2018年6月~篠田軍治氏の名誉会員取消しの日まで

「公益社団法人日本山岳会に対して、篠田軍治氏の名誉会員取消しを求める」
活動について



今年も残すところあとわずかとなり、クリスマスツリ-の揺れる街角に
サンタクロ-スを待ちわびる子どもたちが跳ねています。
2018年ももうすぐ終わって、新しい年がやって来ます。
来年6月には平成時代から新しい日本の年号に代わりますね。
天皇陛下が崩御されることなく始まる新しい年号です。
この平成時代の最後に、表題の問題を是非とも解決したいと
「石岡繁雄の志を伝える会」は動き始めました。
以下に事の順を追って、ご説明させていただきます。


 今年も恒例のケルン墓参に出かけました。その時の様子は「一周忌後のケルン墓参」の頁に掲載しましたが、6月2日に西糸屋山荘で、偶然國ちゃんの友人の芳賀孝郎さまとお会いしました。その時、会員の相田武男さんが、日本山岳会にとって唯一の汚点と言える「篠田軍治氏の名誉会員問題」のことが記された日本山岳会会報『山』550号についてお話され、お時間の無かった芳賀さまに詳しい内容を書いて送られることになりました。
(写真は西糸屋山荘で話される右より、芳賀孝郎さま・
相田武男さん・國ちゃんこと石原國利さん)

 
 上高地から帰って、相田さんは直ぐに執筆にかかられ、第一稿が送られて来たのは7月23日のことでした。
 私は、この際國ちゃんと父の悲願であった名誉会員問題を何とか解決したいと思い、伝える会統括の水野さんともご相談の上、相田さんのお原稿を短く読み易くまとめた物を、小川ご夫妻の協力も得て作り、それに名誉会員問題をまとめた趣意書を作成して冊子としました。この冊子は、國ちゃんと、日本山岳会元会長で自ら「ナイロンザイル事件の語り部」を称される尾上昇さんに見ていただき、校閲を受けて冊子の印刷が出来て来たのは9月6日のことでした。
 以下に、その冊子を掲載いたします。是非!お読みください。


 

公益社団法人日本山岳会に対し

「篠田軍治氏の日本山岳会名誉会員取消し」を求める趣意書

 

20188月 

石岡繁雄の志を伝える会

 「石岡繁雄の志を伝える会」は、故石岡繁雄(19182006年)の生誕100年を迎えた今年、石岡の悲願であった篠田軍治氏(元日本山岳会関西支部長)の日本山岳会名誉会員取消しを求める運動を開始することにいたしました。    19554月、東京製綱蒲郡工場においてナイロンザイルの岩角欠陥に関する公開実験が行われました。大阪大学工学部教授だった篠田氏は、その際に使用された岩角にあらかじめ細工をし、本当なら切れるはずのナイロンザイルが鋭い岩角でも強いように見せかけたのです。そのために、多くの登山関係・報道関係者に誤解を与えることになりました。
 ナイロンザイルの販売元である東京製綱は、ナイロン製品全般への悪影響を懸念し、販売低下を招かないようにするために、ザイルには欠陥が無く、全てにおいて優れていると思わせる実験だったのです。その結果、ナイロンザイルを信じて使用した20余名の若き登山者の命が奪われることになりました。篠田氏は著名な学者と山岳界の重鎮の立場を利用して恐るべき実験をした御用学者だったと言えます。
 このような犯罪まがいの行為を行った篠田氏を、日本山岳会は198911月、名誉会員としました。
 篠田氏の名誉会員取消しについては、石岡をはじめ心ある日本山岳会会員や一般の方々から取消しを求める要請が何度もされましたが、今なお篠田氏は名誉会員のまま据え置かれています。
 私たちがなぜ篠田氏の名誉会員取消しを強く要望するのかを、皆様にご理解いただくために、年代を追ってナイロンザイル事件と日本山岳会名誉会員問題の主な経過を箇条書きにして以下に記します。

(1)ナイロンザイル切断事故とナイロンザイル事件の経過

1955.01.02

前穂高岳東壁冬期初登攀中の岩稜会の3人パーティでトップを登っていた若山五朗が、岩角にかけたナイロンザイルが切断したため墜落、そのまま行方不明となった。この事故を挟んだわずか1週間の間に、穂高近辺で合計3本のナイロンザイルが切れて、ナイロンザイルの性能や
その取扱い方が問題となる。

1955.02.09

日本山岳会関西支部でザイルの検討会が開かれ、議長の日本山岳会関西支部長篠田軍治氏が、「登山者の命を守るため、ナイロンザイルの研究には自分があたる」と発言。

※ この間に、石岡等は自前の実験装置などでナイロンザイルの岩角欠陥を突き止めており、その結果を篠田氏に伝え、篠田氏も理解を示していた。そのため石岡は、下記公開実験当日は安心して前穂高へ五朗の遺体捜索に出かけた。

1955.04.29

東京製綱蒲郡工場でナイロンザイルの性能に関する公開実験が、報道関係者や登山関係者などを集めて、東京製綱作製の立派な実験装置によって、篠田軍治氏指揮の下で行われる。

※ しかしその結果は、石岡等の予想していたものとは真逆で、鋭い岩角でもナイロンザイルは麻ザイルの数倍強いというものであり、大々的に報道された。これは、冒頭にも述べた通り、実験に使用された岩角に、メーカーが自社製品を守るために篠田に依頼して故意に丸みがつけられていたためであった。この偽りの実験によって、「ナイロンザイル切断事故(・・)」は、「ナイロンザイル事件(・・)」となった。

※ 若山五朗墜落時にナイロンザイルを握り確保していた石原國利は、「ザイルを切ったのではないか」「ザイルの結び目が解けたのを、ナイロンザイルのせいにしているのではないか」「ビバーク中に、ザイルをアイゼンで踏んで傷つけたのではないか」などの誹謗を受け犯罪者扱いされた。また、ザイルの岩角欠陥を主張した若山の兄で岩稜会会長だった石岡繁雄は、虚偽の発言をしたとして社会から理不尽な仕打ちを受けた。

1955.07.31

若山の遺体がB沢上部で発見され、遺体にはしっかりとナイロンザイルが結ばれていて、その切り口は故意に切られたものではないことが判明した。

1955.08.06

岩稜会は前穂高東壁の遭難現場で、ナイロンザイルが切れた鋭角の岩角を発見。石膏で型を取り、持ち帰った。

1956.01

日本山岳会出版の『山日記』に篠田軍治が偽りの公開実験のデータを発表。

1956.06.22

石原國利が、虚偽の実験の指揮をした篠田軍治氏を名誉毀損で告訴。

1956.07

岩稜会は、ナイロンザイル切断事故から事件へと移行する際の詳細と、その後の篠田氏の対応などを記した冊子『ナイロン・ザイル事件』を発行し、報道・山岳関係に送付。

1956.11.24

井上靖氏は『ナイロン・ザイル事件』を読み、これを素材とした『氷壁』を朝日新聞朝刊に連載開始。『氷壁』は大ヒットして、登山ブームが巻き起こった。

1957.07.23

篠田軍治氏への名誉毀損の告訴が不起訴処分となる。

※ 原告側の証言は真剣に聴取されることなく、担当検事は訴状をなぞるだけで、この事件が有する欺瞞と登山者に及ぼす危険性を追求する姿勢が全く感じられなかった。

1958.02.22

石岡等は法廷闘争をあきらめて、篠田軍治氏に公開質問状を送付。

1958.10.16

犯した事実を突きつけられても無視し続ける篠田軍治氏に、改めて公開状を送付。

1958.10.22

報道機関から釈明を求められた篠田軍治氏は、NHKラジオで「私の実験は、飛行機や船舶に使うロープの実験の一つとして行ったもので、岩稜会の事故の原因を調べるために行ったものでないから、岩稜会の人々の非難は当たらない」と発言。

1958.11.07

篠田軍治氏に再度公開質問状を送付。前記篠田氏の発言について質問。

1958.12.22

沈黙を続ける篠田軍治氏に、救いの手を差し伸べる形で、石岡等は陳謝請求告知書を送付。

1959.06.20

それでも無視し続ける篠田軍治氏に再び陳謝請求告知書を送付。

1959.08.31

岩稜会『ナイロンザイル事件に終止符をうつにさいしての声明』を発表。ナイロンザイルの岩角欠陥が広まったとして、一応ナイロンザイル事件に終止符を打つ。

※ その後もナイロンザイルは切れ続け、登山者の生命を奪った。危機感を募らせた石岡等は再び立ち上がった。

1973.03.11

鈴鹿高専に於いて「ナイロンザイルの性能に関する公開実験」が石岡の指揮の元、三重県山岳連盟主催で行われる。

※ 見学者や報道機関は、スパスパ切れるナイロンザイルに唖然とした。この実験により、世間のナイロンザイルに対する見方は一変し、国をも動かすことになる。

1973.06.06

「消費生活用製品安全法」が制定され、特定製品として登山用ロ-プが指定されて調査研究開始。

1973.11.08

石岡は通商産業省製品安全協会の登山用ザイル安全基準調査研究委員となる。(1991年まで)

