-惜別-

石岡繁雄の志を伝える会の統括 水野高司さん逝く
上の写真をクリックしてください
「水野さんを偲んで語る会」の様子がご覧いただけます



 10ヶ月に亘る闘病生活の末、水野高司さんが逝かれました。

 水野さんは7年前に奥様を肺癌で亡くされており、豊田市で一人暮らしをされていました。息子さんが二人いらっしゃるのですが、長男亮さんはアメリカ在住、次男佑さんは岐阜在住ですが、お仕事が忙しくて、とてもお父さまの面倒をみられないとのことで、私たち石岡繁雄の志を伝える会の近場のメンバ-で、水野さんを支えることになりました。
 療養時は、基本拙宅で過ごしていただきました。その間、留守になる豊田のご自宅は、知立市在住の前田さんが監理をしてくださいました。肉親同伴を求められる医師からの説明の場には、次男佑さんが主体ですが、お仕事が抜けられないことが多く、代わりに私が就きました。私は肉親でないため、亮さんと佑さんから委任状をいただき、持参で付き添わせていただきました。
 最後まで望みを捨てず、苦しい闘病生活を闘い抜きながら、生涯の命題となった「石岡繁雄文書資料」の目録化に命を燃やし尽くされた水野さんに、感謝と敬意を表しつつ、共に闘った仲間として、以下に、その模様を記させていただきます。



令和5年10月25日 20時01分 享年76歳

水野さんの経歴と想い出の写真をご覧になりたい方は、上の写真をクリックしてください
このペ-ジの最後からでもご覧いただくことができます


水野さんが記された「治療経過と予定」

20231月~5月 水野高司 治療経過と予定(2023.5.23現在)
〔敬称略:あづみ・相田・前田・小川夫妻は「石岡繁雄の志を伝える会」会員、亮:高司長男、祐:同次男〕

2023126:1月初旬より胃の調子が悪く、時々嘔吐があるので、遠藤内科(かかり付け医)で受診・超音波検査したところ、すい臓が不鮮明で刈谷豊田総合病院(通称刈総)を紹介さる。

127:刈総受診。血液検査。26日胃カメラとCT検査予約。〔212日福岡県直方市:石原國利様告別式出席〕。

26:刈総で胃カメラとCT検査。血液検査の結果、腫瘍マーカーCA19-9238と高く、直ちに、膵臓の造影剤CT検査実施。

29:刈総、組織は採ってないが、画像より、膵臓癌と判断、名大病院に転院することになるが予約が取れず、216日まで石岡家で闘病生活。…ほとんど食べ物が喉を通らず嘔吐。

214日:遠藤内科受診し、食事療法の指導を得る。

216:刈総の担当医緊急受診。即入院。228日名大病院消化器内科川嶋教授予約。〔昨年末63Kgあった体重が223日に54.1Kgまで減少〕。

2月28日:刈総を退院し、名大病院消化器内科教授による診察後、38日入院予約。

31:セカンドオピニオンの兵庫県立粒子線治療センターの沖本病院長によるリモ-ト診察〕。

32:刈総受診、主治医の診断で即入院。(この間連日嘔吐あり、終日点滴治療)。

38:刈総退院後、同日名大病院に入院〔入院時の体重49.5Kg〕。同日午後から、膵臓癌についての詳細な検査開始。内視鏡検査の結果、十二指腸の出口がほとんど詰まっていたことが解り、急遽ステントを入れる手術(消化管狭窄拡大術)を受ける。

39日:MRI検査。

310:超音波検査・内視鏡検査・膵臓癌細胞採取。〔10日から主にエレンタールで栄養、11日からはスープ・全粥の食事開始〕。

313:PET検査。

314:食べられるようになったため点滴外れる。19時:名大の担当医(片岡邦夫医師)による病状の説明(家族同伴):原発の膵臓癌の血液検査結果は、最初に量った時にはCA19-9280位だったが、4000以上になり癌が暴発している。PETによる遠隔転移は無いが、肝臓とリンパ節に転移が見られるため、抗がん剤治療に入る。身体が弱っているため強い抗がん剤は投与できないので、最初は弱い薬からはじめる。

316日(木):10時頃兵庫県立素粒子医療センター沖本院長先生より、状況確認のお電話あり、概況説明し、次回は第1クールか第3クールが終了する頃の名大病院の判断が出る頃とす。

316:抗がん剤ゲムシタビンを単体で標準量の80%投与開始。17日、発疹が出始めたため、薬を処方される。(21日には全身に拡大、27日にはほとんど気にならない程度)18日より悪寒・発熱〔最高37.8°〕・頭痛・腹痛)3日間ほど続く。317日より便秘、20日軟便剤服用・直ちに下痢・排便あり。以降23242627283043日・4日服用。

323:採血後特に問題なく、2回目投与。体重は52.8Kgに回復〔むくみのせいか?〕。

324:CVボ-ト埋込手術。足にむくみが出ており、利尿剤が処方される。

326:石岡宅にて、あづみ、前田、小川夫妻、水野の闘病用寝室にベッドを設置する。

328:豊田市介護保険課Ms.大岩、来院し、介護認定の面接を受ける〔介護認定依頼は322日、包括支援センターMs.一志より代理依頼。豊田市の認定は420日前後〕。

330:投与3回目。1-ル終了。

3月31日:退院。あづみピックアップ後、水野宅にて前田と合流して、水野の必要な荷物を鈴鹿に運ぶ。〔41日、39.1℃まで上昇するもアイスノンで平熱に〕。

43日:村瀬病院訪問看護ステーション管理者Ms.齋藤香保里来訪、415日・21日・28日訪問看護の仮契約。〔5日以降は軟便剤に頼らず排便。7日は54.1Kg、むくみピーク、8日より軽減、952.7Kg〕。

48:10時頃水野宅にてあづみ・前田・祐・水野合流して、水野宅の居間に介護ベッドを置けるように片付け。

48:13時半、豊田みのり福祉会つつみ園地域包括支援センター主任介護支援専門員Ms.一志真弓来宅、「介護予防支援・介護予防ケアマネジメント」利用契約す。夕方帰鈴。

