Ⅴ 「湯浅本」で引用された文献の一覧と引用内容の検証
(特に記載のない限り「湯浅本」記載頁の先頭頁の内容についてコメントした)
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No.
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「湯浅本」p248~254 「文献」欄の記載事項
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湯浅氏の引用に関わる主張・論旨に対する
検証と反論
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引用された文献の元資料
(資料番号は巻末資料リストの番号)
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「湯浅本」
記載頁
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1)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 20-21 1956
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない
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資料18.文献1)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔14:本件発生当時の状況p15,16〕
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12,46,47,126
194,208
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2)
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石岡繁雄 ナイロンザイル切断事件の真相 岩と雪1 94-97 1958
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない
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資料21.1958年6月20日『岩と雪Ⅰ』「ナイロンザイル切断事件の真相」-石岡繁雄著〔p95,96この資料については、PDFで、湯浅氏文献のNo.がどのペ-ジに当たるかを明記してある〕
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12,46,
67〔文献25の間違い〕,
96
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3)
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澤田榮介 前穂高岳東壁遭難事故報告書 三重大学山岳部会報 1956
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない
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資料3-1.1954年12月22日~1955年1月「岩稜会冬山合宿前穂東壁遭難記録原本」・『三重大学山岳部会報』「前穂高岳東壁遭難報告」-澤田榮介
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12,
35〔2か所〕,
46,93,127
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4)
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澤田榮介 前穂高岳東壁遭難事故報告書 岩稜334-341 1987
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない
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岩稜p334-341
〔この資料は3)と同じのため無〕
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12,35〔2か所〕,
46
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5)
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今井喜久郎 春季捜索行三重大学山岳部会報 1956
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない
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資料13.1955年4月22日~5月6日春季捜索行-今井喜久郎著
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12
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6)
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今井喜久郎 春季捜索行 岩稜 384-387 1987
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない
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岩稜p384-387
〔この資料は5)と同じのため無〕
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12
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7)
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今井喜久郎 春季捜索行 三重大学山岳部会報 1956
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない。春季は夏季の誤記
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資料15.1955年7月15日~8月4日夏期捜索行-今井喜久郎著
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12
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8)
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今井喜久郎 夏季捜索行 岩稜 388-393 1987
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湯浅氏は「前穂高岳東壁遭難の数少ない記録の1つ」としているが、一番信憑性の高い「資料5.」を取り上げていない
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岩稜p388-393
〔この資料は7)と同じのため無〕
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12
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9)
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岩稜会 奥又合宿備忘録 12 1955
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湯浅氏は「『チーフリーダー』の指示も明確に記載」と書いてないことを勝手に書き換えている
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資料4.1955年1月
「奥又合宿備忘録」〔p15〕
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13,58,138,
190
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10)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 4-5 1956
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湯浅氏は「ザイル切断以前の問題である『登山・登攀行為の問題』は未検討のままである」として、「蒲郡事件等」を矮小化しようとしている
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資料18.文献10)浄書版
『ナイロン・ザイル事件』〔p3,4〕
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23
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11)
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石岡繁雄 ナイロンザイル切断事件の真相 岩と雪1 94 1958
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湯浅氏は「東壁事件はそれだけの問題ではないはず」と主張し、「湯浅ストーリー」を創作した
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資料21.1958年6月20日『岩と雪Ⅰ』「ナイロンザイル切断事件の真相」-石岡繁雄著〔p94〕
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23
