第十二話 青龍の章         2015年1月27日起


この章では、屏風岩正面岩壁初登攀後から昭和29年(1954年)までの岩稜会と父の登山史を中心に、
年度ごとに頁を替えて掲載いたします。
まずは、初登攀後から昭和23年の出来事を記します。
それ以後の年度をご覧になりたい方は、以下のアイコンをクリックしてください。


昭和24年

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昭和26年

昭和27年

昭和28年

昭和29年
2015年4月14日更新
 昭和22年7月29日、屏風岩初登攀という大きな仕事を終えた父は、郷里に戻ったが、その時には屏風岩で傷ついた左手の小指は、小枝の副木をあてたままだった。その後、包帯を取り換えるたびに右手の親指と太さを比べたが、約二週間は親指の二倍はあった。しかししだいに腫れが引き、9月の中頃には包帯が取れた。だが、第一関節と第二関節との間の骨がないので、どちらの方向にも自由に曲がった。
 8月3日付の朝日新聞に屏風岩初登攀の記事が「正面コ-ス遂に落つ」という見出しで報道された。この記事は、この年の12月31日の『日刊スポ-ツ』に掲載された<日本人の目に映った〝スポ-ツ界世界10大ニュ-ス″>の第四位として取り上げられた。また、朝日新聞は1945年~1955年の「十年の逆算 戦後重要記事切抜集」にも掲載した。
 当時は終戦直後で、配給米以外を食べずに餓死した検事のことが紙面に載るような世相であった。新聞紙面そのものも限られたペ-ジであったから、この記事の扱いの大きさは特別のものといえる。それほど屏風岩正面岩壁初登攀のニュ-スは大きかったのである。
 屏風岩が終わった時、父は気が抜けたように、すべてが空虚で、ただ屏風岩の回想を繰り返すのみであった。しかし周囲の人々は、そうした無気力を放任してはくれなかった。一つの仕事が終わると次にその業績が逆に人を引っ張るようになる。そして父はいつしか尽きることのない登山生活へと入って行った。
 その年の12月に入って伊藤洋平氏(京都大学OB、屏風岩正面岩壁初登攀時に、父と競い合った岳友)から一通の手紙が届いた。「来年3月に屏風岩北壁の登攀を考えている。」とのことであった。父は考えてもみなかったが、登山界の常識として、無積雪期の登攀が終われば、次は積雪期の登攀である。それを伊藤氏はやろうとしているのだ。北壁ル-トの登攀にはこれといって問題はないと思ったが、はたして中央カンテは登れるのだろうか。それは父にとって戦慄以外の何ものでもなかった。この仕事は別の人、おそらくは新しい登攀用具に武装された次の時代の人達にやってもらうことだと考え、自分の気持ちをはっきりと整理したのであった。
 翌年の4月、伊藤氏から「北壁を登った。」という電報を受け取った。朝日新聞は積雪期の屏風岩正面岩壁が完登されたと報道した。もちろんこの記事は誤報で、伊藤氏らは第二ルンゼ寄りのコ-スを登ったにすぎない。
 6月に入ると、10月に福岡で行われる第三回国民体育大会の登山部門で、屏風岩登攀を対象とする表彰が行われることを知った。さらに7月4日の天声人語に、伊藤氏が屏風岩正面完登を成就(無積雪期・積雪期)したので山岳賞を設定して授与されることが掲載された。
 10月に入ったある日、突然県から電話があり、三重県登山部門の選手と役員を兼ねた代表として、国体に出場してほしいという依頼が入った。父は伊藤氏の表彰式があると思っていたので気が進まなかったが、断る理由もないので引き受けた。
 10月27日、県で結団式が行われ、父は三重県代表の他の選手・役員と共に九州に向った。
 九州では岳友の石原一郎氏の家に泊めてもらったが、その時、屏風岩の話になり、伊藤氏が登ったのは正面岩壁ではなかったことを、屏風の写真を見せて説明した。石原氏は驚いて「これは大変だ!この真相を一刻も早く国体実行委員会に知らせなければならない!」と言い、深夜にもかかわらず国体副委員長のもとに走った。
 10月29日には国体全部門の総合入場式が、完成したばかりの福岡市平和台競技場で行われた。その夜、日本山岳会の松方会長以下の幹部が集合して、国体山岳部門の最終打合せが行われた。議題が表彰の問題に移った時、松方氏が「表彰はとりやめることにしました。」と発言された。そして、変わりに記念講演がされることになり、父が屏風岩中央カンテ・伊藤氏が3月の北壁・早稲田大学の村木氏がペテガリ岳と決まった。
 その翌日、関係選手役員一同、国体登山部門の会場である九重山に電車で向った。父は伊藤氏と並んで座った。『岳人』の編集長である伊藤氏は発行されたばかりの『岳人12号』を何十冊か用意していて、それを国体役員の方々に配布した。父も一冊貰って開くと、巻頭に杉嶺夫氏執筆の「後から来る者」という文章が載っていた。その中にこんな言葉があった。「これまでにも中学校(旧制)の山岳部は少数ながら存在し、岳界の注目を引いたものもないではなかった。しかしながらその若い人たちをみると、一人の指導者の偏った教育のために、岳人としては奇形児としか思えない者が少なくなかった。その場合批判力の少ない彼らには非難さるべきなにものもなく、罪は一つにその指導者が負うべきであることは論を待たない。」父はこれを見た瞬間、屏風岩の分業作業に対する批判であると直感した。伊藤氏に「杉とは、誰か?」と聞くと、「僕のペンネ-ムだ。」と言う。登攀の主力に少年を起用したことと、投げ縄を使ったことについては、厳しい批判があることを覚悟していたが、その一番バッタ-が伊藤氏だったことには驚いた。伊藤氏の父に対する屈折した思いや批判は、本章の最後に掲載した『岳人7号』の氏編集の-編集記録 穂高屏風岩正面岩壁 あとがき-からも汲み取ることができるので、是非お読みいただきたい。
 屏風岩で葛藤を繰り返した伊藤氏との軋轢も、一度は和解したように思われたが、父が抱き続けてきた屏風岩の登攀と友情との両立という神の啓示は、このときあえなく消えた。そして、屏風岩登攀の真相を語らなくてはならないと思った。父は九州から帰ると、さっそく『屏風岩登攀記』の執筆の用意にとりかかったのである。
 その後の屏風岩正面岩壁(中央カンテ)登攀について、記しておこう。
 第二登、昭和32年10月関西登高会小泉氏(父が残したハンマ-を回収して送ってくださった。このハンマ-は現在大町山岳博物館に寄贈されている)
 積雪期初登攀、昭和33年暮れから正月にかけて、4つのパ-ティ-(第二次RCC・名古屋山岳会・雲表クラブ・関西登高会)11名により、遂に完登・成就。

