湯浅美仁著

『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』

に対する「反証・反論」




はじめに

 湯浅氏の著作本『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』(北白川書房20194月)は、岩稜会がしなかった195512日の前穂高岳東壁遭難事故の総括を湯浅氏が代わりにしたとして書かれた捏造本であることを、最初に断言しておく。
 この本の出版により、遭難事故の当事者の石原國利氏と岩稜会会長であった故石岡繁雄はいわれのない罪を着せられたのだ。
 石岡を知る大多数の人たちはこの本を一笑に付し、放っておけばいいとおっしゃるが、時を経て石岡たちの理解者がいなくなれば、この本が独り歩きし大変な誤解を与えかねない。その誤解を解くために「石岡繁雄の志を伝える会」が行った、内容の誤り等の検証結果を詳しく述べていこうと思う。以下、湯浅氏の著作本のことを「湯浅本」と記す。
 私たち「石岡繁雄の志を伝える会」とは、石岡繁雄(1917年ー2006年)の没後、石岡の遺した膨大な資料などの整理・分類・データ化作業を200711月から始めた仲間が、2009年に結成した会である。
 会員には、前記の石原國利を会の顧問として、『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』の共著者相田武男をはじめ、石岡が教鞭をとった豊田高専OB、鈴鹿高専OB等が在籍している。会の代表として、石岡繁雄の次女石岡あづみが当たっている。
 2012年に石岡の資料などを名古屋大学に寄贈寄託した翌年、「氷壁を越えて」と銘打った大規模な企画展が、名古屋大学博物館で開かれた。その後、「氷壁を越えて」シリーズとして、各地で4回の展示を弊会の手で行った。
 尚、名大文書資料室に寄託した「石岡繁雄文書資料」は国の特定歴史公文書等に指定されて、内閣府の管理下に置かれている。その資料の目録作成作業は、伝える会のボランティア作業として現在も進行中である。以下「石岡繁雄の志を伝える会」を「伝える会」と記す。
「湯浅本」を最後まで読み終えた人はかなり忍耐強い人と言えるかもしれない。特に「ナイロンザイル事件」を理解している人にとっては苦痛であり、私たちのように吐き気を我慢しながら読み通した方も多いのではないか。その理由を私たちは次のように理解した。それは、本書の狙いが「サブリミナル効果」と「ズームイン方式」を駆使して同じことを何度も繰り返しながら、以下の2点に集約しようとしているからであること。

 1.    東壁遭難事故は石原氏の「吊り上げ」によって引き起こされた過失致死事件である。
 2.    石岡はその事実を隠蔽した殺人ほう助者である。

 さて、この本を書かしめた高井氏と著者の湯浅氏について、2人を知る人たちの証言と資料から紹介しておこう。
 「伝える会」には、現在豊田高専第1期生で山岳部の創立メンバー3名が在籍している。そのメンバーの1人は「高井氏は、創立後間もない豊田高専の山岳部の顧問に就任され、直にいろいろご指導を受けた。氏は石岡先生が登山家として最も信頼する岩稜会のエキスパートのひとりであり、各種の猛者振りのエピソードを聞かされていたので、大いに信頼して指導を受けた。特に富士山での雪面の滑落停止訓練の際には、1人の部員がピッケル操作を誤り、あわや数十メートル下のガレ場に突入かと思われたその時、高井氏は猛烈に滑り落ちて来るその部員を、果敢にも手で跳ね飛ばしガレ場の手前で制止させてくれた。高井氏はその部員のピッケルの刃で手を傷つけ血だらけだったことを思い出し、今でも高井氏に対する感謝の念は忘れません」と話す。
 一方、湯浅氏に関しては、石岡が亡くなってから始めた遺品と研究資料の整理の際に作成したデータベースの検索結果で知ることができる。最初の記録は196414日石岡宛書簡で、高井氏と共にグリーンランド行きを検討する様子がうかがわれる。1968年の井上靖氏来鈴の際には歓迎会に出席し、1977年の『岩稜』〔岩稜会の軌跡を追う非売品の本〕発行に貢献、その後も2000年の岩稜会の特別会費徴収の幹事や岩稜会の各種行事の会計や撮影係など裏方を務めている。特に石岡が言及しているのは、湯浅氏が滝谷第2尾根P2フランケの積雪期初登攀者を解明された功績だ。
 そんな2人の信じがたい行動についても述べねばならない。
 石岡が名大病院の献身的な治療のおかげで無事退院できた翌日の200641日、最後の岩稜会の会合が開かれた。それから間もない57日、2人は、突然石岡家を訪問する。訪問した理由を「今日は手打ちで来ました」と言いながら、二人がかりで石岡を責め立てるように50年以上も前の前穂遭難事故を詰問し、「わかった、わかった」「ワシが悪かった」と言わしめたのである。認知症状も進んでいる恩師に対して教え子のすることだろうか。湯浅氏は医師でもあり、たとえ学校では教えを受ける機会が無かったとしても理解できない。
 その頃の石岡は、貴重な資料のコピーや思い出の写真をスクラップブックに順不同に残している。ナイロンザイル事件の資料をきちんと残していた10年前までの整理手法とはかけ離れた「精度の低い」整理の仕方だった。妻をしのびつつ、思い出に浸りながらの日々を過ごしていたわけで、石岡の健康と精神状態は誰の目にも一目瞭然だった時期だ。
 また、その際に湯浅氏は「今後は一切この話はしません。高井さんも言いたいことは言えた訳だし、手打ちという事で来たのだから、これで一切を水に流しましょう」と約束しておきながら、2019年になって事前に関係者への内容の確認・了解を得ることなしに突然本を出版し、「信ずることを『日本山岳史に記した』だけ」と主張されている。
 私たちは「湯浅本」を何度も熟読し、全254頁の頁毎に反論すべき記載事項283項目を書き出した。その内訳は、重複もあるが、誤記:37項目、事実誤認:85項目、独断・推論:159項目、約束反古:2項目、であった。詳細は、Ⅴ章「湯浅氏執筆本の各ページに記載された内容の検証と反論」の通りである。
 しかしながら、その多くは今では確認不可能な、水掛け論に陥りやすい項目も含まれている。そこで私たちは湯浅氏が最も信頼し自論の根拠としている「奥又合宿備忘録」と、「吊り上げ」があったことを実験によって確認したと明記している「湯浅氏による実験」(以下、「湯浅実験」と記す)に的を絞り、検証し直した。


 Ⅰ 「湯浅本」が出版されるまでの経緯(「伝える会」代表 石岡あづみ)
 〔以下の色が変わった文字列には、リンクが付けてあり、資料がご覧いただけるようになっています。
是非、ご覧ください!〕


発端となった冬山合宿と遭難事故
 19541222日から1955110日にかけて行われた岩稜会の冬山合宿「穂高奥又白」の時に、前穂高東壁で遭難事故が起きた。
 この合宿は三重大学山岳部が冬山の経験が乏しかったため、岩稜会の合宿に参加して実技を身に付けるためでもあり、その頃、三重大山岳部と岩稜会の両方に属していた澤田榮介氏が、山岳部長を通して学校にも届けを出して行われた正式なものであった。三重大山岳部からは、澤田氏の他、部長の南川治資氏と石岡繁雄の実弟若山五朗が参加し、1222日先発隊として出発した。

 この冬山合宿での目標は、厳冬期の、前穂高北尾根4峰正面(北条新村ルート・松高ルート・4峰明大ルート)・前穂高東壁・前穂高北尾根の登攀であった。中でも冬期初登攀として重きを置かれたのは、前穂高北尾根4峰正面であった。前穂東壁・前穂北尾根を当時初登攀としていたが、ルートによっては登られた場所もあり定かではない。
 

 当時の岩稜会では、登攀の隊員は、出発する前の晩に、気象状況・健康状態・登攀の技量や体力などを考慮に入れて、登攀リーダーが決定することになっていた。この時の登攀リーダーは石原一郎氏(参加している石原兄弟のうち兄)であった。この合宿の最大目的は4峰正面であり、その登攀には実力が一段上のメンバーの到着を待たねばならなかった。
 1231日に、ベースキャンプ(標高2500mの奥又白池のわき)に居たのは石原兄弟・高井兄弟・澤田氏・南川氏と五朗叔父の7人であった。一郎氏が当日の登攀隊員として、新鋭の國利氏(弟)と澤田榮介氏、そして、この頃正式な岩稜会員ではなかったとされる五朗叔父を選んだのは、もちろん登攀力が優れていたためでもあったが、辛いボッカの仕事を引き受けて、早くから入山して準備に努めた3人へのご褒美ということでもあったようだ。また1954年の穂高合宿で五朗叔父は、一郎氏と共に積雪期の前穂北尾根4・5のコル→前穂高頂上→吊尾根を登り、三重大山岳部の北岳合宿(719日~28日)では、バットレス・第1尾根・第2尾根・第3尾根・第4尾根を石原國利氏、澤田榮介氏とパーティを組んで攀じた経験があった。積雪期の初登攀のような大きな登攀の場合のパーティは2人というのがセオリーであったが、五朗叔父は、登攀能力がメキメキと上達(五郎叔父の登攀能力については、賛否両論がある)してきていたので、2日には帰らなければならないところを、押して登攀隊員に加えた。この登攀で起こった前穂高東壁遭難については、資料をご参照願いたい。

 前穂東壁登攀隊が出かけた後、奥又白池のベースキャンプに残ったのは、南川氏、1228日から参加の一郎氏、31日午後から参加の高井利恭氏(兄)・吉史氏(弟)兄弟であった。一郎氏と高井利恭氏は、後発隊の松田武雄氏等と共に初登攀のビッククライミングが控えていた。ところが前穂東壁での遭難で、その夢が潰えた。2004610日に来訪された高井氏(この後に出て来る高井氏とは兄の利恭氏のことである)は、父が就寝後私に「あの遭難さえなければ、自分は大登山家になっていたはずだった」と語られた。

