湯浅美仁著 『前穂高岳東壁遭難63年目の検証 ナイロンザイル事件の光と影』 に対する「反証・反論」 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Ⅱ 「奥又合宿備忘録」の信憑性について 1 「奥又合宿備忘録」(1955年1月)の検証 本備忘録は1955年1月2日朝、前穂高岳東壁で発生したナイロンザイル切断により死亡した若山五朗と同行者2名の遭難の際に作成された岩稜会の救助活動記録メモである。 本備忘録には事故発生当日の2日19時の東壁登攀隊消息不明の電話連絡を第1報とし、9日朝全員名古屋駅帰着の電話報告を最終報(19報)とする報告記録をはじめ、冬山登山隊参加者・救助隊員・関係者連絡先名簿と共に、入出金等の諸記録の他、メモなどが、58頁のA5判大学ノートに記載されている。 Ⅰの経過でも記したが、石岡は「ナイロンザイル事件」の関連資料をはじめ、「遭難防止対策」などの膨大な資料を、研究所の書棚や自宅の母屋の2階などに大切に保管していた。2004年6月に妻敏子を亡くし、自分史である『ザイルに導かれて』を出版後、石岡は「ナイロンザイル事件の集大成」本の出版に全力を傾けていた。その石岡を全面的に支えたのは二女のあづみであったが、ある日膨大なナイロンザイル事件関係資料の中から本備忘録を発見し、誰が記載したものなのかを尋ねたが石岡も思い出せなかった。それどころか、その存在すら忘れていた。その後、2006年4月1日に開かれた岩稜会の会合にあづみが持参し、会員たちに聞いて回ったところ「上田定夫先生に違いない」とのことであった。残念ながら上田氏は既に物故しており、不明点だらけの記載内容を確認することは不可能となった。 「1955年1月 奥又合宿備忘録 岩稜会」とは何だったのか、記載事項をまとめると以下の通りである。 ●本備忘録の検証結果のまとめ; (1) 掲載内容から判断した記載時期: 1955年1月~1960年12月頃までと推定される (2) 記載者: ① 前穂高岳東壁遭難事故関係:岩稜会員・上田定夫氏(上田氏不在時は代行者) ② その他の部分:同 石原國利氏他 (3)記載事項の評価: ① 東壁遭難事故第1報~第19(最終)報(6~25頁):当時の状況・参加者の動向など概ね正確であるが、記載内容には誤記や未訂正事項、発言者・受信者・記載内容が不明な部分など疑問点が下表の通り全部で47か所ある。 ② 救助活動に関連の金銭出納関係(34~44頁):別途作成の「岩稜会 特別会計」の下書き・メモとして作成されたものである。 ③ 岩稜会会員・救助活動参加者名簿(46~50頁):概ね正しいと思われる。 ④ その他(56,58頁):事故処理後5年間ほどの間のどこかで石原國利氏によって記載されたメモである。 ⑤ 最終頁に挟み込まれた筆者不明の遭難事故報告書の書き出し部分は、一旦28頁に記載され、破られたものであるが、その後何かに活用されたかは不明である。 ⑥ 本備忘録の保管状況:石岡が最重要書類として残した62冊の「スクラップブック」にではなく、母屋の2階に保管されていたが、信憑性に問題があり活用されることはなかった。 (4)上記①で言及した誤記や未訂正事項、発言者・受信者・記載内容が不明な部分など疑問点、後に書き足したと思われる部分は下表の通り;
① 疑問点47か所のうち、29か所が第12報(室1~4談)にあり、全体の62%を占めている。 ② *3の「受信者不明」は、個人の特定はできないが、全て石岡宅に置かれた本部宛と思われるので、この16か所を除外すると、疑問点は31か所となり、第12報(室1~4談)29か所の占める割合は94%に達する。 ③ その29か所の内訳は発言者不明が15か所、記載内容不明が8か所、後に書き足しが6か所であり、室氏が報告した記述内容および後に書き足したのが誰の発言で、何を意味しているのかなど、正確に特定することは困難である。すなわち、本録が第1級の原典資料として信用できないことを示している。 (5)その代表的な部分の【室1談】と【室3談】を下記に記す。 ① 【室1談】 1日朝3人出発。昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていたが 太文字部は上部欄外に書き足されている。事故直後から現在に至る國利・榮介2人の報告・証言と異なるので、発言者は不明である。 翌2日朝、国利トップで登ったが、3mストップした時止った。(腕疲れて戻った) ()内は下線部分の下の行間に書かれており、後に書き足されたと思われる。 今度、五朗ちゃんがトップになり、カラビナ通さずに (室1談)では「カラビナ通さずに70㎝スリップ。ザイルを岩角にかけただけであった。8㎜ 40mナイロンザイル新品、岩角で切れた」と記載されており、ここでは「岩にかけてつり上げ」と変更している。誰の発言か不明であり、「吊り上げ」の意味も不明。あたかも別の視点で語られているように感じられる。 (バッカスの注イを忘れてしまっていたものである) この()内の記述は非常に不明瞭且つ重要な文章である。前文に続く言葉としたら、「バッカスの注意を忘れてつり上げようとした」ことになり、國利や榮介の発言ではないので、第3者の発言となるが、誰かは不明である。 一方、前文と切り離して挿入文とした場合はどうか。例えば3日のベースキャンプで聴き取りした内容を、4日に室から報告を受けた石岡が漏らした言葉とする場合である。それでは石岡はどんな注意を日頃していたのであろうか。ナイロンザイルの岩角欠陥が明らかとなった後ならば、いろいろ想定は可能であるが、よもや麻ザイルよりも弱いと思っていなかった当時、現実味のある注意とは何であったかを特定するのは困難である。 バッカスは残念がっていた 上記の()内の上部に追記されている。これも室が石岡の様子を話したものとすれば、挿入文の一部であるが、石岡が何を残念がっていたのか不明である。 第3者の発言とすれば「つり上げ」以降の発言は一貫性を持つ。この場合は(室1談)で「昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていたが」の追記を、室か上田に求めた第3者(6日に帰鈴した)が、同様に自説を(室3談)にも記述させたとも考えられる。 以上の他にも疑問点は多い。ここに詳述したいところだが、論点を整理して反論を進める必要上、詳細については「巻末資料2.「1955年1月 奥又合宿備忘録」の浄書および検証」を参照していただきたい。 2.「備忘録」と他の初期資料との比較 湯浅氏の論点は『奥又合宿備忘録』と氏独自の実験とによって展開されている。ここでは、氏が論拠の資料とした『奥又合宿備忘録』を、遭難当時の他の2つの資料とあわせて比較・検証していく。 (1)3つの比較すべき前穂高東壁遭難事故(1955年1月2日)に関する初期資料 (A)岩稜会が作ったメモノート『奥又合宿備忘録』 執筆者:上田定夫氏他 執筆年月日:1955年1月3日以降 (B)上高地ホテル〔現、上高地帝国ホテル〕の冬季番小屋で作成された『遭難報告書』 執筆者:石岡繁雄 執筆年月日:1955年1月6日~8日 (C)『三重県山岳連盟報告』(機関誌)に掲載された『前穂高岳東壁遭難報告』 執筆者:澤田榮介氏 執筆年月日:1955年1月10日以降7月20日前後まで(7月25日印刷) (注)この澤田氏の書かれた遭難報告には「遭難記録原本」〔この原本と「三重大学山岳部会報の澤田氏報告は同資料としてご覧になれます〕が存在する。 (2)3つの資料の1月1日~2日にかけての重要部分抜粋と相違点 ※ 太字は、湯浅氏が論拠とした部分。 ※ 紫字は、明らかに違いがある部分。 ※ 赤字は、当該資料のみに掲載されている重要部分。 ※ (A)(B)(C)は、上記資料の記号。 ※ 〔 〕内の緑字は検証による説明等 1955年1月1日 (A)第12報(報告及伝言)室敏彌君5日20時30分到着 1日朝3人出発。(昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていた〔❶〕が、)第2テラスに昼までに出る予定が午後3時になり、尚登ることとし、頂上直下20m〔ⓐ〕でオカン。