49日・10日:小川夫妻来、10日相田さいたま市より来〕。

―以下、510日名大病院入院まで、帰宅時と治療期間以外は石岡宅で「石岡文書資料」の目録作成―

413:あづみの車で6時発、名大病院外来へ。血液検査結果(ほぼOK、腫瘍マ-カ-:CEA5.7CA19-940002405)後、第二ク-ル1回目の抗がん剤(1クールと同)点滴。〔降圧剤ロサロヒド服用再開、常備薬4W分〕。

4 20日・27: あづみの車で6時発、名大病院にて、採血後ほぼ問題なく、第二ク-ル2,3回目抗ガン剤点滴。

53日~7:朝あづみ車で四日市にて祐車ピックアップ、水野は帰宅し、祐一家と過ごす。

53: つつみ園地域包括支援センターの手配で、介護ベッドを居間に搬入(前田来)。

54:自宅に喜代子姉・睦・環・高橋純子姉・辰男見舞い来訪。

57:あづみ車で石岡宅へ。

5 10:あづみ車で7時発、名大病院に入院。3N病棟N311号室。採血・心電図・造影剤CTX線。片岡医師より採血結果の説明:血小板値が427日同様低いので、体調の安全を優先要す 他は特に心配ない 腫瘍マーカー:CA19-9は約2000413日は2405)で悪くはなっていない 画像では肝臓に腫瘍らしきもの1個は確認 511日以降の抗がん剤治療:ゲムシタビン(通常の80%+アブラキサン(同60%)でスタート。18日は外来混雑のため、入院治療とする。

513日~17:発熱は無いが、倦怠感が有り、食欲不振、歩行時に両脚(膝)の関節痛、鼻水、頭部かゆみあり。

518:採血後、白血球・血小板の低下は有るが、特に問題なく、第3クール第2回目点滴実施。18時片岡先生往診:明朝は不在なので、体調異常が生じた場合はためらわず看護師に連絡のこと、退院中止の手配をしておく由。

518:水野より片岡先生に、現状の治療をした結果、膵臓癌の粒子線治療を受けられる可能性について問合せした結果は以下の通り;
他の臓器への転移がないなど、素粒子治療のハードルは高い 水野が運よく抗がん剤が効く体質で、現在の肝臓の腫瘍が消える場合は、むしろそのまま化学療法を継続した方が良いとも言える 更に2本の動脈の癒着が無くなれば、膵臓癌摘出手術の可能性もある 水野の消化管は、膵臓癌の圧迫で先端部が潰れ、ステントを入れて機能させているので、症状が改善して粒子線治療を受けた場合、消化管の壁が損傷を受けて穴が開く恐れがあり、その場合は緊急手術を要し、命にもかかわる 現状では肝臓に最低1個は腫瘍らしきものが見られ、素粒子線治療を検討できる段階にない 水野の場合、アブラキサンを追加した結果、副作用が強く出るようであれば、当初のゲムシタビン1本で気長に治療をした方が良い可能性もあるが、今の処大丈夫そうなので、体調と採血結果で毎回判断したい。

519:特に体調に異常なく、予定通り退院。

519日~24:この間の主な体調(副作用)、倦怠感・食欲不振・歩行時両脚の痛み(ストック必要)・鼻水・頭部のかゆみ。

525: あづみの車で6時発、名大病院外来で、採血・診察・第三ク-ル3回目抗がん剤点滴〔ゲムシタビン(通常の80%+アブラキサン(同60%)〕予定。

61:あづみ車で6時半発、刈総病院整形へ。8時半X線、9時柿本医師最終診察。

68日以降の予定は未定―

67日~727:祐、法務省霞が関で研修。

613日~75:亮一家、米国より帰省。



2月22日

 2月9日から、拙宅で療養していらっしゃった水野さんですが、様態が悪く何を食べても戻されてしまうため、日に500gずつ体重が減ってしまい、このままではいけないと、16日に緊急で刈総を受診しました。結果、即入院となりました。
 この日、水野さんのお見舞いを兼ねて、頼まれた荷物をお届けしました


刈谷豊田総合病院(通称:刈総)にて

この病院では、コロナ対策として、入院時の直接面会はできません。病棟のある階の仕切られた入口の前に呼び出していただいて、ガラス越しの面会となります。上の写真は、ガラス越しに水野さんが撮ってくださったものです。

痩せられてしまった水野さん

2月28日、名大病院受診のため退院


3月1日

兵庫県立粒子線治療センターとのリモ-ト診断で、亮さん・佑さんと共に、病院長の沖本医師と話される水野さん


3月2日

刈総入院のため、一路刈谷へ
上の写真は、刈総に向かう途中の伊勢湾岸道で、水野さんが車窓から写された虹です


3月4日

佑さん一家のお見舞い
佑さんの奥様と、お孫さん


3月5日

前田さんと共に、水野さんのお見舞い


元気にダブルピ-スでポ-ズ



水野さんと前田さん

水野さんと




前田さんと

ガラス越しでの対面は変な感じです
会話が聞こえにくいため
携帯を使って話します

3月8日

 刈総退院後、名大病院に入院
 午後から、膵臓癌についての詳細な検査がはじめられました。内視鏡検査の結果、十二指腸の出口がほとんど詰まっていることが解り、急遽ステントを入れる手術を受けられました。
 1月から嘔吐を繰り返された原因が、やっと判明しました。もっと早く検査を受けられれば、こんなに痩せなくても済んだのにと、とても悔やまれました。


病棟のラウンジにて

入院の手続きの書類や、同意書などに書き入れる水野さんと、佑さん




ラウンジでは、入院患者さんが食事を
摂ることが出来ます
給茶器や電子レンジが備えられています


水野さんの病室

名大病院も原則面会は出来ません
入退院の時にだけ入室が許されます


病室に落ち着いて




病室内シャワ-室



洗面所

トイレ



病室で看護師さんの診察



3月20日

 入院後、検査と栄養点滴の日々でしたが、14日には食べられるようになったので点滴も外されて、19時から佑さんと共に医師からの説明を受けました。やはり腸に癒着が見られ手術は無理とのことで、抗がん剤で癌を叩いて小さくしてから、重粒子線治療に移行できるかも知れないが、身体が弱っているため、弱い抗がん剤から始めるとのことでした。その投与は16日から始りました。抗がん剤の投与は、週に1回点滴をして、それを3週繰り返し、1週お休みで1ク-ルと言う事で、それを3回繰り返します。要するに3ヶ月で第三ク-ルまでが終了する予定ですが、抗がん剤の副作用で体調が良くない場合は、打てないこともあると言う事でした。
 この日は、外来化学療法室(抗がん剤を投与するための部屋)で、家族同伴の説明と同意書の捺印があり、佑さんが来られないとのことで、私が捺印しました。


