その9:冊子『ナイロン・ザイル事件』と文豪井上靖先生

昭和31年7月1日~9月30日


 7月 冊子『ナイロン・ザイル事件』の発行
 篠田軍治氏を名誉棄損で告訴すると共に、岩稜会は『ナイロン・ザイル事件』を発行した。
右の資料は、その冊子の表紙である。
 この冊子は、現在名大文書資料室に寄託した右の物と、昭和33年に父から大町山岳博物館に寄贈された1冊、そして、静岡県長泉町にある「井上靖文学館」に父が貸出し、お返しいただいた物(平成24年5月)を、國利氏に差し上げた物、そして父の親友であった木下是雄氏が所有していらっしゃり、没後古書としてネット通販に出され、九州登山研修センタ-が購入された(平成29年2月)4冊のみが現存している。九州登山研修センタ-にある冊子は、とても状態が良かった。
 國利氏が所有されていた冊子は、発行後ある山岳会から、この冊子を「どうしても貸して欲しい」と頼まれてお貸ししたが、とうとう帰って来なかった。それでコピ-した物しかお持ちでなく、とても残念がってみえたので、持っていられるのに一番ふさわしいと思われる國利氏に差し上げた。
 この冊子の内の1冊は、父のスクラップブックに必要な箇所を切り取って張り付けてあった。その貼られている最初の部分に、父は以下の事を書いていた。


 ついに我々は、篠田軍治氏を疑惑解消の日まで追求することを天下に宣言した。
 この日から、我々は身をもってこの難題にぶつかることになったのである。同時に我々は、その理由を明らかにする印刷物『ナイロン・ザイル事件』(300頁)150部を作成、報道関係、評論家、著名登山家に送付した。我々はこの事件によって、新しい実に多くの友を得た。しかし一部の親しい友は、この事件の板ばさみとなって、心ならずも我々から離れていったのである。

 この冊子(父は当初、印刷物と言っている)は、最初に「宣言」が記されており、その後に事件の詳細が74頁に渡って記され、「関係資料」として212頁が掲載された、膨大な冊子である。
 8月になって印刷所から仕上がって来た冊子は、岩稜会が生まれた神戸高校(旧制神戸中学)の図書室を借りて、冊子1冊1冊に写真を張ったり、訂正ヵ所を張り付けて直したりの作業が行われ、発送作業も行われた。以下がその時の写真である。
その写真が貼られていたスクラップブックに父は以下のように書いていた。

 「ナイロン・ザイル事件」発送風景(鈴鹿市神戸高校図書館にて)
 写真を添付したり、誤字を訂正したり。これを受け取った人の驚く顔を目に浮かべつつ…

手前に積み上げられた『ナイロン・ザイル事件』





切り貼りをしているところ





 次に、冒頭の「宣言」文を転記する。

 宣言
 日本山岳会関西支部長・大阪大学教授・篠田軍治博士は、昭和30年4月29日愛知県蒲郡市東京製綱株式会社社内において、新聞記者、登山家等多数の面前で、昭和30年1月2日北アルプス前穂高岳で発生した登山者墜死事件の原因究明に関する公開発表されたが、同発表において篠田教授は、
 1.その立場上、登山者の危険防止を充分考えられなくてはならないのに、ナイロンザイルの重大な欠点を熟知しておられながら、その欠点が全くないという錯覚をおこさせる発表を行われた。
 2.死因並びに遭難状況発表に関し、遭難報告者石原國利にかけられている重大な醜行容疑が無実であることを承知しておられながら、観衆に、その容疑が事実であると錯覚をおこさせるような発表を行われた。(石原の名誉毀損罪による告訴)
 我々は右を確信する。かかる疑惑がそのまま放置されるときは、今後、生命尊重、人権擁護の精神が侵されることになると信ずるので、疑惑解消の日まで追求する。
  昭和31年7月1日 三重県鈴鹿市 岩稜会