 屏風岩初登攀を行った岩稜会は一躍有名となり、会員たちも血気盛んだった。
 次に昭和23年の活躍を、記すことにする。
 5月9日~11日:神戸高校山岳部含む13名、富士山登頂。日食観測。 
 
左より4人目、赤嶺山岳部部長。右より2人目母
 雪原をゆく
 富士登山の模様を報道した中日新聞
 
 昭和23年7月 岩稜会夏山合宿涸沢

 主に滝谷をアタックしたが、昨年の屏風岩の興奮が抜けきらず7月13日、総勢13名で屏風岩に向った。第二ルンゼを精鋭の赤嶺・本田・室・清水、各氏が登り、北壁ル-トを父母を含む他の隊員が登った。
 第二ルンゼは容易だと思われたが難航し、父は事前調査もせずに登攀隊を出したことを後悔したが、無事帰還してくれて安堵した。この時、はからずも母は女性として屏風岩初登攀となり、7月20日付中日新聞に掲載された。
 8月1日

 御在所岳でマラソン登山競技が行われた。
選手はサブリュックを背負った3人一組で、湯の山の大衆浴場西にある空き地から、時間を測って等間隔で出発し、裏道を登って頂上の関門で通行証を受け取り、表道を下って出発点に戻るまでの時間を競った。
岩稜会からは、室・澤田(兄)・高井の各氏がチ-ムを組んで出場した。三人は最初あまり真剣な気持ちでなく登っていたが、頂上の関門で他のパ-ティの所要時間を見たところ、自分たちが一等になる可能性があることが判り、下りは韋駄天のように駆け降りた。父は表道と武平峠との分岐点で、彼らに温かい牛乳を飲ませようと待ち受けていたが、駆け降りて来た三人は「一等か二等の境目だ!」とわめきながら、一瞬のうちに通過して行った。
 結局、一等は名古屋の三菱山岳部で、岩稜会はわずか30秒の差で二等となった。
 12月 岩稜会始めての本格的な冬山合宿

 「暁の章」で記載したように初めての冬山は昨年の鈴鹿山脈鎌ヶ岳であった。岩稜会は冬山は鈴鹿以外ではやらないはずだったが、屏風岩を登っているので当然の展開として冬山合宿となった。場所は木曽御岳(3063m)を選んだ。この山ならば雪崩もないし岩場もなく、麓の旅館から日帰りで往復できるので練習にはもってこいだった。
 この山行きの1ヶ月ほど前に、上松駅に行って、上松-王滝間の森林鉄道に無料で乗せてもらえるように交渉した。交渉の甲斐あって、森林鉄道ではガラス窓付きの人間用の貨車に乗せてもらい、一同声を限りに「青春のパラダイス」の歌を歌い続けて、すこぶり愉快であった。
 その時の御岳頂上の風と寒さはそうとうなものだった。ピッケルをピッケルバンドで吊り下げたら、風のために45度に傾いた。また、登山にスキ-を使用したが、スキ-は生まれて初めての者が多く、帰り道では3mも滑らないうちに転んでは雪だるまになり、やっと立ち上がってはまた転ぶという展開で、無事下山できるか危ぶまれたが、幸いにも満月が雲間から照らしてくれて、風も収まり助かった。
上松駅
王滝村の家高氏旅館(現在の温泉旅館「たかの湯」)




 この年父は、始めて日本特許を取得している。また何冊かの山岳雑誌に投稿している。以下に月日順に、その表紙を掲載し、内容はその表紙をクリックしていただけばお読みいただける。古い書物なのでお見苦しいかも知れないが、ご覧いただければ幸いである。
 1月20日付「岳人」7号
<穂高屏風岩正面岩壁>

この文は編集長の伊藤洋平氏が
編集された物である。

4月1日付「岳人」9号
<北穂高西面-滝谷>


8月20日 
昭和19年10月9日に出願
特許発明明細書
「不足電圧開放器の改良」

この表紙は本文なので
上の文字列をクリックして
ください。ご覧いただけます。
10月1日付「山小屋」153号 
<一修行者の手記>




昭和24年にご案内いたします。
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2015年3月2日掲載