書類に記入

その都度、何度も書かなくてはならない
病歴などの記入をされる水野さん

どんな時も、にこやか



3月26日

 今までは、以前から他の皆さまと同様に、母屋の二階の寝室で休んでいられた水野さんですが、これからは本格的な闘病生活を過ごされることになるので、水野さんのお部屋を用意することにしました。
 この日、前田さんと隆平さんが来てくださり、母屋の居間を片付けて、二階にあったベッドを下して、絨毯を敷いてお部屋を作りました。


ベッドの組立をしてくださる

左、前田さんと
右、隆平さん

用意したベッド

8畳間一間では、手狭だと思いますが
食事などは今まで通り私の部屋でしていただいて、休む時だけこの部屋を利用してもらうことにしました


 ここで、2016年から延々と続いている「石岡繁雄文書資料」関係の仕事について、記しておきます。
 2021年3月には、東海国立大学機構(名古屋大学)大学文書資料室のフェッブサイト内のオンライン資料検索システムに、「石岡繁雄文書資料」の第一回公開分5063資料の目録詳細情報が公開されました。また、この3月には第二回公開分5238資料が追加公開されました。その公開のための作業に追われながらの、水野さんの病との闘いでした。
 公開後は、第三次公開のための作業に取組んでいます。水野さんは「先生の全ての資料の公開が終わるまで、後5年はかかると思っていたが、何とか2年で終わらせる。それまでは是が非でも死ねない」と仰って、病を押して新目録の入力作業に熱中されました。
 この作業の中で、また問題が発覚しました。資料が入っている箱の番号に間違いがあり、中身が何なのかさえ解らない資料があるという事です。このことは昨年9月に解ったことでした。この問題を解決するためには、解らない資料が入っていると思われる箱の中身を全て調べなくてはなりません。文書資料室側でも調べてくださったのですが、特定することができませんでした。最初に寄託した際の、私たちの分類整理の仕方が悪かったせいもあり、私たちで文書資料室に出向いて、各々の資料に付けられている旧名大番号と資料の照合、その資料が入ってる箱番号を調べるという仕事を、始めました。昨年は水野さんと二人で2回の照合作業に出かけました。今年4月からは、前田さん、小川夫妻、森川さんにも文書資料室に出かけていただき、4回の照合作業をしました。これで何とか、資料との照合作業が終わり、公開する資料の目録作成ができるようになりました。
 今年6月からは、検案の120冊ある「手帳」の解読浄書を始めました。これは立岡さんを主力に、前田さん、相田さんも参戦してくださり、手分けして行ってくださっています。
 また、先日から小川隆平さんが、「音声・映像」関係の資料の目録入力をはじめてくださっています。

 

4月1日

 水野さんは入院中、医師の指示通り、毎日のストレッチと1日4000歩のトレ-ニングをこなしていらっしゃいました。3月31日に退院され、この日は日課のストレッチの後、散歩に出られました。以下は、その時に水野さんが写された写真です。


拙宅の庭に咲く花

クリスマスロ-ズ・アネモネなど


神戸高校のグランドに咲く桜

桜の大好きな水野さん

神戸城址の石垣



神戸公園の桜

帰られた後、39.4°の発熱(>_<)
これ以後、散歩に出られることはありませんでした
その代わり、廊下から階段にかけてを歩いて何度も往復するトレ-ニングをはじめられました
本当に努力家です!!


4月20日

 拙宅での生活は、食事・トレ-ニング・お昼寝・お風呂以外の時間を全て費やして、「石岡繁雄資料」の目録入力作業に専念されました。ほぼ一日6時間は座ったまま、パソコンの前から動かれず、「ここに居させていただくと仕事が捗って助かります」と言っていらっしゃいました。抗がん剤の副作用で、辛い時もお有りだったでしょうに、辛い顔もされず。。。
 この日、名大病院で第二ク-ル2回目の点滴を受けた後、刈総で保険の申請をなさいました。前田さんと合流して、豊田の家に来ている郵便物などを受け取って、一緒にランチをしました。

 

刈総の食堂にて

前田さんと私

刈総の食堂のお料理はとても美味



 ここで少し、この頃の拙宅の状況について記します。
 昨年4月に村瀬病院に買っていただいた土地のうち、研究所の土地は、立派な車庫が建つ駐車スペ-スとなりましたが、裏庭の土地は、大きなクスノキもそのままの状態が続いていました。3月末に村瀬病院の内海さまがお越しになり、「裏庭の土地を駐車場にするので、石岡さんとの境も工事の対象になります。ご協力をお願いします」とのことでした。もちろん快諾いたしました。この工事が、4月から6月初旬まで行われました。


4月9日

クスノキのお祓い


4月12日

工事が始りました
新緑の芽吹くクスノキともお別れです
村瀬病院側の土地は、150cmほど掘削されて
裏の細道と同じ高さに下げられます

4月14日

切り倒されたクスノキ


同日

裏庭には、石や敷石が沢山あるので
工事は大変です
この後、手前にあるパイプに
目隠しの鉄板がはめ込まれました

4月19日

小川夫妻と、工事現場を東側から見学
撮影は水野さんです


4月28日

拙宅側の井戸の側面が現れました


4月29日

コンクリ-トのL板がはめ込まれて
掘削作業も終盤です

 

6月1日

拙宅との境界に、水色の塀ができました
この立派な塀も
村瀬病院が建ててくださいました


5月3日

 朝、佑さん一家と伊勢湾岸道「みえ川越」インタ-を降りたところで合流して、水野さんはご自宅に帰られました。


ご自宅にて、佑さんご一家と



前田さんが訪問されて

介護用ベッドの搬入

ご自宅では、二階に寝室がありましたが、4月8日に一旦帰宅なさり、佑さん・前田さんと共に一階居間を寝室にするために片付けました
介護認定を受けられて、このベッドの導入となりました