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12)
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中部日本新聞 蒲郡公開実験を報道 1955年5月1日(ナイロン・ザイル事件 関係資料 85-88 1956より引用)
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湯浅氏は「総括されていなかったことがマイナスに働き」と石岡に責任を転嫁している
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資料18.文献12)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p63-65〕と該当新聞
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27
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13)
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熊沢三郎 ナイロンザイルの切断 山と渓谷189号 55 1955(ナイロン・ザイル事件 関係資料 74 1956より引用)
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湯浅氏は「総括されていなかったことがマイナスに働き」と石岡に責任を転嫁している。熊沢三郎は熊沢友三郎の誤記
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資料18.文献13)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p56〕と該当『山と渓谷』〔p55〕
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27
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14)
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熊沢三郎 アンケート・ナイロンザイルは何うなるのか 山と渓谷193号 86-88 1955(ナイロン・ザイル事件 関係資料 92-93 1956より引用)
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湯浅氏は「総括されていなかったことがマイナスに働き」と石岡に責任を転嫁している。熊沢三郎は熊沢友三郎の誤記
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資料18.文献14)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p67-72〕
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27
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15)
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関根吉郎 化学(監修・小竹無二雄) 7月号 42-44 1955(ナイロン・ザイル事件 関係資料 100-104 1956より引用)
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ナイロンザイル切断状況を確認せずに、憶測でザイル使用者に責任を転嫁する発言である
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資料18.文献15)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p73-76〕・
資料14.1955年7月1日『化学』〔p525,526〕
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27,64
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16)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 192-202 1956
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湯浅氏は「ナイロンザイルの事件に集約しなければ…闘うことができないかとの錯覚に陥った」と憶測で記載
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資料18.文献16)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p142-150〕
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28,54
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17)
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石岡繁雄 中川和道 久保利永子 ナイロン切断事件から半世紀 岳人 669号 75-78 2003
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湯浅氏は「21人の犠牲者が出るまで…規制が遅れたのか、ナイロンザイルの…科学的検証が広く公表されなかったのか、いづれも不思議」と、石岡等の血のにじむような努力をあざ笑うような記載。引用ページは「75-81」が正しい
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資料39.2003年3月1日『岳人』669号「ナイロンザイル切断事件から半世紀」-石岡繁雄・中川和道・久保利永子
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28, 98〔文献2か25の間違い〕
135,210
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18)
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長田敏 「あいちサイエンスフェスティバル2014」のレジメ 製品事故の原因を探るサイエンス~「氷壁」ザイル切断事故から最前線情報まで~ 2014年10月3日
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あいちサイエンスフェスティバル2014でのNITEの長田氏の立場も講演の経緯も全く理解せずに「長田の検証によると」と記載
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資料52.2014年4月18日
「『氷壁』のザイルが語るもの」菊池久著
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29
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19)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 19 1977
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湯浅氏は、当時の岩稜会の実態や石岡の苦渋の選択を理解せず「登攀行為を検証しないまま…検討に蓋をしてしまった」と記述
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資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会
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30,56
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20)
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三重県山岳連盟 「ナイロンザイル事件論争を終始するに当たって」 昭和34年9月(氷壁・ナイロンザイル事件の真実 170-176 2000より引用)
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湯浅氏は、当時の岩稜会の実態や石岡の苦渋の選択を理解せず「登攀行為を検証しないまま…検討に蓋をしてしまった」と記述。資料名の「終始」は「終止」の誤記。書名は石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』が正しい。発行年度は2007が正しい
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資料28.1959年9月12日『ナイロンザイル事件 論争を終止するに当たって』-三重県山岳連盟 三重大学水町助教授著
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30,56
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21)
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岩稜会 岩稜 172-177 1987
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冬山計画書には全15名の参加者の名前以外の詳細事項の記載無く、引用根拠はない
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資料2.1954年「昭和30年度岩稜会計画書」
