許請求の範囲第5行目”回転盤の回転と共に”より10行目~させるごとくした”とあるは本器の使用状態の記述であるから、第2,3に示す機構のみを具体的に記すように訂正すること。 以上 |
昭和33年4月17日 「出願公告の決定謄本」
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昭和33年10月23日 「特許査定謄本」
これで、やっと特許になった訳である。
特許になると、特許料を支払わなければならなかった。この謄本が送られて来てから60日以内に、1年目から3年目までの特許料は1500円。次いで、4年目から6年目までは、毎年800円。7年目から9年目までは毎年1500円。10年目から12年目までは毎年3000円。13年目から15年目までは毎年6000円である。
父は、この先沢山の特許を取得することになるが、その特許料の支払いで、とても苦労することになる。
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昭和33年11月17日 「特許登録通知書」
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11月20日 『岩と雪』2「その後のナイロンザイル事件」石岡繁雄著
6月2日の創刊号に「ナイロンザイル切断事件の真相」が掲載されたが、その第二弾としてこの記事が載った。
最初に「この事件を正しい解決にもってゆかないまま葬ったとすれば今後人権の不法侵略、生命の軽視という憂うべき事態は防止出来にくくなると考える。正しい解決とは、前日本山岳会関西支部長篠田阪大教授が、昭和30年4月29日愛知県蒲郡市にある東京製綱株式会社内でとられた不可解な御行為について、なっとく出来る説明をしていただくかあるいは遺憾の意を表していただく以外にない」と記され、その後の事件の進展を記している。最後に、以下のように記されていた。
私たちは目下、学識経験者、報道関係者に「この事件はこのまま放置出来ないと思うがどうであろうか」「訴訟の前にもっと適切な方法はないか」という点でご意見をお伺いしている。どの方も「絶対にウヤムヤにするべきではない」「訴訟はなるべくさけるべきだ」といわれるが、それならばどういう方法が最良かという点については必ずしも一致しない。私たちは今後訴訟は最後の手段とし、それ以前に、より適切な方法をとってゆくつもりである。
しかし、①篠田教授にこの重大な疑惑がかかっているとき、その釈明をされるのに、上述(あの実験は飛行機や船舶のロ-プの実験として行ったもので、遭難事件の究明とは無関係)のあのわかりきったウソをいわれるとはどうしたことかという点と、②国民の指導的立場にある学者であり、又最高の教育者である篠田教授が話合いはしない、訴訟ならば出かけてゆくといわれるのはどうしたことか、という点である。
私たちはこれに関連し、会員石原國利が告訴した刑事訴訟が不起訴になった理由の一つに、「実験はグライダ-の曳航綱の実験であった」ということになっていることを思い浮かべずにはおれない。そして今後、何年も経てばあの実験は飛行機や船舶の実験であったということで固定してしまうだろうと考え、真実を伝えることがいかに難しいかを改めて痛感する。
しかしこの事件の真相、社会的意義を理解していただく人々が多くなりつつあることが、現在、この事件の正しい解決への唯一、最大の原動力となっていることを考え、私たち当事者は感謝の念にたえない。
篠田教授が判り切ったウソを押し通し、それを大阪地検が真に受けてしまい、まかり通ってしまったことへの失望と、裁判所は権威者の意見を重視して一般市民の意見は聞いてもくれないことがわかった今、民事訴訟をすることに意義はあるのかと悩む父の姿が浮き彫りとなる記事である。
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12月1日 東海岳連GHM部設立関係のメモ
ヒマラヤに行くために、東海岳連GHM部を設立しようとしている。
作成年月日は不明だが、この時期に書かれたものと思われる。このメモは、父筆のものと、筆者不明(このメモは中部日本放送株式会社の用紙に書かれたものなので、本田善郎氏が筆者の可能性がある)のものとがあった。以下に解読清書する。
部則(仮称)案
まず原則的なこと
1)岳連の会則を求める
2)役員、幹事
3)資格…技術から判断する
幹事が審議して定める、幹事会
4)趣旨に反する活動には協力しない
{伊吹には行かない}
(1)東海岳連の会合で決議してもらう方法
① 何かの会合の際にこれを議題とする
予めこのことを含んでおいてもらって、正規の議題にしてもらう
a.東海岳連の恒例の山行きに附随する会合でやる
b.御岳に関連した会合が近くにあるはず
加藤氏調べる 石岡が坂本さん(提出者)に頼み込む。(54)0732 愛知県石炭協会 泥江町2の1 中部ゴム会館内
②
近くに会合がない場合は、これだけで会合を持ってもらう
坂本さんに石岡から頼む
(2)その会合でどうやるか
① 出席者・・・坂本さんが提案理由を説明する
(石岡)、加藤氏、二村氏、鈴木氏、高橋氏、(本田)
②
加藤氏ほか出席者はある程度の権限をもって出席する
③ 部則(仮称)案作成・・・50部
提案理由・・・趣旨
Ⅰ.名称 東海岳連GHM部
Ⅰ.目的 別記
Ⅰ.入部資格 別記
Ⅰ.事業
Ⅰ.委員
本部は5名の委員を置き、部の運営に当たる
Ⅰ.目的
本部の目的は、東西登山界の現状に呼応して、スーパー・アルピニズム高揚のため、各種の事業を行う。
Ⅰ.入部資格 別記
本部員たる者は下記の資格を持った者でなければならない。
1.別表に定めるルートの内、積雪期に於いて三級以上の登攀をなした者
2. 別表に定めるルートの内、積雪期に於いて四級の登攀を2つ以上なした者
1級
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前穂東壁、明神五峰中央リンネ、四峰松高、同新村
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2級
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荒沢南稜、同北稜、滝谷第四尾根、鹿島槍北壁主稜、屏風岩北壁