ベッドが出来た

この部屋の隣が食卓のある居間で
その隣が台所です
トイレとお風呂も近いし
快適に暮していただけるようになりました

5月4日

 水野さんの二人のお姉さまと、ご親戚の方々がお見舞いに来られました


水野さんのご親族

左端から、水野さん・次姉高橋純子様とご主人・一人置いて、長姉近藤喜代子様

  

持ち寄ってくださった食材で

5月7日にはお迎えに行き
拙宅にお戻りになりました

5月10日
再度名大病院に入院


詳しい検査のための入院です
その後、18日には第三ク-ルの2回目の点滴をされました

 
5月19日
名大病院退院

帰り道で、マグロレストランにてランチ

水野さんはマグロの赤身のお刺身が大好物です


5月25日
 
 名大病院に、第三ク-ル3回目の抗がん剤点滴を受けに行きましたが、採血の結果、血小板が減少しており、点滴を受けることが出来ず、6月1日に延期となりました。
 水野さんが点滴を受けていられる間に、私は文書資料室に行って、森川さん・前田さんと合流して、資料の照合をする事になっていました。急遽水野さんにも付き合っていただいて、水野さんは車の中で休んでいただいているうちに、3人で照合をしました。


8:30
名大病院内レストランにて朝食



13:30
浜木綿にてランチ

名大病院に通院の時は、朝が早いため
朝食は病院に着いてから摂ることにしていました。生ジュ-スは、頼むことが出来ないので、レモン2個を絞って、野菜ジュ-スやリンゴジュ-スなども持参して、混ぜて作りました。
この日は、森川さん・前田さんとご一緒だったので、ランチは名古屋で摂りました。


6月10日

 5月25日に森川さん・前田さんと行った、父の手書きの展示物の照合作業の結果を、帰ってから整理しましたが、どうしても納得のいく答えが得られず、6月1日の点滴の時に、文書資料室に寄り、貸出を受けて来ました。借出しを受けた展示物(模造紙に書かれた解説文)は、全て開いて順に並べ替えて、破れているところは中性紙で裏から補強しました。水野さんと二人で、中性紙を破れの長さに切って、糊付けして、乾かして。以下がその時の写真です。


母屋の座敷



丸めて保存されていた模造紙

糊付け後の乾燥は場所を取る

仏間と、納戸部屋も利用して


補強した模造紙

重ねられないので、少しずつずらして
乾かします


水野さん

中性紙を切って糊を付ける役目




破れを塞いで、模造紙を並べる役目


6月11日

 模造紙の順番が難解で、小川夫妻に特定を手伝っていただきました。


文章を読んで、続く模造紙を探す

はつこさんと私


隆平さん

まとまった模造紙は、旧名大番号別に筒に納めて、両端を中性紙で覆い、和紙のこよりで結びました。結果、24本の筒にまとまりました。


6月13日~7月5日

 亮さん一家が帰国されるため、6月12日に豊田のご自宅に水野さんをお送りしました。
 13日からは、亮さんが料理の腕を振るわれました。また、その間にこれからの治療についての話合いもされ、佑さんが調べて購入された「がんに勝つ」という食事療法の本を、取り入れることになりました。
その食事療法については、以下に詳しく記します。


食事療法の生ジュ-ス

亮さんがスム-ジィマシンを購入されて
毎食前に飲まれるようになりました


足を鍛えるためのマシン

こちらも亮さんが購入されたSIXPAD
ウォ-キングに加えて、毎日使用

6月22日

 私は車がドッグ入りしていたため、電車で名古屋に行き、金山で前田さんと合流後、文書資料室で手帳などの照合作業をしました。
 水野さんは亮さん夫妻と名大病院に通院されて、抗がん剤の点滴を受けられました。
 その後、浜木綿で合流して、亮さん夫妻と初顔合わせ、ランチをしながら話させていただきました。


名大病院の飲食スペ-スにて

亮さん夫妻

浜木綿にて

左から、水野さん・私・前田さん・亮さん


奥様も入って



浜木綿のランチセット

6月30日

 亮さん一家と水野さんは、「魚魚丸」知立本店にてお食事。
水野さんはこのお店がお気に入りで、私も何度も連れて行っていただきました。


亮さんと水野さん



亮さんご一家

左から、奥様・長男さん(高校生)・
長女さん(大学生)・亮さん・水野さん


お嫁さんとお孫さんお二人

お孫さんは
アメリカンスク-ルに通われています


積み上げられたお皿
 

7月4日

 水野さんが拙宅に戻られました。息子さんたちと決められた食事療法を実行するために、持帰られた本を熟読して、以下のことをまとめました。
 スム-ジィだと繊維が残り過ぎて胃に負担がかかるため、ジュ-サ-を購入しました。以後、毎日食前3回の生ジュ-スを実行しました。ジュ-サ-は、使用後必ず分解して洗浄しなければなりませんが、その分解に力が入り、手が青地になるほどでした。そこで水野さんが手伝って下さり、分解後の下洗いもしてくださって、とても助かりました。
 水野さんは食通なので、治療食であっても、出来る限り美味しい物を作るように心がけましたが、とても難しく大変でした。


2023年7月10日~がんに勝つ ! ジュ-ス&ス-プ生活100日間、2023年10月18日まで

✧ 無添加・有機栽培・塩不使用を念頭に置く
  レモン・人参は、無農薬有機栽培の品を通販にて購入
  調味料・野菜・有精卵平飼卵等は近所の自然食の店にて購入
✧ 四つ足の肉は厳禁
  タンパク質は、鶏・魚・豆腐等の豆類・卵(1日1個)から摂ること
✧ 塩分は出来る限り摂らない(塩不使用はほとんど不可能なので、1日5g以下を実行)
✧ 特に膵臓癌には、レモン・人参・大根が良い
  余命半年と宣言された患者さんが、生ジュ-スだけで全快した例あり

毎日、摂取した方が良い食品の目安
レモン(6個)・はちみつ(大2杯)・ヨ-グルト(300~500g)・りんご(1/2個)・キャベツ・ブロッコリ-・小松菜・玄米・ニンニク・豆腐等タンパク質
ジュ-ス : 搾りたてのジュ-ス500mlを食前に3回
<ジュ-スの例>
1. 人参5本・レモン1~2個・りんご1/2個で500ml
2. 青汁200ml・ピ-マン2個・トマト1個・大根1/5本・レモン1個
3. キャベツ200g・小松菜100g・セロリ1本・人参1本・リンゴ1個・ピ-マン1個・レモン1個・はつみつ大1