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33,96
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22)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 18 1956
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「5つの検討事項を根拠に石岡主導により購入を決めた」と憶測を記載
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資料18.文献22)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p14,15〕
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33,102
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23)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 49 1977
|
「5つの検討事項を根拠に石岡主導により購入を決めた」と憶測を記載
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資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会
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33
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24)
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岩稜会 奥又合宿備忘録 1 1955
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湯浅氏は冬山参加隊員を岩稜会員10名と三重大山岳部3名」分けて記載しているが、備忘録には所属の記載は無し
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資料4.1955年1月「奥又合宿備忘録」〔p4〕
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34,35,91
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25)
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石岡繁雄 ナイロンザイル切断事件の真相 岩と雪1 95-96 1958
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湯浅氏は90頁の引用で「石岡から『五朗も連れて行ってやってくれ』と頼まれた」と記載しているが、湯浅の創作である
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資料21.1958年6月20日『岩と雪Ⅰ』「ナイロンザイル切断事件の真相」-石岡繁雄著〔p95〕
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35,90,105,
106,108,234
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26)
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岩稜会 岩稜 67 1987
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資料35.1987年5月『岩稜』p66,67
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42,88
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27)
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岩稜会 岩稜会員に告ぐ 岩稜 259-264 1987
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「岩稜会員に告ぐ」は、ナイロンザイル事件の追及や「穂高の岩場」の作成に倦いた会員の心を引き締め、会を立て直すための書である。ところが湯浅氏は「石岡はこの檄で、暗に前穂高岳遭難原因・問題は2つあると指摘している」と憶測を記載し、まさに我田引水の引用である。
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資料22.1958年7月15日「岩稜会員に告ぐ」岩稜会会長石岡繁雄著
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45,49,51,70
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28)
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アサヒグラフ ナイロンザイル論争果てて 10月4日号 10-11 1959 10-11
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湯浅氏はこの記事で「総括なきため批判を受けた」とし、篠田の「蒲郡実験のごまかし」に対する批判をそらす発言を引用
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資料24.1958年7月27日『アサヒグラフ』「ナイロンザイル論争果てて」
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48
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29)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 53 1977
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「岩稜会員に告ぐ」を出した時、石岡は会長ではなかった、と指摘しているが、当時の会員で「石岡を会長ではない」と思っていたものは一人もいなかった。58ページの誤記
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資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会
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49
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30)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 107-109 1956
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「1955.7.31遺体発見されたが、その間に蒲郡実験の隠蔽があり、脆弱性の究明は困難になった」と、自論展開の伏線を敷いている
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資料18.文献30)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p78,79〕
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52
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31)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 31-41 1956
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「1955.12.24岩稜会総会で蒲郡事件の追及を会の目的にすることになり、登山活動は停滞した」と記載し、石岡の方針を暗に批判している
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資料18.文献31)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p24-32〕
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52
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32)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 51 1977
|
「1955.12.24岩稜会総会で蒲郡事件の追及を会の目的にすることになり、登山活動は停滞した」と記載し、石岡の方針を暗に批判している
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資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会
|
52
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33)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 14 1977
|
|
資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会
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54