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3級
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白馬主稜、四峰明大、木曽駒奥三ノ沢、同大崩谷
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4級
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白馬鎗南稜、同北稜、ダイレクト尾根
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5級
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宝剣西面第二尾根
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6級
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北穂東稜
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尚極地法による積雪期登山、及び積雪期縦走等の経験がある者については委員が決定する。
Ⅰ.事業
本部は下記の事業を行う。
1.困難なヴァリエーションルートを目標とした大規模な登山
2.困難なヴァリエーションルート登攀記録の発表及びその交換
3.東西と情報の交換
4.登攀技術の研究
5.スーパー・アルピニズム体得を目標としたゼミナール
6.海外遠征の研究
又、毎月1回の定例集会を持つ。その他の集会は委員の招集により行う。
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12月15日 業界誌『日本運動具新報』記事
「岩稜会が強硬態度 篠田実験に重大欠陥」
『日本運動具新報』は、野田繁若氏を創業者とする日本運動具新報社を印刷兼発行元として昭和23(1948)年3月1日に創刊された、わが国で最初のスポーツ用品業界紙である。
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12月20日 大町山岳博物館機関誌『山と博物館』記事
「ナイロンザイル事件」 大町山岳博物館学芸員 海川庄一氏
ナイロンザイル事件の資料などを寄贈した博物館が、機関誌に載せた記事である。右の表紙をクリックしていただけば、全文お読みいただける。 |
12月22日 篠田軍治氏宛 伊藤経男氏・石原國利氏・石岡繁雄・若山富夫叔父からの「陳謝請求催告書」
篠田教授を訴訟により追求する代わりに、陳謝広告を新聞紙上と雑誌に出されるよう催告した書面を署名捺印入りで、書留内容証明郵便物として送った。
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12月24日 父宛 大町山岳博物館 高橋秀男氏からの葉書
機関誌への原稿依頼の葉書である。
前略 過日はご多忙の処、大変失礼致しました。
別便『山と博物館』に、学芸員 海川庄一 によって『ナイロンザイル事件』というテーマで書いていただきました。しかし紙面の都合等により訴訟関係にまで及ばず、誠にまとまりのない原稿となってしまいましたが、ご容赦願います。引き続き1~2月号にも載せたいと思いますので、できれば岩稜会の会長さんの『その後の問題について』玉稿賜りたく存じます。
如何でしょう、字数・期日制限なく、お願いできれば幸甚に存じます。
取りあえず用件のみにて 草々
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12月31日 両親あて 岩稜会からの葉書
この葉書は、岩稜会の臨時総会開催のお知らせである。以下に解読清書。
謹賀新年。 先般ご通知申し上げました臨時総会を下記のように行います。
記
1.1958年1月3日 P.M.1:00
2. 鈴鹿市神戸堅町社会党事務所にて
3. 議題
1.ナイロンザイル事件
2.ヒマラヤ遠征計画
3.『穂高の岩場』
4.その他
是非ご参加下さい。
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月日不明 『山岳遭難記1』「前穂東稜゛氷壁”事件の実相」 春日俊吉氏執筆
この本の表紙と共に「まえがき」「目次」該当部分の切り貼りされたスクラップブックの余白には、以下の事が記されていた。
春日氏のナイロンザイル事件の概要はかなり正しい。
しかし、残念ながら事件の前半だけである。春日氏に弟(富夫)が三重岳連の印刷物(昭和34年9月12日付『ナイロンザイル事件 論争を終止するに当たって』三重県山岳連盟 三重大学水町助教授著)を送ったが、その回答は163頁(昭和34年11月5日付春日氏からの葉書、該当月日に掲載する)にある。
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月日不明 岩稜会宛 三重県山岳連盟
この印刷物の要旨は、御岳で第三回全国登山大会が行われるが、その費用が不足しどうしても集められないので、御在所岳ケ-ブル会社から依頼の指導標建設を請負い、この不足資金(2万円)を算出することになった。指導標建設のために協力をお願いしたい。ということである。
この印刷物には、各登山団体の指導標作業の割当などが記されており、「三重県山岳連盟規約(案)」と「昭和31年度会計報告」「加入団体名簿」が付けられている。
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月日不明 『八高五十手法』
この本のコピ-を必要部分切貼りした資料である。
父にとって、古き良き時代の八高山岳部のことを記した、内藤仁氏著の「山岳部の思い出」が掲載されている。
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<その18:ナイロンザイル事件終止符宣言>へ続く…
いよいよ「暗黒の章」の最終頁に突入です!
是非‼ご覧ください
2018年4月28日記
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