毎日の献立に取り入れた方が良い食品
3食に、レモン2個+人参2本+大根+α、のジュ-ス約400ml。1日に、ヨ-グルト300-500g・リンゴ1/2(ジュ-スでも可)・はちみつ15-30cc・トマト1個・ニンニク2かけ・玄米・豆乳・豆製品・プル-ン・きのこ類・海藻類・いも類・玉ねぎ1個・ピ-マン・パプリカ・キャベツ・小松菜など野菜

7/6~14日に作った料理の内、水野さんがお気に召した物
〇 キノコととろろ芋の蕎麦
〇 キノコとアサリのス-プスパゲッティ
〇 白身魚のソティ-、バタ-・白ワインソ-ス添え
〇 ゴ-ヤチャンプルー
〇 玄米ご飯の親子丼

 
 8月11日~16日まで、水野さんは豊田の家で佑さん一家と過ごされるため、指針になるようにと思い、7月16日から献立表を作成しました。以下の献立表の内、水野さんがお気に召して、定番とした物は黄色塗りつぶしになっています。


この日以降の献立表をご覧くださる方は、上の献立表をクリックしてください


ジュ-サ-の取説を読む私

パナソニック低速ジュ-サ-

これには本当に泣かされました
使いにくい家電ダントツのNo.1(>_<)
使用後にどうしても部品が外れなくて、電気屋さんに何度も来てもらいました
電気屋さんも力づくで外して、3度目には本体の可動部にハンドクリ-ムを塗って、やっと外れるようになりました


生ジュ-ス用の食材

キュウリは拙宅の畑で採れた物

今年は豊作で、処理に困って毎回1本ずつ入れていました
キュウリが採れなくなって、入れるのを止めたら、水野さんも私も胃の調子が悪くなり、慌てて購入して入れました
キュウリって消化に良いのかなぁ!?


使用中のジュ-サ-

沢山出来てしまうので
おこぼれを私もいただいていました
絞りカスも沢山出来て
畑の肥料にしました


定番の朝食

減塩食パン1/2、減塩チ-ズのせ
野菜ス-プ
フル-ツいっぱいのヨ-グルト
塩分量は約2g


定番のランチ

素麺は無塩の物
つけ汁は50ccを水で薄めて
塩分量は約1g


ちっと豪華な夕食

サラダと車麩のピカタは二人前です
塩分量は約1.5g

この朝・昼・夜の献立にしてから
私の血圧はみるみる下がりました
130/90から110/70 !!
生ジュ-スが良かったのか、
減塩が良かったのか? びっくりでした


亮さん作の素麺

同じ素麺でも大分違うね
美味しそう

 

8月7日

立岡夫妻がお見舞いに来てくださいました

 

 8月11日から16日まで、佑さん一家と共に過ごされる水野さんに、食材を持帰っていただきました。下は、その時に参考のために作った資料です。

 
          
 持ち帰り食材(多めに5日分として)などについて
                (8/11 9時半更新)

<持ち帰り品一覧>
レモン30個・人参15本・キュウリ8本・減塩醤油・人参ジュ-ス3本・トマトジュース3本・リンゴジュ-ス3本・減塩食パン3枚入り1袋・減塩チ-ズ6枚入り1袋・ゆうあい自然だし・野菜ブイヨン・国産青汁・ジョア3本・ヨ-グルト5パック・豆乳1リットル・玄米ご飯5食分(冷蔵2・冷凍3)・朝のス-プ3日分・夜のス-プ3日分・鶏ミンチ1パック・鶏こま切れ肉1パック・卵5個・そば(200g入り)2袋・そうめん(200g入り)1袋・スパゲッティ(300g入り)2袋・そうめん汁・リンゴ1個・キウイ5個・トマト大4個・自家製トマトソ-ス・大根4/5

<毎日の食事基本>

朝食(7:15~)
〇 ジュ-ス(3食共食前):レモン2個・人参1本・大根大5cm輪切りを厚めに皮をむいて・はちみつ大匙1~2(これは朝だけ入れています)+果物(リンゴ・ナシ・キウイ等)、又はトマト
 ✧ これで400cc~500cc作ります。足りないときはジョア又はジュ-スを足す。
〇 野菜ス-プ(野菜は全て細い千切り):人参4cm・玉ねぎ1/4・ピ-マン2個+アスパラ・オクラ(これは自家製です。採れた時に入れます)・野菜ブイヨン1/2袋(水200ccに対して)
〇 減塩食パン1/2、減塩チ-ズ1枚のせ
〇 ヨ-グルト:ヨ-グルト200ml・果物(何でもOK、2種類ほど)・ブル-ベリ-ジャム

昼食(12:00~)
〇 ジュ-ス
〇 麺類、雑炊など(量は少なめ)
 ✧ 素麺の場合のつけ汁は、薄めて使用しています。
〇 ヨ-グルト:朝と同様の物

夕食(19:00~)
〇 ジュ-ス+青汁1袋(お風呂の前に)
〇 ス-プ、みそ汁など野菜入り汁物
〇 鶏肉、魚を中心に1品
〇 玄米ご飯
 ✧ 飲み薬に替わってから、食欲が落ちていらっしゃいますので、一汁一菜にしています。

<連絡事項>
〇 食品は無添加・有機農法・無農薬を心がけています。
〇 塩分は1日5g以下を心がけています。
〇 卵は平飼いの有精卵にしています。今回持帰っていただくつもりで買いに行きましたが、お盆前で完売でした。在庫だけ持帰っていただきます。
〇 鶏肉は、持帰っていただく物を利用してください。
〇 牛肉・豚肉などの四つ足は一切使用していません。
〇 油はオリ-ブオイルが基本です。無塩バタ-とごま油も使用しています。オリ-ブオイルがなければ買っておいてください。
〇 余った調味料は、こちらに持帰ってもらってください。
以上
                                 2023年8月9日


8月29日

前田さんが水野さんの郵便物などを
持参してくださいました

水野さんは、ここぞとばかり、いつもはご自分でしてくださっている庭のレモンの木の剪定を、前田さんに頼んで、前田さんはレモンの棘でボロボロになりながら、水野さんの言われるように剪定してくださいました
拙宅の庭木の監理は、いつも水野さんがしてくださっていますので、気になって仕方がないようです