「奥又合宿忘備録」と高井氏の不満

 さて、年代を追ってみると、「湯浅本」の中で問題となる「岩稜会 奥又合宿忘備録 19551月」いうノートの存在に行きあたる。その信憑性については、後に反証として検証して行きたい。ここでは経過だけを追うことにする。

 この後、岩稜会は登山者の生命を守るため、ナイロンザイルの岩角欠陥を告発する長い闘いに入る。岩稜会の会員の中には、アルピニズムを追求する登山が、このナイロンザイル事件〔浄書版冊子『ナイロン・ザイル事件』1956年7月岩稜会〕によって妨げられたことへの落胆があったようだ。特に高井氏は自身の登山活動が妨げられたことへの恨みを、長年父に愚痴っていたようであった。
 このナイロンザイル事件(19554月に行われた篠田軍治氏指揮の基に行われたナイロンザイルの性能に関する偽装された蒲郡実験と、その後の東京製綱と篠田氏を告発し、ナイロンザイルの岩角欠陥を世に知らしめるための闘い)の経過は「湯浅本」とは関係ない部分なので、記載を控えるが、詳しくは『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』をご覧いただきたい。

 197565日、ナイロンザイルの岩角欠陥が認められ、ナイロンザイルに法的な規制が設けられ安全基準が官報で発布されて、ナイロンザイル事件は一応幕を閉じたことになるが、高井氏の恨みは尽きることが無かった。

 時は流れて、200462日母が急死した。最愛の妻を亡くした父の嘆きは計り知れず、2年ほど前からアルツハイマー型認知症も発症しており1人で鈴鹿の家に置く訳にはいかず、次女で石岡家の継承者であった私は父と暮らすようになった。それから私は多くのことを見聞きするようになった。 その頃の父は、出版社あるむの元社長で豊田高専の1期生でもある川角信夫氏と共に、自叙伝『ザイルに導かれて』の製作中であった。私は秘書のように文献を探したり、父の言葉をワープロで打ったりしていた。父は脳梗塞のため、文字を書いてもほとんど読めないようなものであり、本の出版には川角氏の貢献が大きい。
 その後の『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』の執筆も相田武男氏に委ねることとなり、編集会議には相田氏・川角氏に加えて岩稜会の藤田壯二氏が加わり、私も末席を汚して参加していた。
 その本を作るためのナイロンザイル事件関係の資料の整理は容易ではなく、かねてから本出版のために藤田氏と共に整理作業に当たっていた父であったが、コピーなどが多く存在し、頭も働かず、整理がつかない状態であった。母他界後、私が鈴鹿の家に行った時には、母屋2階の客用寝室にしていた8畳の座敷と、その隣の8畳間いっぱいに年代別に仕分けされようとしていた資料が並べられていた。その他にも有った膨大な資料を、私はまず大雑把に年代別に分類整理した。その時に発見したのが「奥又合宿備備忘録」のメモノートであった。
 200512月頃より、父は以前から患っていた脳梗塞・大動脈瘤・心臓疾患などが悪化して、入退院を繰り返すようになった。200635日、岩稜会の中澤氏・藤田氏が来訪され、父が元気なうちに岩稜会の集まりをやりたいとの話があり、父はとても喜び即座に快諾、その集会は41日と決定した。同年39日から父はまた胸の痛みを訴え入院となった。入院中は「岩稜会の集まりがあるから、早く良くならないと」と励まして、やっと退院したのは31日のことだった。

 41日、最後の岩稜会会合が、まるは寿司で行われた。出席者は石岡繁雄(会長)・伊藤経男(副会長)・赤嶺秀雄・中澤昭夫・室敏弥・森泰造・高井利恭・藤田壯二・今井喜久夫・中道雅・黒田吟哉・長谷川光男・湯浅美仁・澤田榮介・大井たづ子・塩尻修一・松田郁子各氏、父の付き添いとして私の計18名であった。


岩稜会の集まり
 
2006年4月1日 まるは寿司にて
 
岩稜会の三羽烏
 
「奥又合宿備忘録」を見られる皆さま

 岩稜会の三羽烏と言われた伊藤経男氏〔通称「社長」。鈴鹿市にあるスポーツ用品店社長〕、赤嶺秀雄氏〔石岡と共に旧制神戸中学教員。元神戸高校教員・元上野商業高校校長〕父没後に相次いで亡くなった。
 この時に、「奥又合宿備忘録」を持参して、岩稜会の方々にどなたが書いた物かを尋ねたのは私である。この時、高井氏と湯浅氏〔1939年生まれ。鈴鹿で整形外科を開業〕は、曰くありげに、このノートを2人で頭を突き合わせるようにご覧になり、目を輝かせて話してみえたことを覚えている。
 湯浅氏が岩稜会に入った経緯については、澤田氏から聞いている。1959年、湯浅氏が岩稜会に入りたいというので、湯浅氏の母が女学校の同級生の澤田氏の母に頼み、澤田氏は入りたての湯浅氏を山に連れて歩いて指導した。岩稜会の入会者は、この湯浅氏と藤田氏〔1940年生まれ。湯浅氏と同学年〕で、後に入られた方は数名であり、この2人が岩稜会の最若手として頑張って来られた。

 岩稜会の集まりの後、湯浅氏から私に依頼があり「奥又合宿備忘録」のコピーを渡した。なぜコピーが必要か不思議に思ったが、その理由は聞かなかった。
 1か月後の57日朝、電話があり、父から「高井と湯浅が来るそうだよ」と聞いた。14時半、2人がみえて、湯浅氏が「今日は手打ちで来ました」と言われ、私はいぶかしく思ったので、その時の湯浅氏の笑顔まではっきりと覚えている。2人を母屋の居間へ通して、私はお茶の接待をした後、酒宴の用意のため台所へ行っていた。急な来客で、慌てて買い物に行き準備も整っていなかったので、その時の父と、高井・湯浅両氏の話はほとんど聞いていない。

 その頃は父を慰めるためと母の教えを守るために、来客があると事前に分かった段階で、私は酒宴の用意をしていた。父は来客をとても喜び、必ずお酒を出するように命じもしていた。車で来ている来客にまで酒を勧めて困ったものだった。しばらくお話をしていただいている間に、私が座敷に酒宴の用意をしてお呼びした。その後は、私も同席して接待した。高井氏は「まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった」と言われた。私は事の成り行きが全く分かっていなかったので不思議に思った。父は「わしが悪かった」と言っていたが、なぜ謝らねばならないか理解出来なかった。
 19時、湯浅氏は「手打ちなんだから、今後は一切この話はしません。高井さんも言いたいことは言えた訳だし、手打ちということで来たのだから、これで一切を水に流しましょう」というようなことを言われて帰られた。帰られた後で父に「お父さんは悪いことなどしてないのに、なんで謝らなければならないの」と言ったところ、父は「謝っとりゃせんよ」と言っていた。当時の父は長い話に耐えられない状態であったため、判らなくなると何でも「そうか」とか「分からん」。面倒になると「分かった。分かった」と言っていた。どういう事情か分からぬままだったが「今後一切この話はしない」と言われたので、私はこれ以上聞く必要はないと思った。
 2日後(200659日)、高井氏から父宛に葉書が来た。内容は来訪時のお礼と「あのことは忘れられない」というようなことが書かれており、「一切を水に流す」と言ったことは嘘だったと分かった。父が可哀そうで、その葉書を渡すことが出来なかった。 


 3か月後の815日、父他界。葬儀の際に岩稜会代表として高井氏が弔辞を読んだ。

 2011116日。その頃「伝える会」のメンバーは、石岡の遺した資料などの整理作業をしており、名古屋大学にその資料などを寄贈・寄託することも決まっていた。ところが、遺された『穂高の岩場1・2』(岩稜会編)関係の山の写真の場所の特定が出来ず、國利氏と澤田氏のお力を借りて、写真場所の特定を行った。その日の13時半、國利氏と澤田氏は、高井氏・湯浅氏を伴って、拙宅へ来訪された。『穂高の岩場』の写真のほとんどは國利氏と澤田氏が写されたものであり、2人が協議しながら『穂高の岩場 1』の何頁のどの写真というように特定して、湯浅氏がそれをメモしていかれた。高井氏は終止無言で、石岡の遺したスクラップブックや写真を見ておられ、何かを探してみえるようにも見えた。
 201229日、國利氏が大阪出張のために九州からみえているので、湯浅氏から集合がかかって、高井氏・澤田氏の4人が12:30からまるは寿司で会見を持つことになった。
 その直前の1140分に澤田氏が突然来訪され「湯浅氏が突然訪ねて来て、この冊子〔左のもの〕を受け取った。これについて今日話し合いがもたれる」と言われた。澤田氏は、顔面蒼白で手が小刻みに震えていた。冊子を見せて「これの内容があまりにも酷いので、僕は断固抗議します」とのことであった。内容について少し質疑応答があり、あまりのことに私は「この文章が出されたら、父の名誉毀損で告訴します」と話した。1210分頃、澤田氏は冊子を置いて会見に出かけられた。私は会見の間に、冊子と澤田氏の意見の書かれたメモと、澤田氏から依頼のあった「奥又合宿備忘録」のコピーを取っておくことになった。会見が終わり次第、澤田氏は拙宅に会見の結果報告に来てくださることになった。
 15時、澤田氏が戻られる。会見の結果を聞く。
 「僕は猛烈に批判したところ、湯浅は『冊子の公表はしない。全て破棄するのでお返し願いたい』ということになった。お貸しした冊子も、これからすぐに湯浅に渡すのでお返し願いたい。國ちゃん(國利氏の愛称)は『事実だけをまとめて岩稜会としての総括はすべきです』と言われた。高井さんはそれでも不満の様子であった。あの冊子は高井さんが湯浅に書かせた物と思われる。事実をゆがめて自分の思う方向に捻じ曲げた愚劣極まりない作文で、こんな物が出されたら岩稜会の恥です」と話された。その時点で私はまだ冊子をしっかり読んでいなかった。澤田氏は「出さないと言うことですから、腹が立つからあなたは読まない方が良いでしょう」と言われた。
 翌日、やはり気になり私は全文を読んだ。身勝手な分析と間違いだらけの内容。前穂高岳遭難の背景や真実については、当事者でない私の知る所は少ないし、当事者にしか判らないことなので発言は控えるが、私の関与したことについて間違いや嘘も発見した。