 前記しましたように『ナイロン・ザイル事件』は、最重要資料ですし劣化が激しいため、以前から活字化製本を考えて参りましが、2017年7月から行われた上高地展示に使用するためもあり「石岡繁雄の志を伝える会」の会員小川隆平氏が解読デ-タ化してくださいました。デ-タ化した原稿は、読みやすくするために横書きとして、凡例を付けた上、何度も読合せ、校正の後、製本致しました。製本しました冊数は、30冊で10冊は謹呈本、10冊は國利氏が購入してくださり、残りを会員が購入しました。1冊2300円で出来ました。もっと沢山作れば安くついたのですが、財力がなく残念に思っています。
 上高地展で展示しましたところ「是非欲しい」と言う方々がいらっしゃいましたので、冊数か揃いましたら再販しようと思っています。ご購入をご希望の方がいらっしゃいましたら、ゲストブックからご連絡いただけましたら実費でお分けいたします。尚、同時に父の遺稿になります『遭難防止論』も活字化製本致しました。こちらもご希望の方にはお分け致しますので、ご連絡頂けましたら幸いです。ゲストブックのアドレスはhttp://9313.teacup.com/bacchus/bbsです。


 7月3日付 父宛 石原國利氏からの葉書
 以下、解読清書する。


 在名中はいろいろと厄介になりました。パンフレットのこと、途中汽車の中でも考えてみたのですが、例えば山日記の項の終わりに出て来る「メ-カ-の番犬」云々という表現は、せめて「業者の肩を持つ」程度にしたら如何でしょう。印刷となると後に残るものですから、あまり過激な言葉使いは避けた方がよいと考えています。もちろん、言葉使いは穏やかでも論理の構成はいくら厳しくしても構わない訳ですから、先方としてもその方が痛いのではないでしょうか。こちらが例え表現だけにしろ感情的になれば、それだけ先方に一つ逃げ道を与えるようなものですから、あくまでも冷静な表現で相手をギャフンと言わせたいと思っています。
 それから、もうご存知かも知れませんが、山と渓谷今月号の巻末に、来月号予告中「岩登りにおけるザイルの破断 加藤富雄」が出ています。参考までにお知らせ致します。
 それから、私の北穂行きは、試験が10日に決まりましたので断ろうと考えています。
 当分は、又読み合せなど手伝いが出来ると思います。
 では、家の皆様に宜しくお伝え下さい。

 まだ年若い國利氏の冷静な判断には、ビックリさせられる。一回りも年上の父は、このように、まわりの方々から抑えられながら、感情の抑制をはかったようである。
 文中のパンフレットとは、冊子『ナイロン・ザイル事件』のことである。冊子の発行日は7月1日と記されているが、この時はまだ発行されていなかった。実際に完成したのは、8月21日頃である。



 7月8日 父宛 石原國利氏からの速達葉書
 以下、解読清書する。


 たまたま入った本屋で、実に恐るべき文章を見つけましたのでご紹介致します。
 ベ-スボ-ルマガジン・登山とスキ-8月号、座談会ヒマラヤよもやま話(出席者 東島敏夫。船田三郎、吉沢一郎、司会 小島六郎)33頁「日本登山界の底辺」の項。吉沢「それはね。ナイロンのザイルが出て来るとすぐ飛びついて、鋭角の岩の角じゃ切れると言う事を知らないで使って落っこちたりね。そういう猿真似かなんか知らないけど、底になるものにちゃんとしたものがないということでしょう。やっぱり勉強が足りないと言うところへ落ち着くんだな。」篠田氏の山日記といい、吉沢氏のこの言葉といい、こういう思想が日本山岳会の中核を支配しているとすれば、恐るべきです。世は正に暗黒です。パンフレットの資料として間に合わなかったのは残念ですが、これはこれで徹底的に糾明する必要があると思います。これを突っ込んでゆけば、篠田氏の「当初から…」という言葉が実に恐るべき意味を持つものであったということになりかねないと思います。怒りに震えながらこの手紙を書きました。
 乱筆お許しください。