 9月20日に名大病院でCT検査があり、その結果が21日に出ました。しばらく前から、水野さんはお腹が膨らんで来ていて、CTの結果と主治医の診断で、腹水が溜まってきていることが判りました。また癌が腹膜へ転移していることも解って、主治医は「これ以上抗がん剤を続けることは、身体にばかり負担がかかって、癌は大きくなる一方なので、中止しましょう。今後は、名大までの通院も難しくなると思われるので、ご自宅療養かお近くのポスピスに転院を考えてください」とのことで、落胆しましたが致し方なく。。。診断後、名大の地域包括支援センターに行き、相談しました。三重県では「鈴鹿中央病院」と「桜の森病院」が連携が取れているとのことで、帰宅後、水野さんと相談して、25日には「桜の森病院」を見学に行きました。
 これからどうして行くか、佑さんにも連絡を取って相談しました。水野さんはやはりご自宅に帰りたいような素振りでしたので、私はこの頃、名古屋にお勤めだった佑さんに、豊田のご自宅から通勤していただいて、基本的には介護や看護の方を頼んで、前田さんと私が週に2,3回訪問するという案を出しましたが、佑さんがご無理とのことで、今まで通り鈴鹿で闘病していただくことになりました。


ミニ実験機を使って説明される水野さん 
生前最後のお写真

 
9月30日
 三重県生涯学習センタ-での歴史探訪(この模様はhttps://www.shigeoishioka.com/new95.htmlをご覧ください)に来てくださった方から、7月にご連絡があり、「ミニ展示室を見学させていただきたい」とのことで、快諾してありました。この見学がこの日に有りました。
 水野さんはこの頃、腹水が溜まってお腹が苦しくてほとんどお食事が入らなくなっていられました。でも生ジュ-スだけは、「命の素だ」と仰って、1日3回時間をかけてお飲みになるような状態でした。それでも、見学者の方々に実験をお見せするのだと、朝から実験装置のメンテナンスをしてくださいました。
 9時20分に石碑前で4名の方々とお会いして、石碑のご説明をした後、母屋のミニ展示室にご案内しました。最初は私が展示室のパネルなどの説明をして、水野さんをお呼びして、実験をしていただきました。苦しい中、しっかりと立ってご説明される水野さんの気力に感服しました。
 この見学に来てくださった方々は、神戸高校の出身者で、1名の方は山岳部だったとのことで、今はこのグル-プで山に登っていらっしゃるとのことでした。
 11:30終了。


10月3日

 10時30分「鈴鹿医療科学大学付属 桜の森病院」初診。
 桜の森病院は、鈴鹿高専正門の前にあり、数年前に出来たばかりの病院です。病室は25室で全て個室です。病室にはデッキもあり、綺麗でとても閑静な感じでした。鈴鹿高専は父が勤め、私たちの会が8年前に展示をさせていただいたこともあり、懐かしい場所でしたので、その学校が見える病院を水野さんは気にいられました。そこで最後の闘病をすることになさいました。
 担当医は太田先生と言う女医さんで、優しそうな方で、週に一度水曜日に受診することになりました。この日、処方された薬は麻薬を含む痛み止めが主でした。


桜の森病院のパンフレット



 
10月10日

 二度目の桜の森病院受診日です。腹水は溜まりに溜まっているものの、腹水を抜くと身体が弱るので、なるべく抜かない方が良いとのことでした。また、できるだけ早い機会に自宅療養に切り替えることにして、これからは、この病院から、看護師さんが一日置きに来てくださり病状をチェックして、必要とあれば病院長の渡部先生が往診に来てくださるとのことでした。
 能天気な私は、これからいよいよ本番の闘病生活がはじまるのだと思っていて、後2年以上はこの体制で行くのだろうと思っていました。水野さんも前向きで、「腹水を抜いてもらって、楽になったらまた目録作成の続きをやります」と、日々仰っていました。
 翌日、早速、訪問看護師さんがお見えになり、水野さんが気にしていらっしゃった、細々とした身体のこと(足の爪を切るなど)を適切に処置してくださいました。もし病状が急変した場合は、休日でも夜間でも飛んで来てくださるということで、本当に安心しました。


10月17日

 桜の森病院3度目の受診の日でしたが、私が午前中に通院があり、午後からの受診にしていただきました。
 この日は、病状の事などもあり、始めての病院を是非知って置いていただきたいと思い、無理を言って佑さんに来ていただくことにしました。
 お昼過ぎに佑さんがいらっしゃり、14時30分からの診察を受けました。結果、今日これから腹水を抜くことになり、一泊二日の予定で急遽入院が決まって、私は慌てて入院準備に帰宅しました。荷物を持って駆けつけた時には、病室でもう腹水を抜いていらっしゃいました。なかなかうまく行かず、3度針を刺し直して、やっと水が抜けてきました。その時には18時30分になっていました。佑さんが帰らなければならないと言うので、後ろ髪を引かれつつ、佑さんを乗せて帰宅しました。
 次の日から、一日3回、生ジュ-スを届けに病院に通いました。
 朝7時15分に病室に着いた時には、腹水を抜いた水野さんのお腹はぺちゃんこになっていました。水は4Lも抜いたとのことでした。水野さんは「まだ苦しいように思うのは、脳が今までの苦しさを覚えている残像なんですよ」とおっしゃって、笑っていらっしゃいました。ジュ-スも残さず飲んでくださいました。この日、退院できるのかと思っていたら、先生が「少し様子をみましょう」と言われて、退院はお預けとなりました。今夜の夕飯は、久しぶりにご馳走にしようと思っていたのに。。。


10月19日

 前田さんが、水野さんの退院用の秋物の衣服を、豊田のご自宅から届けてくださるという事で、朝ジュ-スを届けた後の、11時に拙宅にいらっしゃいました。その後二人で病院にお昼の生ジュ-スを届けに行きました。
 水野さんは、お風呂に入れていただいたとのことで、その介護用風呂場の施設が素晴らしいと、上機嫌で教えてくださいました。父が晩年に開発した介護用装置にとてもよく似ていて感激したと、興奮して話していらっしゃいました。後に、先生からお聞きした話しによると「入浴の間中、石岡先生の発明のお話を嬉しそうにしてみえましたよ。余程尊敬してみえるのですね」と仰ってくださいました。