   篠田は石岡の委員就任を阻止しようと画策を図るが、政府・山岳界からは支持されず、石岡委員会の主要メンバーとなる。

1975.06.05

登山用ロープ安全認定基準、官報で交付。ナイロンザイルの弱点が国で認められる。

1976.12.09

日本山岳会発行『山日記』に、篠田軍治のナイロンザイルに関する間違った見解を載せたことへのお詫び文が掲載される。

1977.07

岩稜会『ナイロンザイル事件報告書』(非売品)を発行。

   本書は冷静かつ客観的事実で書かれた報告書で、関係者からも非常に高く評価された。

1978.10.10

岩稜会は、ナイロンザイル事件を解決し登山者の命を救った等の功績を認められ、「社会体育優良団体」として文部大臣賞を受賞。

 
(2)日本山岳会名誉会員問題の主な経過

1987.10.27

日本山岳会評議会で、同関西支部発議による篠田軍治氏の名誉会員推薦が、一部評議員の反対で見送られる。

1989.11.06

日本山岳会評議会で、今西寿雄・篠田軍治両の名誉会員推薦が決定され、その後の理事会で正式に承認される。

1989.11.17

日本山岳会会員石岡繁雄は、「登山者の敵を、登山者があがめる立場にすることには絶対反対」と日本山岳会に表明(総会出席票「近況通知欄」)。

※ この間、石岡繁雄と石原國利は日本山岳会会長に対して要望書を2度送っている。

1990.01.11

日本山岳会理事会、石岡・石原両氏からの名誉会員撤回要求を否決。

※ この間も石岡と支援者は反対を訴え続け、山岳会のみならず多くの人々からも疑問の声が寄せられ、マスコミにも取り上げられる。

1990.04

日本山岳会東海支部、尾上昇支部長・中世古隆司副支部長が、篠田軍治氏の名誉会員撤回をサポートし切れなかったことに責任を取って、支部長・副支部長を辞任。

1990.12.08

篠田軍治氏逝去。

1991.01.29

小説『氷壁』の著者、井上靖氏逝去。

1991.03.21

日本山岳会会報『山』550号に「故篠田軍治氏に対する名誉会員取消請求問題について」が掲載される。

※ 名誉会員問題を棚上げしようとする日本山岳会の動きに危機感を抱いた石岡は、その後もあらゆる努力を試みるが、厚い壁に跳ね返される。ついに岩稜会は、2つの公開状(①1993年:本文資料計319頁、②1994年:35頁)を発行し必死に食い下がったが、無視される。

1996.01.20

石岡繁雄・石原國利は日本山岳会の村木潤次郎新会長へ再度「篠田氏名誉会員取消に関する要望書」を手渡しするが、事態は進展せず。

※ 人命救助優先に対する情熱は衰えず、石岡は晩年の15年間を介護装置の開発に全知全能を注ぎ込みながら、常に名誉会員問題の正常な解決を訴え続けた。

2006.08.15

石岡繁雄逝去。

2013.11.052017.09.03

「石岡繁雄の志を伝える会」は、各地における5回に及ぶ石岡繁雄の企画展「氷壁を越えて」シリーズにおいて、展示パネルで「未解決の日本山岳会名誉会員問題」を掲示し、問題の風化防止と早期解決を訴える。

※ 見学していただいた70代のアルピニストの方々から、「ナイロンザイル事件を闘ってくださったおかげで、私たちは生き延びることが出来ました」と感謝の言葉をもらった。また、ナイロンザイル事件を知らない若い世代のアルピニストからは、「鋭い岩角にナイロンザイルをかけるなんて論外だ」と言われた。世代による発言の違いは、ナイロンザイルの岩角欠陥への認知が浸透したことを物語る嬉しい出来事であった。

※ ナイロンザイル事件や名誉会員問題を知らない多くの若者たちは、「こんなことがあったなんて全然知らなかった」「こんな犯罪者は刑務所に入るべきだ」と感想をもらし、日本山岳会会員の多くの方々からも、「いつまでも名誉会員問題を放置できない」とのご意見をいただいた。

2018.07

相田武男(元朝日新聞記者、石岡繁雄の志を伝える会前会長)、論説「日本山岳会と『氷壁』・ナイロンザイル事件」発表。

 石岡繁雄は「罪を憎んで人を憎まず」を信条とする人でした。篠田軍治氏に対しても何度も救いの手を差し伸べ「非を認め一言謝ってくれれば、一緒に登山者の安全のために協力し合える」と信じていました。しかし、生涯非を認めず、登山者を偽り、弱いナイロンザイルを強いと見せかけた篠田氏の行為に関しては「未必の故意の殺人」であると断定していました。
 だからこそ篠田氏を「登山者の敵」として名誉会員であることに反対したのです。例え学者としての業績や登山界への貢献があったとしても、人命無視の犯罪行為をなした者を名誉会員には絶対にすべきではなく、一刻も早く見直されるべきです。
 篠田軍治氏の犯した罪よりも功を認める人たちは、存命中に篠田氏の名誉回復を図るために名誉会員に推挙し成功をおさめました。心ある支援者であれば、ナイロンザイル事件で犯した行為を反省し詫びるように説得し、真の名誉回復を図るべきであったのに、逆に篠田氏の晩節を汚すことになったことは悲しむべきことです。
 ナイロンザイル事件の根は現代に通じる企業の人命軽視・利益優先主義であり、大企業と権威の力が壁となって立ち塞がりました。そのために、60年以上前の虚偽の実験によって確立されたナイロンザイルの安全神話は、その見直しに20年以上にわたる苦難の歳月を要しました。しかし最近では、企業の不正や不祥事に対する社会の目が厳しくなり、隠ぺいや偽装を行った企業の経営陣・関係者は相次いで処分されています。税金で不正な補償金を得た一流の食肉加工会社の名誉会長が、その名誉職を取り消されたり、東京の医大病院で患者の命を医術ミスから失わせた事を研究室ぐるみで隠ぺいした事が判明して、指導した名誉教授がその地位を取り消されたりした例など、多々あります。
 スポーツ界でも、日大アメリカンフットボール部の悪質タックル問題で、終始言い逃れを図った監督とコーチが除名・永久追放処分されたばかりです。
 日本山岳会の「篠田氏の名誉会員問題」も、決して看過できない、風化させてはいけない問題です。
 石岡繁雄の生誕100年を迎えた今年こそ、「石岡繁雄の志を伝える会」は多くの皆様の声とともに、日本山岳会の勇気ある英断を求めてまいります。
 良識ある皆さま!
 どうか、「日本山岳会は篠田軍治氏の名誉会員を取り消すべきだ」という声を、それぞれのお立場から上げていただきますよう、ご協力とご支援を伏してお願い申し上げます。
                                         以上

 

日本山岳会と『氷壁』・ナイロンザイル事件

――日本山岳会報『山』増刊号(No.550)を問う――

 