 冷静なはずの石原氏が、憤慨をあらわにした文章である。

 文中の『ベ-スボ-ルマガジン』の該当箇所は以下である。


 葉書の文中に「パンフレットの資料として間に合わなかったのは残念」とあるが、『ナイロン・ザイル事件』の関係資料「資料番号97」に掲載されている。
 
 月日不明 「五朗叔父の碑」原図 若山繁二(父方の祖父)著
 


 この碑は、祖父の悲願であった。
 五朗叔父がナイロンザイルの犠牲になったとして、「殉国者」と記している。
 しかし、五朗叔父のケルンのある場所は、中部山岳国立公園であり私物の建設は許されていない。祖父は、大掛かりな工事による碑を望んだが、受け入れられなかった。
この後、祖父が亡くなった時、碑の建設費用を残した。父を含めて若山家の兄弟は、ことあるごとに碑の建設を図ったが、いずれも受け入れられていない。理由は、当然国有地であることと、中部山岳地帯で起こる度重なる遭難のため、その都度ケルンや墓碑を建てる方が続出し、その規模も大きくなり、山が墓場と化すことを環境省が恐れたためである。現在もケルンも含めたそれらの碑を作ることは厳重に禁止されている。ただし、古く作られたものについては、今のところ取り壊されることはないと聞いている。
 五朗叔父のケルンには、小さな銅板がはめ込まれ「若山五朗君」とだけ記されている。62年経った現在も、その銅板は健在である。
 前穂高岳東壁で遭難した時のザイルパ-トナ-の一人澤田榮介氏は、昭和32年に厚生省大臣官房国立公園部に入省し、中部山岳国立公園上高地地区の駐在管理員(現在の環境省自然保護官<レンジャ->)となられたが、五朗叔父や山仲間の遭難死を憂えて、昭和37年、上高地バスタ-ミナル近くに、山岳遭難者慰霊碑「山に祈る塔」の建設に尽力されて、ついに建設をみた。
しかし、父たち若山の兄弟は、亡父の遺言を全うするために、「山に祈る塔」建設後も、五朗叔父の碑を作るための努力を続けた。


 7月13日付 父宛 石原國利氏からの葉書

 石碑用のセメント1俵、本日西糸屋教ちゃんに松本から揚げてもらうよう頼みました。従って神戸からわざわざ持って来る必要はなくなりました。ついでの時に社長にこの旨伝えていただけないでしょうか。用意して来ると困ると思いますので。
 上高地は昨日からウェストン祭とかで、相当の人出です。では、又。

 文中「西糸屋教ちゃん」とは、現在の上高地西糸屋山荘の二代目当主奥原教永氏のことである。氏は岩稜会員でもあった。前章にも記したが、西糸屋と父のつながりは古く、八高山岳部時代から一代目を「おじさん、おばさん」と呼びお世話になった。
 
 7月 各位宛 「故若山五朗君追悼碑建立のお知らせ」 岩稜会
 
  故若山五朗君追悼碑建立のお知らせ
 早いもので五朗君遺体発見以来、一周年も間近となって参りました。
ご遺族はもちろん、関係者各位におかせられましても、悲しみの中にも一抹の安堵を得た当時の模様を思い起こされ、感慨無量の御事とご推察申し上げます。
 さてこの度、念願の追悼碑建立を別紙計画に基づき実施いたし、来る8月3日午前9時より現地に於いて除幕及び遺体発見一周年追悼式を挙行するはこびとあいなりました。
 ご遺族及び関係者御一同には是非ともご来側賜わり、遥かに前穂東壁を望みながら、今は亡き五朗君を偲び、共に心からその冥福をお祈りしたいと存じます。
  まずは右、簡単ながらお知らせまで。  岩稜会
   昭和31年7月 日
各位