 2016423日、高井氏他界。


突然の「湯浅本」発行

 20194月、湯浅美仁氏執筆『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』が出版される。
 2019510日、「湯浅本」拙宅に届く。突然の送付に、私はとても驚いた。
 出版に関して、岩稜会員は無論のこと、実名が出て来る人物も誰一人知らされていないことであった。実名の出て来る人物であるNITE(独立行政法人製品評価技術基盤機構)の長田敏氏は後日(68日、電話にて)「本を出すようなことを言われたので、出さない方が良いと言いました。まさか出すとは思いませんでした」と私に話された。
 翌日、澤田氏より電話があり「届きましたか。この本は出さないことになっていた筈ですね。なぜ当事者でもなく、遭難事故当時に岩稜会員でもなかった湯浅がこんな本を出したのか真意が判りません」と言われた。その後、相田さんからも電話が入り「あづみさんは身体に障るから読まない方が良い」と言われた。その頃の私は胃腸症を病んでいたので、皆さまに心配をおかけしていた。それでも気になったので、「湯浅本」は水野さん(「伝える会」統括)に送り読んでもらうことにした。しばらくして水野さんからメールが入り「やはり、「湯浅本」の<まとめ>部分と<あとがき>だけでも読んだ方が良いと思うので、スキャンしました。添付するので読んでください」とのことだった。その文章を読んで、私は気持ちが悪くなり、体調はさらに悪化した。しかし捨て置く訳にはいかない。相田さん・水野さんと相談し、62~4日に予定していた慣例のケルン墓参を1~5日に延ばした。関係者は1日に集合してまずは「篠田軍治氏の日本山岳会名誉会員取消しを求める活動」の会議をして、5日には「湯浅本に関する対策会議」を行うことになった。その対策会議を行うためには、「湯浅本」の検証が必要となり、相田さん・水野さん・小川夫妻(「伝える会」会員)と協力して各ページ各行ごとに検証し、國利氏に質問する事項などをまとめた。
 531日、親戚の通夜の席で衣斐弘行氏にお会いする。衣斐氏は「湯浅氏から本をいただきました。私は湯浅氏のことは全く知りませんが、郵便局から送られて来た訳ではなく、ポストに入っていました。本は大黒屋光太夫顕彰会の方にも配布されたようで、その方とお会いした時『あの本は変ですよね』と話し合いました。なぜあのような本が出されたのか石岡さんならご存知だと思っていたのですが」と話された。どうやらあちこちに配られているようで、困ったことになったと真剣に思った。
 ケルン墓参を終えた65日、ひらゆの森にて「湯浅本」の対策会議を、國利氏・森泰造氏(岩稜会の古参)・相田さん・水野さん・小川夫妻・私で行った。その時話されたことについては、以下の「検証結果」の項で述べる。


湯浅本の対策会議
 
2019年6月5日 ひらゆの森にて

読者からの戸惑いの声


 ケルン墓参から帰ると1通のメールが届いていた。64日付、河合潤先生からであった。河合先生は京都大学工学研究科材料工学専攻の教授で、2013年~2014年にかけて行われた名古屋大学博物館での父の企画展を見学くださり、その後相田さんと私にメールをくださって、お知り合いになった方である。
 この方のところへ湯浅氏が連絡され「ナイロンザイルが2つの鋭角にかかり、一方から吊り上げようとした場合、どちらの側で切れるか」と質問をされたが、専攻が違い判らないとお返事されたそうだ。そのため湯浅氏はNITEの長田氏に聞きに行かれた訳である。
 河合先生からのメールは、宛名部分が湯浅氏・相田さんと私宛になっており驚いた。河合先生は、岩稜会員は無論の事、相田さんと私も承知の上でこの本が出されたと思われたのだ。「湯浅本」を読まれた世間一般の方々は、河合先生と同様にお考えになることがこのメールで判り、やはり捨て置くことは出来ないと強く感じた。
 68日、NITEの長田氏に電話して、「湯浅本」に書かれている長田氏関与部分についての問い合わせをする。以下は、その時に長田氏からお聞きしたことである。
 「2年ほど前、湯浅氏からコンタクトがあり、NITEの大阪の製品安全センターに34回尋ねて来た。『ナイロンザイルが2つの鋭角にかかり、一方から吊り上げようとした場合、どちらの側で切れるか』との質問であった。90度の鋭角を持つ2つの角でのナイロン製のロープ、細い繊維でも良いので実験をすることを勧めた。湯浅氏は実験装置を作成して、吊り上げ側が左であった場合、左側で切れることがわかったと話した。國利氏が若山五朗氏滑落の前に吊り上げたということを聞いて、当時はナイロンザイルは強いということになっていたので、従来の麻ザイルの時と同じ登山方法をするのは当たり前なので、國利氏に落ち度はないと湯浅氏にお話した。湯浅氏は学者肌で、徹底的に検証しないと気が済まないタイプの人と思った。全く悪意は感じられなかった。湯浅氏は、実験結果を基に書いた一部分の本の抜粋を持って来たが、私はこのようなことを本にすることはやめるべきだとお話した。湯浅氏は判ったと言った。もし湯浅氏を名誉棄損で告訴されるのなら、私はいつでも証言台に立つ。今回の湯浅氏の本は受け取ったが、ほとんど読んでいない。自分は定年後の現在もNITEの同じ部署で働いている」とのことであった。
 611日、長田氏より電話をいただく。「湯浅本」に関する追加説明とご意見であった。

 「湯浅氏は、4回大阪まで訪ねて来られた。4回とも奥様と一緒だった。このことから身体の調子が悪く付き添われたのではないかと思った。「伝える会」の皆様とは仲良くしてくださいとお話したら、その後私のところへは来なくなった。「湯浅本」について、大阪ジュンク堂をネット検索で調べたが本は1冊もなかった。売り出されていることは確かだが、その他の本屋にも出回っていない様子。そのことから、出版社は出そうとしているが、置いてくれる本屋がないと思われるので、ごく少数しか配られていないと思われる。意見としては「謝罪文を出せ」など強く要請することはやめた方が良い。一つ一つ真実を説いて、間違っていることを穏やかに説得して、自分から間違っていたと納得させることが肝要。この本のことは大きな問題にはならないと思っているので、喧嘩はせず説得して誤りに気付かせるべきである」
 この後も長田氏からは何度も電話をいただき、ご心配いただいた。
 612日、元NITEの菊池久氏に電話をして「湯浅本」のことを説明し、この本をご存知かどうかと、「湯浅本」のNITEに関しての間違い部分についてお伺いした。
 「湯浅本に関しては全く聞いていない。読みたいので貸していただきたい。長田氏の名前になっているNITEでのナイロンザイルの試験などは、全て自分が行ったことである。長田氏はNITEのメッセンジャー的な存在なので、さかえサイエンストーク(2014.10.3)の時にパワーポイントでまとめて発表した。また、NITE製品安全業務報告会(2014.11.3大阪,11.20東京)に於いて講演した」

新聞に掲載


62日の伊勢新聞に「湯浅本」のことが掲載されていると判り、617日に伊勢新聞社本部に出向き、その新聞を購入する。

 この新聞記事が掲載されたことで、他の新聞などにも掲載される恐れがあると相田さん、水野さんと話し合い、即座に以下の対応をした。
(※618日に電話にて)

No.

誰が

誰に

結果

1.

あづみ

中日新聞津支局デスク

名古屋本社記者が湯浅に面会取材し、記事準備中だったが、不審な点あり保留したところ、事情を聞き納得。本の「検証・反論」でき次第送ること。

2.

相田

朝日新聞津支局

同本社情報センター

説明を受け、事情了解、「検証・反論」要送付。

説明を受け、事情了承。関係部に(運動部ヵ、社会部ヵ)連絡する。要反論送付

3.

相田

読売新聞津支局

事情了解、「検証・反論」要送付

4.

相田(当初あづみ)

毎日新聞津支局支局長

本は届いている様子。マスコミに連絡する前に著者に抗議すべきではないかとの反応あるも、事情説明し了承有り、現段階のものでも「検証・反論」至急要送付

5.