10月20日

 朝生ジュ-スを届けに行った時、新しいお薬が処方されたと、水野さんはとても喜んでいらっしゃいました。この薬が効いて、少しでも楽になると良いのだけれどと言う事でした。ただ、また腹水が溜まり始めているようで、お腹が前のように膨らんで来ていました。苦しさも続いていて、頓服(麻薬)を頼む回数が増えていました。
 帰り際に太田先生から呼び止められ、「そろそろ身近な方が悔いの残らないように、会いに来ていただいた方が良いと思います。お声をかけてください」と言われて、とてもショックでした。まずは佑さんに電話して伝え、水野さんのお姉さま方や親戚の方への連絡をお願いしました。帰ってから、うちの会員にメ-ルを打ちました。別れのときが近づいているとは信じられず、唖然とするばかりでした。
 

10月21日

 いつもと同様生ジュ-スをお届けしましたが、看護師さんから入室を断られました。肉親でない人は、面会時間以外入室はできないとのことで、朝のジュ-スは渡していただくだけとなりました。そのジュ-スも、どんどん飲めなくなってきています。昼に届けに行った時、小川夫妻が病室にいてビックリしました。
 14:30には立岡夫妻(四日市で会があり、二泊三日でこちらに来られていました)が病室に行ったとのことでしたが、休んでいらっしゃったので、顔だけ見て帰ったとのことでした。
 私は20時頃の帰りがけに「何かして欲しいことはないですか」と聞くと「ず-っと見守っていて欲しい」と言われました。私は最後まで見届けようと決意を新たにしました。


10月22日

 亮さんと水野さんが話された結果、太田医師に亮さんが電話をして、私を肉親並みの扱いにしてくださるよう頼んでくださいました。肉親以外の人は、決められた面会時間(11:30-21:00)以外は、病室に入ることを許されませんが、決められた肉親の2名(佑さんと私)は、いつでも病室に入ることができるのです。
 祐さん一家が11:00に見舞いに来られました。祐さんは看護師さんから話があると言うことで、30分程待ち、話が終わった後、直ぐに帰られました。
 生ジュ-スはほとんど飲んでもらえなくなりました。


10月23日

 朝病院に行くと、先生がいらっしゃり、昨晩、麻薬の影響で一人で立たれようとして転倒して、頭を打たれたとのことでした。水野さんは「全く意識がなくて、気が付いたら看護師さんに抱えられていて、頭の後ろに大きなコブが出来ていました」と苦笑されていました。本当に大きなコブが出来ていました。危険が無いように、病室を看護詰所の前に替えるとのことで、お部屋の引っ越しをしました。
 トイレに立たれようとしましたが、看護師さん付きでないと、トイレはダメと言われたので、看護師さんを呼びました。「おむつを当てているから、大丈夫ですよ」と言われました。水野さんはその後もトイレに行きたいと言われましたが、私がオムツのことを伝えると「そうかもうしても良いんだ」と言われて、ホッとしたように休まれました。この朝で、生ジュ-スも中止となりました。
 一旦家に帰り、10時に立岡夫妻が来るとのことだったので、コ-ヒ-を用意していたら、病院から危篤の知らせが入りました。吐血されて、血圧も下がってきているとのことでした。慌てて祐さん・小川夫妻にお知らせしました。到着した立岡夫妻と共に、急ぎ病院に向かいました。家の近い小川夫妻が先に着いていました。祐さんは13:30到着。
 水野さんは意識があり、小川夫妻や立岡夫妻に「ありがとう」「ありがとう」と何度もかすれた声で言われました。
 水野さんのお姉さん二人と、その子供さん2人がお見舞いにいらっしゃいました。可愛がっていらっしゃった末の弟さんが先に逝くと言う事がどんなに辛いかと思うと、見ていられなくなりました。
 祐さんが泊まることになって、宿泊用品を病院にお届けしました。病室がまた変更になり、付き添い宿泊用の病室に移りました。
 水野さんはこの頃、水分を摂るときは、ストロ-を使用していらっしゃいましたが、ストロ-で吸う事が難しくなり、楽飲みを使用しました。


10月24日

 7時30分病院着。
 祐さんは一旦帰りたいと言われるので、看護師さんに無理を言って、小川夫妻に来てもらいました。9時、祐さんと家に帰り、水野さんの車(プリウス)で帰ると言う祐さんでしたが、プリウスはバッテリーが上がっており、JAFを呼ぶとのことで、私は家の鍵を渡し、病院に取って返しました。小川夫妻と交代して付き添いました。その後は、とても苦しそうで呻き声を上げられると背中を摩り、声が治まるとさするのを止める、とまた呻かれます。看護師さんを呼び、頓服(麻薬)をいただきます。この繰り返しが続きました。夜、佑さんが戻り、交代して帰宅しました。次の日には仕事があるので、佑さんは帰られるとのことだったので、お見舞いに来られるという相田さんに頼んで、拙宅に泊まっていただくことにして、交代して付き添う事にしました。


10月25日

 7:00病院着。祐さんは食事に出られました。
 水野さんは「暑い」「暑い」を連発して、布団類をはぎとろうとされました。枕の位置・体位を変えるなど、手伝いました。足は青白く変色していました。
 11:30に埼玉より、水野さんの奥様の弟さん夫妻がお見舞いに来られました。相田さんも到着されました。祐さんは病室の外で、その方たちとず-っと話していられるので、小川夫妻とお見舞いに来てくださった菅沼夫妻(伝える会会員)とに交代をお願いして、時間を作り、相田さんと二人で家に戻り、相田さんに家の事を説明後、15時に相田さんは私の車で病院に戻られました。私は相田さんの寝具の用意などの宿泊準備をしてから、お風呂に入り、19時に病院に戻りました。到着後、相田さんと二人で夕食を取りに出ることになっていたので、交代に小川夫妻が来てくれていました。「ちょっと水野さんの顔を見てから行きます」と言って、顔を見ると、いつもとはまるで違うO型の口をして、大きく息をしていらっしゃり、慌てて看護師さんを呼びました。「息子さんはどこに行かれましたか。直ぐに呼んでください」、祐さんに電話しました。近くにいるとのことですぐに帰ると言う事でした。その間に、水野さんの呼吸は少しずつ遠のき、皆で代わる代わる声を掛けました。19:30、祐さん着。最後の数息のところで間に合いました。それから呼吸が止まりました。看護師さんを呼び、医師が来たのは20時前でした。死亡時刻は20:01とされました。私たちは外に出されて、水野さんは私服の死に装束に着替えられました。その間1時間程待ちました。終わってから最後のお別れを告げました。通販で届いたばかりのシャツを着て、とても綺麗なお顔でした。まるで生きていられるようで。。。
 看護師さんにせかされて、水野さんの荷物をまとめました。22時、葬儀会社の霊柩車が到着。祐さんは乗り込み、我々はそこで別れを告げました。水野さんを乗せた霊柩車は、豊田のご自宅に向かいました。相田さんと軽く夕食後11:30帰宅。悲しくて辛くて長い1日でした。