 この文章に続き、奥又白谷のケルンの場所の地図、そして碑の図、追悼碑建立計画表が閉じられたお知らせである。

 右の資料をクリックしてください。全文ご覧いただけます。
 
 日付不明 「夏山計画」 岩稜会

 この資料は、7月初めには出されたものと思われるが、五朗叔父の碑と関連するので、ここに掲載する。
 岩稜会は、第一義にナイロンザイル事件の追求を掲げたが、昭和29年に引き受けた『穂高の岩場』解説書の製作にも力を入れなければならなかった。この年の夏山合宿は、穂高の岩場を次々と登って、岩場のル-トの写真を撮ることを主眼とした。
 そして、前期のように8月1日,2日とは全員で追悼碑建立作業にあたり、3日には一周年追悼式に参列した。
 右の資料をクリックしていただけば全文お読みいただけるが、その中には共同装備や食料等の細かな数量なども記されている。

 7月21日 父宛 伊藤経男氏からの葉書
 以下、解読清書する。

 昨日は突然おじゃまいたしましてすみませんでした。本日、今井(岩稜会員)にネガを渡し番号を合わせていたのですが
(No.4 復原石膏にザイルをかけ真横から見たところ)のネガが(N0.6 巨木による実験に使用した岩角にザイルをかたけところ)のネガと同一の岩のように思われるので、ちょっとお調べください。(図右参照)
ネガは上図の如くでよく似ているように思う。ゆえにNo.4は別にあるのではないか。
 尚、第二テラスの写真(市大の分)はこちらで四切に数枚引き伸ばしてあるので、バッカス宅にか見越(若山宅)の方にネガがあるのではないでしょうか。 以上
◎部隊長(石原一郎氏)まだ来ません。
 至急お返事願います。

 この葉書で判るように、『ナイロン・ザイル事件』の校正をまだやっている。
 7月 日本山岳会会報 187号,189号(11月発行) 「ナイロンロ-プの摩擦試験」金坂一郎氏著
 
       187号掲載                    189号掲載の続編





















 父は5冊あるナイロンザイル事件スクラップブックのNo.1に、この記事を2記事一緒に貼っていた。
その下に書かれていた文は以下である。

 
篠田氏が三角ヤスリの実験を東洋レ-ヨンで行ったということは、権威ある日本山岳会の会報によって確認された。

 また、187号の該当頁には、<その4:ナイロンザイル事件の勃発>の毎日グラフの記事のところに載せたメモが付けられていた。

 上の資料をクリックしてくださると全文お読みいただけます。

 8月3日 遺体発見一周年追悼式

 7月28日から奥又白に入った岩稜会の一行は、ベ-スキャンプを奥又白出合いに設営して、29日、予定していた追悼碑を取り付けるための奥又白本谷上部、またはB沢下部の前穂東壁を望む地点の岩盤上の候補地を選定する予定であったが、断念している。理由は定かでない。

 一周年追悼式の写真が遺されているので、掲載する。

追悼式の準備の終わったケルン


ケルンの下に集まられた人々


祖母照尾の読経の流れる中、焼香

  
  
  
 
祖父繁二が皆様にお礼の言葉を述べる


 8月21日 『ナイロン・ザイル事件』の送付状

 やっと『ナイロン・ザイル事件』が出来上がり、この頁の最初に書いたように各方面に送られた。
 その日の日付で、送付礼状が届いているところを見ると、日付の2~3日前に送られたようだ。
 礼状の一部は、20日付:岩稜会大田年春、21日付:若山富夫、24日付:藤木九三・小松英夫・小松国夫・ラジオ三重、25日付:松方三郎・岩稜会本田善郎・今西錦司、27日付:東洋レ-ヨン・田中栄蔵・大高俊直、28日付:金坂一郎、9月3日付:篠田軍治、9月20日付:新保正樹、の各氏の葉書又は手紙が遺されていた。
 感想が書かれた物の中で、岩稜会や親族以外の方で賛否両論の極端な2通の手紙を紹介することにしよう。