〔オカンとは山岳用語で、テントやシュラフなどの露営用具を使用しないで、着の身着のままで野宿をすること。()内は欄外に記載されている〕 (B)元旦の快晴を好機到来として石原、若山、澤田の3名は午前6時又白池畔のテント(標高2500m)を出発、8時東壁に取り付いた。前記の順にザイルをつなぎ登攀を開始したが、意外に時間を要し、登攀完了の約40m下〔ⓐ〕の地点にて日没となった。なお、この頃から天候悪化して降雪となった。3名はツェルト(羽二重製の袋)を被って狭い氷の棚で夜を明かした。 (C)もう日がとっぷり暮れる。時計を見ると5時半である。頭上30mほどに頂上〔ⓐ〕が見える。仕方なくビバーク〔小屋やキャンプ地ではない場所で一夜を過ごすこと〕と決心する。 1955年1月2日 (A)第12報(報告及伝言) 今度、五朗ちゃんがトップになり、カラビナ〔岩登り用具の1つ。ハーケンにかけ、ザイルを通すための金属製の輪〕通さずに70cmスリップ。ザイルを岩角にかけただけであった8 ㎜ 40mナイロンザイル新品、岩角で切れた。沢田はラスト。 落ちたことは2日后4時、高井兄・上岡2人によって初めて分った。 2人共五朗氏の落ちた場所で動けなくなり、その晩もオカン(その場で)したわけ。ツェルトだけ。 高井達は2日の后4時2人と話をした。 それで落ちたことが初めて分った。 12本のハーケン〔安全確保のために、岩の割れ目に打ち込む鉤状の金具〕があったがカラビナは5つ。 ハーケン7本落し、最後のアップザイレン〔懸垂下降〕にピトン〔岩登りハーケンのこと〕が不足するに至って退却も出来なかった。 高井が天幕に急報。 (室3談) それまではいつも、五朗ちゃんがミッテルだったが、2日朝、一寸のところが全然登れず、国さんに変って五朗ちゃんがトップになった。岩にかけてつり上げようとした〔❷〕(バッカスの注イを忘れてしまっていたものである。<バッカスはざんねんがっていた>)〔< >内は上に書き足されている〕 (室4談) 2日に高井・上岡氏2人が行っても、1人が降って結びつけ、1人だけで引張り上げねばならぬ。それは困難だから、声を聞き乍ら高井は引き上げた。(又白に) (B)翌2日午前7時半、はなはだ元気に再び登攀を開始、石原は図の割目を登って㋑の突き出した岩にザイルをかけ、その往復二本のザイルを握って突起の上に出んと3回試みたが、ザイルが握る指の中でずるずる滑るのと、力不足とで成功せず、ザイルにつかまったまま棚に下り、先頭を若山と交代した。若山は(石原とザイルを結ぶ順序を交代した後)直接㋑に登らず右手の壁に取り付いた。この時の状態は石原の記憶によれば図の様であった。(石原は自分もその前に登っており、且つ確保すべき先登者を注意深く注視していたので、誤りはほとんどないと言っている)その時、若山は「アッ」と言って左足〔ⓑ〕を滑らし、矢印の方向に時計の振り子のように落ち、ザイル切断し、石原の腿に当たって瞬時にして見えなくなった。この時ザイルを握って若山を確保していた石原にはショックはほとんどなかった。〔添付図に「約50cm〔©〕」スリップの記載有り〕 (C)若山も石原と同様になんなくハング〔庇状に覆い被さっている岩壁〕下に至り、突起にザイルをかける。しばらく真正面からのり越そうと試みていたが、だめなのか、今度はザイルを突起にかけたまま、右側岩壁に沿って、一歩トラバース〔斜面や岩壁を横(水平方向)に移動すること〕を開始して、直登にかかろうとした瞬間「アッ」と一声叫ぶと、右足〔ⓑ〕をスリップした。〔中略〕 「元気か」「ザイルが切れて五朗ちゃんが落ちたんだ」「落下地点は」「わからん」「現在の位置は」「頂上直下20m〔ⓐ〕」「解った。動かないでいてくれ」こんな言葉が交わされた後、アップザイレンをやめ、もとの地点へ腰を下ろす。14時半である。 (3)3つの資料の比較と検証 (A)岩稜会が作ったメモノート『奥又合宿備忘録』 ① 本資料は、河町本部〔鈴鹿市の石岡宅〕で、遭難の報があったあくる日の1月3日頃より記入を始められたものである。