相田 武男 

1 ナイロンザイル事件と日本山岳会

『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』を石岡氏と共著で2007(平成19)年1月に出版した筆者は、井上靖氏の『氷壁』の朝日新聞連載60年目の2016(平成28)年、あらためて『氷壁』と『山』増刊号(No.5501991(平成3)年321日発行の「〔特集〕故篠田氏に対する名誉会員取消請求問題について」=以下『山550号』と略称=を読み直した。
 その理由は、同号がフィクションである『氷壁』中の人物の言葉を引用し、ナイロンザイル事件で偽りの公開実験を指導した人物が名誉会員となった正当性を述べていることが、長年にわたって胸の中にわだかまっていたためである。
 『氷壁』は、北アルプス前穂高岳・東壁で1955(昭和30)年正月に起きた三重県鈴鹿市の岩稜会パーティの遭難を素材にして書かれた。
 ナイロンザイル事件とはどのような事件だったのか、を若い人たちにも理解していただくために以下にかいつまんで述べさせていただく――
 1トン以上の重さに耐えるという保証付きナイロンザイルがわずかの滑落であっけなく切断し、1人が転落(後に遺体で発見)、2人が生還した直後、岩稜会会長・石岡繁雄氏は、切断直前までパーティのトップで、生還した会員から次のような報告を受けた。
 「約90度の岩角にザイルをかけたあと、トップを交代した。そのトップが目の前で50センチほどずり落ちたら、ザイルがショックもなく切れた」
 そのような切断は、従来の麻ザイルではあり得なかった。「1トン以上の強度」「保証付き」であるにもかかわらず異常なもろさであり、石岡氏は実験をしてその事実を確認した。
 日本山岳会関西支部の篠田軍治支部長(大阪大学工学部教授・工学博士)は、東壁での切断があった約4か月後、ザイルメーカーが行った公開実験を指導、指揮した。だが、見学者、報道関係者を前に、ナイロンザイルが麻ザイルの数倍の強度があると信じ込ませる方法で実験をし、そのデータを発表した。その方法は鋭く見せた岩角にわずかな丸み(R)をほどこし、ナイロンザイルが鋭い岩角で切断しないようにしたものだった。
 篠田氏とザイルメーカーが行った公開実験のデータ(ナイロンザイルは鋭角の岩角にかけても切れない)を基に、同氏が執筆した1956(昭和31)年版『山日記』を発行した日本山岳会は、この実験のカラクリを証明した岩稜会側の山日記への掲載中止と謝罪要求を無視し続けた。
 このため、石岡氏、岩稜会、同会が所属する三重県山岳連盟は、きびしく、長いたたかいを強いられた。
 石岡氏は、10代から北アルプスの岩場の登攀などの経験を積んだベテラン登山家。1947(昭和22)年夏には、登攀不可能と言われた穂高屏風岩中央岩壁の初登攀に成功している人物である。自らの体験も踏まえ登山者の安全を守るために、ナイロンザイルの岩角での危険性を明らかにするよう20年余にわたり、メーカー、日本山岳会、山岳界に訴え続けた。
 岩稜会側の主張が日本山岳会によって認められたのは、「ザイル切断」後21年目の1976(昭和51)年だった。その結果、今西錦司会長時代、長期にわたって岩稜会関係者を苦しめたことを1977(昭和52)年版『山日記』で詫びた。
 この間、ザイル切断事故は約20件あったとされ、旧・通産省もこの数字を登山用ロープ(ザイル)の安全基準づくりの際の資料とした。
 以上がナイロンザイル事件の概略である。 

2 名誉会員問題と『山550号』

ところが、13年後の1989(平成)年、篠田氏を日本山岳会が名誉会員とした。このため、篠田氏がナイロンザイル事件で演じた役割を知る会員らから批判する声が高まった。
 『山550号』は、この批判の動きに対処するために刊行された。しかし、編集担当者らは資料の選択を誤り、フィクションである『氷壁』からの、引用の読み間違いなど大きな誤りをしている。
 そのため、名誉会員決定の正当化をはかる目的で発行された同号が、逆に日本山岳会をおとしめる結果になっている。これは『山550号』が発行されて時間が経っていると言っても、放置して置くことは将来にわたって記録として残ることになる。問題であろう。
 同時に、日本山岳会の心ある会員にとって、『山550号』は正されるべき問題であり、その延長線上には篠田氏の名誉会員決定が存在する、と意識せざるを得ないはずだ。
 篠田軍治氏の名誉会員決定について、『山550号』では、「はじめに」で次のように書いている。驚くべきことだ。以下の囲み線内は一部を省略し、『山550号』をそのまま引用した。傍線は読者の理解を得やすくするために筆者が施した。

篠田名誉会員については、会員諸氏からも書面や口頭で意見がよせられたり、マスコミにもとりあげられ、山岳会にとって大きな問題となりました。

会としては、「個人の名誉にもかかわる事柄を公開の場で論ずることは好ましくない」とする会長の意向もあり、極力石岡氏個人との対話による解決をはかろうとしましたが、現状ではかたよった見解のみがひろがり、誤解を生ずる恐れもでてきました

このさい、「山」誌上にその経緯をご説明し、併せて参考資料もとりまとめて公表し、会員各位のご判断にまつことにした次第です。

できるだけ公平に客観的にとりまとめたつもりですが、……(略)……。

この問題は、既に新聞、映画、小説にもとりあげられた問題ですが、かえってそれによる先入感もあるかと思いますので、この際原典資料を、あらためてお読み戴き、この問題の本質を理解して戴ければと思います

4,500人の全会員の賛同をうることは、むしろ会の性格に反するが、これ以上の論争継続は不毛の感情的対立になりかねないことを深く危惧するものであります。

今後、関連する投稿があっても、よほどのことがない限り、公表をさけたいと思います

上記の文章を以下、ⅰ)から ⅳ)に分けて順次、日本山岳会の勘違い、誤りを指摘する。

 ⅰ)「個人の名誉にもかかわる事柄を公開の場で論ずることは好ましくない」

名誉会員問題は個人の問題ではない。なぜなら、日本山岳会は社団法人であり、定款第3条で「山岳に関する研究並びに知識の普及及び健全な登山指導、奨励をなし、あわせて会員相互の連絡懇親をはかるとともに、登山を通じてあまねく体育、文化及び自然愛護の精神の高揚をはかることを目的」としている。
 この定款3条を有する日本山岳会が名誉会員に関する賛否論を、個人の名誉にもかかわる事柄として公の場から消し去ることはできないはずだ。
 ことは日本山岳会の名誉会員の資質にかかわる問題であり、日本山岳会関西支部長という立場で社会に向けてなされた行動や文章の発表・発言は公の場で論じられてこそ、公正が保たれるのだ。
 
 ⅱ)「かたよった見解のみがひろがり、誤解を生ずる恐れもでてきました」

かたよった見解とは、どのような見解であるのか。岩稜会、石岡繁雄氏らのナイロンザイル事件に対する20年間に及ぶ苦しい取り組みは、ザイルに消費生活用製品安全法で安全基準が設けられたことにより結実している。岩稜会の活動は製造物責任法(PL法)の礎になったのだ。
 なによりも、前項で述べたように、日本山岳会は1956(昭和31)年発行の『山日記』が篠田氏の公開実験でのデータを基にして記述した文章を掲載した事を、誤りであったと認めた。そして関係者へ遺憾の意(お詫び)を1977(昭和52)年発行の『山日記』に掲載することを踏み切ったのだ。その文章を以下に掲載しておこう。

登山用具にかかわる事故の防止は、製造・販売にたずさわる業者、登山の指導者および使用者がそれぞれ細心の注意をすることが必要である。昭和50年、関係者の尽力により、消費生活用品安全法(筆者注=原文のまま)のなかに登山用ロープがとりあげられ、その安全規準が確立され、事故防止に役立つことになった。

昭和31年度版『山日記』では、登山用ロープについて編集上不行届があった。そのため迷惑をうけた方々に対し、深く遺憾の意を表する。

『山日記』編集委員会

この文章について石岡氏は「お詫び」と理解して日本山岳会に妥協した。
 上記の事柄を知る人々が増えることが、「かたよった見解のみがひろがり、誤解を生ずる恐れ」であるのか。むしろ歴史と伝統の上に築かれた日本山岳会の在り方、将来の姿に水を浴びせることではないだろうか。

ⅲ)「できるだけ公平に客観的にとりまとめたつもりですが、……(略)……。この問題は、既に新聞、映画、小説にもとりあげられた問題ですが、かえってそれによる先入観もあるかと思いますので、この際原典資料を、あらためてお読み戴き、この問題の本質を理解して戴ければと思います」

ⅰ)、ⅱ)で説明したことと同様に出来るだけ公平に客観的に取りまとめる、という視点から離れていることは添付された参考資料の面からも明らかだ。また何をもって「原典資料」としているかも不明である。
 (1)『山550号』が参考資料として抜粋を添付しているのは以下の4点である。
   ① 1956(昭和31)年版『山日記』(p4041
   ② 1957(昭和32)年版『山日記』(p5556
   ③ 1977(昭和52)年版『山日記』(編集委員会による遺憾の意の表明文)
   ④ 1959(昭和34)年『ザイル 強さと正しい使い方』(p8587)

①は篠田教授が書いた「山の装備」の登攀用具の中のナイロンザイルに関する部分。この記述は鋭角に見せて、丸みがつけられた岩角を使ってナイロンザイルの岩角での弱さを隠したデータを基に書かれた。しかし、その事実は読者に判るようには明記されていない。

②上記同様。

③は「山の装備」(堀田弘司)の末尾に掲載された『山日記』編集委員会による遺憾の意の表名(筆者注=表明の誤り)文であり、詳細は ⅱ)で述べた。

④は1959(昭和34)年『ザイル 強さと正しい使い方』(梶原信男著 篠田軍治氏監修)