10月26日

 相田さんと朝食後、岩稜会の藤田さんが来られました。久しぶりに相田さんとお話していらっしゃる間に、桜の森病院から連絡があり、忘れ物があったとのことで、相田さんを白子駅にお送りしてから取りに行きました。
 一人になった拙宅は、ガランとして何となく白々しく感じられました。


10月27日

 青空いっぱいの中で、水野さんが病院で使用されていた衣類の洗濯をしました。
 佑さんからメ-ルがありました。「生前の父から葬儀についての指示が兄に伝えられていて、『葬儀は好きなようにやってくれれば良い。伝える会の人達は独自に「偲ぶ会」をやってくれるだろうから、気にしなくても良い』と言われましたので、葬儀は家族葬で、僕の一家と二人の姉だけで、行うことにしました。通夜は行いません。父に最後に会いたい方がいれば、今日中に拙宅においでください。明日、11時から告別式を豊田の古瀬間聖苑で行います」とのことでした。直ぐに、供花と弔電の手配をしました。私は葬儀に出席することはできませんが、葬儀場の外から見送らせていただくことにしました。そのことを会の皆さまにお知らせしたところ、森川さんは「入れてもらえなくても、自分は出席する」と言う事でした。
 その日までに届いていた水野さん宛の郵便物の中に、保険関係の重要な書類があることに気が付き、思い立って水野さんの家にお届けに上がることにしました。
 17時、前田さんと共に水野さん宅弔問。ものすごい雷鳴の中、棺に納められた水野さんと最後のお別れをしました。

  

6月28日

 10:30、古瀬間聖苑着。ちょうど森川さんも到着されたところでした。森川さんは祭場に入られ、私は霊園を一回りして写真を撮り、煙突を探しました。煙になって空に昇られるまで、見届けようと決意していたからです。ところが煙突が見当たりません。。。諦めて、葬儀が終わって皆さま出ていらっしゃるまで、車の中から手を合わせていました。誰憚ることなく泣くことが出来る、一人きりのお見送りでした。
 森川さんが勇気を出して出席してくださったお蔭で、式の様子も判りました。親族の方々が沢山来ていらっしゃったと言う事でした。森川さんが出席してくださって、本当に良かったと思いました。
 以下の写真は、森川さんが写してくださった物です。一部、後から佑さんが送ってくださった写真もあります。


祭壇の水野さん



古瀬間聖苑玄関前



祭壇全貌





供花

供花



花々に包まれて

古瀬間聖苑看板



葬儀場と火葬場

駐車場



伝える会からの弔電電文

弔文は、はつこさんにお願いしました


帰宅後、水野さんの写真を父母と並べて飾りました



10月29日~11月5日

 何もする気になれず寝てばかりいましたが、水野さんの遺された荷物の片付けをしなければならず、少しずつまとめました。以下はその整理時の写真です。


水野さんの部屋

荷物をまとめる


一応まとめ終った

11月11日

 9月30日にミニ展示室のご見学者の方がいらっしゃいました。前と同様に、三重県生涯学習センタ-での歴史探訪に参加された方から8月頃にお電話があったからです。その方の属する会(久居地区ボランティア連絡会)は年に一度、ウォ-キングを兼ねた歴史探訪をしていらっしゃるそうで、「今年の行事に、石岡氏の石碑とミニ展示室を入れたいので、ご説明をしていただきたい」という、見学ご希望のお電話でした。もちろん、喜んでお引き受けいたしました。
 当日は15名程度の方々がお越しになるということでした。その人数だと、ミニ展示室に入っていただけないので、最初は母屋座敷に上がっていただき、解説後2組に別れて実験を見ていただく予定でしたが、「時間がないので、30分以内で全て終わるようにしていただきたい」とのことでしたので、玄関入って直ぐの土間から見学していただくことにしました。
 9時、前田さん到着。二人で展示室と土間との間の板戸を外して、片付けました。
それから実験機を中央に置き、ナイロンザイルの展示物も前に出して配置しました。
 9時30分、隆平さん到着。展示室のお掃除をしてくださいました。お二人で、実験機のメンテとテストをしてくださっている間に、私は着替え。


10:38、見学者ご到着

14名の方々がご参加くださいました


10:40、石碑のご説明

前日に出して置いた研究所のパネルを見ていただきながら、研究所と石碑の話しをしました


10:50、ミニ展示室前の土間にて



パネル類のご説明をする

ミニ実験機による実験

前田さんが担当してくださいます

11:10終了
見学者の方々は、終始熱心に話しをお聞きくださいました


切れたナイロンザイルのご説明

カメラマンは隆平さんでした


 帰られてからランチを挟んで、水野さんが使用していらっしゃったベッドを、前田さんと隆平さんが二階に上げてくださいました。 水野さんが使用していられた健康器具やブックスタンドを畳んで片付けて、遺品を移動して、水野さんのお部屋だった母屋居間は綺麗に片付き、とても助かりました。


水野さんのお部屋



お預かりしてあるお荷物

来年1月中頃帰国予定の亮さんが
取りに来てくださることになっています


 皆さまとご相談の結果、本格的な「水野さんを偲ぶ会」は、やっぱり上高地でやりたいと言う事になりました。上高地は11月15日から、来年4月16日まで閉山になってしまうので、開山後に行う事になりました。ただ、会員は水野さんの忌明けに集まって「水野さんを偲んで語る会」を行う事になりました。その会は12月14日に行われます。その模様は、後日掲載いたします。

 

ペ-ジを替えて水野さんの経歴と、想い出の写真を掲載いたします
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