水野高司さん経歴

1947(昭和22)年6月25日 豊田市駒場町で長男として生まれる
1959(昭和34)年 豊田市立駒場小学校卒業
1963(昭和38)年 豊田市立高岡中学校卒業
1968(昭和43)年 国立豊田工業高等専門学校機械工学科卒業
      同年 扶桑動熱工業株式会社入社 (東京都港区に移住)
1986(平成1)年 同社 代表取締役 名豊営業所長 (豊田市に在住)
1991(平成3)年 同社 代表取締役 専務 (ABB株式会社に吸収合併)
1996(平成8)年 ABBインダストリー株式会社 ペナントシステム事業部 副本部長
1999(平成11)年  ABB株式会社 名豊事業所長
2007(平成19)年 同社定年退職
2009(平成21)年 愛知県立岡崎高等技術専門校 造園管理科卒業

 在職中の水野さんは、海外出張が多く、ほとんど家に帰れなかったそうです。
 東京にいらっしゃる頃に、父が水野さんを尋ねて、研究を手伝って欲しいと言ったそうですが、本職が忙しくてとても手伝うことが出来ず、それを長年苦にしていらっしゃり、川角さん(父の本を出してくださった出版社あるむの会長で、豊田高専の同期)の強い勧めもあり、定年退職後一番乗りで、父の遺した資料の整理作業に携わってくださいました。何も出来ない私を支えて、参謀(水野さんは「軍師と呼んで欲しい」と仰っていましたが)と言うか、ブレインとして活躍してくださいました。
 第一回上高地展示以後は、我が会の統括として、会をまとめ、導いてくださいました。


最後に、水野さんとの出会いからの写真を、掻い摘んで掲載します
2005年からの写真は、このHPに掲載されています
出来る限り掲載されていない物を選ぼうとしましたが、重複しているものが沢山あります


1964(昭和39)年11月
鈴鹿山系朝明川原「観楓会」にて

豊田高専山岳部と・教員・その家族の愛知川(鈴鹿山系)渡渉
水野さん17歳、私は中学に入ったばかりでした


1965(昭和40)年3月
名古屋の石岡家にて

山岳部の山行き前、荷造り風景

左端に父、左から、森川さん・水野さん・菅沼さん・ワイシャツの後姿の方は不明です

 

1965(昭和40)年3月
豊田高専山岳部五竜岳登山

左から、小手川さん(鈴鹿高専山岳部)・水谷さん・菅沼さん・高井さん(岩稜会山岳部コ-チ)・渡辺先生・森川さん
後に、水野さん


1965(昭和40)年12月
鹿島槍前山スキ-合宿

山岳部の他に、教員やその家族も参加しました
私たちはスキーロッジに泊まり、
水野さんたちは雪中訓練という事で、テント泊でした
雪まみれのお兄さんたちの姿が、今でも目に浮かびます


1965(昭和40)年12月
鹿島槍前山スキ-場にて

中央に水野さん



前記スキ-の帰りの電車にて

左から、水野さん・私・父


1990(平成2)年8月
鈴鹿山系朝明渓谷
朝明ヒュッテ前の朝明川原にて

左より、森川さん・父・水野さん
豊田高専のOB会に招かれた父と共に

OB会は毎年同じ場所で開かれていました



2004(平成16)年6月2日
母の葬儀にて

父を慰める水野さん



2004(平成16)年8月
石岡高所安全研究所前にて

後列左より、広沢さん・父・森川さん・水野さん
前列左より、広沢さんの奥様・疋田さん・
川角さん・水野さんの奥様・川角さんの奥様

朝明のOB会の帰りに、立寄ってくださいました
この時私は、40年ぶりに水野さんと再開しました

 