-美津濃株式会社技術研究所 新保正樹氏の手紙-

 <前略>
 全巻を通読させていただきました。
 率直に申しあげますと、亡くなられた方の写真や、或いは各人との往復書簡など、お載せにならなかったほうが良いと思います。また載せにれるとしても、本人の承諾も必要と思います。
 その他の点については、繰り返し拝見しましたが、論旨一貫したものがなく誠に残念です。
 中日の予定原稿のこと、どの程度にご存知か分かりませんが、余りに渦の中ばかり見て大きな局面を見ず、感情のはけ口を篠田先生への告訴に見出されたとしか結論出来ません。従って不当な非難を浴びられた篠田先生がご迷惑の極みとしか申せません。
 私共は今後、今の線で動きたいと思います。と同時に、この様な問題で他の人を告訴する方々の良識を疑問に思います。
 大変失礼ですが、率直に申し上げます。
 渦から離れて良い御解決を祈ります。
 くれぐれも山岳会の物笑いになられぬ様、御自重、良識ある御解決をひとえにお祈り申し上げます。
 言葉に衣きせぬ露骨さお許しの程を。
  9月20日 新保正樹
伊藤経男様

-日本山岳会理事 金坂一郎氏の手紙-

 拝復、『ナイロン・ザイル事件』お送りいただきありがとう存じます。
 一通り拝見しただけですが、一つの問題をこれだけ周到に御研究された努力に対して深く敬意を表します。ナイロンの技術的文献として見ただけでも貴重なものと存じます。いろいろな面で啓発されるところが多々ありました。
 御発行の趣旨のようなことは小生としては初めて耳にしたことですが、現在ナイロンの弱点が再び無視されようとしている事実は、覆うべくもなく、この件がナイロンへの正しい認識へのきっかけとなってくれたら、それだけでも大きな仕事だろうと存じます。しかし不幸な事故の結末が行きついた所がこんな次第では、何とも残念なことでありましょう。
 御著を拝見して気の付いたことを書いてみます。拝見したばかりで考えもまとまっておりませんから、漫然と書きます。また申し上げるところは率直に申し上げますから悪しからず、遭難当事者に対して鞭打つように取られるかも知れませんが、小生の意味するところは、登山界全般の風潮から必然的に生じた遭難であって、当事者が偶然にその所に出会ったのだと考えております。もちろん済んでしまったことですから、後から言う者はいくらでも勝手なことが言える訳で、そのつもりで気楽にお読み流し願います。(父が書いた注:以下制動確保についての御意見原稿用紙4枚) <4枚分略>
 以上勝手なことを書きましたが、こんな見方をする者もいるというご参考までに。
 御健闘を祈ります。
 8月28日 金坂一郎
石岡繁雄様

 最も的を得た葉書を紹介する。

-京都大学名誉教授 1973-1977年日本山岳会会長 今西錦司氏-

 前略
 「ナイロン・ザイル事件」一部御送りいただきありがとう存じました。資本主義と民主主義が対立し、その間にはさまれた気の弱い大学教授がついに告訴されるに至ったというように受け取りました。これを一岩稜会の問題とせずに、全岳界が取り上げるようにならねばいけないのでしょうが、まだそこまで岳界一般が成長していないことを過状(詫び状)とします。