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34)
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石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 141-142 2007
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相田武雄は「武男」の誤記。書名は『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』が正しい。出版社名「あるむ」の記載がない
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資料44.2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
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54
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35)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 16-17 1977
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湯浅氏は「結果は大阪地検により不起訴と決定」と記載し、司法の不当な決定に対して何ら批判していない
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資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会
|
54
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36)
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日本山岳会 東海支部報No.110 3-4 2007 東海支部
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湯浅氏は「石原は不本意ながら石岡の意に沿って名大学生部に就職した」と記載し、石岡が石原を無理強いしたとの印象を与えようとしている。しかしNo.110 は石岡繁雄追悼号であり、石原は「石岡さんを偲ぶ」というタイトルで事故後の身の振り方を回顧する内容である
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資料47.2007年8月15日『石岡繁雄氏追悼号』-日本山岳会東海支部報
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55
|
37)
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岩稜会 岩稜 100-101 1987
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湯浅氏は「この間も『君だけ生き残っていい思いをしようとするな』の石岡の言葉がつきまとっていた」と記載し、石岡を貶めようとしているが、事実は不明である
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資料37.1987年5月『岩稜』
p110,111
|
56
|
38)
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岩稜会 穂高の岩場 114-119 1960
|
「穂高の岩場」は、「穂高の岩場2」の誤記
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資料26.1959年7月15日『穂高の岩場2』p104,105
|
57
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39)
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全日本山岳連盟 東海地区山岳連盟 ヒマラヤ委員会 東海支部報 No.110 3-4 2007
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|
資料47.2007年8月15日『石岡繁雄氏追悼号』-日本山岳会東海支部報
|
57
|
40)
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岩稜会 岩稜 105-106 359-361 1987
|
|
資料36.1987年5月『岩稜』p105,106・p359-361
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57
|
41)
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岩稜会 岩稜 334 1987
|
湯浅氏は「日帰り予定の携行品」であると独断で断定している
|
岩稜p334-341〔この資料は3)と同じのため資料共通〕
|
64,41
|
42)
|
石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 139 2007
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湯浅氏は「リーダーが存在しなかったかの如き、誤解を生じさせる可能性のある記載」と独断で指摘
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資料44.文献42)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
|
69
|
43)
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石岡繁雄 ナイロンザイル事件の真相 岩と雪1102 1958
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湯浅氏は「石原はリーダーであった場合の刑事告訴の危険性を意識して『横の関係』を強調した」と独断で記載
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資料21.1958年6月20日『岩と雪Ⅰ』「ナイロンザイル切断事件の真相」-石岡繁雄著〔p102〕
|
70,
96〔文献25の間違い〕
|
44)
|
文部省 高みへのステップ 32 1985
|
湯浅氏は「石岡は『石原國利のリーダーの指示失念』を認識した」と、記載されていないことを推測で記載
|
資料34.1985年7月20日「高みへのステップ」p32-39-文部省
|
78
|
45)
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石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 12 2007
|
湯浅氏は、「本隊到着までに機会を見て東壁を攻撃する計画だった」(92頁)、「石岡から頼まれて、五朗を追加起用した」(90頁)と推測で記載
|
資料44.文献45)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
|
92,101,108,
109
|
46)
|
石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 20 2007
|
湯浅氏は、鈴鹿の難所をこなした話を聞くまでの石岡の五朗評は「中の下」であったことを捉えて、若山の起用を「理解しがたい」と一方的に決めつけている
|
資料44.文献46)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
|
95
|
47)
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石岡繁雄 ザイルに導かれて 27 2005
|
湯浅氏は、石岡の五朗に対する評価の変化を無視して、五朗の技術力を低いと貶めている
|
資料40.2005年5月1日『ザイルに導かれて』「鈴鹿の思い出」p20-30〔入稿時に使用されたコピ-〕
|
95,105
|
48)
|
石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 10-12 2007
|
湯浅氏は「石岡は、登攀隊員に、自分の構想どおりに、若山の追加を求めれば決められる」と推測で記載
|
資料44.文献48)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
|
96
|
49)
|
岩稜会 奥又合宿備忘録 4 1955
|
湯浅氏は「電報受領後石岡は石原兄と電話で話している」とし、「若山の起用をあらかじめ了解していた」と断定している
|
資料4.1955年1月「奥又合宿備忘録」〔p7〕
|
98
|
50)
|
石岡繁雄 ナイロンザイル切断事件の真相 岩と雪1 96 1958
|
湯浅氏は「五朗の名前を聞いても石岡は慌てなかった」「五朗の起用を知っていたから」と自説を記載
|
資料21.1958年6月20日『岩と雪Ⅰ』「ナイロンザイル切断事件の真相」-石岡繁雄著〔p96,97〕
|
99,100,131,
195,
229〔2か所〕
|
51)
|
岩稜会 奥又合宿備忘録 6 1955
|
湯浅氏は「無条件で詫びたのは、石岡自身が五朗の起用を決めたから」と自論を展開
|
資料4.1955年1月「奥又合宿備忘録」〔p7〕
|
99
|
52)
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石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 125 2007
|
湯浅氏は「石岡は石原國利や沢田榮介にも詫びなければならない」と存在不明の「高井の一文」を記載