水野

共同通信津支局橋名支局長

本未受領、事情了解、動き有り次第要連絡、「検証・反論」要送付。その後水野宛に「伊勢新聞掲載日」の問合せ有り


直後「検証・反論」の取りまとめに

 619日、13時より澤田氏宅を訪問して、「湯浅本」に掲載されている澤田氏部分に関する証言をいただく。この証言については「検証結果」の項で反映する。
 同日、國利氏にも電話して追加証言を得ようとするが、國利氏はケルン墓参後肺炎を患い絶対安静とのことであった。やはりお疲れと心労であると、とても心配する。

 621日、新聞各社宛の「湯浅本」に対する「伝える会」の見解を速達で発送する

                             2019年6月21日
関係各位
                          石岡繁雄の志を伝える会
                             代表:石岡あづみ

湯浅美仁著(2019)『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』(北白川書房)に対する見解

1 主旨
 本書は,事実に基づいた「検証」ではない。高井利恭氏の生前の言葉から,著者湯浅氏が臆測や妄想を膨らませ,氏に都合の良い部分だけを切り取って結論を導き出したもの,つまり「捏造」と言わざるを得ない。
 本書は,2011年に湯浅氏が書いた『前穂高岳東壁遭難50年目の検証 ―ナイロンザイル事件の光と影―』の原稿を底本としている。その原稿については,2012年2月9日の著者湯浅氏,高井氏,石原國利氏,澤田榮介氏による会談の場で,当事者である石原・澤田両氏から強い非難を受けている。その結果,湯浅氏本人が「絶対に公表しない。印刷物は回収して破棄する。」と約束したものである。
 湯浅氏は破棄したはずの原稿に今回新たな部分を書き加えて本書を出版し,唐突に郵送・配布した。そこには,主要な関係者への取材検証がなされていない。
 破棄すると約束した7年前と変わりなく,思い込みと決めつけで石岡繁雄を誹謗中傷し,当事者である石原氏や澤田氏らを冒涜し,岩稜会の団体としての名誉をも汚す「検証」に値しない内容となっており,看過することはできない。

2 反証の要点
 湯浅氏の論証には繰り返しが多いので,論拠として挙げている点を以下の(1)~(5)に分類した。詳細については別紙「反証詳細一覧」にて確かな根拠をもって列挙する。ここでは要点のみを述べる。

(1)「奥又合宿備忘録」の存在について
 備忘録は遭難事故直後,情報が錯綜する混乱状況の中で書かれたメモや伝聞をもとに上田定男氏らが書いたと思われる。内容に関して,証言者への確認や正確さの検証がないため誤りが多く,石岡繁雄が当時の「混乱ぶりを伝える資料」として保管していたものである。
 後に,石岡あづみが岩稜会の会合の場で誰が書いたのか確かめている。それをもって湯浅氏は「50年経った今,なぜ見つかったか」と記述しているが,もし隠しておくべきものであったなら会合の場で公開したり岩稜会員に尋ねたりはしない。

(2)「吊り上げ」の有無について
 「奥又合宿備忘録」での室敏弥氏談の一文を湯浅氏は新事実として重要視しているが,室氏は故人であり,いつ誰から聞いたのか,又聞きしたことを報告したのか,伝聞の経緯が不明である。
 当事者である石原氏は,「確保していただけです。『吊り上げ』は一度も起きていません。この本を見て初めて知りました。そんなこと一度も言っていません」と明確に断言されており(2019/6/5),事実として「吊り上げ」はなかった。
 NITE(独立行政法人製品評価技術基盤機構)の長田敏氏(2019/6/8)、菊地久氏は,「吊り上げても吊り上げなくても切れる」と断言してみえる(2019/6/11)。ナイロンザイルは鋭い岩角に弱く,ナイロンザイルの脆弱性こそが大事な点であるのに,湯浅氏は自作の稚拙な実験(ナイロンロープの溶解切断時の特徴である水玉模様を作るためか、予想切断荷重の10倍以上かけるなど)によって,暗に「石原氏が若山を吊り上げたので足を滑らせ滑落させた」と言わんとする推測は論外である。

(3)チーフリーダー指示の有無について
 湯浅氏は高井氏の推測を裏づけるものとして,誤りの多い「奥又合宿備忘録」のみを正としているが,その中にも「指示」についての記述はない。同録の「引き返すことになっていた」は誰の言か不明である。
 澤田氏はチーフリーダーの指示について,「明確な指示,ミーティングともになく,行動は現場判断で決め,指示違反はない」(2012/2/9)と述べている。また,石原氏も「明確なものではなかった。前進か引き返すかは現場の状況判断が優先されなければならない。私たちは引き返すことの危険と登攀を続けることの危険を比較し,登攀する方が安全という結論になった」(2019/6/4)と同様のことを述べている。
 湯浅氏は,その当時の山の現場における現実を知らない。現実にそぐわない推測を根拠としていると言わざるを得ない。なお,2006年5月7日の石岡・高井会談を拠り所に「石岡はこの『指示』の存在を認めた」とあるが,当時の石岡(同年8月15日逝去)は記憶も気力も衰え人との会話に耐えられない状態にあり信憑性に欠ける。

(4)トップ交代について
 トップの交代について,石原氏は「成り行き(若山がトップ交代に即対応)」と述べている。澤田氏は、「誰がトップに立っても危険は避けられない。その結果は全員に及ぶこと,同体であることを3人は認識していた。若山が駄目なら夏ルートで再チャレンジすべきかと考えていた」と述べている(2012/2/9)。
 また,若山氏の起用とザイル切断には因果性がない。ナイロンザイルに従来の麻ザイルでは考えられない「岩角での脆弱性」がなければ,若山氏は墜死していないのである。

(5)遭難の総括がされなかったことについて
 前穂高遭難事故後に遭難の総括がなされなかったのは,それよりも大きな「ナイロンザイル事件」問題が起きたためである。当時,未熟な登山が遭難の原因だとする批判が出ており,中傷によってナイロンザイルそのものの問題がうやむやにされる恐れがあった。実際,ナイロンザイル切断による事故が相次いだ時期であり,登山者の命を守るためのザイルの強度について真相を明らかにすることの方こそ優先された。この「ナイロンザイル事件」が決着をみるまでには,20年を要している。
 高井氏は,遭難事故が起きたことで自分が挑戦するはずであった「前穂高岳4峰正面北条・新村ルート」初登攀が取り止めとなり,さらにナイロンザイル事件のために登山活動が抑えられていた岩稜会に不満を募らせていた。全く協力しないばかりか,石岡繁雄氏を執拗に責め立てていたと,岩稜会会員たちの記憶に刻まれている。登山家としては優秀であった高井氏に心酔していた湯浅氏は,高井氏の思いに寄り添う本書を刊行したのであろう。しかしながらその想いは,捏造や他の関係者の犠牲の上になされるべきではない。
 日本はおろか世界で初めて「登山用ロープ」の法規制にまでこぎつけ、「ザイル切断事故防止」を成し遂げたのは、まさに一心不乱にこの問題に取り組んできた石岡繁雄の「志」だったのだ。

岩稜会も動き出

 6
22日、岩稜会の鈴鹿周辺在住の有志によって、岩稜会の今後と、「湯浅本」の対策について拙宅で話し合われ、澤田・毛塚・森・藤田・長谷川各氏で協議、議論は二転三転し、最後は「湯浅氏を長谷川氏が呼び出して、澤田氏・森氏・黒田氏と5人で話し合いをする。(藤田・毛塚両氏は病気のため欠席)その結果、湯浅氏が話にならない状態(または呼び出しに応じない)ならば、岩稜会の皆さまにその旨手紙を出して了解を取り、除名処分とする」となった。湯浅氏との話し合いの際に、私たちの作成した真実のみの資料を利用したいので、至急作っていただきたいとのことだった。(湯浅氏が応ぜず、話し合いは不成立)

 623日、岩稜会の方々に私から「湯浅本」についての手紙を出したらどうかと、水野さんから提案があり、澤田氏に相談し、作成
 この手紙に添えて、新聞各社にお配りした「湯浅美仁著(2019)『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』(北白川書房)に対する見解」と、伊勢新聞記事を同封した。


力強い声


627日、西田佐知子先生〔名古屋大学博物館、大学院環境学研究科兼務、准教授。名大展示の時に主任をしてくださり、その後も何かにつけて相談に乗っていただいている。今年のケルン墓参にご参加いただいた折に、「湯浅本」の問題もお話しした〕より電話をいただき、「博物館にも湯浅本が謹呈されていた」と知らせてくださった。西田先生は「湯浅本を読んだ方々は、事実かどうか知るためにまずはネット検索をされると思う。HP上に湯浅本についての第一報を早急に載せておくことをお薦めする。またWikipediaの石岡繁雄の掲載に、HPアドレスを追加しておくことが必要と思う」と言う貴重なご意見をいただいた。Wikipediaに、HPアドレスを載せる。同時に、新聞各社と岩稜会員宛にお送りした「湯浅美仁著(2019)『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』(北白川書房)に対する見解」文をHPのトップページに掲載した。
 628日、西田先生よりメールをいただく。その内容から必要部分を次に転記する――湯浅氏の本、あのあと大雑把にですが読んでみました。似たような記述が繰り返しでていて、ちょっとうんざり・・・と思って斜め読みでページをめくっていくと、時折ぐぐぐっと(まるで、ゆるく斜めに伸びていた針金の先が急に曲がるように)自説に話が進められている、そんな印象を持ちました。ですので、ある程度の人は自説のところで「なぜ急にこんな結論に?」と思ってくれるとは思います。しかし厄介に思ったのは、自説に進む直前までは、他の人(たとえば石原さん)が話したことを「 」などで引用して客観的に見えるように書いてあるところですね。その意味でも、一つ一つ、事実と異なることを具体的に正していくというあづみさんたちの計画は的を得ていると思います。――



湯浅氏とコンタクト開始

 71日、水野さん・小川夫妻と「湯浅本」について会議。湯浅氏にお会いして話をするべく、手紙を出すことになる。72日、湯浅氏宛手紙に、本送付の礼と面談の申入れを回答期限を711日として送付する


拝啓
 7月に入り蒸し暑い日が続きますが、湯浅様にはお変わりなく、ご健勝のこととお喜び申し上げます。

 さて本日は、貴著『前穂高岳東壁遭難六三年目の検証』をお送り頂いたお礼と、ご本に関してのお願いがあり、手紙をしたためました。
 まず、お礼を申し上げるのが遅くなりましたことをお詫び致します。
 255ページに及ぶ大著を、何度もしっかりと拝読させて頂きましたところ、湯浅様にお尋ねをしたい内容が出てまいりました。直接お目にかかってお話を伺わせていただけませんでしょうか。
 お忙しい毎日をお過ごしとは存じますが、拙宅へおいで下さればありがたく存じます。勝手なことを申しますが、11日(木)までにご都合の付く日時を同封の葉書にてお知らせ下さいませ。尚、湯浅様と私との日程が調整できますよう、7月中で20日、21日を除く複数日をご指定下さると幸いです。
 どうぞよろしくお願い致します。             敬具
  令和元年7月2日