 当事者、篠田軍治からの葉書も届いている。

 拝啓
 「ナイロン・ザイル事件」一部、御送りくだされ有難う存じます。
 先は右御礼まで。

 9月下旬 長越茂雄氏に送った『ナイロン・ザイル事件』が文豪井上靖氏の手に渡る。

 いよいよ!井上氏の登場である。
 長越氏は登山家であり山岳小説家(ペンネームを安川茂雄)であった。父とは1949年(昭和24年)頃からのお付合いで(このHPの<青龍の章2>をご参照願いたい)あったので、『ナイロン・ザイル事件』をお送りした。長越氏はこの冊子をご覧になり「これは小説になる」と直感されたが「自分の手には負えない」と思われて、井上氏の所へ届けられた。
 昨年(2016年)7月23日、井上氏の長女浦城幾代さんの著書『父 井上靖と私』の出版祝賀会に出席させていただいたことは、このHPの「新着情報」に記させていただいたが、その時に初めてお目にかかった井上氏の長男井上修一氏に、後日、2016年7月30日山と渓谷社発行の『穂高の月』と言うヤマケイ文庫を送っていただいた。この本は、1963年(昭和48年)5月新潮社発行の『井上靖小説全集 24 穂高の月』のリメイク版であるが、新たなエッセイが多数入っていた。全集にも収められていた「氷壁」というエッセイに、小説『氷壁』を書くに至った経緯がしたためられているので、一部転記する。



氷壁
<前略> 朝日新聞に連載小説を書くことが決まったのは31年の春であったが、いかなる内容の小説を書くかということは、いよいよ新聞紙上に予告が載るというぎりぎりまで決まらなかった。
『氷壁』は二人の若い登山家の山における遭難死を取り扱ったものであるが、私は新聞の連載小説を引き受けた時は、山を舞台にした小説を書こうなどとは夢にも思っていなかった。
『氷壁』を書き出す前々月の9月下旬に、私は初めて穂高に登った。それまで登山の経験はなかった。一度尾瀬に行ったことはあったが、もちろん登山とは言えないリクリエ-ション的な山旅であるに過ぎなかった。
 それが、どうしたものか、親しいジャ-ナリストたちといっしょに穂高に月見に行ってみようという話になり、初めて山と名の付くところへ出かけて行くことになったのである。<中略>
 この穂高行きから10日程して、私は穂高行きの仲間の一人であった安川茂雄氏から「ナイロン・ザイル事件」(原文では「ナイロン・ザイル事件報告書」となっていた)というパンフレットを送られた。筆者は石岡繁雄氏で、穂高で遭難した弟さんがナイロン・ザイルを使っていたので、その事故の原因はナイロン・ザイルが切れたことにあるに違いないという訴えであり、遭難者の兄としての切々の情を綴ったものであった。これを読んだ時、いきなりこれを小説の形で取扱ってみたいという衝動を覚えた。ふいに、ただ一回しか登ったことのない穂高が、私の前にたちはだかって来た。梓川も書きたかった。トウビ、シラビ、ブナ、マカンバ、カツラ等の樹林地帯も書きたかった。
 それから「ナイロン・ザイル事件」に関係した若い登山家の石原國利氏やその友人たちに会ってみた。すると、今度は若い登山家たちの醸し出す純一な雰囲気にあてられてしまった。
 かくして、私は何の自信もなかったが、新しく書く小説の題に「氷壁」という二字を選んだ。<後略>


 井上氏は『穂高の月』で何度も穂高に登った時のことを書かれている。その中に「風の奥又白」というエッセイがある(1978年2月『小説現代』で発表)。その文は、安川茂雄氏の追悼文(1977年10月23日逝去)のような感じであるが、その冒頭に…
 登山家として知られていた安川茂雄君が亡くなった。安川君と私の付合いは「氷壁」以来であるからずいぶん長い。「氷壁」という小説の題名を選んでくれたのも安川君である。
と、書かれている。
 また、同書の最後に掲載されている1977年1月14日日本経済新聞「私の履歴書」には、こう書かれている。