③を除く①と②は、篠田教授の文章、④は篠田教授の監修であり、ナイロンザイル事件の一方の当事者である岩稜会が出した資料『ナイロンザイル事件報告書』(1977(昭和52)年7月、岩稜会刊)は参考資料から排除されている。

これらのことから、明らかなことは被害を受けた岩稜会側の資料はないままに、篠田氏側の説明を主に採用する、という一方的な引用である。

(2)『山550号』の本文は、以下の8項目からなっている。

〔1〕名誉会員推薦問題についての経過 

〔2〕ナイロンザイル事件についての経過

〔3〕石岡・石原両氏からの要望書(第1回)

〔4〕日本山岳会からの回答文

〔5〕取り消し要望書の概要と本会のコメント

〔6〕『山日記』問題の客観的理解のために

〔7〕平成2年日本山岳会総会ならびに支部長会議における山田会長説明要旨

〔8〕おわりに(資料をまとめ終えての所感)

〔2〕を除くと〔1〕から〔7〕は名誉会員決定についての岩稜会側と日本山岳会に交わされた、いわば “交渉記録” である。これらを読んでも篠田氏がナイロンザイル事件で担った「明かされるべき」役割は具体的、明確に見えてこない。
 はたして、これらのうち〔2〕が名誉会員決定の賛否を判断する “原典資料” と言えるのか。「ナイロンザイル事件の経過」としつつも、ナイロンザイルの安全基準につながる石岡側の行った鈴鹿高専での公開実験などについては一切記されていない。まるでザイルの安全基準は自然に生まれ出てきたとでも言いたいようだ。
 『山550号』の示した〔1〕~〔7〕に対し、“原典資料” は他にある。
 岩稜会は、ナイロンザイル切断で会員が死亡した22年後の1977(昭和52)年7月、日本山岳会の『山日記』へのお詫び文をもって主張して来たことが認められた。事件が完全に解決したとして『ナイロンザイル事件報告書』(全文55頁、本文28頁、新聞記事を含む写真等15頁、年表6頁)を発行した。
 この報告書は、ナイロンザイル事件の当事者である岩稜会がデータ、資料を基に客観的視点を失わず記録、作成した一次資料であり、日本山岳会はじめ山岳関係、マスコミ関係に送られた。この報告書の内容について、篠田軍治氏側からの抗議、反論はなされていないことは是非つけ加えておかなければならない。この報告書こそ “原典資料” とすべきものである。
 同報告書には、ザイル切断事故約1か月後に日本山岳会関西支部主催で「ナイロンザイル切断事故検討委員会」が大阪で開かれたことが記録されている。検討委員会での議長は関西支部長の篠田軍治氏。石岡氏は生還者の証言に基づいた条件(ザイルをかけた岩は鋭角であった)でテストをした結果、遭難現場と同様に8ミリザイルが簡単に切断したことと、名古屋大学の工学部研究室でのテストでも同様結果が出た事を報告した。
 篠田支部長のその場での発言は、前記『ナイロンザイル事件報告書』には、次のように記録されている。

「事故原因の究明は死因を明らかにするためと、今後の登山者の生命を守るために急がねばならない」と言われ、また「その研究には自分があたる」と発表された。

検討委員会の約3か月後、切断した8ミリザイルのメーカー東京製綱蒲郡工場(愛知県蒲郡市)で行われた公開実験の目的は、上記篠田支部長の発言と関連がある、と誰もが考えるのは至極もっともだ。
 つまり公開実験で使用された岩角は当然、切断現場の岩にザイル(ロープ)をかけ、生還した岩稜会員の証言に基づいて、現場と同様の鋭い角を有する岩を支点にして行われる、と考えるのが一連の流れとして当然ではないか。
 しかし、簡単に切断するはずのナイロンザイルは麻ザイルの数倍の強度を示した。
 なぜか――。岩稜会側は、それまでの独自の実験から鋭い岩角であるべき岩角が、鋭くなかったからではないかと推察した。
 重大な疑問に対して公開実験終了の数時間後に内部告発的 “好意” から、次の事が三重県山岳連盟理事に伝えられた――
 「篠田支部長は、公開実験以前にナイロンロープが鋭い角に極端に弱いというデータを得ていた」というのだ。
 ロープのメーカー(東京製綱)に原糸を提供している企業の研究室で、「三角ヤスリの鋭角を支点にしてナイロンザイルの両側に負荷をかけて往復運動をさせたら、麻ザイルの十分の一の強度しかない」という結果が出ていたのだ。テスト方法の図解、データも提供された。
 岩稜会側は、篠田支部長が「三角ヤスリの実験データ」でナイロンザイルの鋭い角での弱さを承知していながら、公開実験では「鋭い岩角」を装って岩角に丸みをつけるという加工をしていたので、ナイロンザイルが切れなかった。この犯罪的行為によって、ナイロンザイル切断事故が事件になった。ナイロンザイルメーカーと篠田支部長は、ナイロンザイルは強いことを証明するために、その結果が今後使用者の命を危険に曝すことを承知したうえで、蒲郡公開実験を利用することにしたと石岡等は確信した。
 ナイロンザイル切断事故から生還した岩稜会会員(石原國利氏)が篠田支部長を名誉毀損罪で告訴し、不起訴となった件(筆者注=紙数の都合で、この問題には言及しない)での大阪地検からの名誉毀損告訴事件不起訴処分通知によって、岩角に1~2ミリの削り(R)を加工していたことが公的に明らかになっている。
 同時に、公開実験データを基に執筆された篠田氏の記述(英文論文を含む)の意図的と見られる文章展開の矛盾が見えてくる。『ナイロンザイル事件報告書』を白紙の精神状態で読めば、なぜ当時の通産省が登山用ロープ(ザイル)に安全基準を設けることになったのかが、うなずけるだろう。
 名誉会員の賛否の源は、ナイロンザイル事件の「起点」となった公開実験での篠田氏の役割とその後の篠田氏の言動だ。であるから〔2〕は原典資料とは言えるものではない。 

ⅳ)「今後、関連する投稿があっても、よほどのことがない限り、公表をさけたいと思います」

最後の(ⅳ)は、『山550号』には明らかに独善的な資料の取捨、判断に加えて、フィクションである『氷壁』の引用、それも『氷壁』には登場していない肩書の人物の言葉によって、日本山岳会の名誉会員決定を以下の項「3『山550号』の論理矛盾と責任転嫁」に示すように肯定している。
 この “恥ずべき誤り” も加わり、前述してきたようにズサンきわまりない内容の記述にもかかわらず、今後は日本山岳会の名誉会員問題に関しての投稿の公表を避けたい、という。これは欠陥だらけの文章に対する疑問、抗議の公表を “封印” すると宣言するに等しい表現ではないのか。これでは、日本山岳会も篠田氏と同罪であると見なされても仕方がないのではないか。 

3 『山550号』の論理矛盾と責任転嫁

『山550号』は「〔8〕おわりに(資料をまとめ終えての所感)」で、以下のように書いている。

この問題のそもそもの発端は、蒲郡実験(公開実験=筆者注)が行われた時の両者の実験目的のとらえ方の喰い違いが原因であった。即ち

石岡氏側…ロープの切断について鑑定を期待した。

篠田氏…ロープの性能についての実験と考えた

この目的のために篠田氏はデータをとるために岩角にR(丸み=筆者注)をつけた。(鋭いエッヂで実験すると、直ぐに切れてしまってデータがとれないため、客観的にデータをとるためRをつけた)……(略)……

傍線部分で『山550号』編集担当者の認識の意図がよくわかる。まず

●「篠田氏…ロープの性能についての実験と考えた」――だ。

この「篠田氏…ロープの性能についての実験と考えた」の表現と実験内容は、公開実験の結果を伝えた新聞記事(1955.5.1付中日新聞記事「初のナイロンザイル衝撃試験 強度は麻の数倍」)と、この公開実験の隠されていた内容が後に判明した真実を伝える新聞(1958.4.3付中日新聞記事「「麻の20分の1の強度 放出のザイルに要注意」)、そして岩稜会の実験データ(前記『ナイロンザイル事件報告書』)を客観的視点で点検すれば、同実験は日本山岳会関西支部長として登山者の安全を守るという意識から大きく離れ、登山者の安全を無視し、ザイルメーカーの立場に立つものだった。
 この公開実験で得られた「麻製よりも数倍強い」というデータは、岩角で使用者の体重程度の負荷(衝撃)がかかれば簡単に切断してしまう、というナイロンザイルのマイナス性能を公開実験の場で「見せない」という目的を持ったものだった、と言える。つまり、ナイロンの引っ張りには強い性質だけを見せた実験だった。