当時遭難救助に行っていた人が鈴鹿の本部に帰ってから述べたことや現地からの電話の内容のメモなどをまとめて、岩稜会会員で亀山高校教師の上田定夫氏等が書き記したものと思われるが、追記等もあり記載日は特定できない。 ② 前項のⅡでも述べたが、後半には金銭出納や見舞い金などのメモがあり、あくまでも備忘のための様相を示す記載であり、会計簿の形式を成していない。正式な会計簿は別のノートが存在する。さらに、この備忘録の最後には、何年も後のヒマラヤ遠征に関する石原國利氏の走り書きがある。これらのことから、この備忘録が正確な記録として保管されていたものではないと分かる。 ③ 本備忘録の記載事項には貴重なものが多いが、その正確さについては完全には検証できない。理解に苦しむ誤記もあり、やはり混乱の中で記載されたと判断せざるを得ない。 ④ (室談)とは室敏彌氏が1月3日に森泰三氏と共に奥又白のベースキャンプに到着して、テントに宿泊し、救出された石原國利氏・澤田榮介氏、他、救助捜索活動中の石原兄・高井兄弟・上岡謙一・森・南川各氏が話したこと(メモは残されていない)を、1月5日20時30分に神戸に帰着してから河町本部に報告した内容を上田氏が記録したものであるが、やはり誰から聞いたものかの記載はない。 ⑤ 特に遭難者2人から聞き取った事項に関しては疑問である。室氏が2人と接触できた1月3日は、又白のベースキャンプのテントの中であり、遭難者2人の他には、前述の各氏がいた。その時の話とされている「第12報(室談)」は、遭難直後の貴重な話であるが、誰がどのように話したことなのか記されていない。石原氏と澤田氏は、救助された喜びと五朗を亡くした哀しみ、凍傷の痛みなどで相当混乱していたと思われる。このテントにいた人々の内、現在生存している方は遭難者の2人と森泰造氏であるが、3人ともに、湯浅氏が論拠としている「昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていた〔❶〕」と「吊り上げようとした〔❷〕」は、「知らない」「なかった」と否定している。したがって、室氏が誰の発言を聞いて報告したか不明である。 4日の夕刻は、遭難者の2人は明神養魚場まで下ろされ、その小屋で泊まっている。室氏は4日には上高地ホテル泊で、遭難者から話を聞くことはできない。しかしながらⅡ章でも論じたように、(室談)の記載内容は、6日に帰鈴した高井氏(兄)が上田氏に直接追加報告したとすると理解しやすい。 また「カラビナを通さずに70cmスリップ〔©〕」については、後述(B)⑤項の通り、石原氏は約50cmと証言しており、澤田氏の報告には書かれていないので、70cmの出所は不明である。 (B)上高地ホテル〔冬季番小屋、木村小屋〕で作成された『遭難報告書』 ① 1月3日に救出された石原國利氏は、5日に石岡繁雄と上高地ホテルで合流している。石原氏はまず、ナイロンザイルが切れたことを報告する。本資料は遭難当事者のひとりである石原氏の報告に基づき、1月6日~8日に石岡によって作成され、一番早く出された原点資料である。 ② もう一人の遭難当事者の澤田榮介氏は凍傷がひどく、養魚場にて松本の医師飯野太氏に治療を受け、1月5日には石岡と上高地ホテルで会っているが、すぐさま松本の病院に連れて行かれ、報告の余裕はなかった。 ③ ビバーグ地点から頂上までの距離〔ⓐ〕は、1955年8月6日の現場検証の結果、約30mと判明した。本書の記載約40mは石原氏の目測による誤差があったことが分かる。澤田氏の報告書では「頭上30m」と「頂上直下20m」の記載がある。 ④ 五朗がどちらの足を滑らせたか〔ⓑ〕については、一番近い距離にいて五朗の滑落を一部始終見ていた石原氏の証言の左足が正しいと思われる。後に書かれた澤田報告書では右足と書かれているが、石原氏に確認したところ左足でまちがいないとの返答であった。 ⑤ 五郎がスリップした距離〔©〕については、8月6日の現場検証の結果、約50cmと判明し、本書の記載が正しかったことが判明した。