 私は登山家ではないので、雪の穂高で起こった事件について、いかなる判断もくだすことはできなかった。小説に取扱うにしても、第三者として事件を客観的に書く以外に仕方ないと思った。
 しかし、この私の考えを完全にくつがえしたのは、安川茂雄氏の紹介で、事件の渦中の人物である若い石原國利氏に会い、その人柄に打たれたことであった。
 「でも、実際に切れたんですからね」
 という短い言葉を繰り返しているだけの青年の眼には、いささかの濁りもなかった。私は氏の言うように、ザイルは切れたのに違いないと思った。作家としては、この眼を信ずる他はなかった。
 この「私の履歴書」はその年度になってから全文載せさせていただきたいと思う。
 同書に掲載されている井上修一氏の「父の趣味」の中から、『氷壁』を執筆した当時の井上氏と岩稜会の関係が分かる部分のみを引用する。

 『氷壁』(昭和31年~32年にかけて朝日新聞に連載)の方は、大勢の岳人たちから全面的な協力を仰いでできた作品である。作品構想の発端となった「ナイロンザイル切断事件」の存在を教えてくれたのが、当時三笠書房の編集長をしていた山岳小説家、登山家の長越(安川)茂雄氏である。そして執筆中に穂高に連れて行き山の登り方や歩き方、道具の使い方を教えるだけでなく、執筆に必要なあらゆる相談に乗り、文章の一行一行を確認してくれたのが三重県立神戸中学校山岳部を母体にしてできた鈴鹿市の山岳会「岩稜会」の皆様をはじめとする日本を代表する登山家、石岡繁雄、伊藤経男、石原國利、上岡謙一、瓜生卓造などの諸氏である。
 また、前記した浦城幾代氏の『父 井上靖と私』の「穂高に登る『氷壁』」の中にも、面白い記述があるので、紹介する。
<前略>
 長越氏は石岡氏に「非常に興味深く読んだ。あれをもとにして小説を書けると思うが、自分には力及ばず、懇意にしている作家の井上靖氏にお渡しした。すると『きわめて興味深い。直接関わっている石岡氏と石原國利氏にお会いしたい』と井上さんから電話があった。会ってくれますか」と伝えた。そこで石岡氏は「品川区大井滝王子町に住んでいた井上さんの家に長越氏と一緒に伺った。熱心に話を聞かれてから『社会的にも重要な事件なので小説にして側面から援助したい。ただロマンスがないので、こちらで付け加えてもよろしいか』と聞かれ、承諾した」と当時を振り返って書いておられる。
 石原氏は、石岡氏の弟でザイルが切れて亡くなった当時18歳(19歳)の若山五朗氏とザイルで繋がっていたが生き残った人である。東京の大学生であった石原氏や彼の属する岩稜会のメンバ-は、その後何度も滝王子の家へ来られていた。「井上先生から『自分は山のことは全く分かりません。すべて教えてください」と言われ、経験したこと全てありのままお伝えした。それを先生は大学ノ-トに丹念に筆記して、その後読み上げ、これで間違いありませんかと確認された。夜遅くなった時はハイヤ-で何度も送っていただいた。年若い自分に対しても、石原さん、石原さんと言ってくださった」と後日当時を思い出しながら、講演会で話されているのを聞いたことがある。<後略> 

 このようにして『氷壁』は生まれたのである。
 かくして朝日新聞の連載が始まったのは、この年の11月24日であり、翌年の8月22日まで続いた。
 
 追記:國利氏によって書かれた井上氏の思い出は、このHPの「過去のペ-ジ」の國利氏講演会の模様を伝えた頁「井上先生とわたくし」に掲載されています。「」内の文字列をクリックしてください。その頁がご覧いただけます。

 
 8月24日 篠田軍治を名誉棄損で告訴したことにより、名古屋地方検察庁から、以下の物が押収された。
 日付は前後するが、冊子『ナイロン・ザイル事件』関係の資料をまとめたため、ここに掲載する。

   
以下の写真をクリックしてください
<その10:告訴の波紋と二人の祖父の死>へご案内いたします…



2017年11月14日記