実験開始


 74日、水野さん・前田さん(「伝える会」会員でミニ実験機作製)と共に、「湯浅本」173ページから掲載の<2つの支点を持った架台での実験からの検証>について、177ページの図を参照して同様の実験をミニ実験機を使用して行い、「湯浅実験」の結果を検証する


2019.07.04(午前の部)実験結果報告書

1.    実験日時:201974()10:0010:50
2.    場所:石岡高所安全研究所(1F)
3.    使用装置:「石岡繁雄の志を伝える会」(以下「伝える会」)展示デモ用「ミニ実験機」
4.    実験者:「伝える会」前田幸雄・水野高司
5.    目的:「ミニ実験機」を使って、ナイロン製テグスとナイロンロープの落下切断荷重の比較をすること
6.    試料;
     ナイロン製テグス20(0.74mmΦx520mmL)
     ナイロンロープ3つ撚り(3mmΦx520mmL)
7.    岩角模型刃;
     寸法:250Lx40Wx20Dmm
     材質:焼き入れ鋼(四つ角90度、面取り無し)
8.    荷重:1Lt入りペットボトル、水量調節により0.5Kg1Kg可変
9.    配置:ミニ実験機天井部水平面上に右:支点、中央・刃、左:荷重を配置し、支点とテグス・ロープとは輪で、荷重とはカラビナを介して輪で接続
10. 落下方法:荷重底部を手で水平方向に押して、荷重を自由落下させて、刃部での試料の切断有無を目視(高速連射撮影)し、破断部を顕微鏡撮影し観察する。
11. 落下距離:590
12. 結果:下記の通り

Test No.

試料

荷重 m(Kg)

落下距離 h(m)

切断結果

備考

1

   テグス0.74mmΦ

1Kg

0.59m

切断

 

2

テグス0.74mmΦ

0.5kg

0.59m

切断せず

 

3

テグス0.74mmΦ

0.6Kg

0.59m

切断

 

4

テグス0.74mmΦ

0.55Kg

0.59m

切断

テグスの切断荷重

5

ナイロンロープ3Φ

0.55Kg

0.59m

切断せず

 

6

ナイロンロープ3Φ

0.8Kg

0.59m

切断せず

 

7

②ナイロンロープ

1Kg

0.59m

切断

ナイロンロープの切断荷重

13.考察;
 テグス0.74mmΦは、590㎜の自由落下の場合、荷重0.5Kgでは切断せず、0.55kg 以上で切断した(この時の想定衝撃荷重は2.7Kg)
 ナイロンロープ3つ撚り3mmΦは、590㎜の自由落下の場合、荷重0.8Kgでは切断せず、1kgで切断した(従来のテスト結果と同じで、この時の想定衝撃荷重は5.5Kg)
 上記実験条件は、湯浅本177頁掲載の実験とは同一ではないが、湯浅本では、45cmのテグス0.74mmΦに錘をつけて、振り子状で落下した場合、12Kgでは切断せずに、13Kgで切断と報告されており、湯浅実験の異常さが感じられる。このことは、岩角でテグスが縦に滑る形状か構造、即ち岩角模型刃が「面取り」状態になっていることが想定される。

14. 実験結果写真:下記の通り
① 動画撮影:水野
② 同編集:あづみ
③ 
顕微鏡撮影:前田

Test No. ロープ・テグス
切断状態
 
確保者側切断部顕微鏡写真(x40)  墜落者側切断部顕微鏡写真(x40) 
 1. (1Kg)自由落下 切断


2. (500g)自由落下 切断せず


 
3. (600g)自由落下 切断

4. (550g)自由落下 切断  
5. ナイロンロープ
自由落下,
0.59m,0.55Kg,
(
切断せず)
6. ナイロンロープ
自由落下,
0.59m,0.8Kg,
(
切断せず)
7.    ナイロンロープ
自由落下,
0.56m,1.0Kg,
(
切断)
    
以上


湯浅氏より回答・再び質問

78日、湯浅氏より、「体調不良もあり、会えない。質問は文書で願いたい」との返信をいただく。

 712日、湯浅氏宛に質問事項として、①どうしてこの本を出したのか ②本の配布先(寄贈先)を知りたい(本の問い合わせがあるので「伝える会」の見解を返答したいため)と記し、回答期限を722日として、2回目の書簡送付する。


拝復
 蒸し暑い日が続き、梅雨明けが待たれる今日この頃です。
 7月9日夕、お手紙を拝受いたしました。ご体調のすぐれないところ、お返事をいただきありがとうございました。
 今のところ,とりあえずお尋ねしたいのは次の二点です。

1.どうしてこの本を出されたかの真意について。
2.今回ご本をお配りになられた宛先(寄贈先)について。

 以上の二点に関しては目下、関係者の方々から私どもの方に問合せがあり、それに対して会としての見解を返答するためです。
 取り急ぎこの件についてご理解の上、恐れ入りますが、今月二十二日までにご回答賜りますよう宜しくお願いいたします。
 気候不順の折、お身体ご自愛下さいませ。
                                   拝具
  令和元年7月12日


湯浅 美仁 様             石岡繁雄の志を伝える会
                         代表  石岡 あづみ拝


 716日、相田さん来鈴。水野さん・前田さん・小川夫妻も集まり、「湯浅本」についての会議。

 717日、9時より相田さんと水野さんが澤田氏宅を訪問され、「湯浅本」に掲載のある澤田氏に関する証言などを再度お聞きして、岩稜会が湯浅氏を除名処分とすることをお願いされた。

 718日、湯浅氏より2通目の書簡が来る。内容の要旨は、①の質問について、「登山・登攀に幾つかのヒューマンエラーがあったと考えられるので、その意見を日本登山史に明記しておく必要があると思い、この本を上梓した」②の質問には「回答は差し控える」との回答であった。

 725日、湯浅氏宛に、以下の要点と、回答期限731日と記して書簡を送付。
A 「日本登山史に明記」されるための必要条件提示
  記載事柄が出版前に全て正しく検証され、関係者の了解を得る必要がある。
 ② 
憶測が事実であったかのような記述はすべきでない。
B 本書はその条件を満たしていない、として「直接の当事者である石原氏、澤田氏が健在であるにもかかわらず、最終証言を得ていない」他、「石岡あづみ」に関する記載事項で「誤った認識や恣意的に解釈されている事項」5項目を指摘。特に(「湯浅本」62ペ-ジ、3行目「石岡は、娘の石岡あづみに、…打ち明けた」)は父からそのような話を聞いたことはなく、事実ではない。2012年当時もその旨伝えたにも関わらず直されていない。「湯浅本」の原典ともいえる2011年に作成された「冊子」について、2012年に「内容に誤りがある」ことを理由に「出版はしません」と石原・澤田両氏に約束したにも関わらず、今回何ら事前了解も得ずに突然出版されたことは、遺憾に思うし、許されることでない。

再び実験
 729日・31日、ミニ実験機による検証実験2回目を行う。参加者は水野さん・前田さんに加えて小川夫妻も加わり、より精度の高い実験を目指す。


2019.07.29_31実験結果報告書

1 実験日時:2019729()10:3012:45 31()15:3017:30
2 場所:石岡高所安全研究所(1F)
3 使用装置:「伝える会」展示デモ用「ミニ実験機」及び机・作業台(「湯浅本177頁」の配置を再現)
4 実験者:「伝える会」
石岡あづみ・水野高司 石岡あづみ・水野高司・小川隆平・はつこ
5 目的:「湯浅本177頁」のテグス実験の検証をするため、「ミニ実験機」及び机・作業台を使って、ナイロン製テグスの振り子落下実験を行い、切断荷重を確認すること
6 試料:ナイロン製テグス20(0.74mmΦx1,750mmL)

7 岩角模型刃(両刃);
 7.1 寸法:250Lx40Wx20Dmm
 7.2 材質:焼き入れ鋼(四つ角90度、面取り無し)

8 荷重:各形状鋼製錘(0.5,0.6,1.0,1.5,2.2,2.9Kg)を組み合わせて、1.5Kg3.5Kg

9 配置:高さ605mmの机の天板に設置した、ミニ実験機の天井部中央に刃を配置。テグス固定点(確保者)は机の右側作業台左下のフックとし、荷重(遭難者)は刃左側角(A)より45°左下に実験者が手で保持し、放すと(A)を支点として振り子状に落下するように配置

10 テグス長さ:錘~(A)450mm+ (A)(B)(刃の幅)40mm+(B)~固定点1,260mm=1,750mm。(両端は輪で、荷重とはカラビナを介して輪で接続)


岩角模型刃(この撮影ではロ-プは見やすいように白を使用し、Test No.8,9,10,10-2では刃幅40mmを予め青もしくは黒色に着色した)

1 落下方法:実験者が荷重底部を手で保持(角度は実験機フレームに貼ったゲージで合わせる)し、合図とともに放して、荷重を落下させて、(A)(B)刃部での切断有無を目視(動画・連射撮影)し、破断部を顕微鏡撮影し観察する。
 2 落下距離h130(450mm45°振り子落下の垂直距離)

 3 結果:下記の通り

Test No.