室敏彌氏が「70cmスリップ」と話したのであろうが、『奥又合宿備忘録』に「70cm」と記載された経緯は不明である。 ⑥ 本遭難報告書作成のいきさつ:1月5日、石原氏からの報告を聞いていた時、12月28日に起きた東雲山渓会のナイロンザイル切断による遭難を木村小屋の主人〔木村殖氏〕から知らされる。この2つのザイル切断報告を聞いた石岡は、木村小屋でマキを並べて、その上にナイロンザイルを置いて、自分の山用のナタを自由落下させてみた。ナイロンザイルはあっけなく切れた。同様にやってみたところ、麻ザイルは傷はついたが簡単には切れなかった。このことからナイロンザイルが鋭い角に当たると切れるという欠点があることを確信する。 ところが、1月6日の信濃毎日新聞長野県版に、信濃毎日新聞竹節作太本部運動部長筆で、岩稜会のザイル切断による遭難の件が掲載された。内容は「前穂高岳で三重大の若山君が遭難した直接原因を、日本製ナイロンザイルの弱さになすりつけてとやかく言っている者もあるが、これははなはだ早計である。ナイロン製は麻製よりも細く軽く耐久性がある。しかし日光に対してはひどくもろくかつ固くなる欠点がある。ザイルを買うには何百キロのショックに耐えうるかの試験をしなければならないが、一般市販などではあるいは略してしまうこともありがちである。自分たちの命を託するザイルであるから、使用前に慎重過ぎるほどのテストを経るのが当然である。したがって毎朝出発する前には十分テストをしてから出発しなければならない。若山君の場合はどんな具合に切れたのか判らないが、もし岩の角で切れたとしたらザイルさばきが下手であったことになるし、使い古したか、細すぎたザイルを使ったのであったら不注意ということになる」というものであった。 この誤った認識による報道で、石岡は、このままでは第2第3の犠牲者が出ると思い、報告書を作成して配ることにした。これが、ここに掲載している報告書のことである。 ⑦ 石岡は石原氏らと手分けして手書きした報告書を5部作り、1月9日には松本で新聞社に配っている。この報告書は、全文が2回連続で中日新聞に「二つの遭難とナイロンザイル 上・下」として、1月11日に「切れないはずの条件」、1月12日には「科学的究明が必要」と題されて掲載された。 (C)『三重県山岳連盟報告』(機関誌)に掲載された『前穂高岳東壁遭難報告』 ① 本資料は、1955年7月25日に印刷された澤田榮介氏筆の報告書で、当事者の動きや遭難時の心情などが細かく記されており、大変興味深いものである。内容は石原國利氏の証言を基に書かれた石岡の報告書とは、「頂上直下20m〔ⓐ〕」「頭上30mほどに頂上〔ⓐ〕」と「右足(ⓑ)」「落下距離(©)」以外は大差のないものである。 ② 事故から印刷までに半年ほどの期間があり、救助者等の行動についても直接十分に聴き取り整理された記載内容であると思われる。それでもⓐ,ⓑ,©の食い違いがそのままにされていたのは、現場検証(8月6日)前で未確定だったからである。 (4)「湯浅本」に対する考察と結論 「湯浅本」は12~246頁の計235頁数の内40頁数に、「奥又合宿備忘録」「備忘録」の言葉が合計53か所に渡り繰り返されている。そして多くの引用は、「発言者不明」「記載内容不明」「後に書き足し」など不明事項が29項目もある「第12報(室1~4談)」からである。これは「湯浅本」が不明点を自己解釈で書き綴った捏造本であることの証であると言える。 次に、3つの資料と澤田氏の遭難記録原本、現場調査書、遭難者2名や救助者(2019年9月現在生存)の証言を踏まえて、上記のように湯浅氏の著作本に繰り返し掲載されている「奥又合宿備忘録」に記載のある「昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていた〔❶〕」と「吊り上げようとした❷」に関して考察する。 まず、記載事項の「昼までに第2テラスに着かねば引返すことになっていた」についてである。