2005(平成17)年6月25日
『ザイルに導かれて』出版記念祝賀会にて

前列左より、太田さん・水野さん・父・渡辺先生・森川さん・前田さん
後列左より、川角さん・疋田さん・菅沼さん・
倉橋さん・後藤さん

この日は水野さんのお誕生日でもありました


2006(平成18)年8月15日
父の葬儀にて

受付をされる中央、水野さん
左に前田さん

水野さんは、お通夜の前から来てくださり
葬儀の準備などを手伝ってくださいました


2007(平成19)年5月
釈迦ヶ岳に父母のお骨を散骨

左から、相田さん・水野さん(前に)・
立岡さん(後に)・私・倉橋さん


2007(平成19)年6月2日
石岡家の墓所にて

左より、立岡さん・加藤さん(バッカス会)・
川角さん・中澤さん(岩稜会)・水野さん

「バッカスを偲ぶ会」の各会の幹事の方に
お集まりいただき、幹事会をしました
この日は丁度母の命日に当たり
お墓参りに行きました


2007(平成19)年9月
拙宅の座敷

左、水野さんと藤田さん

父が遺した厖大な資料の整理を
まずは、このお二人が取組んでくださいました
この時から資料整理が始まりました

2007(平成19)年6月
松本行の車中にて

左から、井口さん・森川さん・水野さん

「バッカスを偲ぶ会」に出席されます


この会の各所属の幹事をして
くださった方々の有志が母体となって
作業チ-ムが出来ました


2007(平成19)年11月
石岡高所安全研究所にて

研究所の整理をする藤田さんと私

水野さんは沢山の写真を遺してくださいました。三人でやっていたので、水野さんの写真は一枚もありません


この後、定年退職された菅沼さんと森川さんが作業に来てくださるようになりました


2008(平成20)年4月
神戸城址でお花見

左から、藤田さん・ジャン君(菅沼さんが連れて来られた中国からの留学生)・水野さん・
菅沼さん

研究所鉄塔撤去後の山形オブジェのペンキ塗り作業日でした
お昼休みにちょっとお花見です


2008(平成20)年9月
長野県大町市のお蕎麦屋さんにて

左、水野さんと相田さん

大町山岳博物館に
『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』本を
寄贈しに行きました
その往路でランチです


2009(平成21)年6月
ケルン墓参時に河童端にて

左から、山本さん・立岡さん・森川さん・
私・菅沼さん・水野さん・前田さん

この年、会の名前を正式に決めました
「石岡繁雄の志を伝える会」の発足です


2009(平成21)年12月
伝える会の忘年会

左から、森川さん・藤田さん・菅沼さん・
私・水野さん

この頃は、毎年忘年会をやっていました


2010(平成22)年10月
整理作業時に相田さんを交えて

左より、森川さん・前田さん・私・
菅沼さん・水野さん・相田さん・藤田さん

この写真は、名古屋大学博物館展示の時に
パネルにして展示された物と同じです
和気あいあいと良い感じに撮れていますよね


2011(平成23)年12月
拙宅の剪定作業の夜

左から、加藤さん・稲垣さん(私の大叔父)・
水野さん・佐伯さん

退職後の水野さんは造園学校に入学されて、1年後には庭師さんになられて、その時の仲間(写真のお二人)と造園業を始められました。それ以来毎年拙宅の剪定をしてくださっていました。
この写真はお泊りで剪定に来てくださった時に、親戚で彫刻家の稲垣さんが来てくださった時の物です。手にしている彫刻は、現在久居駅にある等身大の忠犬ハチ公像の縮小版です。この日、お披露目に持って来てくださいました。


2012(平成24)年2月17日
整理作業時に私の誕生会

左より、私・菅沼さん・森川さん
水野さん

丁度、還暦の誕生日でした
皆さんで祝ってくださいました




同日

誕生日祝いのボケの盆栽
今でも庭で花を咲かせてくれます

2013(平成25)年3月
豊田高専正門前の桜

水野さんは桜がお好きで、毎年この桜の写真を
撮りに行かれていました
そして毎年、写真を送ってくださいました


2013(平成25)年12月
名古屋大学博物館展示、解説員席にて

左から、森川さん・私・水野さん

展示期間67日中
水野さんは24日間解説員をしてくださいました
森川さんが11日、私は37日でした


2014(平成26)年5月
上高地河童橋にて

上高地インフォメーションセンタ-での
我が会始めての独自展示を行うため
自然公園財団上高地支部との打ち合わせに
相田さんと三人で出かけました

穂高連峰をバックに
水野さん、カッコイイですね

2014(平成26)年6月
上高地インフォメーションセンタ-2Fにて

展示のためのボ-ドを貼る水野さん


2015(平成27)年8月
石岡高所安全研究所1F作業場にて

左より、立岡さん・森川さん・前田さん・
水野さん

鈴鹿高専祭展示の準備風景です


2015(平成27)年12月
忘年会

左より、前田さん・あけみさん・立岡さん・
森川さん・菅沼さん・水野さん

この年の忘年会は知立で行いました
前田さんが予約してくださった中華料理店です


2016(平成28)年4月
「水野さんを励ます会」大正館にて

前列左より、立岡さん・水野さん・私
後列左より、前田さん・菅沼さん・大正館の女将(私の中学時代の後輩です)・森川さん

3月に水野さんの奥様が、2年間の闘病生活の末肺癌のためお亡くなりになりました
失意の水野さんを励ますため集まりました


2016(平成28)年7月
「松本亮三館長を偲ぶ会」にて

前に、國ちゃんと私
後は、水野さんと立岡さん

2015年9月に急死された、井上靖文学館の館長松本氏を偲ぶ会が三島プラザホテルで行われました
國ちゃんと共に出席させていただき、井上先生の長男修一様と始めてお会いしました