荷重m(Kg)

切断結果

1

1.5Kg

切断せず

2

2.2kg

切断せず

3

2.9Kg

切断せず

4

3.5Kg

切断

5

3.2Kg

切断せず

6

3.4Kg

切断

7

3.3Kg

切断

8-0

3.5Kg

切断

8

3.5Kg

切断

9

3.4Kg

切断

10

3.3Kg

切断

10-2

3.3Kg

切断

 1 考察;


1.1    729日の湯浅実験再現実験結果】テグス0.74mmΦは、130㎜の振り子落下で、荷重3.2Kg(テストNo.5)では切断せず、荷重3.3kg(テストNo.7)で切断した。本実験ではテグスの切断限界荷重を3.3kgと結論付けた。


1.2    731日の湯浅実験再現実験結果】(cf.下記添付写真)


1.2.1     本実験の切断限界荷重より重い3.4Kg3.5Kg (テストNo.8及びNo.9)では、テグスは錘の落下と共に伸びながら刃の上を滑り、確保者(固定点)側の刃角(B)より25mm固定点側の部分が、墜落者()側刃角(A)で切断した。墜落者()側のテグスの長さはそれぞれ490mm491mmであった。


1.2.2     一方、切断限界荷重 3.3kg (テストNo.10及びNo.10-2) では、テグスは同様に確保者(固定点)側の刃角(B)より3235mm固定点側の部分が、確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。墜落者()側のテグスの長さはそれぞれ521mm517mmであった。


1.2.3     切断前後のテグスの長さ(mm):下記の通り、切断前後のテグスの長さの差は+3-4mmとわずかであった;

テストNo.

切断荷重   (Kg)

切断前L1

切断後(L3+L4)L2

L1-L2

墜落者()側のテグスの長L3

確保者側のテグスの長L4

テグスが切断した刃角の位置

8

3.5

1,744

1,745

+1

490

1,255

墜落者側(A)

9

3.4

1,746

1,749

+3

491

1,258

墜落者側(A)

10

3.3

1,751

1,748

-3

521

1,227

確保者側(B)

10-2

3.3

1,739

1,735

-4

517

1,218

確保者側(B)

14.3 湯浅実験との比較;
14.3.1 本再現実験は、「湯浅本177頁」に掲載の実験とほほ同一条件であるが、「湯浅本175頁」には12Kgでは切断せずに、13Kgで、全て確保者側で切断と報告されている。この本実験と比して極端に重い切断荷重は異常であり、テスト装置のいい加減さが想像される。

14.3.2 テグスが切断する刃角の位置も微妙であり、本実験ではわずか0.1Kgの荷重差で位置が変動し、切れ端の形状も大きく異なる。従って「全て確保者側で切断」とは結論付けられない。
14.3.3 このことからも「吊り上げ」があったことを主張するために行った湯浅の実験であるが、実際に「吊り上げ」を証明する実験は行われていない。従って、如何にいい加減なものであったか、言い換えれば湯浅の主張が如何に根拠のないものであるか示していると言える。

15. 7.29_31 の実験結果写真:下記の通り

Test No. ロープ・テグス切断状態 確保者側切断部顕微鏡写真(x40) 墜落者側切断部顕微鏡写真(x40) 
(1.5Kg)切断せず


(2.2Kg)切断せず

(2.9Kg)切断せず


(3.5Kg)墜落者側刃(A)で切断

(3.2Kg)切断せず

 
*以上の実験の結果、荷重3.2Kg以下では切断せず、3.5Kg以上で切断することが判ったので、次に3.4Kg3.3Kg切れるか実験した。

(3.4Kg)墜落者側刃(A)で切断

(3.3Kg、限界切断荷重ヵ)確保者側刃(B)で切断  
(3.5Kg)墜落者側刃(A)で切断
*墜落者側糸くずが付着ヵ
8-0 (3.5Kg)墜落者側刃(A)で切断(着色部分は刃幅40mm)

(3.4Kg)墜落者側刃(A)で切断

10 (3.3Kg)確保者側刃(B)で切断

10-2 (3.3Kg)確保者側刃で切断



湯浅氏より3通目の書簡


 8月2日、湯浅氏より3通目の書簡が届く。「登山の歴史的事実に関する自分の意見と各人が意見を述べ得る機会を残したい、との趣旨で書いた。何を書こうが個人の自由であり、一定の基準を強要されるべきでない」「岩稜会として総括すべきであったが、そうはできなく、高井氏も他界したので、結局自分の個人的な発表となった」「自分のまとめた『冊子』に基づき2011年に会談をし、石原氏からは特段の意見や反論はなく、岩稜会で検証することになったが、2012年2月9日まるは寿司で澤田氏から『資料として拙く、内容は糾弾であり、検証を頼んだ憶えはない』と猛反対され、岩稜会として検証することはあきらめた」「その後、石原氏・澤田氏から『冊子』の内容について反論は一切聞いていない」、5項目の指摘事項に対しても「石原・澤田氏に、『内容に誤りがあるから出版はしない』と言ったり『出版はしない』と約束をしたことは無い。両氏から『内容に誤りがある』と指摘されたこともない。あづみさんからも同様である。あづみさんに冊子を渡したこともない」と自論を展開。

NITEの長田氏より

 8月7日メールをいただく。このメールは、湯浅氏の検証実験に関して「伝える会」が行った検証実験の内容に付いて、水野さんが長田氏に質問メールをした返事である。この内容は「検証結果」の項で反映する。

最後のやり取り

 8月22日、湯浅氏宛に以下のような要旨で、4通目の手紙を送付する。
 湯浅氏からの書簡3の中での「各人が意見を述べ得る機会を残したい」との湯浅氏主張に準じ、「伝える会」も意見を次のように述べる。
・ 2011年のホテルでのやり取りについての石原証言(2019.06.04面談,08.12電話):「高井君と湯浅君からの突然の話にビックリして、きちんと対応できなかったかも知れないが、はっきりと間違っている部分を答えた」「岩稜会としての総括・検証は、人命にかかわるナイロンザイル事件が最優先されていたためなされなかった。高井君はその時、4峰初登攀をする予定だったが、それも取りやめとなり、遭難救助に狩り出されたし、岩稜会の登山行為が抑えられたため不満が残った」
・ 2012年2月9日まるは寿司での会談前後の澤田氏のあづみへの発言(あづみメモ):冊子を見せて「これの内容があまりにも酷いので、僕は断固抗議します」「僕は猛烈に批判したところ、湯浅は『冊子の公表はしない。全て破棄するのでお返し願いたい』と言うことになった。國ちゃんは『事実だけをまとめて総括はすべきです』と言われた」
・ その他「奥又合宿備忘録」「遭難の総括がされなかったこと」「チーフリーダーの指示の有無」「トップ交代」「アルピニズム」「NITEとの関わり」について根拠を示し反論。その他についても同じく反論。最後に、「湯浅本」の配布先を可能な限り特定して、「貴書の誤りをすべて列挙し根拠を挙げて訂正」した反証本を送付し、併せてHP上でも公開する。
・ その手紙には資料として以下を同封した。
① 1957年8月30日付石原一郎氏宛石岡よりの手紙

  <石原一郎氏宛、父からの手紙>
 電話で言い忘れた点がありましたので、早速ペンをとりました。明日来名の折、例のチョ-、オユ-の本を持って来ていただいて、國ちゃんに研究してもらって、装備・行程表等を作ってもらったらどうかと考えます。その他マナスル関係を持って来て下さい。
 ヒマラヤはやれば出来る仕事ですが、一通りの努力では出来ないと考えます。私は健康上の理由でヒマラヤへは絶対ゆけませんので、もっぱら縁の下の力持ちをやります。しかし、もとより、どうしてもヒマラヤへ行こうという熱意と努力の出来る人があっての縁の下の力持ちですから、こういう人がいないとわかれば、小生は努力をやめます。また、小生の縁の下の力持ちは誰に対してもやるという気持ちはありません。名古屋のヒマラヤ隊は貴兄と國ちゃんが必ず主力になると考えるから縁の下の力持ちをやりたいだけです。
 「ナイロンザイル事件」にしても、小生は石にかじりついても、やってきたつもりです。いかなる時間をも、私には、そのための苦しみの時間のつもりです。
 ヒマラヤに関しては、いかなる時間をも、それに集中するということを、今回は、少なくとも貴兄にやってもらいたいのです。貴兄にその熱意と実績が伴わないと知れば、私は縁の下の力持ちをやめます。貴兄が続く限り小生も続けます。屋根へ登って梯子を取られることは、小生一人だけでは嫌なのです。
 私は過去2回、ヒマラヤは小生の大きな犠牲の上失敗しているので、誠に男らしくない言い分ですが、この点はっきりしておきたいのです。
 ヒマラヤのキ-ポイントは、入国許可・外貨・資金の3つでしょう。そのためには、入国許可と立派な努力による立派な、人がついてくるだけの計画が必要でしょう。
 実際、先日貴兄にお願いしたスイスへの手紙の件が、すでに2週間を経過しながら何もなされておらず、単にヒマラヤのことを学校で宣伝してみたり、澤田に言ってみたり、ということで終わっているのが残念です。一分一秒休みない努力の連続だけが、ヒマラヤを可能にすると考えます。どうか奮起を熱望します。
 小生から國ちゃんには、少なくとも当初は何も言いません。貴兄から次々に仕事を与えて下さい。
 どうも勝手なことばかり並べましたが、御寛容下さい。
 ヒマラヤのための組織着手は、スイス・ネパ-ルから返事が来て、そこに可能性が出来てからです。目下は何も考えずに、それに集中し、一方具体案のための真剣な勉強をすべきです。
 乱筆失礼しました。  BACCHUS
BUTAICHO殿