湯浅氏の本では、これを「指示」としているが、「奥又合宿備忘録」にその記載はない。証言者はいずれも「そういう指示は聞いていない」と言うが、石原一郎氏と石原國利氏の兄弟の間では「昼までに第2テラスに出た方が良いぞ」という一郎氏の助言があった可能性は否定できない。國利氏は「確かなものではなかった」と証言されている。しかし、そうであったとしても指示やリーダーとしての命令ではなく、あくまでも兄弟間での話であって、それを傍で聞いていた高井氏が勘違いされたものと思われる。 次に「つり上げようとした〔❷〕」について考察する。 記載事項は「岩にかけてつり上げようとした(バッカスの注イを忘れてしまっていたものである。バッカスはざんねんがっていた)」である。これについて石原國利氏は「しっかりと確保していただけであり、吊り上げなどは行っていない。今回の湯浅氏の本で初めて聞いてびっくりしている」と主張されている。澤田榮介氏は、「狭い岩棚で自分は座って確保していた。石原氏の陰になり五朗はほとんど見えなかったが、吊り上げは行われていなかった」と証言されている。また澤田氏は、「昭和30年頃の岩場の登攀では、強力な確保のことを『吊り上げ』と言っていたので、誰かが間違えてそう言ったのかも知れない」と証言された。そこで、強力な確保を、当時「吊り上げ」と言っていたのかを岩稜会の古参の方々にお尋ねした。すると皆さんが同様に「強力な確保のことを『吊り上げ』とは言っていなかった」と証言されているので、澤田氏の思い違いと考えられる。付け加えるが「吊り上げ」とは、古い登攀技術の1つで、困難な岩場を登る場合、ハーケンを打ち、カラビナをかけてザイルを通し、アンザイレン〔登山者が岩壁などを登る際に、安全のために互いにザイルで身体を結び合うこと〕して登攀者が手に力を加えて岩を乗り越そうとする時に確保者に声をかけ、力を入れると同時に確保者が下からザイルを引いて力を貸すというものである。「吊り上げ」という言葉からは、全体重を吊り上げるように思うが、決してそうではなく一時的に力を貸すというものである。その時には、声を掛け合うのがルールになっていた(石原國利氏、森泰造氏談)。 五朗の墜落時にそのような行為はなかったし、万が一あったとしても声も掛けずに行われたということは全く考えられない。登山家ならば誰しも、声を掛け合わずに「吊り上げ」を行うことが、どんなに危険か衆知のことである。 このことはすでに述べたが、墜落時の状況から見ても、確保者から離れる方向に移動しようとしているパートナーを、上部の岩を介してにしろ反対側に引く「吊り上げ」行為をすることはありえない。〔❶〕〔❷〕も1月6日に帰鈴した高井兄が上田氏に追記させた可能性を述べたが、2006年に「奥又合宿備忘録」を見せられた高井氏は「吊り上げ」については何も触れていない。唯一「吊り上げ」に注目し、「石原氏による殺人ストーリー」を思い付いたのが湯浅氏である。 「吊り上げ」を行っていてザイルが切れたとすると、確保者に相当の反動がある。しかし石原國利氏は、当初から「ショックはほとんどなかった」と語っている。 1954年12月28日に、前穂4峰東稜中央ルンゼを登攀中に9㎜ナイロンザイルが切れて重傷を負った東雲山渓会大高俊直氏の手記によると、「『アッ!』と言う声をセカンドは聞き、ザイルのたるんでいるのを見て、たぐればザイルはズルズルと手元にたぐられザイルの切断を認めて驚く。セカンドはセルフビレー〔ザイルを使って自分の転滑落を防ぐ(安全を確保する)こと〕のカラビナにもトップへのザイルを通していたから、トップへのザイルは三ッの(或は二つ)カラビナを通っていた。セカンドは切断時ショックを感じなかった」とある。また1955年1月4日に、前穂高3峰4峰間のコル〔鞍部のこと。2つのピークの間の低くくぼんだ場所を指す〕を登攀中に11㎜ナイロンザイルが切断して墜落し、軽傷を負った大阪市立大学山岳部の大島健司氏は、その手紙の中で、「オーバーハングの下の岩に立とうとした時バランスが崩れ、奥又側へ墜落。