|
資料44.文献52)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
|
103,
|
53)
|
岩稜会 奥又合宿備忘録 14 1955
|
湯浅氏は「バッカスの注意」とは「五朗起用にともなう諸注意」だったと自らの推測を記載
|
資料4.1955年1月「奥又合宿備忘録」〔p17〕
|
104,140,165,
190,212
|
54)
|
石岡繁雄 屏風岩登攀記 145 2005
|
湯浅氏は「3名は2名に比して約2倍の時間がかかることを承知の上で、五朗を加えたことになる」と指摘し、自論を展開
出版社名「あるむ」の記載がない
145 は148-149の誤記。出版年は2007年が正しい
|
資料46.2007年6月2日『屏風岩登攀記』p148,149
|
107
|
55)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 2 1977
|
湯浅氏は「石岡は…采配を振るって」おり、五朗の起用は「強引であり、軽率であった」と独断で断定
|
資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会
|
108,134,196
|
56)
|
朝日新聞 北ア遭難体験記 1955年1月13日(ナイロン・ザイル事件 関係資料 29-32 1956より引用)
|
湯浅氏は「自分の検討結果と大きく食い違っている」と自論を展開
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資料7.1955年1月13日付朝日新聞記事「北ア遭難体験記 死の喚起と戦う三日」
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109,230
|
57)
|
岩稜会 ナイロン・ザイル事件 42-47 1956
|
湯浅氏は、石岡は「遭難の直近の直接原因、その点のみの究明した」と石岡の真意を理解していない記載(118頁)
文中の「ザイル切断状況に関する研究」は「ザイル切断状況に関する見解」の誤記
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資料18.文献57)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p33-37〕
|
120
|
58)
|
岩稜会 岩稜 337 1987
|
「トップ交代後のザイル操作に関する報告」①~⑫のうちの1つとして、自論を展開するために掲載している
|
岩稜p337〔この資料は3)と同じのため資料共通〕
|
127,166,195,
208,214
|
59)
|
岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 192-202 1956
|
「トップ交代後のザイル操作に関する報告」①~⑫のうちの1つとして、自論を展開するために掲載している
|
資料18.文献59)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p143,144〕
|
128
|
60)
|
岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 117-124 1956
|
「トップ交代後のザイル操作に関する報告」①~⑫のうちの1つとして、自論を展開するために掲載している
|
資料18.文献60)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p86-91〕
|
130,162,166,
195,208
|
61)
|
安川茂雄 『穂高に死す』 「ナイロンザイル事件」前後 243-250 1974
|
湯浅氏は「安川の記録は信憑性が高い」としながら「オーバーハングを避けて右手へ振り子式にやったら」の記載は他にはないとも否定的に指摘(138頁)
|
資料30.1972年1月15日『穂高に死す』-安川茂雄〔p245〕
|
133,210
|
62)
|
石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 23-24 2007
|
湯浅氏は、「そうなんです」は石岡の発言としては非常に歯切れが悪い、と憶測を記載(145頁)
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資料44.文献62)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』〔p23,24〕
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135,
145〔2か所〕
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63)
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石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 57-58 2007
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湯浅氏は、「吊り上げ」があったことは知っていたのに石岡は公表しなかった、と事実無根の事柄を記載(146頁)
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資料44.文献63)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』〔p57,58〕
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136,145,
196
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64)
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登山家 石岡繁雄の一生 新たなる旅立ち
第13話 「暗黒の章」その11『氷壁』の進展と父の苦悩http://www.geocities.jp/shigeoishioka/
new50j.html(最終アクセス2018年9月22日)
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本HPには特筆すべき資料が多数掲載されている。湯浅氏は自論展開に都合のいい部分のみを引用している
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資料54.2018年2月16日石岡繁雄の一生HP<新たなる旅立ち>「第13章 暗黒の章」
その11『氷壁』の進展と父の苦悩
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137
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65)
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石原國利『氷壁』のころ クレマチスの丘で井上靖の魅力を語ろう「井上先生とわたくし」https://shigeoishioka.com/
ishiharakooen.html(最終アクセス2018年9月22日)
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本HPには特筆すべき資料が多数掲載されている。湯浅氏は自論展開に都合のいい部分のみを引用している
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資料41.2006.1.10石岡繁雄の一生HP<過去のペ-ジ>NHK土曜ドラマ『氷壁』と井上靖文学館に関するペ-ジ
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137
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66)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 22 1956
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湯浅氏は「吊り上げ」の場合は「振り子のように落下する」としているが、全く落下の実態を理解していない。いずれの場合も先ずは真下に落ち、岩角で伸びながら切れるが、振り子の状態は衝撃力の大きさで切れるタイミングにより異なる
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資料18.文献66)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p17,18〕
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169
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67)
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石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 274-275 2007
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湯浅氏は「石原の遭難報告は正しい」との結論付けに疑義がある(187頁)、「吊り上げ」は無かったとするには理論の飛躍がある、と自説に固執
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資料44.文献67)2007年1月25日『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
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186