 後に、篠田氏はマスコミなどの追及に「私の実験は、飛行機や船舶に使うロープの実験の一つとして行ったもの」と言っている。それならば、先の関西支部主催の「ナイロンザイル切断事故検討委員会」で、自らが発言した内容とは異なる実験であることを公開実験の際に発言、実験目的を明確にしていなければならないのが当然だ。
 公開実験に際しては、そのような発言はなかったし、メーカーから三重県山岳連盟に開催を知らせる案内状が送られていたのだ。そもそも船舶、航空用牽引ロープの公開実験に、なぜ山岳連盟に案内状を出す必要があったのか。なぜ前穂高で切断し、墜落死に至らせた問題の8ミリナイロンザイルを実験に使用する必要性があったのか。当初からこの公開実験は、登山用ザイルの岩角衝撃テストを装い、参観者の目をごまかすためのものであったのだ。

●公開実験の結果を新聞報道が「麻の数倍強い」と書いたのは誤解ではない。公開実験に使われた45度、90度の岩角には、それぞれ2ミリ、1ミリの削り(アール)が付けられていた。その事を伏せた実験結果だったので、マスコミは “鋭い岩角” (実態は丸められ鋭くない曲面に相当する)のデータを記事にしたのだ。ナイロンザイル事件は、公開実験の岩角にアールをつけておこなったことから始まったのだ。
それを『山550号』は、

事故から実験へと進んでいくなかで、当事者間や周囲、ジャーナリズムを含めて、さまざまな誤解や喰い違いが、複雑骨折をおこしてきた。

と書いている。とんでもない話だ。これは、篠田支部長が負うべき責任を当事者(岩稜会)、マスコミに転化したものだ。

●最後に、『山550号』がフィクションである『氷壁』の引用でもミスを犯している件を指摘したい。

前述したが、『山550号』は「はじめに」で、

この問題は、既に新聞、映画、小説にもとりあげられた問題ですが、かえってそれによる先入感(筆者注=原文のまま)もあるかと思いますので、この際原典資料を、あらためてお読み戴き、この問題の本質を理解して戴きたいと思います。

と、述べている。だが、それに反して「〔8〕おわりに」では、フィクションである『氷壁』の一文をとりあげて名誉会員決定の正当性の根拠にしている。論理矛盾も甚だしい。次のように書いているので、読んでいただきたい。

小説『氷壁』は、あくまでフィクションであるが、井上氏のすぐれた洞察はきわめて示さにとんでいる。

終結部で八代教授と常盤(魚津の理解者で舞台廻し役)と対話する。

教授は「ただ大切なことは、あの実験が事件の原因追求の実験ではなかったということです。ザイルの性能の実験なんです。そして性能実験の結果をすぐ事件に結びつけてしまった。

これは新聞の取扱いも悪かったし、魚津君(遭難事故のパートナー)の受取り方の誤りもあります。それから私の言葉不足もあったと思います」といっている。

事故から実験へと進んでいくなかで、当事者間や周囲、ジャーナリズムを含めて、さまざまな誤解や喰い違いが、複雑骨折をおこしてきたしかし、上記の井上氏の洞察が最も妥当な客観的評価ではなかろうか

(文中の下線と○囲み数字は筆者加筆)

ここには、看過できない問題が3点ある。上記引用文中の○数字とあわせて考えていただきたい。

〈八代教授・教授〉……『氷壁』には肩書が「教授」なる人物は一切登場していない。

〈ザイルの性能の実験〉……これは、フィクション中の人物の発言である。

 上記の井上氏の洞察が最も妥当な客観的評価ではなかろうか〉……フィクションの人物の言葉を、井上氏の洞察としている。

①~③で明白なことは、『氷壁』中(2017年刊、新潮文庫109刷の40頁)の東邦化工専務(八代教之助)の言葉を現実のナイロンザイル事件の公開実験の指揮を執った篠田教授と混同していることだ。つまり、ナイロンザイル事件を理解していないばかりか、『氷壁』をしっかり読んでいない、ということだ。
 井上氏は、1977年(昭和52)1月に30回にわたって連載された日本経済新聞朝刊文化面の「私の履歴書」13回目(114日)の「小説『氷壁』」で、次のように書いている。このことは、広く知られたことである。『山550号』の執筆者が、執筆に際して十分な資料点検をしていれば当然、目にしなければならない資料だ。
 この回の見出しは「敢然と若き登山家弁護 ナイロン・ザイル欠陥説に立つ」である。以下に一部を転載する。

小説『氷壁』とは別に、ナイロン・ザイル事件はその後幾多の曲折をくり返したが、ついに昨年、事件から21年目に、漸く石岡繁雄氏の主張が全面的に容れられることになった。ナイロン・ザイルに安全基準が設けられることになったのである。これは新聞各紙に報じられ、“21年目の真実” と題しているものもあった。

 『氷壁』という作品が文学作品としてどれだけの価値を持つか、作者の私には判らないが、ナイロン・ザイル事件の解決には多少の役割を果したのではないかと思う。

作家のナイロンザイル事件への思いが『山550号』の考察とは全く違うところにあるのがはっきりする。
 一体、これはどういうことであろうか。
 フィクション上の人物と現実の人物の肩書を混同したのは、「単純ミス」と受けとれないこともない。しかし、慎重にナイロンザイル問題の経過を点検し、念入りに『氷壁』を読んでいれば、起きるはずはない誤りだ。
 『山550号』での『氷壁』の引用はデタラメに過ぎる。作家の創作の意図をも冒涜するものではないのか。作家の心情と『氷壁』の引用とは真逆の立場に立つもので、牽強付会そのもの、さらには『氷壁』を剽窃したと言われても仕方がない。言わば、篠田氏の公開実験を正当化するための苦肉の策であったと言って過言ではない。
 『山550号』の論旨は、井上靖氏の日本経済新聞掲載の「私の履歴書」からもお分かりいただけるように、完全に破綻している。『山550号』に『氷壁』からの引用が行われたのは、1991(平成3)年129日に井上氏が亡くなった約2か月後であり、井上氏に説明の機会を与えないためであるとしか考えようがない。井上氏の真意は、上記に掲載した日本経済新聞掲載の「私の履歴書」を読んでいただければ明白である。
 これらの理由から、『山550号』の編集担当者たちは、この特集号の編集にたずさわるに値する人たちであったとはとても思えない。執筆者、編集担当者は資料の検討が不十分なまま前のめりの態勢で、日本山岳会の篠田氏名誉会員決定に間違いはない、と断じたことが明白ではないだろうか。 

4 日本山岳会のあるべき姿――社会とかけ離れていないか――

国内の企業では、税金で不正な補償金を得た一流の食肉加工会社の名誉会長が、その名誉を取り消されたり、東京の医大病院で患者の命を医術ミスから失わせた事を研究室ぐるみで隠ぺいした事が判明して、指導した名誉教授がその地位を取り消された例など、多々ある。
 ヨーロッパでは、第2次世界大戦中の歴史的人物の死亡後数10年経っても名誉市民のままであることがわかると名誉市民を取り消したり、名前の上に赤で線を引いたというニュースを見る。これは過去の過ちの歴史を明らかにさせることで、同じ事を繰り返さないためだそうだ。名誉市民の名簿の歴史的人物の名前の上に赤線を引いた、というオーストリアの地方都市の話は以前、石原國利氏から送られた新聞の切り抜き(コピー)で教えられた。
 日本山岳会は、『山550号』の記述を勇気をもって処置するべきであろう。このままでは日本山岳会にとって永遠に “残したくはない記録” として残ることとなる。必然的に『山550号』発刊の “源” となった問題も、当然再考されてしかるべきだ。
 1979(昭和54)年6月に草思社から出版された日本山岳会員の楠目高明氏の著『上高地逍遥雑記』に、ナイロンザイル事件が約40頁にわたってとり上げられている。
 同氏の文章は、ナイロンザイル事件の資料を登山者の目から冷静に読み解き、公開実験の欺瞞性、日本山岳会の『山日記』のお詫びに至る経過について公正、適切な判断をしていることが際立つ。そして、楠目氏は最後のくだりに次のように書いている。

1978(昭和53)年1010日、体育の日に、岩稜会は、社会に貢献したとして、文部大臣賞を受けた。この受賞は、ナイロンザイル事件によって生命尊重・人権擁護をめざした岩稜会の戦いの勝利に、花を添えるものとなった。

日本山岳会には、楠目氏のような会員がおられる。この様な会員を裏切らずに現状から一歩踏み出すことが、21世紀に公益社団法人となった日本山岳会の再出発の姿であると思う。過去の誤りの事実を会員の意見を反映して認め、正しい道を社会に示していただきたい。それは困難な行動ではあるでしょうが、一歩後退二歩前進である。
 歴史と伝統を持つ日本山岳会として「さすがである」と、社会が納得できる姿勢を示してもらいたい、と期待する多くの会員がいることは確かなことである。