同時に橋本〔ザイルパートナー〕は一歩涸沢側へ下ってショックに備えたのですが、いつまで経ってもショックが全然ないので、恐る恐るザイルを引き上げながら覗くと、ザイルが切断していたのです」ということである。 このことから、國利氏が「ショックはほとんどなかった」と言われたことは真実である。したがって「吊り上げ」はされていなかったと断言できる。 「(バッカスの注イを忘れてしまっていたものである。バッカスはざんねんがっていた)」について、湯浅氏は「吊り上げ」に対するコメントとして取り上げている。しかし、「カラビナ通さずに70cmスリップ」の部分を残念がったとも考えられる。いずれにしても、どんな注意であったのか、実際に注意があったのか、何を残念がったのか、時間が錯綜するメモであるため、今となっては明白でない。「奥又合宿備忘録」に記された(室談)の中で湯浅氏が論拠として取り上げている部分は、文脈に整合性がないため様々な解釈ができる部分である。 また、(A)『奥又合宿備忘録』の(室談)は遭難当時のどさくさの中で書かれ、その後、関係者による憶測の追記がなされている。記述の根拠があやふやで、明らかな間違いもある。 一方、(B)『遭難報告書』と(C)『前穂高岳遭難報告』は公的に発表されたもので、当然、関係者等の聞き取りはもちろん、検証と校正を重ねた上で責任をもって発表された文書である。 以上のことから、3つの資料の内、石岡繁雄が石原國利氏の当時の証言を充分に聴いた上で執筆した(B)上高地ホテルの冬季番小屋で作成された『遭難報告書』が初期資料として一番信憑性が高く、(A)岩稜会が作ったメモノート『奥又合宿備忘録』に関しては信憑性に問題があると結論づけるものである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Ⅲ 「湯浅実験」に対する「伝える会」の実証実験 湯浅氏は実験の正当性として、国の製品評価機構としては最高機関といえるNITEの長田氏の指導を受けたと各所に明記し、245頁では最大の賛辞を送っている。しかしあまりにも間違いが多い記載事項に疑問を持ち、長田氏に問合せしたところ、数度にわたり詳細な電話・メールによる回答をいただいたが、その要点は下記の通り。
更に8月24・25日に確認のための追加実験行い、ほぼ必要なデータを得ることができた。 (3) 実験回数:下記実験を実施した。(面取り無し=無、面取り有り=有) ① ロープ(無・自由落下)実験:計6回、(無・振子落下)実験:計4回 ② テグス(無・自由落下)実験:計7回、(無・振子落下)実験:計30回 ③ テグス(有・自由落下)実験:計1回、(有・振子落下)実験:計7回 (合計55回) (備考)実験日数と実験参加人員:5日間のべ17名、撮影枚数:2000枚以上。 (4) 実験結果考察(明記なき場合は、刃は面取り無し) ①【7月4日の590㎜自由落下実験の結果】テグス0.74mmΦは0.55㎏以上で切断し、ロープ3mmΦは1㎏で切断した。 ②【8月24日の590㎜自由落下実験の結果】テグス0.74mmΦ・ロープ3mmΦ共に7月4日の最低荷重で切断した。(テストNo.11,12) ③ 【同】テグス0.74mmΦは最低切断荷重0.55㎏、その約9倍の5.1㎏、約17倍の9.6㎏で切断した場合、いずれの破断面にもナイロンロ-プ特有の水玉(チューリップ)形状は観察できなかった。(テストNo.12,16,17) ④ 【同】ロープ3mmΦは最低切断荷重1.0㎏、その約5倍の5.1㎏、約10倍の9.6㎏で切断した場合、いずれの破断面にも量の過多はあるものの水玉(チューリップ)形状は観察できた。(テストNo.11,14,15)