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68)
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金坂一郎 登山綱-強度と確保の問題点 岩と雪28 28-33 1972
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湯浅氏は「物理的性能の限界内で用具を使いこなせない登山者の未熟から起こる」と引用し、欠陥品を利用者の責任にする許せない姿勢である
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資料31.1972年12月1日『岩と雪』28号 登山綱強度と確保の問題点‐金坂一郎〔p33〕
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219
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69)
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岩稜会 ナイロンザイル事件報告書 20 1977
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湯浅氏は「1976年10月16日に、ようやく『山日記』の訂正も行われ解決された」と記載している(222頁)が、篠田の名誉会員指名で振り出しに戻っていることを全く理解していない。岩稜会員として情けない限りだ
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資料33.1977年7月『ナイロンザイル事件報告書』-岩稜会〔p18〕と朝日新聞観覧席「ザイルの強度を明示せよ」
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221
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70)
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石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 371-374 2007
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湯浅氏は「登山用ロープの認定基準」を箇条書きで流しているが、石岡らの血のにじむような努力があって制定されたものである。一時でも手を緩めれば規制をなし崩しにする勢力があることすら湯浅氏は取り上げていない
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資料44.文献70)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
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225
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71)
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岩稜会 奥又合宿備忘録 5 1955
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湯浅氏は「1月4日には遭難の全容を把握し…まだナイロンザイルのことも詳しく分からない段階で」と矛盾した指摘を記載
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資料4.1955年1月「奥又合宿備忘録」〔p8〕
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229
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72)
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石岡繁雄 相田武雄 氷壁・ナイロンザイル事件の真実 93 2007
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「世間を騒がした」と勘当になったと湯浅氏は記述しているが、石岡の実験を見た父が真実を知って勘当を解いたことには触れていない
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資料44.文献72)2007年1月25日『石岡繁雄が語る
氷壁・ナイロンザイル事件の真実』
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229
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73)
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岩稜会 ナイロン・ザイル事件 関係資料 17 1956
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遭難報告書について湯浅氏は「繰り返しにはなるが、登山・登攀行為の総括に繋がるような情報は意図的に省いて…公表した」と自論を展開
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資料18.文献73)浄書版『ナイロン・ザイル事件』〔p14〕
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230
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74)
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登山家 石岡繁雄の一生 新たなる旅立ち
第13話 「暗黒の章」その2 若山家の怒りとナイロンザイル切断の波紋 1月18日付 田中栄蔵氏宛、父の手紙http://www.geocities.jp/shigeoishioka/
new50a.html(最終アクセス2018年9月22日)
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湯浅氏は、「石岡は自身の忸怩たる思いを持っていた」と勝手に決めつけ、「登山家・指導者としての行動モラルは問われる」と石岡を貶め、全人格を否定するような記述を繰り返している。湯浅氏自身のモラルが問われるべきではないか
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資料53.2015年5月8日石岡繁雄の一生HP<新たなる旅立ち>「第13話 暗黒の章」その2:若山家の怒りと、ナイロンザイル切断の波紋
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232
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75)
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福田宏年 山のこころ 30-32 1974
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湯浅氏は「嘘をつかないという紳士協定が守られて登山というスポーツは成立する」と引用し、「遭難の検討も同様である」「蒲郡事件も起こってしまった」と記載している。石岡がまるで嘘をつき、蒲郡事件も起こさせた如くの許されない決めつけである
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資料32.1974年3月20日『山のこころ」-福田宏年〔p30,31〕
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235
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76)
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インタビュー 井上靖研究 17 86-101 2018聞き手 田村嘉勝 記録 宮崎潤一
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湯浅氏は「高井・石原・湯浅の三者会談で認めた3つの遭難原因について語ることはなかった」と妄言を繰り返している
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資料55.2018年7月20日『井上靖研究』 第17号〔石原國利著「井上先生を思い出すこと」〔p86-101〕
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243
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77)
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石岡繁雄 遭難を防止するために 東海山岳197-102 1964
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湯浅氏は「石岡の忸怩たる思い・真意にも、ある程度答えることができた」と自画自賛しているが、理解しがたく、とんでもない思い上がりである
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資料29.1964年10月20日『東海山岳』1号 論説「遭難を防止するために」石岡繁雄-日本山岳会東海支部発行
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245
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