② 1958年10月付石原國利氏宛石岡からの手紙

<石原國利氏宛、父からの手紙>
 言葉が下手だから書面で申し上げたい。
 以下に申し上げることは、私的な意味ではなく、名古屋大学とか朝日新聞とか、ひいては登山界全体に影響するものと考えられるので、これを私の心の中のシコリとして残しておくことはできない。
 又、この時をいっすると、それが拙いとわかっても、それら公けへの悪影響なしで、方向を変えることは難しいと考えるので、あえてこれを記す次第である。
 実際には、このような状態で申し上げたくはなかったが、黙っていては改善の道はなく、又朝日に直接依頼するという差し迫った時期に来ているので、又先日、部隊長に長文の手紙をし、社長に話し、貴君に話しても、実質上事態はそれほど改善されておらぬので、最後の機会として率直に申し上げたい。
 この6月、私は部隊長と貴君に、二人がヒマラヤに専心するという決意と努力があれば、ヒマラヤに相応しい状態になるかも知れないから、私も努力したいと言った。その時、貴君はそれを約束されたと思う。しかし、その後、貴君には努力はもとよりあっても、専心の様にはみえない。よろめきの方がひど過ぎると思う。こういう大切な時に、専心出来ないということは、ヒマラヤ計画が軌道に乗っても、やはり専心出来ないことである。
 貴君にして専心出来ないということは、とりもなおさず岩稜会には、ヒマラヤへの力のないことを意味すると私は考える。
 貴君が専心出来るかどうかが、穂高で一応立派な岩稜会が、更にその上のヒマラヤへの力をもつかどうかの尺度になっていると私は思っている。
 力不足でも、自分たちだけの山行ならば問題にならないが、ヒマラヤは明らかに社会的、公的意味を持つもので、自分たちの力を正しく評価せずに軽率に乗り出すことは許されない。
 力がないと評価すれば、潔く引き下がるべきである。私はそう思っている。
 さて、貴君は専心しているつもりかも知れない。しかし私はそうは思わない。この前お話ししたように、専心とはとりもなおさず、ヒマラヤを直接推進する以外のことは、万やむを得ない限りやらないことである。又考えないことである。又ヒマラヤのことだけを考えていれば、ヒマラヤの仕事は、次々と発見され、物凄く多忙になり他をかえりみる暇はない。
 しかし貴君は、冬山のことを考えたり、友人の結婚のことを不必要にまで心配したり、今回の西糸屋のおじさんの御葬式に、神戸から貴君よりももっと長い親交のある、よりふさわしい人がいくらもあるのに、わざわざ自分がゆくような計画をしたりということは、専心でなくてよろめきであると、私は思う。これではとても自分で発見せねばならないヒマラヤの仕事が、出来る筈はないと思う。
 もとより上記のような貴君が今やっていることは、普通では美徳であり誠に結構なことである。しかし公的意味をもった困難な計画を進めている状態において、又貴君の現在の立場において、こういうことはガマンして、ヒマラヤに専心するという気持ちの大きな転換が必要だと愚考する。
 それが転換出来るかどうかが、今回の私たちの計画のキ-ポイントであり、出来ないようならば計画をやめなくてはならないと思う。
 上述のようにこれは、岩稜会には、君に代わる者がいない。岩稜会は今そういう状態だということが、残念ながら事実だからである。
 このことは、今回の朝日への申入れが不成功に終わっても、ヒマラヤの夢を捨てない限り、それはいえることだと思っている。
 ヒマラヤの計画は、経験の世界ではなく創造の世界である。誰か一人は、ヒマラヤの鬼がいないようなグル-プでは、ヒマラヤは出来ないと思う。
 私は貴君が小生の失礼極まる言葉を、気持ちよく率直に聞いていただいて、又、反省し、今後重大決意をして気持ちの転換をしていただけるものと考えている。
 貴君は力の少ない私たちの仲間から、何とかしてヒマラヤ隊を送りたいという私の気持ちと、それにもかかわらず社会的立場から、力が不足しているままでヒマラヤを進める気持ちにはなれないという私の苦衷を全幅理解して苦しいけれども努力していただけるものと確信して、取急ぎ趣旨一貫しないが、御寛容ありたい。

國ちゃんへ    友なるBacchus


③ 2006年5月9日付高井利恭氏からの葉書

最後の検証実験

 8月24日・25日、ミニ実験機による検証実験3回目を行う。参加者は水野さん・前田さん・小川夫妻・私の5名。前回のテストで出て来た不明点の実験と、今回は顕微鏡を持ち込み、観察しながらの実験となった。これまで顕微鏡は知立市の前田さん宅にあり、実験したナイロンロープとテグスは前田さんが持ち帰り観察していた。この顕微鏡による写真撮影にはアダプターが必要であったが、高価なため前田さんが手作りで作製してくれた。

 <8月24日の実験風景>





<8月25日の実験風景>



 この2日間では、特に荷重による切れ口の変化を観察したかったため顕微鏡を持ち込んで、皆で観察した訳である。今回の検証実験の結果はⅢ章で詳しく報告するが、これまでの計5日間・延べ17名による合計55回に及ぶ実験で、湯浅氏の実験がいかにいい加減で、その結果の主張が根拠のないものであることが良く分かった。


2019.08.24_25実験結果報告書 (2019.09.08文責 水野高司)

 1 実験日時:①2019年8月24日(土)11:00~16:00 ②同25日(日)10:00~16:45
 2 場所:石岡高所安全研究所(1F)
 3 使用装置:「伝える会」展示デモ用「ミニ実験機」及び机・作業台(「湯浅本177頁」の配置を再現)
 4 実験者:「伝える会」①石岡あづみ・水野高司・前田幸雄・小川隆平 ②同+小川はつこ
 5 目的:「湯浅本177頁」のテグス実験の検証をするため、「ミニ実験機」及び机・作業台を使って、ナイロン・ロープ及び同テグスの自由落下及び振り子落下実験の追加テストを行い、結果を観察すること
 6 試料:
  6.1 ナイロン製テグス20号(0.74~0.75mmΦx520mmL、同1,750mmL)
  6.2 ナイロン製ロープ3つ撚り(3mmΦx520mmL、同1,750mmL)
 7 岩角模型刃(両刃):
  7.1 寸法:250Lx40Wx20Dmm
  7.2 材質:焼き入れ鋼(四つ角90度、面取り有り・面取り無し)
  7.3 切断位置(刃)の呼称:(A)墜落者側、(B)確保者側
 8 荷重:
  8.1 水入りペットボトル(0.55,1.0Lt)、0.55,1.0Kg
  8.2 各形状鋼製錘(0.5,0.6,1.0,1.5,2.2,2.9Kg)を組み合わせて、3.3Kg~9.6Kg
 9 配置:
  9.1 自由落下:ミニ実験機天井部水平面上に右:支点、中央・刃、左:荷重を配置し、支点とテグス・ロープとは輪で、荷重とはカラビナを介して輪で接続
  9.2 振り子落下:高さ605mmの机の天板に設置した、ミニ実験機の天井部中央に刃を配置。テグス固定点(確保者)は机の右側作業台左下のフックとし、荷重(遭難者)は刃左側角(A)より45°左下に実験者が手で保持し、放すと(A)を支点として振り子状に落下するように配置(装置の写真は【7月29日の湯浅実験再現実験結果】添付を参照のこと)
 10 試料の長さ:
  10.1 自由落下:錘~(A)270mm+ (A)~固定点250mm=520mm。(両端は輪で、荷重とはカラビナを介して輪で接続)
  10.2 振り子落下:錘~(A)450mm+ (A)~(B)(刃の幅)40mm+(B)~固定点1,260mm=1,750mm。(同上)
 11 落下方法:
  11.1 自由落下:実験者はペットボトル底部を、合図とともに前に押して荷重を落下させて、切断有無を目視(動画・連射撮影)し、破断部を顕微鏡撮影し観察する。
  11.2 振子落下:実験者が荷重底部を手で保持(角度は実験機フレームに貼ったゲージで合わせる)し、合図とともに放して、荷重を落下させて、(A)(B)刃部での切断有無を目視(動画・連射撮影)し、破断部を顕微鏡撮影し観察する。
 12 落下距離h:
  12.1 自由落下:590mm(ペットボトル底部~カラビナまで320mm+刃角Aまでのロープ長またはテグス長270mm)
  12.2 振り子落下:130㎜(径450mm・45°の振り子落下の垂直距離)
 13 結果:下記の通り

Test No.

資料

落下方法

荷重m(Kg)

面取有無

切断結果

切断位置

参考衝撃

荷重F(Kg)

備考

11

ロープ

自由

1.0Kg

切断

A

5.0Kg

74No.7と同結果

12

テグス

自由

0.55kg

切断

A

2.7Kg

74No.4と同結果

13

テグス

振子

3.3Kg

切断

B

 

729No.7,31No.10,No.10-2と同結果

14

ロープ

自由

5.1Kg

切断

A

25.3Kg

 

15

ロープ

自由

9.6Kg

切断

A

47.6Kg

 

16

テグス

自由

5.1Kg

切断

A

25.3Kg

 

17

テグス

自由

9.6Kg

切断

A

47.6Kg

 

18

テグス

自由

9.6Kg

切断

A

47.6Kg

 

19  (4)

テグス

振子

3.5Kg

切断

B

729No.4,31No.8,No.8-0と切断位置()が落下者側から確保者側に変化した

20

テグス

振子

5.1Kg

切断

A

 

No.20と切断位置が異なった

20

テグス

振子

5.1Kg

切断

B

 

No.20と切断位置が異なった

21

テグス

振子

9.6Kg

切断

B

 

 

21

テグス

振子

9.6Kg

切断

B

 

 

22

テグス

振子

5.1Kg

切断

A

 

面取り有る場合は4.4Kg以上で「A」で切断

23  

テグス

振子

9.6Kg

切断

A

 

面取り有る場合は4.4Kg以上で「A」で切断

24

(2)

テグス

振子

3.0Kg

切断せず

-

 

 

25

テグス

振子

3.4Kg

切断

B

 

729No.6,31No.9と切断位置()が落下者側から確保者側に変化した。実験機:テストNo.19と表示有るもNo.25が正しい

26

テグス

振子

4.0Kg

切断

B

 

 

27

テグス

振子

4.0Kg

切断せず

-

 

 

28

テグス

振子

4.5Kg

切断

A

 

面取り有る場合は4.4Kg以上で「A」で切断

29

テグス

振子

4.2Kg

切断せず

-

 

 

30

テグス

振子

4.3Kg

切断せず

-

 

 

31

テグス

振子

4.4Kg

切断

A

 

面取り有る場合は4.4Kg以上で「A」で切断

注)衝撃荷重:自由落下のモデル式F=(mv)/9.8t, v=√2gh, t=0.07secと仮定
 実験回数まとめ:ロ(ロープ)、テ(テグス)、自(自由落下)、振(振子落下)、無(面取り無し)、有(面取り有り) 【参加人員:5日間延べ17名】

内容

74(2)

729(2)

731(4)

824(4)

825(5)

合計回数 (内、ロ-)

Test No.