2017(平成29)年4月
自室にて

水野さんと隆平さん

二回目の上高地展示のための
『遭難防止論』と『ナイロン・ザイル事件』の製本会議中


2017(平成29)年11月
菅沼さんのリハビリ病院にお見舞い

菅沼由美さん・菅沼さん・水野さん

菅沼さんが脳腫瘍のため
名大病院に入院されて手術を受けられました
その後、リハビリ病院に転院されました


2018(平成30)年4月
拙宅の座敷にて

文書資料室堀田先生と水野さん

資料の箱を運んでくださるため
来訪してくださった堀田先生と


2018(平成30)年11月
鈴鹿市神戸コミュニティセンタ-2Fにて

「鈴鹿文学祭」で父が斎藤緑雨文化賞を
受賞した時に、突然のご指名で
話される水野さん


2019(令和元)年4月
水野さん自宅にて

水野さんがテレビを撮られた写真


2019(令和元)年12月
拙宅の仏間にて

ケ-ブルネットテレビ鈴鹿の収録風景
「山に志を刻む人」に出演中


2020(令和2)年9月
神戸高校校舎屋上にて

左から、隆平さん・赤嶺和彦先生・
水野さん・私

岩稜会の赤嶺先生の息子さんのお招きで
神戸高校を見学に行きました


2021(令和3)年11月
鈴鹿市神戸コミュニティセンタ-2Fにて

左から、小川はつこさん・隆平さん・私・
水野さん

「鈴鹿文学祭」で小川夫妻が斎藤緑雨文化賞を
受けられました


2022(令和4)年7月4日
刈谷豊田総合病院にて

頸椎の手術を明日に控えた水野さん


2022(令和4)年7月14日
刈谷豊田総合病院にて

腰椎の手術を明日に控えて

2022(令和4)年7月28日
拙宅の自室にて

退院後の記念写真


 水野さんの頸椎と腰椎の手術について記します。
 15年程前に、頸椎の損傷が発見されて、その時に手術を勧められていましたが、ギリギリまで我慢されて、とうとう手足の痺れなどの症状が出て歩行が困難になられ、手術を受けられる事になりました。その時の診察で、腰椎の損傷も明らかになり、続けて2つの手術をされました。
 上の写真は、手術の同意書にサインをしに行った時の物です。前述のように、私がご家族の変わりに出かけました。
 手術は成功して、7月28日に退院されました。退院後は拙宅へ療養下宿されました。療養中も、沢山の仕事をしてくださいました。
 この時の下宿がとてもお気に召して、癌の闘病下宿へとつながりました。


2022(令和4)年8月
刈谷の喫茶店「遇暖」にて

立岡夫妻が拙宅に来られた後
15:30から水野さんは刈総受診だったので
ご一緒に刈谷に行きました
前田さんも合流して、ランチは魚魚丸で
その後、美味しいコ-ヒ-を飲みました


2022(令和4)年11月
拙宅のミニ展示室にて

父の石碑の取材にいらっしゃった伊藤記者に
ミニ展示室も見学していただきました
水野さんは、実験をして
ナイロンザイルの切れ方について
ご説明してくださいました

 最後に

 水野さんとのお付き合いは60年に及びますが、同志としては、父の資料等の整理をはじめてからの16年間となります。長く大変な作業の道のりを、持ち前の明るさと優しさで、支え続けてくださいました。水野さんがいらっしゃらなかったら、石岡繁雄の志を伝える会の仕事は出来なかったでしょう。また、その仕事のみならず、古い石岡宅の修理や庭の手入れまで、皆さんに指示を出して片付けてくださいました。本当にどうお礼を申し上げて良いのか解らないほどお世話になりました。
 水野さんの闘病生活を共にさせていただいたのも、ほんのご恩返しのつもりでいましたが、まだまだ長く頑張っていただけるものと思っていましたので、あまりにもあっけないご最後に、やり残したことが多過ぎて無念でなりません。
 水野さんの想い出ばかりが浮かび、すぐに涙ぐんでしまう私ですが、今後は水野さんの志を受け継いで、文書資料室の目録作成作業の続きを最後までやり遂げなければと思っています。
 水野さんは、真面目で、聡明で、根気強く、几帳面で、その上優しくて、怒っていらっしゃるところを見たことがありません。それにとても辛抱強く、末期でも「痛い」とは言われませんでした。血の気の多い、粗雑な私の手綱を引いて、支え続けてくださいました。そんな水野さんに最大の敬意と感謝を込めて。
 今まで、ご苦労様でした。本当にありがとうございました。
                               2023年12月10日 あづみ記

  
     上の写真をクリックしてください
  「水野さんを偲んで語る会」の様子をご覧いただけます