⑤ 【7月29・31日の130㎜振子落下実験結果】荷重3.3㎏以上(テストNo.7~10-2)で切断した。本実験ではテグスの切断限界荷重を3.3㎏とした。 ⑥ 【同】荷重3.3㎏ (テストNo.10及びNo.10-2) では、テグスは確保者(固定点)側の刃角(B)より32~35㎜固定点側の部分が、確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。 ⑦ 【同】荷重3.4㎏と3.5㎏ (テストNo.8及びNo.9)では、テグスは錘の落下と共に伸びながら刃の上を滑り、確保者(固定点)側の刃角(B)より2~5㎜固定点側の部分が、落下者(錘)側刃角(A)で切断した。 ⑧ 【8月24・25日振子落下実験結果】荷重3.3㎏ (テストNo.13) では、テグスは7月の実験と同様に確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。 ⑨ 【同】荷重3.4㎏ (テストNo.25)と3.5㎏ (テストNo.19) では、テグスは7月の実験と異なり確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。 ⑩ 【同】荷重4.0㎏以上でも、落下者(錘)側刃角(A) で切断した(テストNo.20)5.1㎏の場合を除き、全て (テストNo.20②,21,21②,26,28) で、テグスは確保者(固定点)側刃角(B)で切断した。 ⑪ 【8月24日面取り有り自由落下実験結果】荷重9.6㎏で切断するも、破断面に水玉(チューリップ)形状は観察できず。(テストNo.18) ⑫ 【8月25日面取り有り振子落下実験結果】荷重4.0,4.2,4.3㎏では切断せず。(テストNo.27,29,30) ⑬ 【同】荷重4.4,4.5,5.1,9.6㎏では落下者(錘)側刃角(A) で切断。(テストNo.31,28,22,23) (5) 「湯浅実験」に対する検証実験の結論 ① 本再現実験は、「湯浅本」177頁に掲載の実験とほほ同一条件で行ったが、「湯浅本」175頁にはテグス0.75mmΦは12㎏では切断せずに、13㎏で、全て確保者側で切断と明言している。一方、国の定めた「衝撃せん断試験用岩角模型」を基に製作した私たちの実験では、面取り無しでは3.3㎏で切断し、面取り有でも4.4㎏で切断した。「湯浅実験」の極端に重い切断荷重は異常であり、テスト装置のいい加減さ(刃は面取り状態?)が想像される。 ② また切断試料として「テグス」を採用した根拠が不明。前述の通り、湯浅氏が指導を受けたとされるNITEの長田氏の証言8月7日付メールによれば、「テグス実験」ではなく、「ナイロンロープのフィラメント数本で実験をやったらどうか」と説明した、とのことであった。 ③ 私たちの実験結果では、テグスが切断する刃角の位置も微妙であり、本実験ではわずか0.1㎏の荷重差で位置が変動し、切れ端の形状も大きく異なる。したがって「全て確保者側で切断」とは結論付けられない。 ④ 一方、0.5㎜の面取り刃の実験で切断した全て(荷重4.4,4.5,5.1,9.6㎏)で、テグスは落下者側で切断し、湯浅実験と逆の結果となった。このことは湯浅実験で使われた刃が、落下者側が確保者側よりも更に面取り状態が強かったことを示唆している。 ⑤ 私たちの実験では、全てのテグス切断面に水玉(チューリップ)形状は観察できず、湯浅氏の言う「観察できた」との根拠は理解不能。
⑥ また湯浅氏は実験結果の何を以て「吊り上げ」があったと主張できるかの根拠を示していない。つまり確保者側を引っ張り、重錘を落とす実験をやっていない。 ⑦ このことからも湯浅氏の実験が「吊り上げ」があったとの結論を導くために行った、如何にいい加減なものであったか、言い換えれば湯浅氏の主張が如何に根拠のないものであるか示していると言える。あたかも実験装置でごまかそうとする姿勢は、まるで63年前の「岩角を丸めた」蒲郡公開実験の如しであり、湯浅氏こそ岳界を恐怖と混乱に陥れた「未必の故意の殺人者」である篠田軍治氏の再来ではないか、と思わざるを得ない。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以下の写真をクリックしてください 「Ⅳ 『湯浅本』の各ペ-ジに記載された内容の検証と反論」の ペ-ジへご案内いたします 2019.11.22更新 |