20187月記)

編集協力:「石岡繁雄の志を伝える会」


 
 
 冊子が出来上がり、まずは芳賀さまと尾上さまに、出来立ての冊子を相田さんが送られました。
 その後、9月9日からの九州行きで、九州登山情報センタ-と東九州支部有志で行われた懇談会で、会に参加してくださった方々に、冊子を配布いたしました。 この九州の旅の様子は、以下のアドレスでご覧いただけます。http://www.geocities.jp/shigeoishioka/new78.html


 9月18日、父が創設しました日本山岳会東海支部に、冊子を300冊お送りして、会員の皆さまに配布してくださるよう、お願いいたしました。
  

 10月3日 18:00-23:00、尾上昇元日本山岳会会長にお会いして、篠田軍治氏の名誉会員問題を解決するために御尽力いただけるようお願いしましたが、「元会長と言う立場上、全てに対してノ-コメントでお願いします」とのことでした。ただ、「日本山岳会内部の問題なので、日本山岳会と東海支部の会員になることをお薦めします」と貴重なご意見をいただきました。
(写真は、尾上さんと私) 


  早速、水野さんと私は、日本山岳会会員になるために、入会申込書を作成しました。正会員となるためには、2名の紹介者が必要で、その内1名は、元日本山岳会会長又は副会長経験者か、各支部の支部長がなる必要があるとのことで、尾上さんと、國ちゃんにお願いすることにしました。
 10月13日、尾上さんから入会申込書に署名捺印してくださった用紙が届きました。その用紙を直ぐに國ちゃんにお送りしました。
 10月18日、國ちゃんから入会申込書が届き、その申込書を日本山岳会宛に送りました。
 

 10月25日 18:30-21:30、日本山岳会東海支部長の高橋令司さまにお会いするために、高橋さまがお住いの岐阜駅に出向きました。
 日本山岳会と東海支部に入会するために会員入会申込書を出したことをお伝えし、名誉会員問題を解決するためにご協力をお願いしました。
 高橋さまは、「入会されるのは良いが、ナイロンザイル事件のことや、名誉会員問題の話を一切会員にされては困ります」とのことで、高橋さまとしてのご意見は、ノ-コメントとのことでした。お送りした冊子も、会員には配布できないと言う事でしたので、「送料受取人持ちでお返しください」とお願いしましたが、未だにお送りいただいておりません。
 そんな訳で、水野さんと私は、意気消沈して帰って参りました。
(写真は、高橋支部長と私)


 11月10日、「鈴鹿文学祭」において、会場にお越しくださった方々約90名に、冊子を配布いたしました。
 その時の様子は、以下のアドレスでご覧いただけます。
 http://www.geocities.jp/shigeoishioka/new79.html



 11月14日、「鈴鹿文学祭」で発行していただいた同人誌『P.』の石岡繁雄特集号と、冊子を、父の知人など55ヵ所に送付しました。
 

 11月24日、高橋支部長よりメ-ルをいただきました。「昨日本部より連絡があり、水野・石岡の入会を断る方向になりました。取り下げることをお考えになってはいかがか」と言う内容でした。
 とてもショックでした。


 12月16日、相田さんが國ちゃんに会いに福岡まで行かれました。名誉会員問題の今後をご相談するためです。
 帰られてからご報告がありご相談の結果、日本山岳会会長様と各支部長さま宛に、冊子を送付し、今後は広く一般の方々にもこの問題を訴えていくことになりました。
 また、1月17日~20日で北海道に行って、井上靖記念館見学と、芳賀さまにお目にかかってお話をお聞きすることにもなり、早急に航空券の手配などいたしました。
 

 12月20日、冊子と送状を、日本山岳会会長様と、住所が調べられた17支部の支部長様宛に送付しました。支部数は33支部あり、東海支部と東九州支部には、お渡し済みですので、残り14支部となりました。住所が判らなかった14支部には、メ-ルでお教えいただけるようお願いしました。今日までにお返事をいただて住所がわかった6支部に送付しましたので、あと8支部に送付すれば完了となります。
 

2019年


 1月
 新しい年となり、名誉会員問題の冊子の送付などで、多忙な日々を過ごしました。
 1月17日~20日まで、この問題の件で極寒の北海道へ行って参りました。
 その疲れからかインフルエンザを患ってしまい、10日間ほど臥せっていましたので、その間の名誉会員問題の活動については、水野さんにお願いしておりました。


  旅の模様は-極寒の北海道への旅-の頁に掲載しております
  右のアイコンをクリックしてご覧くださいませ 
  

 
 1月18日、16:10~21:30
 日本山岳会の長老・ご意見番であり「伝える会」の活動にご理解のある芳賀孝郎さまを表敬訪問し、日本山岳会に対する篠田軍治氏の名誉会員取消しを求める活動を前進させる方法について、ご指導ご支援を仰ぎ、夕食を共にしてより交歓を深めることを目的として、相田さん・水野さんと共に北海道札幌市にお住いの芳賀さま宅をご訪問しました。
 まずは、芳賀さまについて、ウェッブサイト「ミニ大通りレタ-ズ」より引用して、以下に記します。

 1934(昭和9)年札幌生まれ。生まれ育った場所は、かつて1992年まで北5条西19丁目にて旧5号線に面して営業していた「芳賀スキー製作所」。物心つく前からスキーに熱中し、桑園国民学校、向陵中学、札幌西高校へ。学習院大学に進学して山岳部へ。以後、山とスキーの人生を歩む(元日本山岳会副会長)。1958年京都大学学士山岳会チョゴリザ登山隊に参加。1970年から1991年まで、父の跡をついでハガスキー社長。2007年まで(株)エイジス(本社千葉市)取締役副社長。2011年夏、千葉県幕張ベイタウンから20年ぶりに帰札。現在宮の森に暮らす。

 芳賀さまについては、日本山岳会の晩餐会などの時に、皇太子殿下のお世話役としても活躍されていることを明記しておきます。

 ご挨拶の後、芳賀さまとはじめてお会いした西糸屋山荘でのことなど、思い出話からスタ-トして、芳賀さまもご存知の屏風岩登攀に貢献した伊藤洋平氏や、ナイロンザイル事件に関心が強く名大にも席があり、父とも親しかった木下是雄氏のエピソードなどが話題になりました。
 そしていよいよ本題に入り、篠田氏の名誉会員問題についての話合いをいたしました。質疑応答などが行われ、貴重なお話をお聞きすることができました。

 その他、芳賀さまからの興味あるお話は以下です。

 ◎札幌オリンピック以降1974年から、朝日新聞が進めていたトリム運動の内、クロスカントリ-に目を付けて、歩くスキ-の障碍者スキ-を朝日新聞主催で始めた。
道民、市民歩くスキー大会は今年44回目となる。
 ◎なぜ日本山岳会で皇太子のお世話役になったかについて、加藤泰安氏(井上靖氏の小説「あしたくる人」のモデルとなられた方)に可愛がられていたからとのご回答。
 ◎加藤泰安氏と芳賀氏の関わりについて。
  ◆学習院大学山岳部に属していた時に、鹿島槍で4人が消息を絶つ遭難。山岳部OBの加藤氏も捜索に参加して、その後存続の危機に見舞われた山岳部を立て直すため鬼の指導をしてくれた。
  ◆加藤氏の祖父は北大教授で有島武雄の友。先祖は四国大洲の殿様であった。洞爺湖畔に100町歩の土地を持ち、別荘にしていた。その土地は農地として開放したが20町歩だけ残した。その土地を、昭和14年に財務担当の加藤家の家老が売った。それを購入したのが芳賀さまの父であり、別荘とした。そのことを加藤氏が知り、以来芳賀さまは小姓のようについて歩くようになった。昭和33年に京都大学山岳部ヒマラヤ山脈カラコルム・チョゴリザ登頂隊を結成(隊長は桑原武雄:フランス文学者)した時に加藤氏は副隊長であった。10人の隊員の内1名を学習院山岳部から入れることになり、芳賀さまを推薦してくれた。
  ◆井上靖氏とも友好のあった加藤氏は、銀座のバ-に行く時に、芳賀さまを連れて行き、そこで井上氏と親しくなった。
  ◆加藤氏の祖父は皇族との関係があったので、チョゴリザ登山隊員に選考された時、東宮御所に行き、御下賜金を賜わった。1万円入っておりビックリしたが、それは加藤氏に言われてAACK(京都大学学士登山会)登山隊に寄付した。その縁で、日本山岳会で皇太子殿下のお世話役をすることになった。
  ◆加藤氏は芳賀夫妻の仲人(注:芳賀夫人は三田幸夫氏令嬢。三田氏は1968年から第11代日本山岳会会長)。
       