回数

Test No.

回数

Test No.

回数

Test No.

回数

Test No.

回数

ロ・自・無

5,6,7

3

 

 

 

 

11,14,15

3

 

 

6(6)

ロ・振・無

6,6’,8.9

4

 

 

 

 

 

 

 

 

4(4)

テ・自・無

1,2,3,4

4

 

 

 

 

12,16,17

3

 

 

7

テ・振・無

1,2,3,
4,5,7

6

1,2,3,4,

5,6,7

7

8-0,8,
9,10, 10-2

5

 

 

13,19(1-4),
20,20
,
21, 21
,
24, 25,26

12

30

テ・自・有

 

 

 

 

 

 

18

1

 

 

1

テ・振・有

 

 

 

 

 

 

 

 

22,23,27,
28,29,30,
31

7

7

合計回数

 

17

 

7

 

5

 

7

 

19

55(10)

1 考察(明記なき場合は刃は面取り無し);
1.1    【7月4日の590mm自由落下実験の結果】テグス0.74mmΦは0.55Kg以上で切断し、ロープ3mmΦは1Kgで切断した(テストN0.4,7)。
1.2    【8月24日の590mm自由落下実験の結果】
 1.2.1 テグス0.74mmΦ・ロープ3mmΦ共に7月4日の最低荷重で切断した(テストNo.11,12)
 1.2.2 テグス0.74mmΦは最低切断荷重0.55Kg、その約9倍の5.1Kg、約17倍の9.6Kgで切断した場合、いずれの破断面にも水玉(チューリップ)形状は観察できなかった。テグスは刃角から確保者側16mm~18mmのところで切断しており、墜落者側には刃角で擦れた傷があり、先端部は深くえぐれ、重いほど長くなる(テストNo.12,16,17)。
 1.2.3 ロープ3mmΦは最低切断荷重1.0Kg、その約5倍の5.1Kg、約10倍の9.6Kgで切断した。低倍率(x40)のため断定はできないが、いずれの破断面にも水玉(チューリップ)形状は観察できた。荷重が重くなるに従い、確保者側はぷっつりと切れ、撚りのほつれは少なくなる(テストNo.11,14,15)。

  1.3 【7月29・31日の130mm振子落下実験結果】
   1.3.1 荷重3.3kg以上(テストNo.7~10-2)で切断した。本実験ではテグスの切断限界荷重を3.3kgとした。
   1.3.2 荷重3.3kg (テストNo.10及びNo.10-2) では、テグスは確保者(固定点)側の刃角(B)より32~35mm確保者(固定点)側の部分が、確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。
   1.3.3 荷重3.4Kgと3.5Kg (テストNo.8及びNo.9)では、テグスは錘の落下と共に伸びながら刃の上を滑り、確保者(固定点)側の刃角(B)より2~5mm固定点側の部分が、墜落者(錘)側刃角(A)で切断した。
  1.4 【8月24・25日振子落下実験結果】
   1.4.1 荷重3.3kg (テストNo.13) では、テグスは7月の実験と同様に確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。
   1.4.2 荷重3.4kg (テストNo.25)と3.5kg (テストNo.19:念のため4回繰り返した) では、テグスは7月の実験と異なり確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。
   1.4.3 荷重4.0kg以上でも、墜落者(錘)側刃角(A) で切断した(テストNo.20の)5.1Kgの場合を除き、全て (テストNo.20②,21,21②,26,28) で、テグスは確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。
  1.5 【8月24日面取り有り自由落下実験結果】荷重9.6Kgで切断するも、破断面に水玉(チューリップ)形状は観察できず(テストNo.18)。
  1.6 【8月25日面取り有り振子落下実験結果】
   1.6.1 荷重4.0,4.2,4.3Kgでは、刃角の傷はできるが切断せず(テストNo.27,29,30)。
   1.6.2 荷重4.4,4.5,5,1,9.6Kgでは全て墜落者(錘)側刃角(A) で切断。切断部両側(墜落者・確保者側共)刃角で滑ったため内側は圧縮・外側は引張を受けてテグスは円弧を生じている(テストNo.31,28,22,23)。
  1.7 湯浅実験との比較;
   1.7.1 本再現実験は、「湯浅本177頁」に掲載の実験とほほ同一条件であるが、「湯浅本175頁」には12Kgでは切断せずに、13Kgで、全て確保者側で切断と報告されている。国の定めた「衝撃せん断試験用岩角模型」を基に製作された当会の実験では、面取り無しでは3.3Kgで切断し、面取り有でも4.4Kgで切断している。本実験と比して極端に重い切断荷重は異常であり、テスト装置のいい加減さが想像される。
   1.7.2 前項の両角c0.5mmの面取り実験では、全て墜落者側で切れており、湯浅氏の「全て確保者側で切れた」結果とは大いに異なる結果となった。このことから、湯浅実験の岩角は確保者側よりも墜落者側の岩角が余計に面取り状態になっていたと想像される。
   1.7.3 特に切断試料として「テグス」を採用した根拠が全く不明である。湯浅氏が指導を受けたとされるNITEの長田氏の証言(8月7日付メール)によれば、「テグス実験」ではなく、「ナイロンザイルのフィラメント数本で実験をやったらどうか」と説明した、とのことであった。
   1.7.4 テグスが切断する刃角の位置も微妙であり、本実験ではわずか0.1Kgの荷重差で位置が変動し、切れ端の形状も大きく異なる。従って全て「全て確保者側で切断」するとの結論は誤りである。
   1.7.5 このことからも「吊り上げ」があったことを主張するために行った湯浅氏の実験が、如何にいい加減なものであったか、言い換えれば湯浅氏の主張が如何に根拠のないものであるか示していると言える。
15 8月24・25日の実験結果写真:下記の通り

Test No. ロープ・テグス切断状態 落下者側切断部顕微鏡写真(x40) 確保者側切断部顕微鏡写真(x40)
11

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12

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13
14
15
16
17
18
19-1

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19-2
19-3
19-4
20
20-2
21-1
21-2
22
23
24
切断せず(写真無し)

切断せず(写真無し)
25
26
27 切断せず
切断せず
28
29 切断せず
切断せず
30 切断せず
切断せず
31
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以上。


堀田先生から貴重なアドバイス

 8月29日、名古屋大学大学文書資料室の堀田慎一郎先生に、「石岡繁雄文書資料」の目録作成のため寄託した資料の貸出を受けるために文書資料室を訪問する。この貸出の際に堀田先生に、「湯浅本」についての意見を求めた。その結果はメモとして残したので、「『湯浅本』に対する『伝える会』の対応相談」に関する部分を以下に転記する。
――堀田先生:「HP掲載の湯浅本に対する見解を読ませてもらった。歴史学では、後世の回想録よりも、事件が起こった当時の記録を重要視することが多い。その意味で、HPだけを見ると、当時の記録である「奥又合宿備忘録」を使った湯浅氏の主張の方が、関係者(石原氏、澤田氏)の現在の証言よりも、確からしく見えてしまう恐れがある。反論・反証をするなら、関係者の証言と共に、当時の資料を十分に用いた方が説得力が増すと思う。また、湯浅氏が依拠する資料、特に「奥又合宿備忘録」が、当時の資料であるにもかかわらず、如何に信憑性に問題のあるものであるかを、しっかりと証明することが重要である」「『湯浅本』に対する反論・検証は、HPに掲載してもいずれHPは消えてしまうので、後の世まで残すことを考えると、寄贈された全ての図書館など公の場所にしっかりとした反証・反論を、本や冊子として送るべきである」
――あづみ:「私のHPはいずれ全てを印刷して、文書資料室に保管していただきたいと思っている」
 貴重なご意見をいただき、有難く思った。

最後の返信

 9月6日、湯浅氏よりの4通目の長文の手紙が届く。要旨を以下に記す。( )は私の追記。
 2012年の「冊子」と今回の「湯浅本」は内容が異なり、石原氏の指摘も反映し、石岡氏の評価を高め改定した。まるは寿司では澤田氏の強硬な反対で会としての総括はあきらめた。高井氏からは三重岳連に発表すると強硬発言もあった(結果的に岳連から受け入れられず発表できず)。(自分なりに総括して)どこかで出すべきとして今回の本としてまとめた。以下、「奥又合宿備忘録」「遭難の総括がされなかったこと」「チーフリーダーの指示の有無」「トップ交代」について、湯浅氏は自論の繰り返しに終始。特に「吊り上げ」については「若山氏は『吊り上げ』の直前か直後頃にスリップして、ずり落ちるとともに墜落しはじめ、そのまま振り子のように墜落していく中で、ザイルが切断したと考えられる」と記している。
 この言い訳に等しい手紙を読んで、これ以上、手紙でのやりとりを続けることは無意味であるとして、4通目の湯浅氏宛手紙に記したように、まずはHPに「湯浅本」の検証・反論を掲載して広く事の成り行きを報告し、「湯浅本」が配られたと思われる場所(図書館等)、人物に「湯浅本」の検証・反論を冊子として作成し配布する作業にかかった。


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Ⅱ「奥又合宿備忘録」の信憑性について」のペ-ジへご案内いたします


2019.11.17更新