 1月20日、芳賀さまご紹介の有識者の方にご意見を聞かせていただきました。


 芳賀さまからのアドバイスで、名誉会員問題に関する「伝える会」のこれまでの動きを明確にするために以下の表を作成いたしました。ご覧くださいませ。
尚、今後も動きがありました場合にはこの表に追記していきますので、よろしくお願いいたします。


年月日 要点 特記事項
2018.6.2 西糸屋山荘にて芳賀孝郎氏と会う 相田、『山550号』について芳賀氏に話す
2018.7.21-23 相田『山550号を問う』の第一稿を執筆  「伝える会」は直ちに相田原稿を校閲・編集 
2018.7.24-8.3 「伝える会」趣意書作成   
2018.8.4  趣意書と相田原稿を合体させ冊子とする  
2018.8.7 石原氏から校閲を受けた原稿を完成   
2018.8.27 尾上氏から校閲を受け、訂正箇所を直して冊子完成  冊子は2000冊印刷会社に依頼して作成することになる
2018.9.6 印刷会社より冊子届く  
2018.9.9 九州登山情報センタ-主催「ナイロンザイル事件」資料展示記念、懇親会 懇親会にて参加者に資料配布
2018.9.11 日本山岳会東九州支部有志主催「ナイロンザイル事件の真相を聴く会」  資料配布
2018.9.18 日本山岳会東海支部へ冊子300冊(全会員用)送付  
2018.10.3 尾上氏と会見 日本山岳会に入会申し込みをすることになる
2018.10.13 入会申込書に紹介者として尾上氏が署名捺印してくださり、送付有   
2018.10.18 入会申込書に紹介者として石原氏が署名捺印してくださり、送付有   
同日 日本山岳会に入会申込書発送   
2018.10.25 日本山岳会東海支部高橋支部長と会見   
2018.11.10 「鈴鹿文学祭」にて約90名の方に冊子配布   
2018.11.14 岩稜会等、父の山関係の方々と親戚に冊子を郵送(約100冊)   
2018.11.24 高橋支部長よりメ-ルがあり、入会申込を取り下げるよう示唆する内容   
2018.12.16 相田、石原宅を訪問・同氏と会見  冊子を日本山岳会会長と各支部長に送ることになる
2018.12.20 日本山岳会小林会長親展、書留配達証明付きで冊子送付   
2018.12.20-
2019.1.27
各支部長宛て、冊子10冊と送状を発送 各支部の住所特定に時間がかかり、送付が遅れてしまった
2019.1.17-20 北海道訪問へ 18日、芳賀氏宅にて会見。20日、芳賀氏ご紹介の方と会見 
2019.1.23 富山支部鍛冶支部長より、冊子10頁の誤記についてご指摘有  冊子を訂正するため早急に正誤表を作成
2019.1.23- 各支部長宛てに電話で、冊子を受理されているかの確認作業中 2月16日現在現在3支部を残して確認済
2019.1.27 冊子の正誤表を各支部に送付 まだ送っていない冊子には、訂正箇所にシ-ルを貼ることになりシ-ル作成、一部貼付け
2019.1.29 尾上氏宛メ-ルにて、入会申込の現況を報告 冊子の誤記についても報告
同日 尾上氏より返信有   
2019.1.30 日本山岳会小林会長親展、書留配達証明付きで、石岡・水野の入会申し込みについて問い合わせ 正誤表と、その詫び状も同封          
2019.2.9 日本山岳会会長より、入会拒否正式通知 本部宛資料の送付は1部のみとして欲しい。残りは送り返す旨記載
2019.2.11 日本山岳会小林政志会長宛、会見申し込みの手紙発送  あづみ筆の私信
2019.2.12 日本山岳会より冊子26冊返却送付有  2.8発送
配達指定日12日
2019.3.1
日本山岳会元会長尾上昇氏より会談申し込みメ-ル有 あづみ一人を指名 
2019.3.7
尾上氏と会談  17:30-20:30名古屋栄にて
2019.3.8-18
尾上氏との会談結果メモの作成   
2019.3.18
石原國利氏と電話。今回の問題について意見を聞く  
2019.3.19
芳賀氏宛ご相談メ-ル送付  
2019.3.20
西田佐知子先生にご相談 14:00-15:40名古屋大学博物館館長室にて、あづみ一人にて 
2019.3.22
芳賀氏よりメ-ル返信有   
2019.3.23 CBCラジオ森氏・太田氏来訪、取材・名誉会員問題についてご意見を伺う 13:30-17:30水野同席
2019.4.3
日本山岳会小林政志会長宛、2月11日付私信の不適格な表現について謝罪状送付  


 1月23日、富山支部鍛冶支部長さまより、冊子の10頁の誤記についてご指摘があり、その部分を訂正するため早急に正誤表を作成しました。その後冊子を送付または手渡しした方々に、正誤表をお送りし謝罪する作業に従事しました。


 1月30日、日本山岳会小林会長宛親展で、書留配達証明付き書簡を送付いたしました。内容は、石岡・水野の入会申し込みについての問い合わせと、お送りしました冊子の中の間違い部分訂正のお願いとそのお詫びについてです。


 2月9日、小林会長より、入会申し込み拒否を書面にて正式に通知がありました。

(4月20日更新)


 2月11日、日本山岳会に入れていただけないので、やむ終えず小林会長宛に以下の会見申し込みの私信を送付いたしました。


        

拝啓
 立春も過ぎまして春陽が待ち遠しいこの頃でございますが、公私ともにご多忙な日々をお過ごしのことと存じます。
 昨年末と今月上旬の二度にわたり貴会気付小林会長様宛にお便りを差し上げましたが、ご返事をいただけず日々鶴首いたしておりましたところ、一昨日「冊子受理と入会申込不受理」のご返信をいただきました。先ずもって御礼申しあげます。
 ご返信には趣意書にて弊会がお願いいたしました「名誉会員取り消し問題」の解決に対するご回答と、個人的なご面会のお願いに関するご意向についてはご返事をいただけませんでしたので、改めまして、また不躾ながらご自宅宛てにお便りいたしますことをお許しくださいませ。
 私が故父石岡繁雄の遺志を受け継ぎ、有志の皆様と共に「石岡繁雄の志を伝える会」を結成し、残すべき父の想いを伝える活動をしてまいりましたことはご存知の通りでございます。
そんな中で確信いたしたことがあります。それは、貴会と父との間に残された唯一の「篠田氏の名誉会員取り消し問題」の解決こそが、父のあこがれた先人たちによって結成され赫赫たる偉業を成し遂げてきた日本山岳会の「公益社団法人」としてのあるべき姿を示すことになるということです。
 できますれば小林様に個人的にお会いし、率直にお話させていただきたく、私どもはいつにても出向かせていただきますので、ご指定の日時・場所をご指示賜りますれば幸いでございます。
 平成に起きた問題は平成の内に解決を!と考えますと残された時間はあまりありません。この問題が皇室関係者の耳に達した場合、日本山岳会員であられる皇太子殿下にもご迷惑をおかけすることになりかねません。皇太子殿下が一点の曇りもなく次代の新たな天皇陛下におなりいただくためにも、貴会が「公益社団法人」としてよりふさわしい姿をお示しくださるよう、小林会長様のご英断におすがりしたく存じます。
 どうか私どもの声にも耳を傾けていただきたいのです。お聞きしますに、貴会員様の中には「『山日記』へのお詫びで一度は解決した篠田氏の問題を、再び取り上げるのはいかなものか」との声がおありとのこと。しかしながら『山日記』のお詫び以後に起こった篠田氏の名誉会員問題は、全く別の問題でございます。しかも、名誉会員決定時には貴会はまだ「公益社団法人」ではございませんでした。
 また、「故人を鞭打つようなことはすべきでない」などのお言葉も聞き及びますが、ナイロンザイルの岩角欠陥により亡くなりました叔父若山五朗をはじめ多くの登山者の方々や、その肉親の想いはあまりにも大きく、偽りの公開実験をして登山者を危険に追い落とした者への恨みは今でも尽きません。
 私どもは、各支部へも冊子を配付いたしましたが、その結果、「内容は理解できる」「大変だけど頑張ってください」等の声をいただいております。激励の手紙をお送りくださった支部もありました。
 今のままの状態が長引いた場合、下降線をたどる貴会の会員数がより削減してしまう等の事態も起こりかねないのではないでしょうか。
 さらには、貴会所轄官庁である文科省より行政指導が出される事態や、SNS上で炎上し「日本山岳会悪者説」が独り歩きしてしまう、などの事態も起こり得るのではないかと憂慮いたしております。
 故篠田軍治氏の真の名誉回復を図るためにも、貴会は、間違ったことは正す姿勢を示すことによって、かの地で父と篠田氏の霊が固く握手できるよう導いてくださるべきことではないでしょうか。
 父は犠牲者への想いと登山者の命を守ることをバネに、二十数年もの間、汚名を着つつナイロンザイルの安全基準を確立させました。登山者の命を粗末にする者と、登山者の安全のために私財をなげうって努力した者と、公益社団法人としてどちらに組するべきかを熟慮していただきまして、どうか前向きなご返事をいただけますことをお待ち申しあげております。
 時節柄ご自愛のうえ、益々のご健勝とご活躍をお祈り申しあげます。  敬具
   平成31年2月11日
                    石岡繁雄の志を伝える会  代表 石岡あづみ 拝 

公益社団法人 日本山岳会 会長 小林 政志 様


 2月12日、日本山岳会より冊子26冊の返却送付がありました。


 3月1日、尾上昇元会長より以下の面談申入れのメ-ルがありました。

       

☆☆ 石岡 あづみ 様 ☆☆
ご無沙汰しています。
名誉会員問題につきまして、一度お会いしたく存じます。
近々でしたら37日、8日 その後ですと328日、29日です。
場所は、小生が設営します。お一人でお越し下さい。
☆☆ 尾上 昇 ☆☆

      

 私は直ぐに、「出来るだけ早い方が良いと思いますので、7日でお願いします」とメ-ルの返信を打ちました。


 3月7日、尾上氏と面談いたしました。その内容に付きましては、以下をご覧ください。

      

2019.03.07尾上氏との面談の結果(03.19見直し)

○  日時:2019年3月7日(水)17時半~20時10分
○  場所:レストラン「リビエール」(名古屋市中区錦3-15-11セット久屋ビル10F、尾上氏予約)
○  面談先:元日本山岳会会長・元同東海支部支部長 尾上 昇氏
○  面談者:「石岡繁雄の志を伝える会」(以下「伝える会」)代表・石岡あづみ(尾上氏指名)
○  目的:日本山岳会の重鎮である尾上氏より「名誉会員問題について腹蔵なく話したい」との求めに応じ、「伝える会」の要求に対する日本山岳会の見解を確認すること。
○  結果:全く期待外れの結果であったが、日本山岳会の変わらぬ体質と、尾上氏の本音が明確になった。尾上氏の説明の要旨は下記の通り(詳細は後述);
 1.    あづみ・水野の入会申込み不受理の理由:入会の動機が篠田問題の日本山岳会内での展開が主であり、定款に定める「会の目的及び事業に賛同」とは異なるため。
 2.    石岡繁雄に対する評価:関西支部のごく一部の会員を除き日本山岳会の理事全員が認め、高く評価している。
 3.    名誉会員について:日本山岳会創立以来名誉会員になった人は92名になるが、内80名は物故者であり、現在名誉会員は12名である。篠田軍治氏は既に亡くなっており、正式には既に名誉会員ではないので、今後は「元名誉会員篠田軍治氏」とすべきである。しかし元名誉会員は形がい化している。
 4.    2月11日付「伝える会」の小林会長自宅宛書簡の影響:小林会長は同書簡の取り扱いに困惑し、理事全員(16名)に書簡を公開し、尾上氏も読んだ。文中に「皇室関係者と皇太子殿下」に言及した表現があり、これは日本山岳会に対する脅迫・恫喝とみなされ、理事全員が態度を硬化し、今後一切「伝える会」の要求には屈すべきではないとの結論に至った。

     

 この面談は私にとりまして、とてもショックな出来事でした。
 今まで親しくお付き合いしていただき、ナイロンザイル事件の語り部を自ら自称なさる尾上様から、このようなお話を伺うとは思ってもいませんでしたから…
 尾上さまは「今後一切ナイロンザイル事件の話をすることも出来なくなった。あなたとも付き合えなくなった」ともおっしゃいました。
 この日から私は神経性の胃腸炎で苦しむことになります。


 3月8日~23日、前記の「面談結果」を作成して、伝える会のメンバ-に相談、その上で、石原國利様・芳賀孝郎様・西田先生・森様・太田様のご意見も伺いました。
 皆様それぞれのご意見をお聞かせくださいましたが、結局、日本山岳会側が遺憾に思っていらっしゃるのなら、その部分を詫びる手紙を出すことにいたしました。


 4月3日、小林会長宛私信で、詫び状を出しました。内容は以下です。

     

拝啓
 新年号もきまり、新しい時代の幕開けを前に、日に日に桜前線がのび、四季の中でもっとも美しいときを迎えております。
 小林様には、日本山岳会の会長という重責を全うされ新しい会長様への引き継ぎ等でご多忙な時期かと存じますが、重ねて手紙を差しあげる失礼をお許し下さいませ。
 さて、去る3月7日に尾上昇元会長様より会談の申し入れを受け、名古屋のレストラン「リビエール」にて17時半から20時過ぎまで、お話を拝聴して参りました。
 その折の尾上様のお話のうちで、2月11日付で送らせていただきました小林会長様宛の私信につきまして、小林様は手紙の取り扱いに困惑され、理事全員の方々に手紙を公開、相談され、尾上様もお読みくださったとお聞きしました。
 文中に『皇室関係者と皇太子殿下』に言及した表現があり、これは日本山岳会に対する脅迫・恫喝であるとみなされ、理事全員の方々が態度を硬化して、「石岡繁雄の志を伝える会」の要求には屈すべきではないと理事会決定がなされ、日本山岳会はたとえ潰れることになろうとも、篠田氏の元名誉会員を取り消すことはせず、今後、石岡繁雄の志を伝える会からの取消要求には決して屈せず、会見の申し込みなどに応ずることはないし、返事を出すこともしないと決定された、とお聞きしました。
 私が「皇室関係者と皇太子殿下」に言及したことを、日本山岳会理事会は恫喝や脅迫とおとりになられた由、そんなつもりは一切ございませんでしたので、お聞きして本当にびっくりいたしました。私の書き方のつたなさが原因で、皆様にご心痛とご不快な思いを強いましたことを、心からお詫びを申しあげます。
 また、私信の中には日本山岳会内部の問題に触れる箇所があり、これは私が口出しする問題ではなかったと、深く反省しております。どうか、ご理解とご寛恕を賜りますようお願い申しあげます。
 小林会長様はもちろんお聞き及びのこととは存じますが、尾上様からは、この他、水野と私が日本山岳会の入会を拒否された理由につきましてのご説明と、日本山岳会の名誉会員は、物故されると元名誉会員となられる旨のご説明がありましたことも付け加えさせていただきます。
 尾上様から伺いました日本山岳会の理事会決定事項のことに付きましては、弊会会員や父の支援者である有識者の方々にもご意見を伺いました。そして、反省すべきは反省し、伝えるべきは伝えていくべきであると確認したところです。今後も、父の遺志である「登山者の命を守り、質すべきことを質す」ために、篠田氏の名誉会員取消を求める活動はひたむきに続けてまいる所存でございます。次期会長様にもどうか、その旨よろしくお伝え下さいますよう改めてお願い申しあげます。
 4年にわたる日本山岳会会長のお仕事、誠にお疲れ様でした。今後もご健勝にて、益々のご活躍をお祈り申しあげます。    敬具
  平成31年4月3日
 公益社団法人 日本山岳会 会長 小林 政志 様


 篠田氏の名誉会員問題のこの後の活動については、6月1日からと決定しております「ケルン墓参」で、石原國利様をはじめとする伝える会のメンバ-が集まったところで話し合うことになりました。

 
 6月1日 16:00-18:00 西糸屋山荘にて
 篠田氏の日本山岳会名誉会員撤回要求問題に付いて、「伝える会」会議

 出席者:石原國利氏・森泰造氏(岩稜会)・相田武男氏・水野高司氏・立岡恭一氏・立岡あけみ氏・小川隆平氏・小川はつこ氏・あづみ

 昨年6月2日からの活動記録資料を基に、今後の方針を決定するために話し合いました。
 全会一致で、今後もこの問題を引き続き日本山岳会に対して要求し続けて行くことを、改めて決議しました。
 その方法については、まず日本山岳会の新会長が6月22日の日本山岳会内の会議で決定した後、7月中頃を目途に、再度篠田氏の名誉会員撤回を求める書状を新会長宛に発送することになりました。

(6月25日更新)